雪 東京が「4年ぶりの大雪に見舞われる」と天気予報が告げた日、最寄りの駅に行くと「緊急のお知らせ」という立て看板が置かれていました。通常は、人身事故で周囲の関係各線が止まったときなどに出るものです。

「もしや人身事故で出勤できない?」と、あわてて看板に近寄ると、
「来週月曜日(1月22日)に関東地方で大雪の予報が出ています。電車が通常運行できない場合があり、交通に影響が出る可能性があります。いつもより余裕を持っての乗車をお願いします」といった内容でした。

もしかしたら、私の最寄り駅の話だけなのかもしれませんが、まだ雪も降っていないうちから「緊急のお知らせ」を出すなんて・・・。よく言えば、その律儀さというかまじめぶりに、悪く言えば責任どうにか回避しようとい姿勢に、思わず吹き出してしまいました。

これが「日本人!」?

この話を海外経験の長い友人やクライアントさんにしたところ、みな一様に「『日本人』って感じ!」と口をそろえ、次のように言いました。

「予想外に大雪が降ったりして交通網が乱れたら、私が暮らしていた国では当然のようにみんな休む。『事故の可能性が上がって危ないし、公共交通機関も乱れているのに、なんでわざわざ仕事に行くの?』と言うと思う。だけど日本人はどんなに大変でも『仕事なんだから』と、どうにかして出勤しようとするんだよね。逆に、雪が降ったことを理由に仕事を休んだら、白い目で見られたりして」

大雪の予報を受け、都心のホテルは軒並み満室。タクシーも予約がいっぱいで、当日では予約を受け付けられない状態でした。
夜のニュースでは、帰宅を急ぐ人が押し寄せ都心の基幹駅では軒並み入場制限が行われ、改札に入れないあぶれた人でごった返し、騒然とした様子が放映されました。

311直後を思い出した

その映像を見て、311直後の都心の風景を思い出しました。電車が間引き運転され、急行や乗り入れも軒並み運休。乗車してからの「行き先変更」なども行われ、私も通勤・通学するだけでへとへとになったのを覚えています。
駅に行ったら電力不足のためなのか? シャッターが降りていて駅に入れないということもありました。

それでも多くの日本人には「仕事を休む」という発想は無いようでした。かく言う私も、やはり日本人。いつもよりもかなり早めに家を出て、ちゃんと出勤を続けました。

津波 311直後には、こうした日本人のきまじめさ、規範意識の高さが、たびたび海外メディアにも取り上げられました。

未曾有の大地震に見舞われ原発事故まで起き、燃料や食糧が不足しても、奪い合うこともパニックを起こすこともなく、だれかを押しのけて暴走することも無く、自分の順番が来るまで整然と並んでみんなと一緒に待つ姿が「美徳である」と語られました。

「美徳」が命取りに

一方で、こうした日本人気質が命取りになったケースもありました。2011年10月2日放送のNHKスペシャル巨大津波「その時ひとはどう動いたか」では、東日本大震災の津波で多くの犠牲者を出した宮城県名取市閖上地区を取材し、震災が発生したときの人々の心理と行動を分析していました。

番組では、多くの人が有効な避難方法を取ることなく亡くなってしまった理由を①正常性バイアス(危険な状況ではないと思いこむ心理)、②愛他行動(自分の命をかえりみず他人の身を守ろうとする行動)、③同調バイアス(判断や行動を周りに合わせようとする心理)の三点から、解き明かそうとしていました。

語られていた心理状態についてはさておき、私は番組が③同調バイアスのエピソードとして示していた人々の次のような行動に衝撃を覚えました。

渋滞にはまっても待ち続けた

閖上地区には、大通り沿いに公民館、中学校、小学校の3つの避難所がありました。それまで、津波はこれらの避難所までは来ないという想定でしたが、あの日、津波はその想定を超え、それぞれの建物の1階部分を完全に飲み込みました。

