子どもが人間として育つ21世紀を願って(4/4)

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3、個々の教師が教師として何ができるのか

高校時代になって起こるのもありますが、その場合にはもっと違う要素が加わってきます。大概は中学時代に起こって、中学生の方がそういう意味では怖いです。私は、中学校の先生だけは絶対にやらないと前から心に決めていました。とても私にはできない。中学生はナルシシズムの権化です。美しい者、強い者が好きで、それ以外の者を軽蔑します。捨てます。残酷です。一部の者は自閉的な夢想に耽っていて、その中で超能力者になっています。授業なんか聞いてませんからね。退屈やつらいときはほとんど考えは飛んで、宇宙のどこかをさまよっています。デイドリーム(白昼夢)の世界にいます。それを日々紡いでたりするんですよ。昨日のドリームの続きからなんてやってますので、授業なんて聞いてませんよ。こういう連中でとにかくえらいんだから、この人たちにめったなことは言えません。自己愛の権化みたいになっている人に、先生がいちいホテルのフロントみたいな声掛けはできません。そうすると、すぐ腹を立てるし切れる。今になってマスコミが「切れる、切れる」と騒いでいるのが不思議でしかたがない。1年前の神戸の事件のときも、なぜ14歳なのかと騒がれましたね。私からすれば14歳ほど危ないときはないのであって、14歳というのはすぐ切れるし、自分の超常能力・幻想みたいなものを保護するためには何だってやるし、危ない存在です。今ぐらいで治まっているのが不思議でしかたがない。不思議でしかたがないということから言えば、不登校がこんなに少ないのも不思議ですよね。すごいシステムがガチッとできていて、不登校犯罪みたいなものが世の中に蔓延しているから何とか学校が成立している。あんなところはおもしろいわけがないんだから、行かない子がもっといておかしくない。

行かない子が町に溢れていろところでは、子どもの問題というのは町の人たちの問題になる。こういう問題を称して、皆が学校の問題だ、先生がどうのこうのと言っているのは、先生以外の人が先生に甘えているんですよ。子育てなんていうのは、上の世代の者全体で背負うべきものなのに、そのことを棚上げにして先生に、学校にって言っているのは、日本人全体が自己選択と自己責任、これはよく聞く話でしょう、この頃、このことを分かってないからですよ。自分でやったことでしょうが、全部。こういうシステムを作ったのも。だから、学校の先生が頑張り過ぎるのがいけない。「仕事をし過ぎるのがいけない」という話を先ほどしたのはこのことを言いたかったからですが、学校の先生が子どもたちの問題、14歳だったら中学校の先生が面倒を見るんだみたいな発想をするからいけない。そんなことまでわからないよ、それだけの給料をもらってないといえばいいのに。「14歳の面倒を見るなんていうのは、命がけですからいやです」と言えばいいんです。

高校になってちょっと問題が違ってくるというのは決していい話ではないのであって、高校になっての不登校というのは精神分裂病の問題が浮上してくるんですよ。あるいは、摂食障害を含めていろいろな心の病の問題がはっきりとした形をとるんです。中学以下だと、まともな精神病になるだけの人格が発達していない。反社会性人格と呼ばれる社会の裏街道を足早に通り過ぎる人たちの一群がいますが、平均余命は30代だったりします。足早というのはそういう意味ですが、知ってる組織といったら刑務所か暴力団という、こういう人たちです。精神科医をやってますと、どうしてもこういう人たちとのお付き合いもしなければいけないので、もちろん、そのような反社会的生き方を選ぶということについては原因がちゃんとありますよ。しかし、そういう人格形成がもうできてますというときの年齢は18ということになっています。18歳以上にならないと反社会性人格であろうと自己愛性人格であろうと、人格という名前を使わない。ちょうどそのぎりぎりのところで高校時代というのがあります。

14、5歳になりますと、これはこの前の神戸市須磨区の事件も行為障害なんていう名前で呼ばれてましたが、同じことをやっていても人格障害とは言わないんです。大体、分裂病の中に破瓜病というタイプがありますが、破瓜とは、八が二つで16という意味です。16というのはまさに高校時代でしょう。これを英語で言いますと、ヘベフレニ―と言います。ヘベーというのは、ギリシア神話に出て来る青春の神です。つまり、青春期というのは、思春期のホルモン分泌の問題や社会的な変革が人格内に生じる時期で、人間の意識面、思考面でいろいろな混乱が起こりやすい。その真只中に高校の先生方がいらっしゃるというわけで大変でございます。大体、分裂病の発症率が1000人に1人ぐらいでしょうかね。しかし、その周辺まで含めますと、50人に1人ということになるでしょうね。抑欝性の病気の中で、本格的な欝病、大欝病(メイジャー デプレッション)と言われるのですが、これはひところ考えられていたよりずっと多い。しかも、年齢も、昔は、大欝病の人というのは、ちゃんと人格ができた20代後半から、はっきりした病状が表現されるといわれていたものです。しかし、最近はそうじゃない。子どもの欝病も多いという話に変わってきました。10代後半は欝病も出始めます。急に成績が落ちてきた、無気力だなんていうときに、そこにすでに疾患の影が差すというのが高校時代です。

