現代家族の問題点とその展望(7/7)

このシリーズの最初の記事へ

質疑応答

齋藤それでは適当に始めさせていただきます。みんな面白い質問なんですが、全部答えられないかもしれません。

「ケチとブリミアの関係について」

質問にはブリミアンと書いてあるけれど、ブリミアンという言葉はあまり使いません。ブリミックとクで終わります。アルコホリズムの人はアルコホリックというので、ブリミアの人はブリミックといいます。いま女の子たちが不安を鎮める方法というと、ほとんどがブリミア式に食べることです。それで鎮めます。食品が贅沢に消費できるようになっているからでしょうね。いまNHKで買い物しすぎる女たちのドラマをやっているけれども、あれをやるにはやはりある程度お金がないといけない。お金がないと買い物依存にもなれないです。

ケチとの関係ですが、ケチというのは、先ほどオブセッションの話をしたけれども、精神科医や臨床心理学の人がケチと聞くとすぐ2歳児のことを思いうかべるわけです。なぜ2歳児かというと、トイレットトレーニングの時期の幼児ですが、あの子たちは、極端にケチなんです。何に対してケチかというと、うんち。あれは彼らが初めて持つ自分の持ち物ですから、幼児を見てごらんなさい。犬のうんちなんか落ちてると放っておけない。道にしゃがんで、突ついたりしています。

また、おじいさんになってボケてくるとこれが大事になってきて、壁を奇麗にしようなんていって自分のうんちを塗っちゃったりする。人間が生まれてきてしばらくと、それから死ぬ前しばらくとは、うんちが自分の持ち物として非常に貴重なものになりますが、お母さんにうんちをあげるとか、お母さんは怖いからあげないというふうにして、うんちをめぐってお母さんと取引する時期というのが2歳から3歳にあるんですね。この時期を「肛門期」というんです。変な名前でしょう。フロイト流の精神発達の分け方の中で、その時期を肛門期と言います。肛門を中心に自分の人生、生活を考える時期です。これがもう少し経つとおしっこが出るところ、性器に意識が出てきて、その頃から性器の違いというものに気付くようになるんですね。こういうのを「性器期」、日本語で言うと変だけど、「ペニス(男根)の時期」と言ったりします。その後今度はペニスをめぐるいろいろな、ある人におちんちんがあって、ある人はないということをめぐって、いろいろ悩むのだというんです。私はあまり悩んだ覚えがないんですが多分忘れているのでしょう。例えばお母さんはあんなにおっかなくて強いんだからペニスがあるに違いないと思う。こういうのを「ディナイアル(否認)」といいます。あるに違いないと思っているだけで現実を直視しないのが否認です。あまりにその思いが強いと、大人になったときに、怖い女の人と向き合うことができなくなったりする。みなさんのこと怖いと思いながら見栄で付き合ってたりするかもしれない。聞いてごらんなさい、ボーイフレンドに、「怖い?」って。そういう人は幼女に関心を持ったりするから困ります。幼女、童女にだけ性的関心を向ける人をペドファイルといいます。

要するに、ブリミックというのは、今度はご飯を食べて、それを出すの出さないのということをめぐって強迫性が出ているわけです。出す入れるということを考えると、下でも上でも同じことだと。だから、2歳児並のことをやっていると思うわけです。だからケチに違いないと思う。実際に付き合ってみると本当にケチです。先生のところに来る電車賃がもったいないとか、クリニックに通いたいんだけども電車賃を支払いたくないとか。彼女たちの多くは、細かいことにこだわって几帳面でしょう。本当はいい加減にやっていくのがいいです。

「日本の母親が子供に4カ月以上授乳することが、ヨーロッパからみるとおかしいという意見がある。しかし、もともと日本には父権はなく、ヨーロッパにおける父親像とは違うともいう。このことは、それぞれ文化の違いということで妥協しているのではないだろうか」

ちょっと文脈がよくとれないんだが、4カ月以上授乳するのがおかしいというのではなく、最近の乳児精神医学で言われていることは、第三者の介入というのは早い方がいいという意見です。さすがに3カ月以内というと、要するに人工哺乳器の中にいるみたいな感じで母親の胸の中にいるでしょう、もともと人間の赤ちゃんは未熟児なんです。サルの赤ちゃんはお母さんの毛に捕まって一緒に逃げたりできますでしょう、有蹄類の赤ちゃんですと、馬の赤ちゃんみたいに生まれてお母さんが背中をペロッとなめるとスクッと立つんです。背中にスイッチボタンがあるかのようです。そのなめることをタッチングというんです。

