現代家族の問題点とその展望(4/7)

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3、家族の再定義

1)家族は何をするところか

では何故、このへんの話が語られてこなかったんだというふうに思うわけです。家族というのはそんなに温かいところではないものだと私は思うようになった。私の場合、ちょっと身を置いていた環境、見たものが悪すぎたといえばそうかもしれない。酒を飲んで養育を放棄したり、妻との関係を破綻させたりする男がいるような家族だったり、その中で疲弊したお母さんと子供との関係を見てきましたし、摂食障害者の侵入的なお母さんにも随分接してきました。よい子であることを生きがいにしている「よい子」がいて、全然自分というものがなくてお母さんのロボットみたいなことをやっているうちに、どんどん痩せていったりするのを見ていたし、ろくなことはない。何でこんな苦労して家族をやっているんだろうと思うが、私自身のことを振り返っても、やっぱり家族は要るな、あった方がいい、これはなくちゃいけないんだが相当危ない、というふうな考え方ですね。記憶の中の家族はなるべく温かいもの、自分にとって必要なものにしておきたい。現実の家族はなるべく自分が安らげて、自分を受け入れて、何も言わないところであってほしい。これがその人その人の本音でしょう。記憶の中の家族、つまり自分の父や母は本当に温かくて本当に自分をかわいがってくれたと思いたいと。だから、そうしちゃうんじゃないですか。先ほど言ったように、自分の家族を語る度に自分の家族の記憶をつくっていくわけですから、みなさんの語りたい家族がみなさんの家族ということになりますよね。

でも、本当なんだろうか。怪しいもんじゃないかと思うんですよ。だって親は親として必死で生きていたわけで、何故子供をつくるんだろうかと考えたときに、昔はそれは神様が恵んでくれたんだと思ったのでしょうか。飢饉になったら、ヘンゼルとグレーテルのお母さんとお父さんみたいなことをする。あのお母さんはひどいですね、今年はもう食えないからあの子たち捨ててきてと夫に言うでしょう。夫は、「はい」といって、奥さんの言う通りに子供を森へ置いてくるじゃないですか。さすがに殺してはこれなかったから置いてきたんでしょうね。子供たちは一所懸命生き延びて、そのうち魔女--というのはたぶんあれは実母ですが、ちゃんと死んだかどうか確かめに来たら、生きてたので殺しにかかるんですが、逆に殺されちゃうという話しですよね。焼き殺しちゃう。おどろおどろしい話ですよ、親と子の関係なんていうのは。
それで、今の親たちは、先ほど言ったように晩婚化して、29とか30とかになって結婚するでしょう。私は違うという人もいるかもしれないけれど、まあ一般的に言えばですね、日本の女性は豊かな生活を求めて結婚するんですってね。私の知人の社会学者が言ってました。男は見栄をはって結婚するんですって。現代の女の人は自分の条件に合わなければ結婚しない。少なくとも意識調査からはそういうものが出てくる。それで結婚して、子供を産むというときに、昔の人みたいに神様がくれたみたいなこと言ってられないでしょう、今は。これは明らかにみなさんの人生設計の中の一種の戦略(ストラテジー)とまでは言わないけれど、戦術(タクティクス)になっていますよ。今この時期に子供を産めばもっと幸せになれる、あるいは自分の人生が豊かになると思って産む。これがすでに子供にとっては大変だ。一頭しかつくらない子供だったら、これは非常に質の高い子供にしなきゃいけないから。二頭目はどうするかというと、今度は自分の今後の幸せにとってよかれと思えば産むし、これはとても自分を幸せにできないと思えば中絶しちゃう。

こういうふうにしてたまたま生まれたり生まれなかったりするわけで、親の人生の一つの戦略的拠点として子供は生まれて来るんですから、そお親の必死な眼差しは子供にちゃんと伝わります。どういう役割を親が子供に期待するかというと、それは連れて歩いてかわいい子や自慢できる子です。その前にもっと切実な問題があります。「まだ?」という質問に対する答えとして産むというのがあります。みなさん結婚してごらんなさい。大変ですよ。「まだ?まだ?まだ?」の質問。残酷な話だ。しかし、みなさん必ずどこででも経験することです。あまり「まだか?まだか?」と言われて苦しいから、もうそれを言われたくない一心で産んじゃったりします。その場合には周囲の期待に沿って、子供は生まれてくるわけです。私はこの時期にまだ産みたくないんだが、しかし、あまり周りがまだか、まだかと言うので産みました、みたいな人がいます。

