叱れない親と叱りすぎる親

以下は既に「児童心理(金子書房)」という雑誌の98年7月号(通刊699号)に収載された論考を、一部修正したものである。
雑誌では、「叱れない親と叱り過ぎる親」という特集の巻頭に載せられていたもので、「いま求められている父の役割、母の役割」という副題付きであった。

「不在の父」の起源

最近、「父性の復権」という言葉を耳にする機会が増えた。
家庭や子育てを妻まかせにしている父親や、満足に子供を「叱れない父」「だらしない父」「不在の父」が普遍的になっているからであろう。

この主張の底流には、世の中の秩序の乱れは家族に始まる、だから「男はもっとしっかりしなくてはならない、家族から逃げて職場にへばりついてはならない」という考え方が横たわっている。
これは、「女はもっと家庭を守ることに専念しなければならない」という説教に呼応している。

この手の話は日本だけで出ているものではない。アメリカ1)でもヨーロッパでも、政治的保守主義と結びついて最近活発になっている論調である。
アメリカでは、「男たるもの家庭に戻って、しっかりした父親になろう」という市民運動が巨大な流れとなりつつある。
フランスでは、ジーンズにスニーカーといういでたちの友達親子的な父親に関して、「こうしたタイプの父親を持った息子に自殺が多い」という指摘2)がなされている。
日本の場合もこれに準じる議論と考えられるわけだが、後に述べるように、欧米とは違う角度から、この問題を考えなければならないところもある。

叱れない父」は、「家父長的で強権的な父」の対極にある父親モデルで、世間の求める父親像の振り子は時代によって、この二つの極の間を左右に揺れている。ここ数十年、家父長的な父の人気が下がって振り子は左に傾いていたのだが、最近になって右への揺り戻しがはかられているといったところであろう。

「叱れない父」に人気が傾いていたのは、現在の家族が、家族メンバー相互の「やさしさ」「対立(問題)のなさ」を理想としてきたためである。
現在、父親に期待されている役割は、とりあえず、帰り着く場所、温もりの場所としての家族を維持することなのであって、それ以外ではない。
安全なその場所には不安、恐怖、混乱があってはならないので、家族メンバーの各々は「妻子には言えないこと」「夫と子どもに隠さなければなせないこと」「親にだけは知られたくない秘密」を抱え込むことになった。露見しそうになった秘密や問題があれば、家族全員の暗黙の共謀によって丁寧に否認され、日々の生活には最小の波風しか立たないようになっている。

家族がこのような演技の場所となっているところには、その演技に慣れていない者など居ない方がいい。ニコニコとやさしい父を演じてくれるのでなければ、父親は居ない方がいい。せめて言葉を持たない父、主張しない父で居てくれるのなら、波風を立てることが少ない。というわけで、「不在の父」「叱れない父」は現代の家族に望まれている父親像なのである。

区切る父と包む母

叱れない父」の困るところは、これでは父親に付託されてきた仕事がこなせないことである。
家族とは何よりもまず子育ての場所3)だから、父の仕事の欠損は子どもの成長に悪影響を与える。それが顕著になったというところで「家父長的父」の出番が来たような議論が湧き出しているのである。

では、父親の仕事とは何か。その本質は「区切ること」である。これと対になる母性の本質は「包むこと」と言えるであろう。

父はまず「このものたちに私は責任を負う」という家族宣言をすることによって、自分の家族を他の家族から区分する。つまり「内と外とを分かつ」。
このことを指して「社会的父性」の宣言という。

第二に父は、正と邪を区切る
掟をしき、ルール(規範)を守ることを家族メンバーに指示するのは父の仕事である。「父性原理」という言葉は、この機能を指していう。父は世の掟の体現者としてこの仕事を行うから、家族という閉鎖空間に世の中の風を送り込むという役割を果たすことにもなる。

