現代家族の問題点とその展望(3/7)

このシリーズの最初の記事へ

3)高学歴化が児童虐待を招くという誤解

もっと言えば、家族というものについて、今日のテーマですが、私たちが普通経験している、考えているような家族像みたいなものだけを家族と考えていると、また間違えるということもあるかもしれない。そういう意味では、日本人の家族意識が変わっているとは言わないですが、しかし、深いところで家族に期待するものとか、家族についての認識は変わってきていると言えるのではないか。間違えてはいけないのは、最近のお母さんが保育の能力を失っている、という話がよくあります。最近の女性は高学歴化して、職業的なキャリアを積むことには熱心だが、子供を産んだりしたくない。産んでも仕事が気になって養育がちゃんとできない。その結果子供が寄ってくると叩く、放置してどこかへ行っちゃう、そのようなことが高学歴化のせいだという説があります。

言うのは大抵男の人ですが、最初にこれを言ったのは1.57ショックのときの当時の厚生大臣の橋本龍太郎という人です。女性の高学歴化が日本の人口減少を招いてこれは大変なことになると言ったんです。1.57というのは合計特殊出生率で、このごろよく出てくるからみなさんご存じかもしれないが、女性一人が生涯に産む子供の数のことです。だいたい2.1を切りますと、人口が減少に向かいます。今は1.57ショックからまた10年近く経ちまして、そろそろ1.4に近づいています。このままだと2010年くらいで減少に転じまして、21世紀の末には今のちょうど半分くらいになるようです。これだけ見れば、どうも女の人が子供を産むのを嫌がっているなという話ですよね。もっと言えば、結婚したがっていないんじゃないか。晩婚化なんていう現象があったりして、いろいろやってから結婚するわという話で、早めに結婚というのは流行っていない。

こういう一般的な傾向があって、子供数は減っていて、児童虐待の問題が頻々とメディアに取り上げられるようになるなんていうと、これらを結び付けて、高学歴化が問題の原因だなんて思ってしまうんですよ。例えばテレビとか新聞社の女性のリポーターとかインタビュアーがそう思ってるところがあるんです。まず企画会議を通さなければならない。いくら取材に来るのが女性だと言っても企画を通すのは中年男でしょうから、そのへんに迎合しないと女性側の考え方では男性中心の職場でやっていけないんじゃないかしら。そのせいか、女性の取材者もおじさんっぽい考え方でやってきます。

実際のところ高学歴化というのは問題発生の歯止めにはなっても、それが原因で児童虐待が増えるなんていうことはありません。たしかにホットラインを作ってみたら、その電話にかかってくるのは7割以上が叩くんじゃないかと思っているお母さんで、その人たちは教育歴は高いんです。でも、そういう人たちだからホットラインの電話番号を見つけることができたし、自分と子供との関係の危機ということが認識できて、そしてまた自分に解決できないものは人に援助を頼む、SOSを発信してもいいんだという、それを知っているから電話をかけてきただけです。本当に児童虐待がひどかったり、子供を殺しちゃったりしている人は、ホットラインなんかに電話してこない。もっとも、かかってくる電話の10%くらいは、こちらで出向いたりしないといけないような深刻な問題ですが、その場合には近所の人とか、病院のケースワーカーが連絡してきます。

4)日本における児童虐待の軽視

そういうわけで、児童虐待というのは、現代の家族が崩壊している証拠なんかではございません。児童虐待ということを言えば、昔の子供の方がよっぽど大変だったようです。江戸時代の子供なんていうのは、生まれたってその先がどうなるか予測できませんから。まあ10人くらい生んでおいて3、4人育てばいいという世界でしょう。たまたま飢饉の年に生まれて1年目なんていうと、これは悪いときに神様にもらっちゃったと、神様のせいですから。できちゃった。しかし育てられないなんていうのはいくらでもあって、そのときには和紙を水に浸して顔に載せると少し経つと死んでくれるんで、庭の裏手に埋めちゃうと、そんなこともありましたでしょう。「間引き」という言葉があります。江戸期300年、経済的な生産高は上がっているのに人口はあまり増えていない。戦後の日本は合計特殊出生率が急激に減っていくんですが、これは中絶によるものです。あんなに人工中絶が簡単に受け入れられた背景には、江戸期以来の文化で、要するに子供というのは親の都合で生かすも殺すも決めていいみたいな、そういう伝統があったからでしょう。別に私は中絶の廃止論者でも何でもないんで、下手にこういうことを言うとフェミニストから怒られるんですが、どちらでもない。女性が産む産まないを決めるということについては、私は基本的に賛成です。しかし、昔の子供の方が海より深い親の恩によって、現在よりもしっかりと育てれられたというのは、それは神話というものです。誤解です。子供は昔から親の道具として産まれてきて、親の期待に沿ってなんとか生き残ることに努め、ちょっとした親の喜ぶ顔を見たいと思いながら生きているんです。そして、親の期待に沿わないと思うと自分に罪悪感を持つ存在ですよ。それは昔も今も変わらない。今の方が、貧しいから売られちゃうとか、育てられないから殺しちゃうみたいな話がないだけいいようなものです。
昔からあったのに、何故児童虐待が問題になっていなかったか。一例としてみれば大変だと思うし、なんとかこの子を保護しようと思う問題が何故一つの社会的な課題になっていなかったか、これは不思議なことです。同時代的に見ても、今の日本語で書かれた小児科学の教科書と、例えばネルソン小児科学という英語の教科書があるんですが、これと比べてごらんなさい。日本の方にすっぽり抜けている一章があって、それは何かというと「児童虐待」という章です。

