最近の青少年の暴力行為について(3/3)

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●承認
もう一つの問題は「承認」にまつわることです。私たちは、世の中にどんなふうに承認されているか、常に気にしながら生きていますが、だいたい、あまり「承認された」気がしていません。「どうにか世の中の片隅にでもおいていただけませんでしょうか」などといった心もちでいます。

子どもというものはだいたいがずうずうしい状態で生まれてきています。「飯だ!飯だ!おむつがぬれてるじゃないか!」と、あらゆるサービスをもぎ取るが如き勢いです。執拗に叫びたてて貪欲にディマンディング(要求)します。これが赤ん坊の本質で、つまりは私たちの本質でもあるわけです。ところが、この状態からだんだんと、ディマンドすることとそれを親がアプルーブ(承認)することとの間の緊張を感じるようになる。

問題は、自己評価が下がりつつある思春期にディマンドして、それが承認されたというのでは、本当の満足が得られないという点にあります。「東京で下宿すると20万円くらいかかるのでくれ、」「いや、15万円くらいがやっとだ」とネゴシエーション(交渉)して15万円獲得してもちっともうれしくないのです。

では何を望んでいるかというと、「何も言わないでくれ」、「おまえはもしかしてこういうことが必要なのではないかということを、始めから満たしてくれ」という無茶な要求なのです。ディマンド(要求)、ネゴシエーション(交渉)、欲求充足というかたちになるはずのものが、満足に至らない。「自分の存在そのものの承認」を親に求めてしまう。結局、私たちは乳児の泣き声になかにどこかで「おっぱいちょうだい」の言葉を見付け出してくれる母の機能を求めているんですね。これが「『抱いて』の叫び」です。「私そのものをそのまま抱いて」ということで、これを訴えるために、「退行」したどうしようもない状態を、あえて演ずることもあるわけです。「立派な子だったら抱いてくれる親なんていらない。こんな私でもいい?こんな私でもいいの?」と訴えます。これは過食症や薬物依存の若者によく見られます。過食症の人がガツガツ食っているのは何かといいますと、「ミルク母」を噛みちぎっているわけですね。

私は、家離れの時期のことを「第3の誕生」といっていますが、親にだっこされた腕のなかから滑り落ちるときを「第2の誕生」と呼んで、この時期に親への攻撃の問題が現われるといっているのは、メラニー・クラインです。悪いおっぱいに対する「噛みつき」という攻撃。お母さんに噛みついて粉々にしてしまったので、そこで母が失われてしまうわけですから、「ああ、なんてことをしてしまったのだ」と感じるわけです。「悪いオッパイ」とそれに「噛みつく口」があって、それが粉砕されて「オッパイの消失」があって、次に「消失の気付き」があって、「悲嘆」にいたる。そして「償い」つまり「抑うつポジション」に入る。これがクラインの考え方です。

この一方で、「よいオッパイ」なるものがあって、「悪いオッパイ」と並列しています。「出ないオッパイ、悪いオッパイには噛みついてやる」「よいオッパイにはうとうとする」。この並列で考えるわけです。これが「スキゾイド・ポジション」です。これが1歳半くらいのころのことだといいますが、かつて私たちの中にあったものが、大人になってなくなってしまうということはないので、これは大人になってもずっと私たちの中に残っているわけです。

スキゾイド・ポジションは、抑うつポジションに移ってからもどこかにあるし、いろいろな危機状態のなかで退行すると、すぐこれが出てきます。「家離れ」の課題に直面する中学時代から思春期にかけて、遅い人は30歳になってからという人もいるかもしれませが、とにかく何だか親が憎らしくなる時期があるのです。このときの子どもの親攻撃がこれです。「お腹がすいた」ということは、赤ちゃんにとっては痛みとして感じられるものですから、外部からの攻撃に値します。それに対するリアクションとして出てくるのが「憎しみ」です。

家離れの時期の若い人たちのこの寂しさ、心細さ、こうした苦境から救ってくれる能力のない親たちに向かって強い怒りが出てしまう。よく考えれば理不尽だとわかるらしいのですが、とにかく憎らしいのと、軽蔑ですね。「あなたたちはたいしたことない」とか「みっともない」とか「つれて歩けない」とか親をスコーン(軽蔑する)して切り捨てていく。こうした軽蔑と怒りの入り交じった感情が親に対して向けられていく。