父の仕事の三番目は、母子の癒着を断つこと、親たちと子どもたちの間を明確に区切ることである。
父を名乗る男は、妻と呼ばれる女を、何よりも、誰よりも大切にするという形で、この仕事を果たし、子どもは父のこの仕事によって、母親という子宮に回帰する誘惑を断念することが出来る。
この仕事のもう一つの側面は、母という絶対者の価値を相対化するという意味を持つ。子どもに耽溺する母が、その価値観を子どもに押し付けようとするとき、別の価値観を提示することによって子どもを母の侵入から守るのは父の仕事である。

「包み、保護し、愛育する」という母の仕事が、子の現実に即応したものであるのに対し、上に挙げた父の仕事は、いずれも抽象的なもの、象徴的なものである。
そしてヒトという動物は、周囲の事物を抽象する(象徴化する)能力によって人間になった。この象徴化の能力を具体的に示すものが言語である。言葉によって父性を宣言し、規範を定め、親と子の身分差を明確にする存在を得て、ヒトは人間になった。

母と子の二者関係を平面的なものとすると、これに父が入った三者関係は立体的である。三次元の世界には、光りも影もある。私たちが存在する世界に、より近い知覚が、これによって私たちにもたらされる。

子どもたちは幼いとき平面的な絵を画く。年長になると、それが立体的になってくる。このような表現様式の発達は、子どもに見える世界、つまり子どもの世界観の発達に対応しているのであろう。子どもに影の存在を教え、より現実に近い知覚を与えるもの、それが父の存在の認識である。父存在(それは時に「神」と呼ばれる)の掟に従って生きる他ない自己を認識すること、それによって子どもは人間になる。

母の役割についても要約しておこう。それは「包むこと」と前に言った。包む、あるいは繋ぐことによって関係を作るために、母は子の存在を「承認」しなければならない。承認とは、あるがままのその子の存在を認め、その必要を満たすことである。象徴化された子ども一般ではなく、「その子」の承認でなければならない。

念のためにつけ加えるが、ここで「父」、「母」と言っているものは、親の役割の二つの要素のことで、父=男、母=女というわけではない。父と母の両方が必ず必要と言っているのでもない。一人の母が「母」の役割を果たしながら、しっかり「父」の仕事をしているという場合もあるであろうし、家によっては、夫が「母」をやり、妻が「父」の仕事をこなしているであろう。

現代の子育てと「叱り過ぎる母」

以上のようなわけで、「叱れない父」は父の仕事には不適切である。
これを補填するように「叱り過ぎる母」が良く見られるようになったが、この母たちは父の仕事をしているわけではない。
彼女たちが叱るのは、自らの不安や不満のためであって、正邪を区切るためでもなければ、母子癒着を断つためでもないからである。「叱り過ぎる母」は、子のそのままを受け入れないという点で、母の仕事も引き受けていない母親なのである。

それどころか彼女たちは時に「条件付きの愛」という脅迫状を子どもたちに手渡す。
条件付きの愛とは、「おとなしい子でなければ愛してあげない」「成績の良い子だけが私の子」という形で伝えられる母から子へのメッセージのことである。条件付きの愛は「良い子」を作るが、この子たちは、「叱り過ぎる母」の評価を恐れて自分の人生を生きられない。彼らが母の承認を断念したとき、彼らは荒れる。現在、「子どもたちの事件」として報道されるものの殆どは、ここから始まる。

これに絡んで、現在の子どもたちは、私たちの親や祖父母とは違う生まれ方をしていることを指摘しておかなければならない。
現代の(少子化時代の)子どもたちは親の人生設計に沿って生まれてくる。子どもたちはもはや神さまからの授かりものや恵みではなく、親が自らのために設計した人生コースの中に、予め役割を与えられて生まれてくるのである。