ネルソン小児科学なんていうのは、これは別に小児科の先生だけが読む教科書じゃないんです。医学生なら全部目を通しておくような教科書です。しかし日本語で書かれた小児科学の本には児童虐待の章がない。もっと面白いのは、例えば国際学会なんかに行きましても、日本では児童期の性的虐待というのはないと日本の学者が言っています。どうも日本というのは性的な虐待が起こりにくい、少なくとも起こりやすくない文化を持っているんだみたいなことが滔々と語られているんです。そう言っている人たちは、実態を見ていないだけです。

ホットラインの仕事をやって一番びっくりしたのは、性的虐待が少しも少なくないということがわかったことです。性的虐待に限っては、大人の女性がかけてきて、自分自身の過去の体験を語るのです。大人の女性がかけてくるから、これは自分の子供を叩く話かと思って聞いているとそうではなく、自分が少女期に被った父ないし兄からの性的虐待の被害の話で、そのことを私はずっと人に言えないできたけれど、あなたがたの活動の中でそういう部分を取り扱ってくれるというので、電話したと。最初にかかってきた人は40代の人で、20年くらい九州に住んでいて、自分の親から離れている。事件が起こったのはまたその10年くらい前ですが、この30年の時間を経て告訴できるかと聞いてきたんです。告訴できるかという話だから当然私たちの話じゃなくて弁護士の話ですが、弁護士の答えているのを聞いたら、できるそうです。あれは回想が出てから3年ということだそうですね。事実から3年ということではない。そして、ただ、告発は九州の裁判所でやるというような技術的なことを答えていました。

5)児童虐待、性的虐待とブリミア

私は、95年の秋から自分のクリニックを持って、主として今まで取り残されていた、チャイルド・アビューズ(児童虐待)を受けた人の思春期以後の後遺症の相談を受けているんですが、なんとうちに来る患者さんの5人に1人は児童期性的虐待の被害者です。ほかでは、彼女たちの話を聞いてくれないんじゃないですかね。5人に1人、これは女の人だけのケースですが、男の人をいれても--男の人自体が私のクリニックにあまり来ない、女の人が7割くらいなんですが、それでも全体で14とか15%、女性だけを母集団にすると20%です。

性的虐待を児童期に経験した女性はみんなおかしくなっちゃうとは言いません。私がやった調査というのはもう1つありまして、その時は過食症(ブリミア)の女性を対象にしました。ブリミアの女の子たちの会で「ナバ(NABA:日本アノレキシア・ブリミア協会)」というものがあるんですが、そのブリミアのセルフヘルプ(自助)のグループに新しく入ってきた人たちに、かなり大量のアンケートというか、ただのアンケートじゃなくて構造化された面接というのをやったんです。それに書き込んでもらった上で、もう1回1人2時間くらいかけてインタビューしました。どうしてそんなに時間を使ったかというと、かなり際どいことを聞いたからです。性的な生活とか、平均年齢21歳くらいで、親との間のいろいろな、暴言とか打擲からネグレクト、必要なときにいてくれなかったことから、そういう児童虐待と分類されるような状況、その中に当然、性的虐待のことも聞く。それがどんな状況でいつ起こったかというようなことを聞く、そういうインタビュー・スケジュールがあるんですよね。それに沿って既存のアメリカのデータと比べなくちゃいけないものですから、同じ方法でやったんです。聞いたのは全部で52人でしたか。

それで、今度はブリミアじゃないことがはっきりしている人を選んで、同じ年齢と性、この場合は女性なんですが、マッチさせた52人との間でチャイルド・アビューズ、セクシャル・アビューズ(性的虐待)の割合を見ましたら、ブリミアの人たちだと35%、3人に1人よりちょっと多い人々が被害を受けていました。健康な人から成る統制グループ52人の中に、17%いたんです。ただ、3段階に分けた重症度だと軽い人が多かったですね。それから実父からのセクシャルアユーズが健康な女性たちグループではやはり少ないです。過食症の人の方が実父からのセクシャルアビューズが多いです。