その次が、連れて歩いてかわいい子、イタリア製のベビー服が似合う子、自分の愚痴を聞いてくれる子、ブランドものの学校に入ってみんなに自慢できる子、要するにこの子を産んでよかったと思える子です。そういう基準で親は子供を見るし、そのような基準を満たすように子供は一所懸命頑張ります。何故かといえば、親が自分を受け入れていると思う、承認してくれていると思うことほど、子供にとって必要なことはありませんから。私は結構反抗的だなんていうのは相当経ってから、たいして親を満足させられなかったと思ってから感じるのであって、最初のうちは必死です。2歳くらいまでは世の中自分が中心だと思ってますからいいんですが、自分が母にとって異物にすぎないということに気づいたときから、子供は抑鬱的になります。1歳半頃、お母さんと一緒にいるときと、いないときとで子供の反応、表情がまるっきり違う時期が出てくるんです。あれは人間の人生にとって最初の抑鬱というものの認知が起こっているときですね。世の中は厳しいということを最初に知る。もしかしたらお母さんって戻ってこないんじゃないかみたいな疑惑。こういうものを持ち出してから、人間は自由じゃない。見捨てられちゃいけない、どうしたら見捨てられないですむか、これを考えながらずっと生きて、みなさんそして私がいるんです。いつも考えてます。どうしたら受け入れられるか、どうしたら見捨てられないか。子供はそのことについては私たちよりもスレていないから大変です。10人か15人子供がいて、生存競争に生き残ったものが生き残るみたいな世界であれば、もう少し楽ですよね。とにかく出されたものを早く食うとか、兄弟内の競合でもって勝負がつきますから、親のことなんかどうでもいいかもしれない。そういうときのほうが親は感謝されますよ。1人だけだと親の関心が集中するから、いろいろなことを期待されて、期待に合っているか合っていないかと、子供の方でいろいろ考えを巡らせてしまうでしょう。これが今の子供の一番辛いところですね。

当然、そうすると、今度は親子関係が先鋭化します。昔は、例えば15人目を産んであまり産み過ぎたと思うとトメなんて名付けた。トメの次に産まれた16番目がステなんて名前で、とんでもない名前をつけられたりしています。トメだのステだのが生まれているときと、今のように一所懸命流行の名前を付けているときとでは全然違うんで、今の子供はみんな親の期待の視線に縛られて育つ子供たちです。ある者は母の表情の中に絶望を見取るんです。母は私の存在を認めていない。違う子が出てくればよかったと思ってるなんて思って、受け入れられていないという自分をはっきりと認識する子が出てきます。こういうのを自己評価(セルフエスティーム)の低下と言います。この自尊心のなさ、自己評価の低さというのが、思春期のいろいろな問題行動の基本にあります。

2)家族の再定義

私はこういう子供の心の中に住み着いた親のことを「インナーマザー」と呼んでいるんですが、心の内の親、ペアレントといってもいいんだけど、それはどっちかというとお母さんが多い。このインナーマザーは何をするかというと、自分が何かしようとすると「そんなことはできやしないよ」と言います。「やっても無駄よ」なんて言ったりします。あえて何かをやると、「駄目じゃないの、ここに問題があるでしょう」って言います。「もっとうまくやれたはずでしょう、寝ないでやればよかったじゃないの」とか、いろいろなことを言うんですよ。そうやってみなさんも勉強したり、この学校に入ったり、これからもそういうインナーマザーの自分を叱る声に従って頑張っていこうと思っているのではないでしょうか。しかしそんなことをやっているとおかしくなっちゃいます。ロボット化します。いま世間の人、つまり日本の一般の人が望んでいるのはみなさんがロボットとして機能することです。市場社会ですから、マーケットの中の質のいい高い値段のついたロボットになることです。昔は良妻賢母ロボットという製品がよく売れました。今は流行らない古い型です。キャリアガール・ロボットとかニュースキャスター・ロボットとか、そいうのが流行っているみたいです。それに沿ってなるべく市場で高く売れるように、いい学校を選んだり、世間の人が知っている学校を選んだりして商品価値を高めていく。みなさんもその途中にいるわけです。そんなことやってられるかと自分が思っちゃうと、この世界はすごく生きにくいし、どこへ向かって行っていいかわからなくなってしまいますので、みんなが望む方向に動いてればいいやと。こういうものの総和で今の日本の社会が作られています。