この手の人たちに、「おまえはもともとやればできるんだからしっかり頑張れよ」なんて肩を叩くと自殺してしまったりする。「そんなことを聞かされると怖くて何も声かけられないじゃないですか」とおっしゃるかも知れませんが、まさにそうなのであって、だから先生方の仕事の範囲というものについてしっかりとした目標の枠付けをした方がいいのじゃないか。子どもの人格の発達に寄与するといっても、全人格を私が受け持つみたいな誇大妄想をお持ちになられることについては、私ははっきり言って反対です。じゃあ、どうすればいいんですかといったら、これは家族の中の父親と同じではないでしょうか。よく、父親は背中で子どもを育てると言いますが、別におんぶしろと言ってるのではなくて、生き方とか世界観とか、「方」とか「観」でやっていくのではないですか。私の場合をふりかえっても、高校時代になりますと記憶が鮮明になります。急速に鮮明になりますね。逆に言うと、中学まではよく分からない。これは当然のことでして、人格の統合というのは、中学時代にはもやもやしていて、多少分裂していてもおかしいわけではない。小学生になると、これはもともと多重人格者と呼べるくらいです。学校にいるときとうちにいるときとは全然違う子になってしまうのですから。言葉づかいも違うし目つきも全部違ってきてしまって、これを大人がやったら多重人格者ですよ。学校でやったことなんかうちでは全然忘れてる。うちで内弁慶をやってたことは学校に行くと全然忘れて、いじめられっ子をやっていたりして、人格に連絡がつかないというのが小学生です。

人格の統合なるものは、昔、エリック・エリクソンという人が言い出したことです。この人は、もともとフロイト家で、アンナ・フロイトという未娘の絵の家庭教師をやっていただけの人なのですが、アメリカに亡命したらフロイト家でフロイトの弟子をやっていたという話になって、大教授になってしまった人です。このエリクソンが「自己同一性」ということを言い出しまして、それをするのが高校時代だと言ったんです。15、6から20歳の時代が自己同一性の課題を抱えた時代だと、こう言ったのです。自己同一性という言葉は非常に一般的な、精神科医にとっても教育に当たる方々にとっても大事な言葉になりました。その時代に人格は一本化に向かいます。高校時代になりますと自己というものがしっかりしてきて、「エピソード記憶」と言いますが、自分の履歴に係わるような記憶が明確になります。

私たちという人格は、私たちの記憶の集積に過ぎません。はっきりしてくるのが高校時代以後です。

その高校時代に私が思い出すのは、結局、そのときにいろいろな先生がいた。決定的な影響を受けたり、人生を決めたりする人物との出会いもある。残念ながら私のいた麻布高校にはそんな大物はいませんでした。教師にも友人にもいなくて、しかし本屋にいました。ジグムンド・フロイトという人が書いたものの日本語訳です。しかし、フロイトがいないということの失望を感じることができたのは、当時の先生方がいてくださったからです。先生方が、反面教師というのもなんですが、その場で自分の肉体、思考、言語を通して私に働きかけてくださったので、ちょっといやだ、これではいやだ、もっと違うのとかということができた。本当にありがたいことだ。これが私たちがこれから後輩たちに示す姿勢だと思います。

そのときに、確かに、古文から漢文から数学からいろいろと教えてもらったのですが、そのことは大切です。しかし、そのことよりも大人というものがどういう考え方をするのか、彼らの言うバランス感覚というのは何を言うのかというのがずっと私にとっては今になって大切だった。あの時もらったものを、今度は自分の子ども世代に分かち与えるのが私の仕事ということになります。母の仕事と父の役割みたいな話をさせていただきます。
父の仕事ははっきりしています。区分けです。三つの領域で区分を作ることが父親の仕事だと思います。そして、教師というのは、それが女性であれ男性であれ、父性原理の体現者です。そのことをなさっていただかないと困る。一つは、内と外を分ける。うちの学校の生徒も外の学校の生徒も一緒では困ります。わが家、わが高校、わが学校、そういうものにちゃんと責任を持っていただくのが、社会的父性ないし父性宣言と言いますが、これがとても大切なことだと思います。我が家の者たちに責任を持ち、これを愛す。だから、内と外の区分けです。

