癒し合う関係としての家族を考える


家族ってなに?

家族というのは何でしょうかねというのが、ここ数年の間、だんだん私の頭の中に強く浮かぶようになった。家族の縁を作るということは非常に難しい。

極北の地に生きるヘア・インディアンは、自分の子どもを父と母だけじゃ育てられない。土地のインディアンたちは、男はアザラシを獲ってます。女たちはその皮をなめして皮製品を作る。1人ではできない仕事ですからチームを組み、全員がその仕事に従事しています。男は男集団にいますし、女は女集団でやってるから、子どものめんどうを見られるのは爺さん婆さんです。子どもはこうした環境で育たざるをえない。一生のうちに何回も何回も養い親が変わって大きくなっていきます。

でも、ヘア・インディアンたちは、自分の父が誰で母が誰かということを非常に大事にした。そのことをいつも自分の誇りにしている。自分が誰かっていう時は「誰々の子」というふうに名乗る。だから、かまどの共有とか一緒に飯を食う仲というのは、決して家族の定義にならないですね。おっぱいをあげた関係でもないでしょう。それなら母親より乳母のほうがよっぽど家族です。

見捨てられる不安

要するに人間とは、「おっぱいは自分のものではない、他人のものであって、離れていくものなんだ。求める時に必ずしもそこにあるものではないのだ」と知った瞬間から、ある種の不安に包まれ、「見捨てられているのだ」という認識にだんだんたどり着くわけです。
人はいつも、置き捨てられる不安、見捨てられる不安の中で生きる。それがいつからかということは、いろいろな説があります。例えば、夜泣きがひどくなる「8ヵ月不安」という言葉がありますが、人によっては「6ヵ月不安」と言ったりします。乳幼児が、お母さんが一緒にいる時といない時とで全然違う様子を示すようになるのは、もう少したってから、1歳半から2歳になってからです。

どうもこのぐらいの時から、人と人との間の信頼、去っていったものがまた戻るという信頼が奪われますと、いろいろな問題が起こってくる。何かで親と離れて育ってしまった子どもは必ず問題を起こすでしょう。

ウィニコットの本の中のほんの2、3行で書かれてることですが、ある子どもは、お母さんが病弱で入退院を繰り返している。この子のお得意の遊びは、紐結び。何でも結んじゃうんです。机と椅子の脚を結ぶ。鉛筆と消しゴムを結ぶ。ウィニコットの本には、この子は後年薬物乱用者になった、とあります。アディクションの問題を取り扱っている学者たちがなぜ、彼らの幼年期の遊び行動に注目しないのか不思議でならない、とウィニコットは書いています。

私、それを翻訳で見た時、頭を殴られたような気がしました。ウィニコットもはっきりとつかめてるわけじゃなくて、ただ、彼自身、たくさんの子どもを見た例の中で、これが薬物乱用になったことについて、母子の分離を再結合する、自分と母さんを結びたいというその思いが「結び遊び」というものを作らせたのだと思ったのでしょう。

人間がやっているいろいろな行為の悲しさが見えます。人はどうやって自分の傷を癒すのでしょうか。置き捨てられる不安、見捨てられる不安、これは生涯癒せないのでしょうか。マッサージ、オイル、アロマを使いながら癒す人もいるでしょう。多くの人はもっと手近に、人を求めて癒されるでしょう。ありとあらゆるもの、自分を受け入れる、見捨てないはずのもの。

見捨てられることは必ず起こるからと思って、スペアの数を競う人もいます。たくさんの電話番号をアドレス帳に書いておく。あっちがだめならこっちというスペアです。いざ結婚するとなると、案外14号目の人を選んだりします。どうしてか。1号から13号までは一応私が愛した人です。しかし1号や2号はダメなんです。1号2号に拒否されたら自分は生きていけないと思うから、そんな危険なことはできない。14号、こりゃいい。拒否するなんて生意気なこと言ったら、「何だ、この人。ヘンだ」と思えばいい。それで、14号と結婚します。そういう見捨てられる不安の強い人たちの結婚方法が、好きな人と一緒にならないという方法です。それすらもしない人がいる。その人たちの方法は、見捨てられる不安を防止するための1人暮らしです。

不安に気づく

実際、実にたくさんの人たちが、自分の人生をこうした不安によって決定しています。この不安がいかに重大な選択をさせているか、ほんとは気づいているのに気づかないふりをしているのです。それを私は呼び起こす。ときどき、そんなことをする必要があるんだろうかと考えてしまいますが、皆さんが言うんですもの、「私はどうして私なんでしょう」と。

皆さんの質問を分解すると結局はこうなる。「私はどうしてこの世に生きてるんですか」。そこで私は、皆さんに聞くわけです。「どうしてだと思いますか?」と。皆さんはこんなふうに答えます。「私は見捨てられる不安が強いんです。だから、ほんとうに好きな人は、私の連れ合いにはできないんです。なぜなら、私の本質を彼が知ったら必ず私を捨てるからです」。