子産みは今や、親の人生戦争における重要なタクティクス(戦術)である。妊娠のタイミング、子ども数、子どもの人生コースなどを慎重に測って人々は親になる。自らの人生を豊かにし、成功に導くための子産みであり、子育てであるのだから、親は子どもに期待した役割の遂行を求める。言葉に出さなくとも、素振り、視線で求める。
子どもは親の期待を読み取り、それに沿って生きようとする。こうして現代の子どもは、親の連れ歩きたい人形、親の果たせなかった願望の肩代わり役、親の自慢の種、親の愚痴の聞き役、親の依存対象、親の権力のままになる奴隷などのうちのどれか、あるいは幾つかになる。いずれの役割に就くにせよ、この子どもたちは親からの個別化に失敗した自己愛的な大人にならざるを得ない。

もっとも、すべての子どもがこれらの仕事をうまくこなしているわけではない。それどころが殆どの子どもは、これらの役割にいつか挫折し、親に対して「申しわけない」という気分を抱えこんでいる。

子どもたちの事件

親の喜ぶ顔見たさに生きている子どもは、遅かれ早かれ親の期待に添えない自分を自覚するようになると、容易に絶望する。
その絶望の中で「でも私が生んでくれと頼んだわけではない」と考えるようになると、自責感は反転して親に攻撃を向けるようになる。「なぜ生んだ」「育て方が悪い」という親への罵詈雑言と暴力が始まる。

ここでいう暴力とはさまざまなものを意味し、必ずしも器物損壊や親への殴打という直接的な表現のみを指すわけではない。
親に怒りを持つ子どもたちは親の弱点を狙って、そこを攻撃する。学歴主義にはまっている親の子どもは、登校拒否という手段を選ぶし、性的な逸脱に嫌悪や恐怖を持つ親の娘たちはテレクラや売春に走る。シンナーや覚醒剤の乱用という場合もあるし、自分の親に暴力をふるう代わりに他人の親を襲う、いわゆる「おやじ狩り」というのもある。

親との関係の中で自己評価(自尊心)が下がってしまい、「力」の不足を感じているような子供が、なけなしの力を確認するために、より弱い(自尊心の低い)仲間に対して行う力の行使が「いじめ」である。「いじめ問題」とは親子問題である4)。

性の欲動は子供の日常に秘密のポケットを作り、これが親子の融合を切り裂くナイフの役を果たすものだが、親の「お人形」をつとめてきた子どもたちの場合には、これが異様なもの、排除すべきもののように受け取られる。
ここから性欲動の否認・排除が生じ、それは食の欲動へと転換する。排除は拒食の形を取り、転換は過食という行動で表現され、これらはいずれも家離れの課題に直面して、これにたじろぐ若い女性たちにいっときの避難場所を提供する5)。

「良い子」たちは「病気」になることによって、大人としての生活史の開始を遅延させ、家という人工子宮に留まりたがっているのである。同じことは、男の子にも生じていて、この場合には洗手強迫、自己臭恐怖、醜貌恐怖などと、それに伴う引きこもりの形を取る。

復権すべき父とは何か?

このように見てくると、一部の人々と一緒になって「父性の復権」を叫びたくなるのだが、その前に考えて置かなければならないことがある。日本の場合、復権すべき父とは、どこに居たのかという問題である。

髭の明治大帝がそれであるとしたら、それはとんだ誤解というもので、あれは真似である。カイゼル髭のプロイセン王、ヴィルヘルム二世の真似である。
神聖ローマ帝国の復興を夢見たこの髭男は、カール大帝(シャルル・マーニュ)を真似たに違いない。カール大帝はカエサル(シーザー)を真似、そのカエサルには髭がない。京都御所の中で女官たちからおしろいを塗られて育てられた男子に髭をつけさせ、サーベルを帯びさせ、白馬に乗せただけのものが、どうして父性の象徴なのか。その家来である「明治の父」たちが、彼らの家の中でいかにヨーロッパ流の「家父長的な父」を気取ろうと、それは偽物である。フェイク(見せかけ)と漫画の中に父性はない。

維新以来の日本の成人男性に父性原理が欠けていることは、最近の大蔵官僚のスキャンダルや総会屋となれあっている金融界の幹部たちの様子を見ればわかる。
あれは特殊なことではない。日本の男たちは皆あのようにしてきたから、1945年の敗戦の時にも、95年の大震災の対応の遅れに際しても、責任を取るべき者が取らずにすまされている。そのような者たちの中から「父性の復権」を叫ぶ声が出たとしても、そのこと自体フェイクと考えて間違いない。