結局、症状とは象徴ですね。心的なリアリティーの象徴として症状があるのです。過食症の人たちの食べるパンとは何かといえばミルクの象徴でしょう。それなのに口に入れて飲み込んでしまうと、実はウンコだった。「ミルク母」と「ウンコ母」の分裂があります。食べ物を「ミルク母」だと思って「くってやる!」と狼が赤頭巾ちゃんを頭からがりがり食べるように食らい尽くす。そして飲み込んでしまって、「なんだこれ、うんこだった!」といって吐き出す。これが彼女たちの内面にある母との関係の象徴化した一種の遊びです。ちっとも楽しそうでないのであまり「遊び」とはいわないのですが。

「ガツガツ食べてしまう母」に対して彼女たちが出す怒りの出し方は、ときに切迫したものになります。ですから、この治し方は、これをたどっていけばいい。「母の消失」をはっきりさせればいいのです。私はよくこんなふうにいいます。「あなたのお母さんをよく見てごらん。あなたの母はもう死んだんだよ。もういない。かつての美しく、大きくて、こわくて、みずみずしかった母はもういません。いつの間にか魔女にとってかわられた。その証拠によく顔を見てごらん。しわしわでしょう」といって、現実の母親とイメージのなかで攻撃する母を分けてしまう。「母の消失」をはっきりさせて、「抑うつポジション」にもっていって、ここで自殺されては困るんですが、このようにもっていくと、ブリミアのぐるぐる回りがはずれる。こんな説明では少々概念図化しすぎてしまってわかりにくいでしょうか。

いずれにしても、子どもの暴力が激化する要素のなかに、こうした徹底的な「子ども返り」、親への攻撃と同時に見られる「こんな悪い私でも、ぜんぶ認めて」という要素が入っているのです。

けれども、親としては、ここで、「認めてやるよ」などといって暴れている子に身を投げ出して「だっこ」なんてやってはいけません。そんなことをすればいつまでも「親」が生き残ってしまう。親は消えなくてはいけません。「強い親」をやらないことが、親の立場としては大事です。

しかし、これは難しいことです。現実の力のある親としては存在しないけれど、どこかで「暴れていようと何をしていようとおまえは私の子だ」というまなざしは残しておかなくてはいけない。ここが難しい。「親が消える」とは拒絶することではないのです。このバランスがうまくいけば、暴力そのものも終息に向かうのです。ですから私の見方では、子どもの暴力を止めることと、過食症の噛みつきゲームをやめることと薬物依存の人がシャブをやらなくなるのとは同じことです。

●強迫性と恐怖
もう一つ、「暴力が激化する原因」あげなくてはなりません。精神科医にとってはこれが一番気がつきやすい原因ですし、逆に言えば、ここだけに囚われてしまいがちですので、一番最後にもってきました。

それは、強迫性と恐怖です。「社会恐怖」日本の精神科医風にいえば「対人恐怖」と、「醜形恐怖(身体醜形障害)」、要するに「毛深い」に始まって「鼻の形がどうだ」「目がどうだ」という類ですね。これがサインとしてあると長引きます。私は「いやだな」と思います。

それから、「手洗い強迫」を始めとする強迫性障害です。考えて見ると、オブセッション・コンパルジョン(強迫)とアディクション(嗜癖)は紙ひとえでしょう。「どこで分けるのですか」と言われても困るくらいです。ただ、アルコールや薬物のアディクションの場合は、いわば「好きでやっている」。どんなに「やめなさい」といってもやめない。自我親和的です。ところが、たとえば掃除強迫などは、どうみても掃除が好きそうには見えない。脂汗をかきながら必死に掃除をしているような感じです。それでも「いえ、私は好きでやっているんですよ」と言われてしまえばそれまでですから、本当に強迫と嗜癖には本質的な差はないと思います。たぶん、脳内のメカニズムは同じところにあるのだろうと思います。私はこのごろ、PET(放射線断層撮影法)に関心をもっています。これによってようやく側頭葉の機能と前頭葉の機能のアンバランスについてものが言えるようになってきたと思うからです。このあたりに強迫症の機序があるのだろうと私は思っています。この辺から有効な投薬を検討するなど、医者としての診断もまったく無意味なことではないと思います。