重ねて私は聞きます、「どうしてそのように思ったんですか?そういう経験をなさったんですか?」。そうすると皆さんは答えます。「そんなこと、怖くてできるわけがないじゃないですか!」。「今までにそんなことを言ったことがないんですね?あなたには夫がいるじゃないですか。どうしてその人が夫なんですか」「あのひとになら捨てられても拒否されても怖くないからです。言葉がわかるから、犬よりましかと思って」。

これでは、人を人として尊敬し、それによってお互いが癒される関係になるわけがない。その中で生まれた子どもが、人を尊敬する気持ちを学習できるわけがない。こういうことが連綿として続きながら今の家族ができているのです。

「私は、いったいなぜ私なんでしょう」。その問いは、最初のうち隠され修飾されて「私の夫はなぜあのように酒を飲むんでしょう」とか「息子はなぜあのように死にたい死にたいと言うんでしょう」とかいう質問に変形されて出てくる。「私はなぜ私なんでしょう」という問いは発しにくい。これを発するにはそうとうな勇気が必要ですから、その前に自分の身近な家族といわれている人の問題から始まって、何年かたってこの問いにたどり着くのだろうと思います。

「自分は何でしょう」という問いを発した頃から、皆さんは変わってきますね。その答えは皆さんが知っているからです。「私は父と母の間でこのように育ち、そしていつも配慮をしながら母を支えてきた」あるいは「父を思ってできるだけのことをしようとしてきた」と。「そう思って生きてくるうちに、感情をあるがままに示すことができなくなってしまっていた、子どもを通してそのことに気づいた」といったふうにです。

まことに正しい認識の進み方だと思いますが、しかし、そうかと言ってそのような定型でことを済ませて、それを文字にすればそれで済むという問題ではないでしょう。

癒されるためには

AKK みたいな集まりで、その人の身ぶりそぶり、雰囲気、音調、そういった感覚的なものが伝えるもの、場所が伝える感覚、高原の空気、それから昨晩の睡眠状況、ふだん会えない人と会っているという気持ちの昂ぶり、こういったもの全体が皆さんに影響を与えて、いつもと違う理解のさせ方や感じ方をさせる。これが治療です。原始的な治療。

ここで言っている治療というのは、精神療法のことです。
もし効果のある治療があったとすれば、それはその先生、例えばフロイトが、座っているマホガニーの机、彼がいつも手にしている葉巻とその匂い、待合室にいた大きな犬、ライヒを始めとするフロイトの同僚と弟子たちの書いた本が並ぶ書庫、待合室から出てくる前の人の雰囲気、そしてしばらくして呼ばれるその時のフロイトの声、こういったもののかもし出す雰囲気の中で、だんだん眠くなってくる。だいたい、寝るように作ってあるんだから。長椅子があって。

患者に見えないところにフロイトはいますね。フロイトはシャイな人ですから。で、勝手に喋ろと言って、喋ると聞いてないんです。何をしてるかっていうと、クライアントからは自分は見えないけれども、自分からはクライアントが見えるところにフロイトは座っていて、クライアントの行動を見ている。

それで、かわいそうにドーラなんて娘は、たまたまお財布を買って、手触りが良くてそれを開けたり閉めたりしてたというんで、フロイトから「この娘はマスターベーションを連想してた」と思われたんです。財布は性器なんですね。中年男の妄想ですよ。その頃のフロイト、41歳。ドーラが16歳です。すべてマスターベーションと寝小便で解釈が進められていくという悲惨な経験をしていきます。

ドーラのほうは、フロイトの感じ方そのものがわかる。そういうものなんです。あの頃のフロイトは科学を信じていたんでしょうね。温かく見るよりも、乙女の秘めた心の中にある性的な衝動みたいなものばかりに注目した。財布をいじるその手つきをじっと見つめて、妄想をたくましくして、しかも言語表現にまで残して活字にしてという操作をした。

実際には私たちは、フロイトのこの「研究」によって、思春期の女性の心理が非常にわかるようになったんです。いまだに、ドーラを読まずに思春期の病理は扱えないといわれるほどです。ドーラとどう似ていてどう違うかが、私たちが思春期の女性の患者を診る時の発想の原点です。

しかし、ドーラは癒されなかった。フロイトが次の3日ないし1週間でこの少女を完全に治療できると思ったその瞬間に、ドーラはフロイトから逃げていきます。ドーラにはフロイトの与える解釈そのものがわかっていたのでしょう。そして彼女はそれを嫌ったのですね。フロイトのもとを去って、それから10年後ぐらいにフロイトのもとをもう一度訪れます。フロイトはこの時、ドーラが復讐に来たことを感じ、治療を断りました。それがドーラとフロイトとの最終的な出会いで、治療はフロイトの思うようには終結していません。フロイトの治療を受ける変わりに代わりにドーラがやったことは、自分を愛してくれる貧しい鉄道技師(ドーラは金持ちの娘です)に従って、ウィーンからだいぶ離れたベルリンに去っていくことでした。

