第10回「正しいこと」の危うさ

指摘する人

最近Twitterやブログなどに対してアドバイスしたり、間違いを指摘するやりとりをよく見かける。単純に誤字や事実誤認なら指摘に対して感謝して終わることが多い。が、なかには余計なお世話と不愉快さを表す人もいる。時には、指摘内容が間違っていたり、指摘内容は正しくても表現が悪くケンカに発展することもある。そうなった場合、指摘側が自分の非を棚に上げて間違いを素直に認めない場合がある。なぜ、指摘する人は、自分の言動を正しいと信じきって行動するのだろうか。

そういう指摘をする人は、まず自分の知識量は人より多く優れていると信じ、人の間違いを指摘することを親切な正しい行為だと確信していることだろう。その人の知識が100%正しいということはありえないし、間違いを正すことは一般的には良いことだとしても、時と場合による。「正しいこと」は万人に共通ではない。

世の中には部下の間違いを指摘ばかりする上司や、マナーやルールに従わせる自治会の世話役など、友人、知人のなかでも指摘好きはいる。もちろん指摘する側は相手のためを思い良かれと思っているのかもしれないが、その「良かれ」は「正しい」かどうか別問題だ。発言内容が根拠のある事実や正しい理論であっても、自分の言動を正当化し、他人から容認されることを強要する人たちの行為は、「正しいこと」とは限らない。

人を指摘する側とされる側は情報の流れから上下の立場になりやすいが、人はあくまでも対等。納得のいかない指摘を受けて気分が悪くなるが、その状況を一歩引いた客観的な立場で見てみると、内容如何に関わらず、そういう行動に出てしまう相手の人間性が透けて見えてくる。指摘内容と相手の人間性を切り離して考えれば、多少なりとも嫌な感情に巻き込まれなくても済むのではないだろうか。

議論の行方

会話中に相手と違う意見を言うと、突然相手が不愉快な表情をしたり、怒り出したりする場合がある。ただ自分の意見を言っただけだとしても、言われた側は批判され自分自身の存在をも否定され傷つけられた気分になっているのだろう。本来違った意見をキャッチボールしながら、生産性のある考えにブラッシュアップしていくことが議論の目的であるが、自分とは違った意見に耳を傾けられない人とは議論が成立しない。

他人の意見を聞こうともせず、常に自分が正しいと信じていること自体、驚くべきことだが、自分の言動をいつも正当化しようとする人は実に多い。社会的地位の高い人や年配者のなかには、今までのキャリアから自分がすべて正しいと思い込み、他人の意見を聞こうとせず、歩み寄りもしない人は多い。その人が積み重ねた経験によって現在の地位を得られたことは十分に理解できるが、ひとりの人生経験が、万人に当てはまるわけではないし、いくら博識の人でも知識量は限られている。それに判断の間違いや記憶違いは誰にでもある。

また、常に不安を抱えていて自分に自信のない人は、何か指摘されただけで、逆ギレする場合も少なくない。そういう人は自ら精査して情報の取捨選択しておらず、「偉い人から聞いた」「テレビで言っていたから」といった他力本願なため、間違いだと意見されたら反論できず、反射的な防衛本能で敵意をむき出しにするのだろう。多くの情報や意見を自分なりに考え、調べ、咀嚼して自分のものにしている人は、きちんと判断し、間違いがあったら正すことができる。また、相手の意図を汲み取り咀嚼しアウトプットできれば、非常に有効な議論に結びつく。その咀嚼の過程が甘いと、すぐに根底がゆるぎだす。その甘さは、その人本人の生き方にも反映する。

正しさに囚われると

世の中には、正しいことがひとつということはありえない。様々な人が様々な価値観をもって生きており、正しいとされることは、時と場合、人によって変化するはずである。また、人ひとりの持てる知識や情報量は、たかが知れている。自分に関わりのある人々からの意見や情報をありがたく受け入れながら選択していく努力をしないと、人は向上していかないし、豊かな人間関係も築けない。