人間の場合は産道でものすごいタッチングを受けて生まれてくるんです。ひどい難産なんです。あんなひどい出産のしかたをするのは人間だけです。犬の子や猫の子がヒョイヒョイと生まれちゃう。それで出てきたものはグニャグニャでしょう。神経系もひどいもので、あれは生まれてからの方が発達する余地がたくさんあるんです。特に脳はそうです。だから、赤ちゃんの頭の真上を突ついてごらんなさい、フニャフニャだから。あれがみんな閉じてたら、これから発達していく脳を収めきれないからです。あとで脳が膨らんでもいいように頭蓋の骨は、いくつかの枝が寄りそう形でヒビ割れしている。実にいい加減です。生まれてきたばかりの赤ちゃんは本当に未完成品です。ようやく手足を動かすようになるまでに、10カ月かかります。その10カ月というのは、運動神経系に、ミエリシ・シースというんだけど、サヤ--ちょうど電線、コードにはゴムの筒がついているでしょう、あれと同じようなものができてくるのが10カ月目なんです。それができていない間は絶縁体が周りについていない裸の電線の状態で、運動神経系には効果が伝わらない、動けないんです。麻痺しているんです。だから、10カ月くらい経つと急速に運動ができるようになって、もう少し経つと立ったりします。

二本足歩行なんて言うのは、人間がそういうふうにできるようになっているものですが、それを見て周りの者はものすごく感動し、誉めるわけです。あれを見て赤ちゃんは誤解します。私は大変なことをやっているし、私が立つことがみんなにとって必要だと思う。この誤解のことを自己肯定感といって、これがないと人間やっていけないんです。誤解による勘違いですね。私は大事な人なんだという勘違い。みんな勘違いしてくださいね。これがない人間は健康に生きられない。「私が生まれたときにはベツレヘムに星が瞬いた」なんて思っていると、幸せな人生が待っている。私はみんなが生まれるのを待っていてくれたくらいいい人なんだと思うことです。

全然質問と違うことを語ってしまいましたが、要するに4カ月からの保育がいいとヨーロッパの精神科医たちが言い出しているということです。私が言いたいのは、3歳まではとにかく親元に置いておかなきゃ駄目、というのは神話だということなのです。フランス人の精神科医たちの言い分では、そういうふうに3歳まで親元に密着していた子供の思春期の親離れ、私の言う「第三の誕生」ですね、これがうまくいかないと言うんです。見捨てられる不安といって、お母さんが行っちゃったら帰ってこないという、そいう不安が強くなって、親離れが悪くなる、親離れが悪い子はどうするかというと、病気をやります。病気がすぐできない子はどうしますか。意図的に痩せます。それで、拒食症になります。拒食症って何ですかといったら、あれは胎児化、子供返りです。身長の伸びは止められないから、体重をどんどん落として痩せていく。一番成功した状態、究極の状態では屈曲姿勢で親指をしゃぶりながら寝ているだけになります。そしてもっと体重が落ちると死ぬ。「お空のお星様になりたい」なんて言いながら死んで行く。肉付きのいい世の中というものは嫌だ。すべて肉だ。肉は汚い。というような感じです。すべてをきれいにしておきたいという感じ方の中にあるものは、性の欲動の否定です。成熟していく自分の挫折を見るのが嫌だということ。私はいつまでもお母さんの子供でいたいというどころではなくて、お母さんのおなかに帰りたいという感じですね。

私はこの病気が1960年代のツイギー以来はびこったと思う。それも全世界的にはびこったのではなく、アメリカで、それからイギリスで、当時の西ドイツで、フランスで、この順序なんです。それから極東では日本だけ。10年くらい前まで、ソウルでブリミアやアノレキシアをやっていた人は東京の私のところに診察に来ました。大変です。もう少しお金のある人はニューヨークや西海岸の方へ行っていましたけど、ソウルの人はずいぶん私が診ていた。当時は東京にはあってソウルにはない病気だったんです。だから、ソウルで診てくれる先生がいなかった。今はいっぱいいます。こんなものは本物の病気じゃない、社会現象である、それだけ近代都市社会の女の人が自分らしく生きることを阻まれているんだ、というのが私の理解です。弱々しく、それから子供返りして親元に留まるような行き方を強いられているんだという考え方です。

