フェミニズムと臨床(1/6)

臨床社会学研究会(1988年7月13日 於:家族機能研究所)

波田あい子(家族機能研究所/東京都精神医学総合研究所・客員研究員)

「フェミニズムと臨床」というテーマでl 時間ばかり比較的生まじめに、まず私からご報告をしたいと思っています。今日は、上野氏、斎藤氏の両先生がコメンティターという豪華版ですから、私の話にかかわらずお2人にいろいろ奔放にやっていただくのがおもしろいのではないかと思っております。まずテーマの「フェミニズムと臨床」です。今日いらしているような方々にとってはイズムと臨床がくっついていることにさほど抵抗感はないだろうと患いますが、そうでもない分野の人にとってはイズムと臨床がくっついているというのは、価値中立という臨床のスタンダードから言えば、とんでもないということになったりするのだと思います。それから私自身が現在やっている臨床活動は、1つは家庭の中の暴力被害女性の民間シェルターの運営委員としてこの6年くらいいろいろな仕事をしていること、2つめはさいとうクリニックのデイナイトケア・プログラムで「女性のセルフヘルプ・レクチュアー・ミーティング」と題した1クール12回、12テーマでお話をするというのがあります。これは4年ほど続いていて、自分で言うのもおかしいのですがクライアントの皆さんになにがしか役立っている実感を持っています。3つめは、時間としてはたいしたことではないですが、個人面接をやっています。私のこんなふうな臨床活動、それからずっと興味を抱いて勉強してきたことの両方を織りまぜて話をいたします。

フェミニストで臨床家の研究者たちというのが、80年代以降、理論フェミニズムの中で目立つ存在になってきました。もちろんこのことは欧米のことですし、また、きょうの話は英語圏のことになりますけれども。最初の1人はジュリエット・ミッチェル。ご存知の方も多いと思います。ジュリエット・ミッチェルからナンシー・チョドロウ、そしてジェシカ・べンジャミンにつながります。それぞれに日本語訳が出ています。ミッチェルはイギリスですが、1966年に『ウィメンズ・エステイト』、女性の状態と言いますか、翻訳の書名は『女性論』で1973年に出ています。この流れの3人が英語圏の精神分析派フェミニズム理論の代表格です。ミッチェル、チョドロウ、ベンジャミンの3人は、いずれも後に個人開業の精神分析治療を手がけることになるという共通点も興味深いですね。今日は、3人の中でもチョドロウを真ん中にした見方で話を進めることになります。

実は、昨年の日本嗜癖行動学会公開シンポジウムに来日されたジュディス・ハーマンさんとお茶を飲みながら話をする時間があって、その時にチョドロウさんはご存知かと聞きましたら、あの70年代フェミニズム運動の仲間だということで、当時彼女はこむずかしいことをこねくり回した博士論文に挑戦していたんだというお話でした。その博士論文を土台にして書がれたのがチョドロウの名前を一躍有名にした『母親業の再生産』ですが、こんなふうにだいたい繋がっているんです。ハーマンさんの代表作は『心的外傷と回復』で1992年、チョドロウさんは1978年、博士論文で早々に世界的に知られることになった。早咲きと遅咲きという感じですが、仲間なのだそうです。

チョドロウは母親業の著書の中に、「この本はフェミニストの努力に対して捧げる」とも書いていますが、当時運動の中で彼女がフェミニズム理論に取り組む最初の発想のいくつかを得たことがわかります。運動のなかでチョドロウがもっとも関心を寄せていたのが、母一娘のグループで、母親業の著書の発想ときっかけをつくったのが、このグループの中での体験だったと書いています。

ミッチェルは、「ザ・ロンゲスト・レヴォリューション」という当時運動の理論的支柱であった論文で有名です。彼女が26歳の時に書いたもので、初め 1966年にイギリスで雑誌に載ったものがフェミニストの間で回し読みされて知られていました。一冊の本になった出版は1971年の『ウィメンズ・エステイト』。その第4章、5章、7章に収められているのが、「ザ・ロンゲスト・レヴォリューション」です(注1)。次の年1974年には『サイコアナリシスとフェミニズム』が出ています(日本語訳は1977年『精神分析と女の解放』)。

このように、第二派フェミニズムは当初から精神分析、あるいは臨床アプローチと密接なかかわりを持っていました。というのも、ウーマン・リブは女性運動の歴史で初めて女性のセクシュアリティ、性欲の問題を正面切って提起したわけです。初期の少々粗っぼい解放理論というのは、いずれもフロイトの女性観に対する強い拒否を打ち出していました。ミッチェルはそのなかで、精神分析理論は敵にまわすものではない、女性解放理論にとってきわめて有用だと初めて言った人でした。次のように言っています。「大部分の女性運動はフロイトを敵とみなしている。精神分析ならびにフロイトの仕事を排斥してしまうことは、フェミニズムにとって致命的な問題である。精神分析はこれまでそのように使われてきたかもしれないが、それは、家父長制社会のための推薦状ではなく、家父長制社会を分析するものなのである」と。

