「心の居場所」について(2/2)

講演自己評価

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image050103_1.jpg 夫婦の作る家庭というのも一種の職場と考えればいい。ただし安全と秩序は職場以上に重要です。職務規程や上下関係は原則としてありません。代りに相手の尊厳の維持に最大の注意を払うという義務が課される。誰が課すというわけではない。長続きする関係を維持しようとすれば、そうするしかないといったものなのです。
こうした関係の中で、ふと、ここが我が家なんだなぁと思える瞬間がやって来るかどうか。それが必ずやってくるものと考えてはいけません。そのように望み、望みが実現するように努めなければ、その瞬間は来ません。私が、夫婦間葛藤の解決を仕事とする治療者であるからかも知れませんが、夫婦の片方だけが勝手に秩序のルールを作り、それを相手が遵守することを当然と考えて「安全と秩序」とは逆な夫婦関係を作ってしまっている家族が多すぎるように感じます。

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子どもは新入社員ではありません。夫婦関係のように自分で親たちを選ぶこともできない。だからでしょう、安全も秩序もあり得ないような混乱した家族の中に居ても、その場こそ我が身を置く場所と考えようとします。親たちから虐待されている子を保護しようとする職種の人(例えば児童福祉士)なら、虐待する親を子どもたちから離そうとする際に、子どもたちが必死で親にしがみつこうとする場面に遭遇した経験をお持ちでしょう。哀れなものです。しかしそうした子どもたちでも、外部から最低限度の支援を注ぐことによって、その子なりの安全と秩序の感覚を備え、それを求めるようになるものなのです。
その場合、注意しなければならないことは、その子に愛(関心)を注いだ人には「責任」が生じるということです。

この「責任」について最もはっきり述べている本はサン・テグジュベリの『星の王子さま』です。あの本の中で狐が王子さまに言うでしょう。

「おれ、あんたと遊べないよ。飼いならされちゃいないんだから」
「だけど、あんたがおれを飼いならすと、おれたちはもう、お互いにはなれちゃいられなくなるよ」
「あんたは、このことを忘れちゃいけない。めんどうみたあいてには、いつまでも責任があるんだ」

この狐の台詞の場面を繰り返し養護学校のトリイ先生に読ませては、それを聞いて満足していた子が『シーラという子』(トリイ・ヘイデン、早川書房)に描かれている七歳の被虐待シーラです。シーラはトリイに「先生、私をこんなに先生を大切にさせてしまっていいの? そのことに責任をとってくれるの?」と訊いているのです。

子どもは愛してくれる(関心を示してくれる)人の心の中に居場所を探します。というより、心の中に愛してくれる人を置くことがないと人の心というものは充分に開ききらないように出来ているのです。そういうわけで私たちの心の居場所とは、秩序と安全を提供してくれる「場」というよりは、愛という名の関心を注いでくれる相手の心の中、更にもっと本当のことを言えば、相手がそのように思ってくれているという「信念」ないし「幻想」の中にあるのです。

この幻想が崩れた最悪の場合のひとつを我が身の体験を使って示してくれているのは先に紹介したトリイ先生です。「飼いならされる」ことをあんなにも怖れていたシーラを飼いならしてしまいながら、若い養護教員助手のトリイ先生は一年後、母校の大学院に戻ってしまいます。その結果がどうなったか。七年後トリイ先生は取り付く島のない非行少女シーラと出会うことになります(トリイ・ヘイデン『タイガーと呼ばれた子』早川書房)。興味深いのは非行少女シーラの記憶の中では高速道路に自分を置き去りにして捨てた実母の座にトリイが当てはめられていたことです。

「捨てたのはトリイ先生だ!」

そして、それに入れ替わるようにして自分を探し求めている実母がリアリティを持って心の中に存在するようになっていました。非行少女シーラを、それでも何とか生き続けさせたのは、この幻想だったのでしょう。
私たちは通り過ぎる人々の群れの中に自分の居場所を見ることはできません。その中のなにものかと出会い、互いに相手に飼いならされ、相手を飼いならし、それによって、その関係の中に居場所を見つけるのです。

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Posted by iff