一方で、声高くフェミニズムが唱えられていて、意識の上では「私のことは放っておいて」、「私は一人で生きられる強い女よ」といっていながら、「体がこんな状態だから勘弁してよ。私ね、これが普通の体になればやるわよ。誰にも負けないわよ」という。この野心がいけない。ブリミックやアノレキシックの野心というものを考えると、空恐ろしいくらいで、東京湾に自由の女神かなにかぶっ建てて、その顔を自分の顔にしようとしているんじゃないかとさえ思うんです。みんなに知られたい、みんなに見てもらいたい、みんなに拍手されたい、これがあります。どうして私が大勢の中の一人に過ぎないの、そんなの嫌、そんなんだったら私はお母さんのおなかの中に帰る、これです。

いいじゃない、普通で。普通がそれぞれユニーク、というのが一番いいんです。人がどう自分を見るか見ないかなんかよりも、自分で私が一番だと思ってるのがいい。こっちの方にもっていくような子育てなり、教育というのはどいうものかというのが、私の関心事です。
金属バット事件について語るとお約束しながら全然言えなかったんで、ここで追加しておきます。一つはあのお父さん像が、殺したお父さんだから厳しい人だろう、東大出だから勉強を強制したんだと思うかもしれないけれど、どうもそうじゃないらしい。

「PTSD」という言葉がそのとき新聞なんかに出てきたんですが、トラウマを受けた後のストレス性の障害だと。そのトラウマは何かといったら、息子から殴られたことで、それでおかしくなったと言うんですが、おかしくなった人は殺さない。おかしいことで十分自己表現できますから。こういうおかしくなった人は事件の加害者にはなれない。結局裁判長はこの事件の被告を精神鑑定に回さなかった。何故か。被告は自分で滔々と殺した理由を述べたからです。それを全部自分の頭で分析して述べるという力があることを示すことで彼は一生懸命だった。これだけものがわかっている人を別に精神鑑定する必要はないでしょうというので精神鑑定に回らなかった。だけど、人間は、人を殺すときというのはみんな狂っているのです。ひとことで言うと「切レル」って言うでしょう。そのときの事は後で覚えています。いろいろ覚えていますが、記憶していることをいうのは自分がしゃべりたいように記憶しているだけで、記憶している以外の事実がたくさんあるというのが普通です。だから、私はこれの鑑定を引き受けたらば、そのことを言ってやろうと思っていた。

実は、あの事件と同じようなことはいっぱいあるのです。先ほどバタードウーマン(被虐待女性)のお話をしましたが、夫に叩かれつづけている妻たちがときどき夫を殺します。世の中には「窮鼠猫を噛む」という言葉もある。夫にいたぶられて、暴力的な性行為を強いられた妻が夫のおちんちんを切っちゃった事件がありました。バタードウーマンの夫殺しというのはよくあるのですが、この場合は殺されずに、夫はちんちん切られても生き延びたんです。面白かったのは、あのときあれをやったロレーナという女の人は、おちんちんを持ったまま車を運転しちゃったんです。そして途中で気がついて道に捨てたんですよ。あのときの自分の怒り、それを表現する男根切除という行為、そこまでは説明可能ですが、それを持って逃げたというのは説明し尽くせる行為じゃない。あの人はカトリックで離婚ができないと思っていて、155センチのベネズエラ出身で英語もよくしゃべれない美容師さんでした。男は190センチの元海兵隊員で、ナイトクラブの用心棒です。力--英語力、つまり腕力と表現力を含めたいろいろな意味での差の中であの事件は起こっているんです。

今アメリカでは夫を殺してしまった、夫から虐げられていた妻たちの裁判がたくさんあります。レノア・ウォーカーという人がそういうケースを一例一例拾い集めて「テリファイング・ラブ」という本を書いている。「恐ろしい愛」ですね。みんな妻が夫を殺した例ですが、すべて夫から虐げられていた女性たちです。人間というのは悲しいもので、人間だけじゃなくて哺乳動物一般がそうですが、侮辱と暴力にさらされ続けていると加害者に愛着が出てくるんです。こういうのを「ストックホルム症候群」なんて呼ばれたりして、人質が妙に犯人に傾倒していく、敬愛してしまったりする症状です。それと同じかどうか知りませんが、虐待されている妻が夫と20年も30年も女房をやっていたりする。