しかし、みんながいいと思っていることが本当にいいことかどうかはわかりません。今の日本を見てごらんなさい。銀行員なんてあんな堅い商売ないと思っていたのが、評価がたいぶ変わってきていっるでしょう。私は前に日本人のワーカホリズムを批判したり、日本の男たちの相互依存的な体質を批判していましたけれど、もうそういう話は古くなってきちゃった。経済的な状況の中で、日本の男に真の意味の正義と邪悪の区分がないということがはっきりしてきてしまった。他人が期待している自分だけを演じているから、自分の中に何が正しくて何が悪いことかという区分が育っていない。そんな男たちが父をやっていられるのかと私は思うんです。父親の仕事というのは、元来、正邪を分かつことなのですから。

父の仕事について、みなさん整理して考えたことがないでしょうから、ここでお話ししておきます。それはまず内と外を分けることです。これは家の子、これは俺の妻、こういうふうに言うのが父の仕事です。これを言わなくちゃしょうがない。これも俺の子だが、隣の家の子ももしかしたら俺の子で、あっちの家にも子がいるというのは駄目なんです。万民平等なんって言ってたら父はやれないのです。それだけ父というのは、これがうちの家族だ、これがうちの子だと思わないといけないような、そういう抽象的な概念として子供を捉えないといけないような人なんです。お母さんはそうじゃありません。お母さんは匂いで嗅ぎ分けちゃう。これはうちの子。違う家の子とは生理的に区別します。お父さんは本当はわからないんですよ、自分の子かどうか。あれはお母さんが、これがあんたの子よっていうからそうかと思っているだけで、本当はどうだかわかりません。

ですからDNA鑑定という、本当に自分の子かどうかを調べる会社が栄えるんです。アメリカでは数社あって、みんな黒字を上げています。日本は去年に1社発足して、まだ黒字まで行っていないそうだが、引き合いはたくさんあると言ってました。そのうち、DNA鑑定したものの中の30%は父親が違うんですって。もともと何か変だなと思うから鑑定するんだろうと言えばそうかもしれないけれど、本当にこれはうちの子だと思いながらも、信じ込んでるときでも、実は、という場合が多いそうです。父親というのは抽象的な存在です。お母さんはリアルな存在です。これを一緒にしちゃ駄目ですよ。父とはファンタジーとまでは言いませんが、一種の約束ごとであり、フィクションです。私に言わせれば親とは母のことです。

ついでに言えば、子育てをしている場が家族なんです。そのように定義し直さないといけない。お父さんとお母さんがいて、そして家族が始まるというふうに定義しているのは今の民法ですが、あんな思想はもともと日本にはなかったもの、輸入物です。日本の人たちは、初めから変だなと思ってるでしょう。ロマンティック・ラブの信仰によって、男と女が互いに愛し合って結ばれて夫婦つくるんだと思っています。1947年から始まった神話ですから、まだそんなに経っていないんです。いま98年でしょ、50年くらいしか経っていないです。あんなの嘘ですよ。みなさん結婚するときわかりますよ。もう結婚してる人もいるかもしらんが、愛している人となんか一緒になれませんよ。もっと違う事情で一緒になるんです。

私はあえて言いたいが、女が子育てする場所が家族です。それを手伝うのが父です。父の仕事は内と外を分けることです。これが俺の子と言うのが父。だから、誰が言ったって父なんです。それは別に男である必要もないとさえ言えると思います。

父の第二の仕事は正と邪をわけるということです。これはいいこと、これは悪いことということをはっきり言って、悪いことはさせない、自分もしないというのがお父さんの役割で、それができない者は父をやってはいけないんです。ですから父というのは人間がやらなくてもいい。太陽は東から昇る、西に沈むという自然の理、これも父なんです。正しい、というのはそういうことです。日は沈むが、まだやることが残っているから太陽よ東へ戻れって言っても戻らない。この一日の残酷な短さよというときに、これは父なんです。われわれは死ぬ、というのも父です。有限な命というのも、私たちにとっては父です。掟です。その父の掟の中で私たちは生きなくてはいけない。そうした自然の、あるいは人間であることの「掟」の体現者が父です。(続く…

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Posted by ssworld