また、こうしたことは、ある程度素因的なものかもしれません。子どもも神経質ならお父さんも神経質だとか、。文京区湯島の事件もそうでしょうね。
ですが、やはり、この手の強迫性障害も醜形恐怖も、さきほど言ったようなクールな家族システムの中からの反応として生まれることもありうると思うのです。

たとえば、湯島の事件の場合、事件に携わった内田さんというカウンセラーが、朝日新聞で3面あたりを全面使った「もう一つの見方」というかなり長い記事のなかでコメントをしていました。この記事の趣旨は、「なぜあんなに一生懸命、時間をかけて繰り返し繰り返し説得して学校に行かせたのだ」ということだったと思います。殺された14歳の男の子は、幼稚園の時から集団がこわかった。それでも幼稚園のころは、強引に連れて行けばいくのです。このとき彼のなかでは「自己」の挫折が起こっているといっていい。小学校のときも同じことがあって、このときもお父さんが理詰めで説得しています。なぜ学校は必要か。なぜ人は教育されるべきなのか。学校に行かないとどうなるか。なぜお父さんはこのように一生懸命おまえを学校に行かせようとするのか。説得を重ねられて彼は逃げ道をふさがれてしまいます。完璧に「おまえは悪い子で、行かなくてはならないところに行かないでいる。だからそれを治さなくてはいけない」とされてしまったとき、人は出口を失ってしまいます。私たちのなかにあるインパルシビティー(衝動性)とか逸脱志向的なところとか遊びたい気持ちとか、こうしたものをすべて抹殺してしまったら、残ったものでできている私たちとはいったい何なのでしょうか。人はなにもロボットになるために生きているのではありません。

「人は何のために生きているのか」。いってしまえばそれは「楽しむため」です。「人の役に立つために」とか「社会の一部として」などというより、こうした答えのほうがずっと健康的だと思うんです。そういう意味では「楽しいと思ってこそ学校だ」というくらいの考え方でいいのではないか。子どもの個性を圧殺して、集団への帰属を無批判に優先させようとする親の態度は、子どもの社会恐怖を増悪させることはあっても、寛解させることはない。こうした親の行為を私は「やさしい暴力」と呼びます。

実は神戸の須磨区の事件についても、社会への帰順を強制する母の存在がうっすらと見えるのですが、今のところこの事件に関しては、情報がまったく遮断されていますので、よくわかりません。もう少したってから、お母さん自身が発言するような機会を見つけて、ぜひ彼女にもインタビューしてみたいと思っています。

7.親のASDおよびPTSD

もう一つ、忘れてならないのは、思春期の子どもからの暴力にさらされる親たちもまた暴力というストレスにさらされたトラウマ後遺症に悩む人たちだということです。

私は、あらゆるトラウマ後遺症は自分の治療対象だと思っていますから、親であっても同じだと思います。「うちの子が暴れているのをどうにかしてくれ」という親の委託には乗りませんが、親のトラウマ後遺症を解決することによって親に「自分の問題を解決する人」になってもらうことはできる。

こうした親たちには、ASD(急性ストレス障害)も、PTSD(心的外傷後ストレス障害)も、両方ともあると思います。ASDとは、たとえば、帰宅途中に強盗に襲われて「助けてほしかったらひざまづいてお願いしろ」なんてことまで言われたうえ、もち金全部をとられたあと、その晩ぐっすり眠れるなんて人はまずいません。悪夢くらいは見るでしょう。これがASDです。ですからASDそのものは健康な反応です。ですがPTSDとなると、健康な反応かどうかということは争われるところです。「3ヵ月くらいたっても、まだ夢に出てくる」「考えたくもない考えに襲われる」「そのことが頭に浮かぶと、そのときの情景、自分の表情などが思い浮かんで、はっと気がつくと、もう1時間もたっていた」。こうしたことを「侵入的思考」とか「強迫思考」とかいいます。見たくない夢を見てしまい、眠りも浅くなれば、睡眠時間も減ってしまう。または、その事件がエレベーターで起こったとすると、エレベーターには近寄れなくなり、回避行動が起こる。これら一連のことがPTSDです。