どうも金属バット事件のときも同じことがあったのではないかと私は思うのです。しかし、それに抗して自分らしく生きようとする彼も居て、事件のひと月も前にバットを買ったり軍手を買ったりしている。人間というのは矛盾したことをしながら生きているのです。最終的にはぶっ殺しちゃうんですが、そこで起こってきたいろいろな矛盾する感情が錯綜していた事件を、あのように滔々と説明すること自体、被告は異常だ。つまり、あの事件は殺しちゃった瞬間の自分のことを彼はわかっていない。私は、そのわかっていなかったことをわからせたいと思うのです。

人間は人を殺すことがある。それが最愛のもの、大切なものであるときが一番危ない。その場合には自分では理屈がいろいろつくが、口で言っている理屈なんていうのはみんな嘘だ。本当の理屈というのは振る舞いによって示されるもので、言葉として吐かれるものは嘘。私は、「意識は嘘つき」と言っているんですが、意識の嘘を暴くのは行動です。自分がいい父親をやろうと思っていて、実際にやったことの方が本当でしょう。かれは3年の実刑だそうですから、2年もすれば刑期を終えて出てきますでしょうけど、それからはたぶん教育評論家として活躍するんじゃないでしょうか。息子殺しの父として。そういう時代です。私は殺したからいけないと言ってるんじゃない。彼にもう少し、自分がなんで殺したか、いまそれがわからないで当惑しているという率直さを求めたい。それが私の金属バット事件についてのコメントです。

「少年の犯罪が凶悪化している。先生はこれについてどう考えるか。少年法改定、これについてどう思うか」

いい質問ですね。今の子供は「表現する子」です。みなさんはもう既に表現する子の時代の子です。以前の子はどうかといったら、「対象としての子」です。ケアの対象、教育の対象、躾の対象、対象としての子です。今の子は「対象としての子」であり続けることに飽きている子です。主体です。

アリエスという歴史家が「子供の発見」を書いた時に対象とした時代は、17世紀の後半から18世紀にかけてですが、あのへんから子供というものを肖像画に描いたり、子供服が作られたりして、子供というものが認識されるようになってきた。子供服の対象というのは消費者としての子供でしょう。教育の対象としての子供、今、その子供たちは、自分自身の表現の場を求めています。一つは暴力や犯罪でもって表現しています。何も、殺した子の首を校門に乗っけなくったっていいじゃないですか。殺して埋めとけばいいじゃない。表現ですよね。訴求的、厚かましさ、うっとうしさ、私がやったんだよといって新聞社に手紙を送ったりする、ああいう感じ。みなさんの心の中にもありますよ。ただ、みなさんはもっと違う形で表現しているだけで、茶髪、ピアスの類は表現する子の一番わかりやすい形でしょう。学校があれをとても嫌うのは、学校は子供を「対象としての子供」に留めておきたいからです。大学だってそうです。生徒は対象としておきたいんです。生徒が主体として表現すると嫌がる。ピアスをつけるとか茶髪にするとかいうことは、私は表現する主体だよと言っているので、先生側から見ると、それ自体がとても嫌なんです。

少年の犯罪が凶悪化していると私は思いません。例えば少年の自殺、殺人、一番多かったのは終戦後です。戦後15歳から19歳の犯罪について見れば、殺人だけで数百件ありました。いまは百件足らずというのがずっと続いて、今年もまた去年より減っています。凶悪犯は減っています。それから自殺も去年までは減っていました。青少年の自殺は、岡田有希子というタレントが死んだときにちょっと増えましたが、だいたい人口10万対5ぐらいで、少ないです。子供の自殺はフランスの方が多いです。だから、マスコミが言っている子供の犯罪増加、凶悪化、自殺の増加というのはみんな嘘。ただ今の子には表現力がある。誰々が憎いとか言いながら死んでいくんです。憎いと言われた子が大変な目に遭ったりする。その訴求力はすごいですね。