ところがミッチェルは、「精神分析と女の解放」でフロイト理論にそのままのっとって論を展開しすぎたがために足をとられた感じになってしまった。この点についてチョドロウの直截なミッチェル批判を紹介します。ミッチェルは、「フロイトは正しくも女性らしさはつくられると理解している」という。だからフロイトは家父長制社会を分析する道具になるのだという見方は矛盾していると。フロイトの「女性らしさはつくられる」と理解しているというミッチェルの議論に不賛成である。フロイトは、「男は生まれながらにして男であるが、女は女につくられる」という終始一貫性のない男女不平等論者の立場をとり続けている。にもかかわらず、フェミニストたちが女性らしさの社会的次元やペニス羨望に関する主張を支持するために、カレン・ホーナイの立場が大いに生物学的な基盤に立っているにもかかわらず、文化学派一一文化学派とはエ一リッヒ・フロム、カレン・ホーナイ、ジャクソンといった社会の影響を重視する立場をとる一一、の主な創始者としてフロイトの助力を求めるのは皮肉なことであると言っています。

つまり根本的に、ミッチェルがフロイトのつくった女性論を使って女性の抑圧状態を分析すること自体の誤り、それをチョドロウは指摘しています。この点チョドロウは、フロイトの女性論になんらくみせず、フロイトに欠落していたもの、フロイトがもっていた誤謬に対して出てきた新しい精神分析理論である対象関係理論にいち早く目をつけ、成功したわけです。ミッチェルはフロイトそのものによつて家父長制を切ろうとしたため、結局のところ家族と一体化して見えにくい女性の抑圧を分解できる切り口を見いだせなかったことになります。

チョドロウの『母親業の再生産』の論点はシンプルな問いから始まるわけです。だれもそんな問いを問おうと考えない、歴史のこの方受け入れられている状態についての問いで、「なぜ女が、母親業を行うのか」、これがもっとも大きな問いになっています。これへのチョドロウの答えは、母親の養育態度は男の子に対するのと女の子に対するのとで異なっていて、それゆえ男の子と女の子の成熟過程を違うものにする。すなわち女の子は将来母親業を引き受け、男の子は養育から距離をとることになる、ジェンダー・パーソナリティの差異をかたちづくるというわけです。母親の養育態度を重視し注目するチョドロウですが、それは早期母子関係の中での母の対・息子、対・娘の深層心理の影響の違いの重視で、ファンタジー、取り込み、期待、分裂、否認、妥協、逸脱、等々です。母親から子へのこれらの心象の媒介によって社会的、文化的な諸々のことは伝わると考えます。このあたりが先の文化学派と大きく異なるところです。ですからまた、伝わりかたは、その親とその子に極めて個別的な形をとるものだということです。チョドロウが強調する観点は、このインディビデュアリスム、個別性です。

たとえば、セルフ・イン・リレーション、関係自己の考え方。これもチョドロウがこのマザりングの本の中で最初に打ち立てたのですが。関係目己は、この間のフェミニスト・サイコアナリスト、あるいはフェミニスト心理学者たちが洗練させた重要な概念で、フロイトにおける自律自我の考え方とは発想が異なります。

社会・文化がらの影響を重視する文化学派の人たちは、それのパーソナリティヘの影響を直線的に扱うわけです。カレン・ホーナイなども、たとえばペニス羨望について、男女の不平等な社会の格差が羨望を生み出すのは当然といった単純な説明をしていますが、これでは説明になっていないし、ペニス羨望の理論をそのまま容認しているのと同じだとチョドロウは批判します。

チョドロウがフロイトにはない新しい分析理論として援用したのが対象関係理論でした。早期母子関係、すなわち前エディプス期における対象関係に焦点があたります。男の子も女の子も最初期の人生は母親に対する愛着に始まりますが、その後男の子は母への愛着を否認して父に同一化することを学ぶ。女の子は母親への愛着を維持することができ、母親に同一化していく。男の子は男らしさの観念というものを広く文化全般から学びます。母に対する愛着をあきらめるだけのご褒美が、父からだけでなく文化全般がらももらえるのですが。ですから、母親への愛着を剥奪された「すねに傷」というのは、男性一般の発達ではないかと思います。愛着対象をあきらめるご褒美はまた、母すなわち愛着対象への侮蔑を含む文化全般ですから、男性の発達の中の女性観は大変アンビバレントにならざるを得ません。その上に、男性の発達は自律自我が理想となりますから、かなり危なっかしいものです。それに比し、女の子は母との繋がりの中にとどまり続けることで、母親との連続性、類似性の感覚、結合感を持った世界で発達します。これらが関係自己の考えの下地になっています。

これは時折考えさせられることですが、先ほど言いました「すねに傷」の男性の発達という話をクライアントの皆さんにすると、「私の場合は、すねに傷の男性モデルの方があてはまるが、女性としての発達に問題があるということなのだろうか」と、よく質問が出ます。女の子も愛着対象からの剥奪の傷を被っている場合には、男性タイプの、すねに傷の発達があると答えているのですが。ところが違いは、女の子の場合はなんのご褒美もないわけですから、かなり悲惨だということですね。それで、男性の発達のなかで起こる“女らしさの放棄”、女らしいと感じる体験、依存欲求や親密さを求める感情を否認する、といったことを女の子自身があえてやってきたという事実がクライアントから語られることがしばしばです。(続く…

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Posted by ssworld