次は、正と邪の区分けです。これは許す、これは許さんというルールの設定です。正邪の区別ができないために、いろいろなことが起こっている。先輩がこうやったのだから、事を荒立てないように同じことをする。総会屋につけ届けみたいな、もうはなから大人の中核部分が正邪の区分というのができなくなってしまっているから、これをもって次世代の者に正邪の区分、父性原理を徹底するのは大変です。しかし、我々は、可能な範囲で正邪の区分というのをやっていかなければしかたがない。これは父性原理です。

断っておきますが、父性原理がお父さんの役割だというわけではないです。男の役割と父性原理というのは何の関係もありません。これは、親の持つ機能を父性原理と母性原理に分けているだけですから。女性が父性原理をやってもかまわないし、一人の親が両方やってもかまわない。

父の仕事の第3は、母と子の癒着の切断です。区分けです。つまり、大人の領域と子どもの領域を区分する。特に、性の統合にとって、このことはとても大事です。母子癒着、母子密着。自分を囲い込んでくれるものの中に耽溺して、そこに溺れ込むことから子どもを救うのは父の役割です。

母性原理というのは、父性との対比で言うと包むことです。包んでそして、その場を安全にするという作用です。これまたちょっと大変なのですが、母性の原理の中では、子どもは包まれている環境によって自分が受け入れられているという感覚が必須です。包まれる感覚というのは、違う言葉で言えば「承認」です。アプルーバルの方の承認ですね。「おまえはおまえのままでそれでいい」という、これが承認です。このことは、「おまえでもいいよ」ではないんです。子どもはみんな可愛いいよというかわいがり方では承認にはならない。いろいろあるけど、「そのおまえが可愛い」という。「おまえじゃなくてはいや、他の子はいや」。非常に個別化、特殊化して、自分がお母さんにとって欲望の対象なんだよねという意味の愛され方、受け入れられ方が承認です。

このことを、かねてフランスの分析医でジャック・ラカンという人は、「母の欲望」と呼びました。母の欲望とは変な言葉だけど、これは端的に言えば、「母の大事な物になっている自分であればいいなあ」という、その子にとっての欲望(母に欲望させる欲望)のことなんですね。それを縮めて母の欲望と言ったわけです。これがある人とない人というのは、会って話して5分も経てば分かります。母の欲望をしっかりもらった人、つまり、ミルクをちゃんともらった人というのはやさしい、寛容である。人のいい点を見る。これをもらってない人は、他人に対する不信感が強い。自己評価が低い。私の本質が分かったら、この人は私から離れていくというのが不信感です。だから、どうしても対人恐怖的になるし、対人恐怖的で自己不信感の強い人は働き中毒になる。また働きに戻ってきますが、つまり、自分がやっていることで後指を差されるのではないかと思うから、そこまでやらなくてもいいことをやる。皆さんの周囲にはあまりいないと思います。というのは、この方々は、例えば、高校の先生になったとすると、周囲の人を驚かせる程働きます。几帳面に何でもやりまして、頼まれた仕事はノーと言わない。そして、1、2年もすれば、疲れ果てて去っていきます。ですから、いなくなってしまうので残っている人は大丈夫。残ってる人は、自己評価がある程度高くて「いいかげん」を知っている。「しょうがないじゃない、これしかできないんだもん」という方の方が自己評価が高くて、だから、人にもやさしいということが言えると思います。「そのようなおまえが可愛いいんだよ、他の子じゃいやだ、おまえがほしいんだよ」というこの母による子の承認、これが母の包む仕事です。しかし、母だけでは困るんですよ。包んでばかりいますと、その辺の汚物がみんな包まれてしまって隠されてしまってますから、そこをやはり父性原理でもってこれはだめだということをやっていく。これは捨てようね、これは残そうねというのがあって、正邪の区分けみたいなものが必要です。それから、お母さんにこびり付いている子どもも切り離されなくてはいけない。特に、父性の中の母子癒着の問題というのは、実は15、6歳から以後非常に大事な家離れのテーマへとつながる。今日は、そういうお話の序文、序論をしたところで終ってしまいました。

しかし、今日の話は、皆さんと一緒に考えたり、これからご意見を聞いたりして、考えを膨らませていきたいという部分でした。反論も含めて多少はご参考になったのではないかと思います。
どうも、ご静聴ありがとうございました。

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Posted by ssworld