ASDとPTSDは、子どもが親から虐待された場合同様、子どもが加害者で親が被害者の場合でも起こります。必要であれば、投薬もしますし、なによりもまず、親の自尊心の保護、安全な場所の確保が肝心です。

私は親のためにはシェルターは用意しません。彼等は世代的にも一番力のある人たちですから、自分で勝手に逃げ場を用意すればいいと思います。立場上弱い人たちのためのシェルターはつくりますし、実際に、女の人たちのためにはシェルターづくりをしています。

ASDとPTSDに対する反応には2種類あります。一つは、理不尽で不定期な暴力にさらされたために起こるラーンド・ヘルプレスネス(学習性無力感、学習性絶望感)です。詳しい説明は省きますが、これは動物実験から出てきた概念です。要するに、理不尽な(ここで言う理不尽とは、プログラムが一定の間隔で与えられていないという意味です)ショック、たとえば、鎖につないで逃げられないようにした犬にアトランダムな電気ショックを与え続けていると、しまいには鎖をほどいてショックを与えても逃げなくなってしまう、その場にへたり込んでしまう、といった実験例があります。カリフォルニア州立大バークレー校のセリーマンという心理学の教授が行った実験です。人間も、こうした不定期の苦痛を持続的に与えられると、無力になってしまう。逃げられる状態でも逃げずにその場にへたり込んでしまうのです。バタード・ウーマンが20年、30年と夫に殴られながら妻を続けていられるのも、一つはこれでしょう。被虐待児が9歳、10歳と逃げられる年齢になっても逃げないのも同じ。ラーンド・ヘルプレスネスという概念は多くの被虐待者の行動の一端を説明します。

もう一つの反応は、相手を殺すことです。とうとうキレてしまうのです。理由のわからない暴力で、いいことをしても悪いことをしても殴られる。子どもに「おかえり」といっただけで殴られる。こんな状態が続きますと、親たちにも、バタード・ウーマンやバタード・チャイルド同様に、呆然とした表情、無気力、抑うつ、侵入的な悪夢、強迫的な回想などが表われます。このような状態に陥った親たちの症状が、きちんと解決されなければならない。だいたい私たちは、親に「こうすべきだ、ああしなさい」と言いすぎてしまいがちです。患者さんなのだからていねいに扱ってあげなくてはいけないのに、「子どものことをどうすべきだ、こうすべきだ」とか「親なんだからがんばりなさい」とかいってしまう。そうやって追い込んでしまうと、暴力に追い詰められた人たちは、「急鼠、猫をかむ」といった突発的な反撃に出るのです。

レノア・ウォーカーというアメリカの草分け的なシェルター運動家がいます。『バタード・ウーマン』(金剛出版)という本をかいた人ですが、この人はほかに『テリファリング・ラブ』という本をも書いています。バタード・ウーマンがずっと殴られているうちに、思い余って夫を殺してしまう。当然殺人罪に問われて法廷で裁かれますが、このときどうしたわけか「こうこう、こうして、私は計画的に殺した」などと自分で証明してしまうのです。これで極刑に処せられた人もいます。
 
そこでウォーカーは、「そうではないのだ、暴力を受け続けている人は、学習性絶望感の中にあって、最後の暴力で、それがたいしたことではなくてもキレてしまうのだ」といっています。『バーニング・ベッド』というファラ・フォーセット主演の映画にもなっていますが、寝ている夫に石油をかけて燃やしてしまった妻の話がありますね。それからマリタル・レイプを受け続けたあと、夫の男根を切って持ったまま車で逃げて、途中で気がついて窓から捨ててしまった妻もいました。この事件では夫は死ななかったのですが、こうして実際に被虐待者による虐待者殺しが起こっています。文京区湯島の事件はまさにこれではないでしょうか。
 
人は狂わないで人を殺すことはできません。自分がやった行動をすべて自分が完全説明し得るなどと考えないほうがいい。あのお父さんは1ヵ月前にバットを買って、ついでに軍手も買っている。そのときは殺人を考えたでしょうが、「まさかな」とは思ったでしょう。しかしその「まさか」が起こってしまった。Tシャツを間違って買ってきたときに殴られた。確かに「もうだめだ」と考えたのかもしれませんが、そのとき実際に手を下してしまったのは、わけのわからないものに衝き動かされてのことだと思うのです。

