2007年04月24日
考え方の癖(1)
人には様々な考え方の癖や考え方の出かたの癖があり、それらについて認知療法で一般的にまとめられている事柄を解説していく。
まず、初回は全体像を示し、その後にそのうちの幾つかを詳述していく。
| 1 | 白黒思考(全か無か思考) | 状況を極端な2つのカテゴリーで考えてしまう |
| 2 | 過度の一般化 | たった一つの嫌な出来事があると、実際をはるかに超えて世の中全てこれだと考える |
| 3 | 心のフィルター(選択的抽出) | 全体を見ることなくたった一つの嫌な事にこだわることにより、現実を見る眼が暗くなってしまう |
| 4 | マイナス化思考(トンネル視) | 状況に対して、良い出来事を無視してしまうことにより否定的な側面しか見ない |
| 4-1 | 肯定的側面の否定や割引 | 良かった自分の経験、功績、長所などを不合理に無視するか割り引く |
| 5 | 結論の飛躍 | 根拠もないのに悲観的な結論を予測してそれが起こると信じる |
| 5-1 | 心の読みすぎ(読心術) | 現実な可能性を考慮せず、相手が自分に対して悪く考えていると早合点する |
| 5-2 | 先読みの誤り | 事態が悪くなると決め付ける |
| 6 | 拡大視・縮小視 | 自分の失敗を過大に考え、成功を過小評価する。逆に他人に対しては反対の事を行なう |
| 7 | 感情的理由付け | 例えば「こう感じるのだから、それは本当のことだ」と自分の憂うつな感情を自分の現実認識が正しいという理由とすること |
| 8 | 「べき」「ねばならない」思考(命令型思考) | 自分や他人の振る舞いや考えに対して固定された思考を要求し、それが実現しない事を最悪な事と考える |
| 9 | レッテル張り | 極端な形の「過度の一般化」であり、ミスをした自分や他人に対して、固定的で包括的なレッテルを貼ってしまう |
| 10 | 個人化 | 何か嫌な事柄が起こった際に、自分に責任がないような出来事に対しても自分のせいにしてしまう |
補足しておくが、以上のようなリストの活用方法は時により十分に配慮する必要がある。
以上のリストは、自分の癖を確認し、修正をしやすくするために活用するものである筈だが、人によっては、以上のようなリストを見て、全てが自分に当てはまると思って落ち込んだり、そのうちの幾つかをあてはめて「こんな癖があるからには、私はダメだ」と自分にダメ出しをしていく人がいる。
様々な認知療法関係の本で、以上のようなリストが少しずつ形を変えながら提供されている。それも様々な言語で。
つまり、65億超といわれる人類の多くが、似たような癖を持っているのである。癖がいない人を私は見たことがない。
今回示したようなくせも、多かれ少なかれ誰もが持っているものである。
くせを確認したことで落ち込むことなく、「私も他の人と同じようなくせがある」ぐらいに捉えて頂きたい。
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2007年04月27日
考え方の癖(2)白黒思考
以前、DBT(弁証法的行動療法:境界性パーソナリティー障害の治療に有効といわれる)のワークショップに参加した時に、この白黒思考について述べられていた。そこでは、灰色と言うものすらないんだ。実際には白と黒が互い違いに現れているものだ、と言っていた。つまり、以下のようなことである。
![]() | 白黒思考 |
![]() | ちょっと改善 |
![]() | もはや白黒思考ではなくなっている |
![]() | 細かく白黒の線を書いていたら、灰色のようになった。これがよく言われる灰色(中庸)であろう。厳密には白黒の交互である。 |
以上のように、白黒思考は白黒思考でありながらも白黒が細かくなっていくと白黒に見えなくなっていく。最初の、白と黒一つずつしかないことのほうが、厳密には珍しい。自分は白黒思考だと言い張る人でも、極端な基準を設けて正確に確認していくと、それほど白黒思考ではない。とはいっても、そのくせで自らを苦しくしている人はよく見かける。
白は白でなくなるのではなく、黒は黒でなくなるのではなく、それぞれ白と黒がバランスよく共存していけるようになると、楽になる。
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2007年05月07日
考え方の癖(3)過度の一般化とレッテル貼り