そして、最も犠牲者が集中していたのは、公民館と中学校の間でした。なぜ、「公民館と中学校の間」だったのか。「公民館は危ない。中学校に移動した方が良い」というあいまいな情報に不安を持った大勢の人々が、車での移動中に津波に巻き込まれたからです。

当時、3カ所の避難所をつなぐ片側一車線の道には、整然と車が並んでいたと言います。迫っている大津波を目撃したある証言者は、渋滞の列に並んでいる車の窓ガラスを叩きながら、「車が動けないなら走ってでも逃げないと。もう間に合わないぞ」と声をかけたと言います。

このときの様子を、番組では次のようにナレーションしていました。

「危機に気付いた一部の人々は裏道を通って逃げました。それは可能でした。しかし、大多数の人が次から次へと渋滞にはまり、じっと待ち続けました」(のうみそのなかみをちょっとだけ

行列 津波が来ると聞きながらも、おとなしく渋滞の列に並んでいた人々。

 その番組を見ながら、私は311のあと不足しがちだったガソリンや灯油を求めるため、私の家の近所にあるガソリンスタンドを目指して整然と並んでいた車の列を思い出していました。何百メートル、いや、もしかしたら1キロくらいに渡って並んでいたのです。

 未曾有の震災を体験し、だれもが得たいの知れない不安感、先の見えない恐怖のようなものを抱えていたと思います。

 ガソリンや灯油だけでなく、東京周辺でもトイレットペーパーや水など一部の物が品薄になっていました。計画停電が行われ、明るいテレビ番組は自粛。やたらにACジャパンのCMが流れていました。

 当時、私が相談にうかがっていたある施設では、「ACジャパンのCMを聞くと泣き出す子どもがいる」という話を聞いたほど、テレビを点けるだけでどこか異様な雰囲気が感じ取れ、前に書いたように通勤・通学するだけで一苦労というような、日常から遠く離れた日々が続いていました。

 そんな異常事態のなかでも、文句を言うことも無ければ、割り込もうとする人もいない風景。じーっと列に並び、たんたんと進んで行く車の、その落ち着いた様子が、逆に異様な光景のような感じがしました。

みんなと同じにふるまうのがよいこと

「みんな、そうしているんだから」

 子どもの頃、何度となくおとなたちに、そう言われたことを覚えています。

「個性化」とか「多様化」という建前とは裏腹に、私たちは物心がつく前から生活のあらゆるシーンで、「まわりと違う行動を取るのは良くないことだ」「周囲に合わせておけば安心だ」と、「まず集団のことを考えろ」「自分を優先させることは控えろ」と、教え込まれてきました。

 たとえ非常事態においても、そこから逸脱することは許されません。その好例が、以前にもご紹介した宮城県石巻市立大川小学校の一件でしょう。

同調バイアスを強化する教育現場

 311の日、大川小学校では教員と一緒にいながら、避難することもなく74名もの子どもが津波に巻き込まれて亡くなりました。津波が来るまでの約50分間、校庭で待機させられた子どもたちは、「このままでは死んでしまう!」「先生! 山に逃げよう!」と口々に叫びました。
 中には自分1人で山へと逃げた子どももいました。 しかし、そうした子どもは「団体行動を乱す」と連れ戻され、結局は命を落としました。

 このエピソードは、日本の教育現場がまさに異常事態でも周囲との同調を最優先させる、いわゆる同調バイアスを強化する場となっていることを物語るものです。

不登校 子どもたちを縛る同調バイアスがいかに苦しいものか。・・・2010年の第3回日本政府報告審査時に国連「子どもの権利委員会」でプレゼンテーションをした子どもが語ったことからも明らかです。
 ある子どもは、子ども同士の閉塞的な人間関係について次のように発言しました。