8.おわりに~精神科医への提言~

私たち精神科医もこういったことをそろそろ取り扱おうではありませんか。従来の「意識が清明か、混濁か」「責任能力がどの程度あるか、ないか」という捉え方ばかりではなくて、「衝動とは、どのようなメカニズムのもとに起こり、何を表現しているのか」について、もう少し積極的に発言しようではありませんか。これが提言の一つです。

もう一つの提案は、私が今日申し上げたような泥臭いことを、お互いやろうではありませんか、ということ。あまりカッコいいことはいえなくとも、「息子さんの暴力がひどいなら、家を離れたらどうでしょう」からはじまって、「置いていくおこずかいはこれくらいがいいです」とか、14歳の子を一人で置いておいて火の始末をどうさせるかとか、「食費をどんな方法でわたすか」とか、そういった具体的な相談に乗るのです。

こうした事態のときに一番いいのは、近所の人に助けてもらうことです。火の始末も近所の人に見てもらうのが一番いいと思うし、遠くのアパートを借りると高くつきますから、「うちの子が殴るのでちょっと匿ってください」といって隣の家に逃げ込むのがいいでしょう。そうして「うちの子が暴れていて、うちはたいへんです」と、みんなに言いふらす。でも、こうしてSOSを発信することは今、私たち核家族にとって一番できにくいことですが、これをやるように、私たちが説得する。これは精神科医療チームの仕事として適任なのではないかと思います。

そして、これこそ、コミュニティーの復活につながるのです。20戸くらいのマンションがありまして、その中の一軒で子どもの大暴れが始まり、それをきっかけにマンション全戸が仲良くなった話を私は知っています。親がいろんな家に逃げ込んだものですから、「息子さん、どうです?」とか「坊や、どうしたの?」と、隣人たちが家族をのぞきにいったものですから、しまいに息子は暴れなくなりました。マンションの人からすれば、一軒で爆発なんか起こされては資産価値が下がりますからみんなで「親」をやったそうですが、結果、みんなとても仲良くなりました。コミュニティーが、一戸の塀を超えていろんな影響を家族に与えるようになると、このような問題は急速に消腿にむかう。そんなことを表わしている例だと思います。

皆さんもこのような症例をご経験なさっているだろうと思います。失敗例をも含めて出しあって、一般市民に役立つようにマニュアル化して行くのも、臨床精神科医の大きな仕事ではないかと思うのです。

9.追補

<北九州市立精神保健福祉センターの宮津浩先生からの質問>
1.別の主治医にかかっている精神障害者が子どもを虐待しているような場合、ケース・マネージメント的な多角的な視点が必要ではないか。
2.ネグレクト(養育放棄)された子どもの暴力の問題も大きいのではないか。
<回答>
要するに、ファミリー・システムだけでなく、ファミリーのソーシャル・コンテクスト、社会的な位置付けとでもいうのでしょうか、流行の哲学的な用語でいえば「ソーシャル・コンストラクショニズム(社会構成主義)」ですね。社会構成そのものを取り上げていかないと、治療は進まないと思います。治療的な骨格ができてきません。「物事は細かく見れば見るほど問題解決から遠くなる」というのが原則ではないでしょうか。「この子の問題は何だろう。確かに軽度のオブセッション(強迫症)はとれるけれども、それいがいに、彼が起こしているやけっぱちや衝動性は、ようするにわがままというだけではないか」などと、こんなふうに見てしまったとき、問題解決は一番遠のいてしまうでしょう。

さきほど申し上げたように、もう少し広い家族、伝統的な家族の中にこの暴力問題を置いて見ると、何か「いいこと」が起こっているように見えたりする。こうした捉え方をすると、解決を導きやすい。もう少し広く、親類関係の中だとか、コミュニティーの中だとかでこの家族の問題はどういう意味を持つのかと捉え直すと、どこかでうまい解決の糸口がつかめる。しかし、私たち精神科医は必ずしもそのように訓練されてはいません。そこへいくと、ソーシャル・ワーカーは、社会的なバックグラウンドについて多少、私たちより知っているし、サイコロジストは家族療法などを通じてこうした人間関係のアプローチに慣れている人もいる。こうした人たちと一緒に問題の解決を話すことによって、いろいろな解決の糸口が探せると思います。

