「サイコセラピーと日本人」(岸田秀、斎藤学)

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目次

  1. 精神と世間一文化背景にみる差異
  2. 「世間」と父性
  3. 精神療法の流れ
  4. 自我の物語を編み直すために

抜粋

日本における「世間」は、侍にわずかなご縁を持っただけで切腹させるものなのです。これは相当すごい圧力で、社会恐怖を導いているのは確かだと思います。今もこれは強力に働いていて、ほとんど日本の人は「世間」で動いている。「世間に都合が悪い」からこのぶらぶら状態を何とかしょうとか、「世間」様への言い訳で仕事をしている人も多いでしょう。

結婚するのも「世間」のためだったりします。逆にそれに反した生き方をしょうとしても、反世間的というのはすでに世間にとらわれているわけです。こういつたことも含めると、日本人にとって本当に「世間」は神だと思います。

そして、これは大いに「父」であると、私は思うのです。男親であっても、ステテコはいでビール飲んでいる「枝豆親父」は父とは言いがたい。父というからには世間様を背負って、「それで成り立つか1」と言うような者でなければいけない。

これは女親でもいいのです。父親的な機能を持って子に臨み、「世間が放っておかない」「世間が許さない」と言っているなら、これは父親でしょう。それから、対人恐怖が日本固有の病気であるという対人恐怖日本特殊論は、徐々に返上しなくてはいけない問題だと私は思っています。