「私達は『苦しくてあたりまえ』という奇妙な連帯感に縛られていて、へたに声を発すれば嫉妬や恨みを買ってしまうので、自分の本当の心を殺し、お互いに演技を続けています。私達は自分の要求や欲求を口に出せないことよりも、一人だけ浮いてしまうことの方が怖くて、人間関係に臆病になり、関係性が壊れることを恐れて、‘発言’することを避けます。
 周囲がどう自分を評価しているかを気にするあまり、存在するかどうかも分からない『他人の感情』に怯え、他人と同調し、いつしか自分の感情さえも解らなくなるーー。そんな不気味な関係の中で生きています」(国連に子どもの声を届ける会『子どもの権利モニター』NO.103 81ページ)

強まる同調バイアス

 子どもたちが上記のように発言し、国連「子どもの権利委員会」が教育の在り方をはじめ、子どもを取り巻く人間関係を見直すよう最終所見を出してから、今年で8年になろうとしています。

 この8年の間に、同調バイアスは少しでも緩み、子どもたちの息苦しさは改善されたのでしょうか。いえ、私にはますますひどくなっているように感じられます。 
「こうしなければいけない」、「ああするべきだ」というおとなの価値や期待に縛られ、自分の感情さえ見失ってしまった子どもは、むしろ増えているような気がしてなりません。

 私は、仕事でも不登校になった(もしくは不登校ぎみの)子どもと会うことが多々ありますが、その多くが非常に感受性が強く、自分でものを考える力を持っていて、他人(クラスメイト)に同調することが難しいという特徴を持っているように思えます。

もし自分が子どもだったら

 そんな子どもたちから「どうして学校に行きたくないのか」「学校の何が嫌なのか」を聞いていると「ああ、それはそうだよね」と共感できることばかりです。

 たとえば「社会科見学のとき、列からちょっとはみ出すだけで怒鳴り散らす先生が怖かった」「本当は自分がやっていないことを自分のせいにされ、話も聞いてもらえなかった」「道徳の時間には『みんな仲良く』と教えるくせに、実際には『受験競争に勝って少しでもいい学校へ進学しろ』と言うのはおかしい」などなど・・・。

 挙げればキリがありません。不登校の子どもたちから学校の話を聞いていると、「むしろ多くの子どもが学校に行けていることのほうがすごい!」と思えてしまいます。

 もし自分が今、子どもだったら・・・とても毎日、登校できる自信はありません。

 学校のなかだけでなく、考え方や遊び方、興味の対象や放課後の過ごし方まで、子どもたちはさまざまな同調バイアスに縛られています。

「友達の間で人気のゲームやマンガ、テレビ番組を見ていないと仲間に入れない」、「ノリが良くて笑いを取れるようなでないとみんなとうまくやれない」、「じっくり本を読んだりゆっくりものを考えたりするような人間は浮いてしまう」・・・そんな話を中高生のクライアントさんからよく聞きます。

ほんとに多様化?

「ライフスタイルが多様化した」などと言われますが、私が知っている限り、少なくとも東京近郊に暮らす子どもたちの風景は、とても画一的です。そして、そのためにとっても忙しそうです。

忙しい とにかくたくさんの子どもが、幼稚園や小学校低学年の頃から「みんなと同じ」ように塾や習い事に通い、私が子どもの頃よりもはるかに多くの時間を勉強に費やしています。

 何しろ今や、子どもが塾に行くのは当たり前。都心のある地域では、中学受験も当たり前です。保育園自体が運営している英会話教室や体操教室に行っている子どもも、いたりします。

 教育熱心な親が多いとされる地域に住む知人は、「近所にある公立の中学校に通っている子どもは『受験に失敗した子』という目で見られたりする。だからみんな受験に必死になる」と、その胸の内を語ってくれました。

 前にも書きましたが、小中学生のお子さんがいるクライアントさんの場合、ご相談の前後に塾へとお弁当を届けたり、土日は終日子どもの勉強をみて過ごすなどということをよく聞きます。
「子どもがいる親なら、働きながら『みんな同じ』ようにやっている」というわけです。
 
遊ぶのもたいへん

 そうして頑張って入った私立学校は、小学校から「みんなと同じ」制服を着て、バラバラの地域から通ってきます。放課後、自転車で集合して遊びに行くなんていうこともできません。
 