過度の一般化とは、虫眼鏡を使って世の中を見るようなことである。
一つのことが大きく見えていて、他の事は目に入らないのである。あるいは、ありとあらゆるものを一つのことと関連させて見るようなことでもある。
例えば、上司から怒られたAさんがいる。Aさんはしばらくの間、何を見ても何を聞いても「自分が悪い」という気がしていた。朝目を覚ました時には「遅いのではないか、私が悪いんだ」、布団をたたんでは「たたみ方が変ではないか、私は悪い」挙句の果てには布団を見ても「私に使われるのは布団に悪い」、家の外にでても全ての人に対して「私が悪いんだろう」と考えてしまう。
全てのものや出来事に対しても、私が悪いと考えてしまう。電車が信号機故障で遅れたら、それも「私が悪い」し、信号が赤になったら「私が悪い」、雨が降っても「私が悪い」となる。
===
このように確認してみると、変に思われるかもしれないが、結構私たち自身やりがちなくせである。思い込みは誰にでもありえるものだからです。
レッテル貼りも同じようなものであるが、過度の一般化よりも思い込み(あるいは自分の中での決定)が少し強いものである。前述の例では「私=悪い」というレッテル、つまりそのことをAさんは決まり事として自分と外の全てに向けてアピールし続けたのである。「私は・・・である」とか「あの人は・・・である」とか、「こういったことは・・・といったものである」といった様々な事柄に対する決まりを自分の中で作って、それを「そうである」と主張したり自分に言い聞かせたりしているのである。
これらのくせが確認できるようになるためには、自分の反応に対して少し距離をもって、観察できるようになる必要がある。自分の中の決定事項は沢山あるはずである。そして、適度にそのようなくせを持っている自分を健康的に笑ってあげられるようになると楽になる。ただし、くせを受け入れられるまでの間はしばらく嫌な気分が出てくるかもしれない。その場合には、(1)でも書いたように、「他の人もしばしば持ちがちなくせが私にもある」、と慰めてあげよう。
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2007年05月10日
考え方の癖(4)心のフィルター と マイナス化思考
心のフィルターは、心にサングラスをかけるようなことである。
サングラスをかけると、回りが暗く見える。まぶしくない。が、輝いているものもくすんでしか見えなくなる。
サングラスをはずしている状態が通常であるとすると、サングラスをかけた状態での世の中の事物の見え方は随分と異なることは容易に想像がつくでしょう。この場合のサングラスが、一つの嫌な出来事である。ある嫌な出来事が生じた際に、そのことが頭から離れずに何もかもが嫌な事に感じられてしまう。世の中嫌な事しかないように感じてしまい、そのつもりで周りを見始めるのである。
ただし、実は様々なサングラスが存在している。ここで想定した抑うつ状態とセットになっている世の中がくすんでみえるサングラスのほかにも、悲しみのサングラスや、孤独感を感じさせるサングラス、恐怖を感じさせるサングラスなどその他にも様々な種類があり、人は時に応じて使い分けたり、好みのサングラスを持っていたりするものである。
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マイナス化思考は、世の中を天体望遠鏡で見るようなものだ。そして、この天体望遠鏡は「否定的なこと」にフォーカスされやすくなっているようだ。
肯定的なことに対しては、焦点がぼやけてしまいよく見ることが出来ない。マイナス化思考をトンネル思考とも呼ぶが、否定的なことへは道筋ができており、トンネルは繋がっているのに、その周辺にある肯定的なことへの道筋は出来ておらず、たどり着くことが出来ないからである。
世の中を天体望遠鏡で見ること自体が不便なことであろうと思うが、その天体望遠鏡自体が故障して「否定的なこと」にしかフォーカスできないのだから、なおさら不便である。
天体望遠鏡を直すことも一案ですが、天体望遠鏡を通してでなく裸眼で(めがねをかけても良いが)世の中を見てみると、もう少し楽に世の中の事実が見えてくるでしょう。
サングラスや天体望遠鏡など、世の中をどのように見るようにと自分が自分に課しているのか、そのように考えてみて、自分にとって有益な見かたを探してみると良いでしょう。