ドーラは、ちなみに、10年後フロイトを訪ねてきた時に、ついでの仕事として、16、7歳の頃自分を悩ませた、自分がほんとうに好きだった中年男(その男は彼女の母の愛人だったわけですが)を馬車で轢かせてます。意図的にそうしたのではなくて、その男が通りの向こう側にいるドーラに気づいて、急いで横断しようとした。そこへ辻馬車が通りかかって、交通事故にあってしまったのです。フロイトへの復讐は果たせなかったけれど、かつて自分が恋した、そして自分を利用した男を抹殺しました。「たぶん彼女は満足して帰ったんだろう」とフロイトは書いています。しかしこれもまた中年男の妄想なのかもしれません。

このように、治療者と患者との関係とは、ある種の緊張関係にあるのが普通です。そしてこの緊張から大変な危険な状態になることさえあります。最も危険なのは、「見捨てられる不安」にからむことです。先生は私を捨てるのではないか、いつか私をただの他人のように扱うのではないかという不安が、患者と治療者との間に一貫して流れていますから。けれども治療とは、この危険な不安や緊張をめぐっていろいろな言語が介されていくなかで進んでいくものなのです。最終的には、「あなたを誰も見捨てない」「人と人が接する方法にはいろいろな形があるけれど、それは全部人と人とのつながりなんだ」というところにたどり着く。

フロイトもまた、10年かけてドーラとつながっています。「先生はひどい。あの時の私を誤解している。ちゃんと釈明し、ついでに先生に謝ってもらおう」とドーラは思って帰ってきたのでしょう。フロイトのほうは、そういう操作はいらないと思ったから、治療を断った。けれどもこれはこれでひとつのつながりです。また、ドーラにとっては嫌悪感を催すような分析でしたでしょうが、フロイトにしてみれば、16歳の少女がマスターベーションや性的な行為を妄想することはちっとも病的な行為ではないと考えていたのです。ただ問題は、それを非常に迂遠冗長な形でほかの行為に置き換える、例えば神経性の咳ですとか手足のマヒですとかそういう形で、愛する者をほんとうには愛することができない状態にとどまっている。こうした状態を何とかしようと思ってフロイトはドーラを診断したのでしょう。

愛の衝動を表現できない人が求める家族は

実際、そうなんです。人は、自分の愛の衝動を表現できない時には、いろいろな身体の病気を起こすんです。見捨てられる不安が特に強く起こっている状態、例えば自分が文字どおり置き捨てられたり、愛着している人から暴力をふるわれたりしていると、ひどく体が弱くなる。

知能が伸びる、身体が伸びるといったって、それは「安全」が保障されている中でこそ起こることで、そうでない限り、私たちは、与えられたものをフルに伸ばすことはできないのです。いわゆる身体的虐待を受けた子どもの知能指数平均値はいつも80以下で、正常範囲内にとどまることはほとんどありません。だから時々、精神発達遅滞に間違われて虚弱児童施設に送られてしまう。親は一貫して良くなりはしませんから、遅れていた者はいよいよ遅れていく。そうなるとこの子は同年輩の者のいじめの対象になりやすい。

いじめる子もまた親との関係に見捨てられる不安を強く感じている子です。こうした子は弱い子どもを見つけてその子を支配することで、なけなしの自分の力を確かめようとしますから、いつもいじめる対象を探しています。こういう人は、どこにでもいます。皆さんもこれからもいろいろ出会うでしょうし、現に出会ってるでしょう。

時には自分の女房が「いじめる対象」である場合もあります。夫婦関係が、いじめられっ子といじめっ子の出会い。これは都合いいですね、いじめられてくれる対象がいつもそばにいるわけですから。自分の支配力を十分に意識できます。こうした夫は、会社で女子社員に「コピーとって」って言うと、「自分でやれば」なんて言われている。そういうおじさんが、家に帰ってきて、女房を殴ったり子どもを正座させて2時間も3時間も説教したりしてるのです。

会社では忙しく働き、従業員同僚から尊敬されている人が、くつろぎと愛のため、子どもの成長をいつくしみ、妻の笑顔を楽しむために家族を求めるのです。会社でいじめられてる人は、その悩み、屈辱をはらそうとするうちに家族を求めますから、家族を傷めつける夫、親というものができあがってくるわけです。

家族とはいったいなんでしょうか。どちらのタイプも「癒される」ことを家族に求めているのに、心の中の「見捨てられる不安」は、癒しあい、尊敬しあう家族をつくることをさまたげるのです。

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Posted by ssworld