 休日に一緒に遊ぶにしても、模擬試験だの講習会だのがあってスケジュールを合わせるだけで一苦労。待ち合わせするにも「千葉の子が埼玉の友達に会いに行く」とか「真ん中にある都心で」ということになって、時間も交通費もかかります。

「せっかくの休みだから」と、気晴らしにお金のかかるテーマパークに行ってしまうという気持ちも分からなくもありません。「みんなと同じ」遊びは、とってもお金がかかるのです。

仮面 そんなふうに親も子も・・・とくに子どもは生まれたときから「みんなと同じ」に過ごすようにとされて行くわけですから、知らず知らずのうちに同調バイアスに縛られてしまうこともうなずけます。

 小学校に入る頃には、自分の感情よりも周囲のおとなの気持ちや期待を優先し、友達の様子をうかがっては自分だけ浮いてしまわないよう務め、社会が是認する価値に合わせて頑張る子どもや、そんなふうにできないことを卑下したり、「自分はダメだ」と思ってしまう子どもができあがります。

「みんなと同じ」に振る舞えなかったり、「みんなと同じ」ことに違和感を持つ子どもは、学校を中心とした同調サークルからはじき出されてしまうこともあるので、子どもにとっては「みんなと同じ」であることは、とっても大切なのです。

検証とは裏腹の提言

 こうして「みんなと同じ」になることをずっと子どもに強要しておきながら、前回紹介した宮城県石巻市立大川小学校の問題を検証した第三者委員会・大川小学校事故検証委員会は、その最終報告で「子どもが自分で判断・行動できる能力を育てよ」(提言11・13)と記しました。

 ところがそう書いた検証委員会自体が、山に逃げた子どもが連れ戻されたという矛盾は切り捨ててしまっていて、検証委員会自体もきちんと考え、判断した検証ができていません。
 さらに言えば、東日本大震災後に改正された宮城県地域防災計画等にも、大川小で何が起きたのかについてはまったく触れていません。

まずおとなが自分で判断・行動を

 311から7年がたちました。3月がこんなにも寒く、まだまだ雪が降る時期だったのだということを311以降、私は毎年実感しています。
 被災地を訪れた際、低体温症になって亡くなった方の話、津波で流された人を救助しカーテンでくるんで暖めた話、燃えそうな物を拾って暖をとった話などをたくさんたくさん、うかがったからです。

 昨日も東京に雪が降りました。私は「あの日のこと」を思い出さずにはいられませんでした。
 
「『みんなと同じ』ように行動したからこそ、救えるはずの命を救えなかった」ーーその事実を直視し、まずはおとなが「自分の頭で考え、判断・行動する」ことからはじめなければならないと、強く感じます。

「自分の頭で考え、判断・行動する」ことを放棄し、体制にすり寄り、権力におもねり、力を持った者に忖度する。そんな社会は、非常事態に対応できないどころか、だれも救うことなどできないのです。

子ども 東京では桜が満開を迎え春本番。卒業式が終わり、入学式も間近になってきました。

 入学式と言えば、つい最近までちまたの話題をさらっていたのは東京・銀座にある中央区立泰明小学校が4月に入学する新1年生から、イタリアの高級ブランド「アルマーニ」がデザインを監修した標準服(制服)を導入する方針を示したという一件でした。

 アルマーニというブランド名だけでなく、セーターなどまで含めると計8万円にもなる高額商品だったことから、批判や物議を醸しました。

平等とは?

 ブランド品だの、高額だのという前に、個人的には「標準服(制服)」というものが大嫌いなので、そもそも小学校で「標準服(制服)」を指定するということが了解しかねます。前回のブログの続きのようですが、「みんなと同じ」同調意識を持たせ、そこからはみ出すことを禁じる道具のように思えてなりません。

「平等という意味では標準服(制服)もいいではないか」とおっしゃる方もおられますが、そもそも「みんなと同じ」物を持ったり、着たり、やったりできることが平等なのでしょうか?