確認しておきますが、サングラスや天体望遠鏡が悪いといっているのではありません。それらを活用することによって、自分の中に特殊な感覚を維持することが出来、その感覚を生かすことで世の中に貢献している人達もいるのです。
ただし、気がつかずにくせのようにそれらを活用してしまうことで、自分が不便な状況に陥っていることも認識することが出来ずにいることは残念なことだと思うのです。
人がそれらを活用しろといっているのではなく(過去においてはそうだったかもしれませんし、それが有効だったかもしれませんが)、今、自分が選択してそれらを使い得るのですから。
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2007年05月15日
考え方の癖(5)肯定的側面の否定や割引
これは、世の中の事実を見てはいるのです。
見えなくなっていたり、見ないようになってしまっているのではありません。しかし、見たものを「なかったこと」や、「たいしたことではないこと」にしているのです。
例えば、Bさんが仕事で上司や同僚から褒められました。
Bさんは、「偶然さ、誰でも出来ることだから」と考えました。その次に、「調子に乗ると大きく落ちるんだよなぁ。これは悪いことの前兆かもしれない」、挙句の果てに、「なんで俺のことなんか褒めるんだよ。本当にそんなことはないし、そうやって褒めて俺を落とそうと言うのか」といった考えにまでなっていきました。
普通でしたらここまでひどくはないかもしれません。でも、似たようなことで些細なことで同様なことを行っている人をしばしば見受けます。
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肯定的なことがあったら、次には否定的なことがあるわけではありません。ただし、それは否定的なことがないことを保障することでもありません。肯定的なことも否定的なこともどちらもありうるのです。
肯定的なことは喜んで楽しめばよいし、否定的なことは悲しんだり怒ればよいのです。そして、それぞれ必要に応じた適切な対応を行い、学べることは学べばよいのです。
認知行動療法では、事実と考えと感情をそれぞれ把握できるようにする練習を行うが、把握したことをわざわざ割引しなくてよいのです。
事実は変化しますし、考え方も変化しますし、させることも出来るかもしれません。
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2007年05月22日
考え方の癖(6)結論の飛躍 −読心術−
結論の飛躍を行う人は、優れた能力を持っていると言えよう。
まず読心術だが、私はしばしばこれをエスパー能力と言い換えている。読心術とは相手が自分に対して悪く考えていると早合点することである。例えば、あなたがCさんに挨拶をした時にCさんは「おう」と一言言っただけだった。
その際に、「私は何かCさんを怒らすようなことをやっただろうか、Cさんはもう私とは口も利きたくないと思っているんだろうか、私はCさんに嫌われてしまったんだな」というようなことがある。別の場面では、あなたが皆で話し合っている時に親しいDさんと意見が違うことがわかり、「Dさんは私が違う意見であることを不快に思うのではないだろうか」「Dさんは私の考えを間違っていると思っているのかな」「Dさんは私のことを軽蔑するだろうな」といったことが頭に浮かぶ。
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さて、本当にCさんはそのように考えたのだろうか。Cさんは返事を返している。もし返さなかったとしても、他の事に集中していて聞こえなかったという可能性もある。Cさんはちょっと前に他の人との間で不快なことがあって、気分を害していたのかもしれない。
いずれにせよ、Cさんに挨拶した時にこちらを笑顔でみて「よう、こんにちは、元気かい」と言えば自分の気分が悪くならない、というのであればちょっとハードルが高すぎる。少なくとも、Cさんが本当のどのように考えているのか分からないにもかかわらず、「・・・のように考えているに違いない」と考えるのは少し奇妙なことである。Dさんについての考えについても同様である。もし本当にDさんがあなたのことを変な奴だ、と思うのであればそれは自由ではあるが、Dさんのほうが変だ。というか、そのDさんの考えは随分と境界線のないものであり、Dさんはあなたが自分と同じように考えないといけない、と考えていることになる。これは無理だ。そして、もしあなたもDさんと同じように考えないといけないと考えているのであれば、それも無理だ。