人は正しさを目指していても間違うことはある。それは恥ずかしいことではない。他人からの指摘を客観的に判断し認められるかどうかで、その人の度量がわかる。

最悪なのは、自分の間違いに気づこうとしない人、認めない人である。優秀な人ほど自分と違った意見に耳を傾け、その差異について調べたり考えたり議論する機会を大切にしている。明らかに間違っていることには根拠を示す。

自己の正当化にこだわりすぎると人は離れ、情報が入ってこなくなる。あまり正しさに固執せず、善悪は表裏一体と捉え、柔軟な発想で複数の視点から物事を見ることは、バランスのとれた人生を送る上で非常に重要ではないだろうか。

家庭内のルール

悲惨な虐待事件の報道をよく耳にするようになった。親や保護者がしつけと称して行っていた行為が、結果的に虐待だったということが多い。虐待をする親は、自らの生育環境のなかの歪んだ親子関係から身につけたことを、正しいしつけとして日常的に行ってきたのだろう。

事件にならなくても他人から見ると、「子どもへのその言動は、ちょっといきすぎではないか」と思わせる場面はよくある。子どもをきちんとしつけなければ、自分はダメな親だと周囲から見られてしまう。そのプレッシャーから子どもへの要求度が高まり、自分の言動を正当化し、徐々にエスカレートさせていくのだろう。子育てには不安が伴い、常に自分のやっていることが正しいのか迷うため、その自信の無さから世間的に正当化された子育て論に対抗することが難しくなり、しつけの判断に歪みが生ずるようになる。

多くの真当な人間がいれば異常な行為が選別されるが、家族という少人数の閉鎖的な環境では強い立場の人間が決めたルールが正しいことにされ、逆らうことが難しい。各家庭の家庭内の正しさの線引は難しく、外部からの指摘は困難だ。虐待やDVなどは、強権者のルールが正当化されメンバーを支配した結果であり、尼崎連続殺人事件のような凄惨の事件もその延長上にある。

正しい情報とは

民主主義社会では、学校でも職場でも多数決が採用されている。どんなに意見を交わしても最終的に人数の多い方の意見が正しいとされ、一旦多数決で決まってしまうと、マイノリティーの意見は打ち消され、多数の意見に従うほかない。

もし意図的に間違った情報や印象操作で思考を偏らせ、ある方向に誘導されていたなら、多くの人は正しい判断を下せないことになる。実際にCMや報道などマスメディアで何度も繰り返し流される情報の影響で正しいことだと思わされているケースは非常に多い。商品情報、健康や医療、国際政治や経済、様々な情報には流す側の意図がしっかり組み込まれている。

ヒトラーは自らの野望を 実現するために、カリスマ的な演説とプロパガンダで大衆を扇動し民衆を洗脳し戦争に導き、ユダヤ人虐殺を実行していった。当時の民衆は、それが正しいことだと信じていたにちがいない。安倍首相の2020年東京オリンピック誘致のプレゼン演説で、「福島の原発事故による汚染水は完全にブロックされており、事態は収拾に向かっていることを保証する。我が国の安全基準は、今までも現在もそして将来も全く問題ない。」と言い切り、開催が決定した。この言葉を正しいと世界も国民も信じたが、実際には汚染水は海に垂れ流され、放射線による影響は収束の気配すら見えない。他に画期的といわれた最新医療で副作用や症状が悪化したり、健康食品で健康被害になる例は後を絶たない。

人は「これが正しい」と言われると鵜呑みにしがちである。世の中で正しいとされていることが本当に正しいかどうか、よく調べ考えなければわからない。大きな力から流される情報を、常に精査し簡単に信じてしまわないよう十分注意しないと、いつの間にか間違った情報を信じこんで巻き込まれ、自分の人生から足を踏み外してしまう可能性があるので十分に気をつけたいものだ。

2014/3/31

Posted by iffp