それから、ネグレクトに関する暴力へのまなざしは、おっしゃるとおり、大事なことです。たとえば、親がフィジカル・アビューズ(身体的虐待)を徹底的に加えた場合、子どもが暴力者になるのは難しい。この子が暴力者になれるのは、自分より弱い相手、または絶対に自分に襲いかからない相手に対してだけです。柳美里の『水辺のゆりかご』じゃないけれども、人形を与えられればまず首をもぐとか、弟に手を抑えつけさせておいて妹の上に飛び乗って気絶させるシーンがありますが、人形の次にやるのはこうした弟妹いじめです。トラウマティック・プレイ(外傷体験的遊び)ですね。いじめの絵、人形をつかったいじめ、それから自分が処罰されるようなゲーム、こうした形で表現されるのが普通です。

身体的虐待を徹底的にされた子は知能が発達しませんから、だいたいIQが80を超える子はほとんどいません。こういう子がクラスのいじめっ子になるのは難しいわけで、こういう子がいじめるのは、セラピストです。児童相談のカウンセラーがおしっこ攻撃にさらされる。これが一番見られるいじめではないでしょうか。

私のクリニックにも託児所を作りました。バタリング・マザー(たたく母親)が治療に来ますので(どういうわけか、「たたく父」「殺す父」はきません。「犯す父」も「やってない」といって来ません。「ここへ来て治療を受ければ、もう一度家族を戻してやる」といえば、わずかに来ますが)。児童心理のカウンセラーは子どもをいじめません。「いじめないおねえちゃん」だとわかっていますから、「おしっこ」「うんち」攻撃をする。こういったものがいかに子どもにとって武器になるかを感じます。攻撃といっても殴るだけが攻撃じゃないと思います。ネグレクトを受けた子の場合は、ニード(必要)、ディマンド、フィジカル・コンディションといったものが、誰にもアピールできない状態です。もちろん「怒り」も正当に受け入れてもらうことはできない。彼等の場合、養護施設や育児養育センターに来て一番最初にやるのが「おしっこ問題」ですね。おもらしが続いて、おむつがはずせないとか、私が一番手を焼いているのがおしっこです。大きくなってからのおしっこ攻撃はほんとうに大変です。

トリイ・ヘイデンというアメリカの作家がいます。彼女はお医者さんでもセラピストでもなくて、児童養育センターなどの施設でずっと教師をしてきた人です。子どもの問題を治せるのは知識でも学位でもないということをつくづく感じますね。子どもと一緒にどれだけ長く時間を使えるかが決め手で、こうして見ると教育者が一番いいのかもしれない。トリイ・ヘイデンの『シーラという子』が、まさにおしっこを武器にする子どもです。ヘイデンは実に根気よく、何度も何度もシーラの服を取り替えてあげてはおしっこ攻撃に耐えていきます。本の中で、シーラはアビューズされた子となっていますが、私が見るに、むしろこの子はネグレクトされた子と思われます。あの手の子どもは日本には無数にいると思います。

そしてどこにいるかというと、多くは「知的発達遅滞」として扱われている可能性が多い。いま、私が鑑定書を書いているケースもそうです。このままいくとこの子は18歳で精神病院の慢性病棟か精神発達遅滞のための施設に入れられるしかない。しかし、私が見たところ、どうも鋭い知性を示しています。たぶん、彼女はトリイ・ヘイデンのような大人に出会わなかったために、いまこうして一生を精薄者として送るかもしれない状況に置かれてしまっているのだと思います。彼女に本当にぴったりくっついてくれる人がいれば、彼女が取り戻せるだけの生活力は伸びるはずだったと思います。

そういう意味からも、ヘイデンの一連の著作、『タイガーと呼ばれた子~愛に飢えたある少女の物語』『おりのなかの子~憎悪にとらわれた少年の物語』(いずれも早川書房)など多数ありますが、ぜひお暇を見て、一度あたっていただきたい。特に若い人たちにこういう問題を「面白いな」と思っていただけると大変ありがたいと思います。

(1998年8月1日於翠香園ホテル)

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Posted by ssworld