このように、相手の考えが分からないにも関わらず、「・・・のように考えているに違いない」という考えは、ある意味で相手の心が読めている、と自分の力を信じていることである。少なくともその力を信じていないとしても、自分は相手の心を読めるようになりたい、そのための能力を鍛えなければならないと考えている、ということになる。よって、私はこの手の考え方の癖を持つ人を、エスパー能力を発揮したがっているか、鍛えようとしている人、と位置づける。確かに今はスピリチュアルが流行っている時代である。しかし、エスパー能力はなかなか身に付かないのではないかなぁ、と考える日々である。
一言補足しておけば、多少のエスパー能力は誰もが持っている。さもなければ対人関係がギクシャクしすぎてしまう。人は人の表情を読むし、推測する力があるからである。数年前には脳にミラーニューロンが見つかってもいる。何事も程々が大切だが、それがまた難しいのかもしれない。
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2007年05月28日
考え方の癖(7)結論の飛躍 —先読みの誤り—
前回に続けて結論の飛躍のもう一つを考えてみよう。先読みの誤りである。
これは、自体が悪くなると決め付けることである、とよく言われる。
この反対の癖も同様である。根拠がないにもかかわらず、「きっとうまくいく」と信じて疑わないことだ。たまにそういう人がいる。
または、物事をそのように考えようしている人もいる。「良くなる、なんとかなる」と自然に考えるのも、あるいは色々考えてからそのように結論付けるのも、それも癖である。この癖はあまり私たちを困らせることはない。ただし、明らかに問題が生じていて、問題解決をした方が良い時にその対処もせずに「なんとかなる」と考えてしまうのは問題となり、困ることになろう。
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一方、最初に書いたように何かがあったときに「必ず悪くなる、失敗する、うまくいかない」と考える人もいる。どうしようもなくその考えにこだわる。
冷静な人がその人のことを見ていると、その人が「悪くなる」という考えにこだわりすぎているのは明らかに見えるのだが、その人は「悪くなる」のは事実であると考えているのである。
事実と考えは別物であるということは繰り返し言っているが、その混乱が生じているのである。本当に悪くなるのかどうかは分からない。なんとかなるかもしれない。確かに何とかならないこともあるかもしれない。それでも最後には殆どのことはちゃんと生きている限り何とかなるものだ。受容しなければならないものも生じるかもしれないが。
以上、二つの極端な形の先読みの誤りについて考えてみた。
いずれにせよ、先のことである。分からないことも多い。それを事実であるかのように言い張るのは事実に反する。将来のことを読むエスパー能力があるのであれば、それは有効に活用すればよい。
ないのであれば、事実は事実、考えは考えと分けて捉える練習が有効であろう。少なくともエスパー能力を鍛えるよりは進歩が早いと思われる。
事実と考えを分けることができて、余裕が出来たらエスパー能力を鍛える余裕も出てくるかもしれない。先は長いので、焦らずに取り組むことをお勧めする。
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2007年06月04日
考え方の癖(8)拡大視・縮小視
拡大視とは、失敗や問題を顕微鏡で焦点をあわせて大きく見ることが出来るようにすることです。
この顕微鏡は、前に書いた「心のフィルター」の望遠鏡に似ています。
この顕微鏡は、望遠鏡のように成功にフォーカスしなくなるということはないのですが、成功については反対側のレンズから見るかのようにして、小さく見えるようにしてしまいます。良いことは小さく、嫌なことは大きく、が基本です。
良いことを大きく、嫌なことを小さく見ることが出来ると随分と良い様にも思えますが、人は慎重なのです。
良いことばかりに目を向けると図に乗ってしまうかもしれないし、大切なものを見落としてしまうかもしれない。
嫌な事を見なくなってしまうと、問題に対して適切な対応を取ることなく、繰り返し問題を起こしてしまうかもしれないし、嫌なことを見ないと自分が壁を乗り越えなくなってしまい、成長しなくなってしまうのではないかという恐れが出てくるかもしれない。