こういうような頻度のさがあったり、重症度が違っていたりするが、しかし、健康と思っている人の中にも被害者はいるんですよ。同じ被害を受けていても健康に生きている人もいれば、ブリミアになっている人もいる。どこで違ってくるかというと、自分の体験、過去の「エピソード記憶」というんですが、エピソード記憶を自分の過去の引き出しにちゃんと収めていて、取り出すときはちゃんと取り出せる。いつもは関係ない、しまおうと思えばしまえる。これが記憶についての健康性というんですよね。あまりストレスが強すぎますと、そのように順序立てて自分の記憶の引き出しにしまえなくなってしまう。それどころか、それを取り出そうとするとパニックを起こしたりします。ふだんは忘れている。それで、それに近い状況が起こると何がかつてあったのかというふうに言語化できないで、いきなり感情の嵐に巻き込まれるという状態になります。これを「フラッシュバック」といいます。そのときの部屋の中の状況、だいたい一定の状況なんでしょうね。例えば、そのときいつも抵抗できないので天井を見つめていたなんていう人の場合、たまたま旅館に泊まって、実家とよく似たような天井を見て節穴を数えているうちに、ものすごく嫌な気分がしてきて、恐怖感が出たりするので、何かあったんだと思うんだが、忘れてしまっている。それがある程度話ができる状況になってくると話し始めるんですが、そうした記憶の再生がいる起こってくるかはわからないのです。

6)記憶はつくられるものである

ちょっと医学的な説明をさせていただくと、われわれの「記憶」、特に「エピソード記憶」というのは一種の創作なんです。これは語ることによって記憶になるんです。私たちは体験の連続の中で生きているでしょう、だけど、みなさんが覚えている記憶というのは、デジタルなものじゃない。区切られているでしょう。じゃあどうして、ある記憶は覚えていて、ある記憶は覚えてないわけ?ある記憶は語ったから覚えてるんですよ。みなさんというのは、みなさんの記憶のことですよ。みなさんの人格って何だと思っていますか?みなさんの記憶の連続を一定のストーリーに添って組み立てたものです。記憶は創作ですから、みなさんは自分の記憶を掘り出して違う記憶の連続体を作れば違う人格になります。

それで、とても嫌で怖い経験をすると、その経験を記憶の連鎖から排除してしまいます。これを「解離(ディソシエーション)」というんですね。ディソシエートされた経験は、じゃあ戻ってこないのかというと、これが身ぶるいや冷汗などの身体の記憶は残っていて、「こんにちは」と戻ってくる。あるいは、一度語られたものは記憶に明瞭に残りますが、あまり怖いんでそれを思い出すと不安でしょうがないというと、今度はそれを抑圧します。最初は「抑止(サプレッション)」が起こるんですね。出ちゃ駄目、出ちゃ駄目、それは思い出したくないなんていってるうちに、「抑圧(リプレッション)」になって、「抑止」から「抑圧」へというメカニズムが働いて忘れてしまうんです。忘れちゃうともう今度は思い出せない。こういうふうに抑圧されたものは、ある抑圧を解くような状況の中で、突然鮮明に思い出されてくる。こういうものは、「抑圧された記憶の回帰」というんですね。体験が回帰するんですね、抑圧ではなくて。解離したものは、先ほどの天井の節穴みたいにして、一所懸命それを考えないようにしながら体験していますので、解離した体験は、思い出したときも解離してます。フラッシュバックが起こって何かよくわからないけど怖がってるよ、この人は、みたいな話なんです。

実際困るのは、診察室の中で解離症状を起こしちゃって、何を言ってるのかさっぱりわからないわけですよ。それもだんだん一種の条件付けみたいになりまして、私の顔を見た途端にひっくり返ったりするんですよね。どうも失礼しちゃうな、この人は、私の顔がそんなに怖いかしらみたいな。何しに来ても、お話しに来るのに、来る度に点滴だけ打って帰るみたいな話しになる。しかし、何が起こっているのかだいたいわかりますので、そういう人に話ができる環境を与えるという操作が必要になりますよね。だいたいそういうような派手な症状をしてひっくり返ってくれたりするのは、暴力を伴う性的なアビューズがあった場合が多いです。

そこで、1人の男として、私が過ごした幼・少年時代--乳児時代は覚えていませんが--それと比較しても、もし私が女の子だったらあんなに気楽に過ごせなかったんだということが、つくづくこのごろわかる。前からそうじゃないかなとは思っていたんですよ。拒食症や過食症の女の子たちの話を聞いていてね。私は夜道が怖いなんて思ったことないもの。私が怖いと思ったのは、もういい年になって50を越えて、サンフランシスコの街を日本人のガイドの人に案内してもらっているとき、中年の方も気を付けた方がいいですよ、ここでは男の人も襲われますというんで、そのときにとてもよくわかった。ああ、こういうふうな怖さってあるんだなと思って。それまで感じたことがないんです。女の人、あるいは女の子はと言った方がいいのかな、男の子とは違うような、性に対する恐怖とか、襲われる性対象としての自己というのをいつも意識しながら生きているんだなということが。性虐待の患者さんたちに援助なりサービスをせざるを得なくなって、そのことがはっきりしてきましたね。(続く…

新刊のお知らせ

斎藤学言葉集斎藤学言葉集(Kindleページにジャンプします)
トラウマ、サバイバー、家族問題、虐待、依存症、ひきこもり、自分らしく生きる…
これらの問題に長年取り組んできた精神科医斎藤学による講演集です。 講演会場での臨場感あふれる言葉の中に、生きてゆくヒントをたくさん見つけることでしょう。

Posted by ssworld