我々にとって戻るべき父親像というのがあるとすれば、それは、地縁・血縁の中でかつかつの貧乏暮らしをしながら片手間に子育てしていた時代の父であろう。少なくともこの父たちは家族と共に働いていて、そこから逃げようもなかった。子どもたちは母の他に何人かの大人たちと接しながら育つことができ、死に怯えながら生に執着することができた。

そういうわけで「家に戻ろう」というアメリカの保守主義的な男たちの市民運動には一理ある。これを市民運動ではなく、政治指針でもない国家施策としてやっているのはスウェーデンである6)。夕刻の5時には男たちを企業から家に帰し、労働力の不足は未熟練の女性たちで補った。当然企業の効率は下がるので、その損失を政府が補填した。そのスウェーデンでは、数年前から合計特殊出生率が2.1の線を保っている。この線を維持すれば人口は定常状態を維持できる。

未来の家族と父

現代の日本が抱える最大の問題は少子化で、このまま進めば21世紀末までに日本の人口は半減する。街中でさえ道行く人はまばら、企業が物を作っても買う人がいないという時代に入るという。
既にそのきざしが教育関連企業などに出始めており、10数年後には年金制度が破綻すると経済政策の専門家たちは心配するのだが、この問題を克服した国の施策には学ぼうとはしていない。

そうした国の一つであるスウェーデンでは、母親の既婚率が年々下がっている。スウェーデンで昨年中に生まれた乳児の母親の半数以上は、所謂「未婚の母」である。
未婚とは言っても性的パートナーが居ないわけではない。婚姻という制度を選択しないというだけの話である。未婚の母とその子、及び母の子育てに参加するパートナーという組み合わせは、既に我々がなじんでいる家族とは違うものである。

この他にも多様な家族形態の模索があって良いと思うが、いずれにせよ、こうした世帯では、子の養育と子の成長に深い関心を示す男しか母のパートナーになれない。合法的結婚によって生じた「制度としての家族」の中では、得てして子どもは冷たい夫婦関係を維持するための道具として必要とされる。一方、産みたくて生む母は、どんな子であれその子を承認するであろう。
その母のパートナーは(それが男性であれ、女性であれ)喜んで愛する者の夫、愛する者の子の父という役割を果たすであろう。未来の家族における父とは、このような母のパートナーのことである。というわけで、未来の父が居るべき場所は、「伝統的な家族へ戻れ」と叫ぶ保守主義者の頭にある家族とは随分違ったものになるような気がする。

翻って我が国の場合を見ると、財政再建のための支出削減として、まず対象にされているのが母子世帯への補助金である。一方で人口減少を憂いながら、子を産んだ母を罰するかのような処遇をしようとしている。制度的家族だけを家族とみなすという、我々の硬直した家族像の妥当性が、今、問われているのである。

文献

1)Coontz,S.:The Way We Never Were; American families and the nostalgia trap. [岡村ひとみ訳]家族という神話:アメリカン・ファミリーの夢と現実.筑摩書房,1998.
2)Risache,E.,Lasbat,C.: J’en ai marre! [白根美保子・中井珠子訳]自殺する子どもたち:自殺大国フランスのケア・レポート.筑摩書房,1998.
3)斎藤学:「家族」という名の孤独.講談社, 1995.
4)斎藤学:学級の中のいじめといじめられ.[堀尾輝久,他 編]講座・学校,第4巻,子どもの癒しと学校,柏書房,1996.
5)斎藤学:家族の中の心の病:「良い子」たちの過食と拒食.講談社プラスアルファ文庫,1997.
6)リタ・リリエストレム: スウェーデンにおけるジェンダーと家族.[国立婦人教育会館編] 平成4~6年度・家庭教育研究セミナー・国際セミナー報告書.1995.

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Posted by ssworld