===
そのように考えると、拡大視・縮小視もあながち悪いものではありませんね。
ただし、良いことがあるのに「たいしたことない」といって事実を捻じ曲げて、一生懸命悪かったことにして、自分の前に壁を作って、乗り越えようとしつつも乗り越えられずに呆然とその前に立ち尽くす・・・と言うのはどうでしょうか。
良いことも嫌なこともどちらも誰にも分け隔てなくやって来ます。あえて急いで良いことをあえて小さくして、嫌なことを沢山感じるようにしたとしても、嫌なこともちゃんとやってきます。
どちらもその時にそれぞれ味わえるようになると良いですね。良いことはそれなりの味がして、嫌なことはそれなりの味がするものです。そして、ちゃんと味わえたものはすぐに過ぎ去って行きます。残念ながら、良いことも嫌なこと同様過ぎ去っていきます。
一つだけ追加ですが、この癖は、自分に対して向かう時と人に対して向かう時は反対の働き方をすることが多いです。人の良いことは大きくして、人の失敗など嫌なことは小さくして大したことないと見るのです。
以上、一つの癖に対する、一つの考え方でした。
かつて書いた、事実に即して物事を見ることが出来ると、必要以上に大きくすることも小さくすることもなく、過ごせます。そして、その事実に関する自分の反応の仕方が良く見えるようになり、その反応の仕方に即した大きさの感情が自分の中に生じていることも見えるようになっていきます。
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2007年06月07日
考え方の癖(9)感情的理由付け
感情的理由付けとは、分かりにくいものかもしれないが、結構良く活用されている姿を見かける。
例えば、「こう感じるのだから、それは本当のことだ」と自分の憂うつな感情を自分の現実認識が正しいという理由とすることでもあるが、そう感じるのはそのように考えた結果としてあるのであって、その考え自体がくせによって偏っていたりする場合などは、以下のようになる。
ある出来事・状況(事実)
↓
偏った考え(くせ)・反応(思考)
↓
偏った感情(これは実感として感じることが出来る気分)
↓
この実感があるということは、その出来事はそう言うことであったのであり(自分の考えは正しかったのだ!)、自分の考えのくせによるものではない。事実だ!!(先行する考えを考えではなく、事実として認定しようとする考え)
===
以上の形で厄介なことは、感情は実感と感じるので、説得力が自分の中で強いのである。実感として感じるからその筈だ!
それは考え以上のものであり、そういうものなのだ!自分が考えていることは正しい!となる。
具体的な例を出そう。
友達に挨拶をしたときに返事をしてくれなかった。(事実・状況)
↓
私は嫌われている。(考え)
↓
どうしようもないような孤独感(気分)
↓
こんなにさびしいのは、私が孤独だからだ。私は一人ぼっちなんだ。(考えの正当化)
となる。実際にこの例では、友達はちょっと真剣に悩んでいたことがあって、挨拶されたことにも気がつかなかったと言うのが事実であったようである。
実感は大切なものではありますが、実感が正しいとは限りません。ご注意を。
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2007年06月12日
考え方の癖(10)「べき」「ねばならない」思考
「べき」思考は「ねばらなない」思考と同様、よく耳にするものですね。こうでなければならない、こうあらねばならない、こうすべき、などと沢山あります。
私達が生活していくに当たってもっているルールを表すことが多いです。私たち一人一人、少しずつ違うことをルールにしています。誰もが同じルールを持っているわけではありません。
例えば、「挨拶をしたら丁寧に返す」というのがルールの人はいると思います。ただし、これは正しいことだから、誰もが必ず絶対出来なければならないと言うことではありません。
出来たら良いのかもしれませんが、その人がそうしたければ、ということです。そうしないことによって問題が生じたとしても、問題を起こしたい人もいるでしょうから仕方がない。
===
それぞれ人によって、大切にしている領域が異なっていて、人が持つルールはその領域によって異なっていると考えられます。