子供はあまり言語がないから行動で表現します。どうしても僕らは殺人だ自殺だという極端な事件に目がいくので、一見多いような気がするんです。これから私たちは、子供たちのどのような表現に接することになるのでしょうか。それを見るのが楽しみです。

「愛している人と一緒になれないのは何故か」

これは、私が言ったように、言葉は嘘つき、振る舞いが本当。みなさんがこの人好きだというのは、言語かされた途端に嘘になっちゃいまして、究極の形では要するに愛する人と一緒になるときにはそれはすでに愛する人ではなくなっているという事実があるから、愛する人とは一緒になれないと言ったんです。愛する人と一緒になるということは、愛する人が屁を漏らして口が臭い人で寝相が悪い人であることを発見するという仕事ですから。それは何をしてても可愛いという話になる、それを「痘痕もえくぼ」といいますが、痘痕もえくぼでいられるのは数年で、何て嫌な人でしょうと思えるようになるということを親密性というのです。結局自分が獲得したと思うものはいつの間にか失われているのです。

その一番いい例はお母さんです。お母さんはかつては愛着の対象で聖なるものでした。強大なもので、モンスターとしてお化けにも出てくるもの、子供の夢に出てくるモンスターというのはみんなお母さんです。こういうもので、強くも怖くも、そして神々しくあったものですが、いつの間にかこれが継母にすり替わっているんです。思春期の娘にとってすべての母は継母。継母って何かというと、毒りんごを食わす母です。「鏡よ鏡、どっちが綺麗?」と聞く母です。危なくてしょうがないんだから、娘としてはさっさと逃げないと毒りんご食わされてえらい目に遭う。そして、みなさんは大急ぎで逃げて7人の小人たちに会うんです。そのうちに白馬に乗った王子様が現れるが、これが何と死んでしまった実の母。こういう構造になっているんです。それが女の人が味わうセクシュアリティの経過です。あらゆる母は偽母。いつの間にか継母に食われてしまった実の母は、若い男に変身している、という感じです。またそうなっていないと困るのです。いつまでも母が敬愛すべき、お母さんの石鹸の匂いが大好きなんていう歌があるでしょう、あんな状態で母と娘をやっていたらしょうがないですね。何だか全然答えになっていませんが、私もこれはよくわからないです。しかし、経験からしてそうです。

またありました。「どうして愛する人と結婚できないんだ」っていう質問が。そうでしょうね。質問したいでしょうね。変なことを言ってしまいましたが、これが私の実感です。これからよく考えてみます。

「日本の男性がいま未成熟化している原因は何か」

今現在、未成熟化しているというよりも、マチュリティという概念がなかったせいだと思います。私たちが問題を修正していくためにはまず認識というものが必要でしょう。大人性とか成熟性とかいうものがちゃんと認識されていないときには、自分が大人をやっているつもりで子供だったりすることがあります。そいうことが今ようやく意識として取り上げられつつあるということでしょう。ただ、ヨーロッパやアメリカ白人流の大人をやるのがいいともいえない。それもいろいろありまして、力だけでジョン・ウェインみたいなマッチョをやって一生を送るのも大変です。アメリカにアル中があんなにも多いのは、一つはジョン・ウェインじゃなくちゃいけない、あれじゃなくちゃ男じゃないと言われるからです。すべてが切り捨てられ、敗北者は敗北者としての取り扱いを受けるみたいな社会が本当にいい社会なのかどうかです。われわれの社会というのはもう少し敗者に優しいところがあります。しかし子供返りしてれば得するという、それもちょっと困ったことなので、このへんのバランスをどうつくっていくかでしょうね。

というようなところで、あまりまともな答えになりませんでしたが、どうもご清聴ありがとうございました。

司会どうもありがとうございました。本日は大変感慨深いお話しを本当にありがとうございました。学生一同に代わってお礼申し上げます。

新刊のお知らせ

斎藤学言葉集斎藤学言葉集(Kindleページにジャンプします)
トラウマ、サバイバー、家族問題、虐待、依存症、ひきこもり、自分らしく生きる…
これらの問題に長年取り組んできた精神科医斎藤学による講演集です。 講演会場での臨場感あふれる言葉の中に、生きてゆくヒントをたくさん見つけることでしょう。

Posted by ssworld