 ネットで引くと平等について「人間は、人種、信条、性別、門地・社会的身分などの違いにかかわりなく、個人相互の間において、人間としての価値に差異はないという思想」(コトバンク)、「差別なく、みなひとしなみである・こと(さま)」「すべての個人が身分・性別などと無関係に等しい人格的価値を有すること」(weblio)などという説明が載っています。

詩人・金子みすゞさんの言葉

 つまり、「みんなと同じ」ように扱うとか、「みんなと同じ」ようにすることが平等なのではなく、「さまざまな違いを持つ人間がお互いにその違いや価値を認め合い、だれもが世界にふたつとないがかけがえのなさを持っていることを尊重すること」なのではないでしょうか。

 ごくごく簡単に言えば、詩人の金子みすゞさんが、「私と小鳥と鈴と」という以下の詩で書いているように「みんなちがって、みんないい」と認め合い、その違いを大切にすることが、平等ということなのではないかと思うのです。

   私が両手をひろげても、
    お空はちっとも飛べないが
   飛べる小鳥は私のやうに、
    地面を速くは走れない。
    私がからだをゆすっても、
    きれいな音は出ないけど、
    あの鳴る鈴は私のやうに
   たくさんな唄は知らないよ。
    鈴と、小鳥と、それから私、
    みんなちがって、みんないい。

ケーキ そんなふうに平等について考えていて、ふと、子どもの権利条約の講演でご一緒した、ある保育園の園長先生にうかがった話を思いだしました。

 スウェーデンだったか、ノルウェーだったか、はたまたデンマークかフィンランドの話だったのか、正確には覚えていないのですが、その園長先生がかつて見学に行ったことがあるという、とある北欧の国の保育園でのエピソードです。

 園長先生が見学した日、保育園では「ひとつのホール・ケーキをみんなで平等に分けるにはどうしたらいいか」と話していたと言い、園長先生は私を含めて会場全体のおとなに、こう尋ねてきました。

「いったいどんなふうに分けるのが平等になると思いますか?」

 この問いに、みなさんならどんなふうに答えるでしょうか。

違いを大事にする北欧諸国の保育

 偉そうなことをブログで書きながらも、日本社会の価値観に染まっている私の頭に最初に浮かんだのは「全員に同じ大きさのカットしたケーキがいきわたるよう、等分する」ということでした。
 実際、私自身も子どもの頃から、ずーっとそんなふうにされてきた記憶があります。

 でも、北欧諸国といえば「違いを大事にする保育が行われている」国です。日本では当たり前になっている集団保育などは行わず、「ひとりひとりの子どものニーズを大事にして、その子がしたいと思えることを応援するのが保育者の役割」という話を北欧での保育を体験した人たちから何度も聞いたことがあります。

 北欧の保育に関する本やDVDでも、保育士さんが「絵本を読むよ」と声をかけると、読み聞かせして欲しいと思う子どもがその周りに集まり、「お腹空いた人~」と声をかけるとキッチンの周囲にご飯を食べたい子が寄っていくというエピソードなどがよく登場します。

 一方で、それらに興味が無い子どもや、他に何かやりたいことがある子どもは、思い思いの場所で、自分のしたいように過ごすのです。

その答えは・・・

 そんな北欧の保育園での話ですから、まさか「全員に同じ大きさのカットしたケーキがいきわたるよう切り分ける」なんてことはあり得ません。

 私を含めて会場がしんと考え込んでいると、園長先生はまるで手品の種明かしでもするかのような雰囲気で、ほほえみながら答えを教えてくれました。

ケーキ「『どのくらいの量を食べたいか』とか『トッピングに何がのってるところが欲しい?』など、一人ひとりの子どもに聞いていくのです。たとえば『どうしてもいちごが食べたい』という子には、『じゃあ、その分、スポンジは他の子が多くてもいいかな』と尋ねたり、『デコレーションされている人形のチョコレートが食べたい』と言った子には、『今回はあげるから、次回はお友達に譲ってね』などと言いながら、『一人ひとりの子どもが望むように、なるべくみんなが納得するようにケーキをカットして配ることこそが平等である』と、その保育園では教えていました」(園長先生)