人との関係が大切だと考えている人は、先ほどの「挨拶」のルールを持っているかもしれませんし、仕事の結果が全てであり、その過程の対人関係などはそのための布石に過ぎないという人は、「挨拶」のルールは持ち合わせていないと予想されます。
自分が何を大切にしていきたいのか、これは自分の欲求です。これを知っておくことは有益なことでしょう。
それと共に、自分の欲求が人の欲求とは違うことを知っておくことは大切なことです。さもないと、自分がしたいことを人がしたいと思うからです。
このような順番で考えてみると、それはそうだ、と思うかもしれませんが、「・・・のようにすべきなのに、あの人はそうしていない」と考えている時に、そのように考えている人は自分が自分のルールを相手に押し付けていることにはあまり気がつかないものです。
私はそうすべきだと思っているからそうする。しかし、それは社会一般の道徳や倫理から見ても正しいことであるように思えるが、そのことをしないことに対して、神に代わって私が罰を与えよう、とはしないでおこう。
人にはそれぞれ私には思いもよらない理由があるのだから。という辺りで、留めておくことがいいのでしょう。「べき」「ねばならない」思考は、自分が正しいと思っていればいるほど厄介です。
時には、自分の「べき」思考に気がついた時に、「人に認められる為には、自分を犠牲にしてでも人に合わせるべきだ」といったものに気がつく時もあります。
こういった「べき」思考は正しいとは思っていたのでしょうが、改めてはっきりさせてみると「おかしい!」と思いやすいものです。きっと、過去には存在する為に有益だったルールなのかもしれませんが、今となっては必要なくなったにも関わらずルールだけを残してしまったのでしょう。
自分が持つルールを探してみると、面白いですよ。
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2007年06月18日
考え方の癖(11)個人化 くせについて
個人化とは、何か嫌な事柄が起こった際に、自分に責任がないような出来事に対しても自分のせいにしてしまうといった癖のことである。
ある意味、エスパーに似ているが、この場合のエスパー能力はある特定の事柄を自分が引き起こしている、というものである。
絶大なる影響力が世間に及ぼされているのである。
ある人は、赤信号に出合うことが多い。このEさんは、信号が赤になるのは自分のせいだと考えるに至った。自分が信号を使う時でない時でも、赤信号で止まっている人や車を見る度に、「悪いなぁ」と思うようになっている。
===
それ自体は特に何か困ったことではないのだが、自分が近づくと赤信号になるので、家の外に出られなくなってしまうと困ったこととなる。
実際の状況を考えると、Eさんが家の中にいても信号は時により赤信号になるからである。Eさんがある方向を赤信号にした時、別の方向を青信号にしているのである。そちら側の人からは、感謝されてもいいようなものだ。
しかし、このくせを持つ人は大概が謙虚な人たちであり、ネガティブな事柄だけは自分のせいで起こっているのみなすのである。
よく聞くことですが、雨男、雨女といったものがあります。これも似ていますが、雨が降るのは自分のせいになるのです。
確かに、そのように思われることもあったり、昔から船乗りとか様々な職業によって言い伝わっていることなどもあったりしますので、一概に否定することも出来ません。それらも何かに責任を転嫁してしまおうと言うだけのものなのかは不明です。そうではないのではないかと私個人的には考えております。
この個人化というくせは、ちょっと気持ちが弱くなっている時などは誰でも体験します。ちょっと落ち込んでいる時に、人の憂うつそうな表情を見て私のせいかな、と思ったり、疲れて判断力が低下している時に、人が出した大きな音に対して「私に対しての嫌がらせだ」ととったりすることもあります。
いつも言うことですが、事実は事実、考えは考え、そして感情は感情でそれぞれ繋がってはいますが別物だということが分かると良いですね。
今まで、心のくせについて概説してきました。
心のくせは、理由などがあるものもありますが、殆どは理由と言うよりもただくせなのです。右利きの人が右手を使うのは何故?と聞かないぐらい自然にくせなのです。癖がないと思う人がいたら、きっとそれもくせなのでしょう。私は今までのところくせのない人を見たことがありません。
自分にとって有益なくせも不利益なくせもあります。くせをただ一つのくせとしてみて、そのくせとの付き合い方を見つけていければ良いのかと思います。