 私は「なるほど!」と、ひざを打つ思いでした。

好みはさまざま

 確かにチーズケーキは好きなのにスポンジケーキは苦手な子もいるはずです。多くの子どもが大好きなチョコレートだって、嫌いな子がいても不思議ではありませんし、果物のいちごは大好きだけど、ソースになるとあまり好きではないということだってあるでしょう。

もしかしたらケーキそのものが苦手な子どもだって、いるかもしれません。
 それなのに「子どもはケーキが好きなもの」と思い込んで、どの子にも等分にいき渡るようにして配ることが平等のはずはありません。

 1回目に書いたように、「さまざまな違いを持つ人間がお互いにその違いや価値を認め合い、だれもが世界にふたつとないがかけがえのなさを持っていることを尊重すること」が平等なのですから。

個人的な話題ですが

 まったく個人的な話になりますが、実は私はクリームやバターが苦手です。ですので、あまりケーキというものを好んでは食べません。それは子どもの頃から同じでした。

 それなのに、どこかにお邪魔すると満面の笑みでケーキを勧められ、無碍に断ることもできず、困るという経験が何度もありました。

「どうして一言、『ケーキが好きだったら、今あるんだけど、食べたい?』と聞いてくれないのだろう」

 子ども心にいつもそんなふうに思っていました。「尋ねてさえくれれば、断ることだってできるのに」と。

「目から鱗!」

 そんなふうに思って育ってきた私にとって、この北欧の保育園での話はまさに「目から鱗!」。平等とはどういうものなのか、なんとなく「もやっ」としていたものがすっきりと晴れたようでした。

 昨年末、このブログで国際的な「子どもの成長・発達のための約束ごと」である子どもの権利条約にもとづいた日本政府報告審査に向け、「自分たちの現状を訴えよう」と8人の子どもが国連「子どもの権利委員会」に『子ども報告書』を提出したということを書きました。

 そのときに引用した「多様性を認めない学校には行きたくない」とのタイトルの『子ども報告書』を書いた男の子は、「扱いづらかったり、自分の意見を持って発言したり、授業がつまらないから勉強に身が入らないでいたりすると、すぐに『発達障害』にされる」と、昨今の学校現場の風潮を述べていましたが、異質なものを排除しようという傾向は今にはじまったものではありません。

 日本の学校教育では、昔からずーっと差別というものが、歴然と存在し続けてきました。

アジア人だというだけで

世界はひとつ 昨年、『子ども報告書』を書いた子どものなかに、ミャンマーの少数民族であるカチン族出身の両親を持つ二世の女の子がいます。
 日本で生まれた彼女は、ずっと日本社会で育ってきましたが、「アジア人である」というだけで白人であれば受けることはなかったであろう、さまざまな偏見や差別を受けてきたとそうです。

 こうした環境の中で育った二世のなかには、自分にルーツのある国を大事にできなかったり、自分が外国人であることを恥じる子どもが大勢いて、いじめを恐れて日本名に変えてしまう子どもも少なく無いそうで、彼女自身も、小学校の時、転校を気に日本名を使ったことがあったと言います。

「自分は周りの日本人の子どもと『同じ』ような名前に変えてしまえば目立たず周りと『同じ』になれ、からかわれずにすむだろうと考え」(「日本で外国人として生きたい」/『子ども報告書』、国連で意見表明をする会)て・・・。

 その後、彼女は両親が愛を持ってつけてくれた名前を変えてしまうのはよくないと気づき、今はもともとの名前を使っています。

 そんな彼女は、今年2月、国連で次のような意見表明をしました。

「『自分は自分でいい』、『他と違ってもいい』という当たり前のことを日本の学校教育の中で私は一度も聞いたことがありません。日本社会では『他を認め受け入れる』こと、すなわち一人ひとりの個性の大切さを知っているおとなや子どもは、本当に少ないと思います」

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