2007年06月の一覧
« 2007年05月 | メイン | 2007年07月 »
2007年06月04日
考え方の癖(8)拡大視・縮小視
拡大視とは、失敗や問題を顕微鏡で焦点をあわせて大きく見ることが出来るようにすることです。
この顕微鏡は、前に書いた「心のフィルター」の望遠鏡に似ています。
この顕微鏡は、望遠鏡のように成功にフォーカスしなくなるということはないのですが、成功については反対側のレンズから見るかのようにして、小さく見えるようにしてしまいます。良いことは小さく、嫌なことは大きく、が基本です。
良いことを大きく、嫌なことを小さく見ることが出来ると随分と良い様にも思えますが、人は慎重なのです。
良いことばかりに目を向けると図に乗ってしまうかもしれないし、大切なものを見落としてしまうかもしれない。
嫌な事を見なくなってしまうと、問題に対して適切な対応を取ることなく、繰り返し問題を起こしてしまうかもしれないし、嫌なことを見ないと自分が壁を乗り越えなくなってしまい、成長しなくなってしまうのではないかという恐れが出てくるかもしれない。
===
そのように考えると、拡大視・縮小視もあながち悪いものではありませんね。
ただし、良いことがあるのに「たいしたことない」といって事実を捻じ曲げて、一生懸命悪かったことにして、自分の前に壁を作って、乗り越えようとしつつも乗り越えられずに呆然とその前に立ち尽くす・・・と言うのはどうでしょうか。
良いことも嫌なこともどちらも誰にも分け隔てなくやって来ます。あえて急いで良いことをあえて小さくして、嫌なことを沢山感じるようにしたとしても、嫌なこともちゃんとやってきます。
どちらもその時にそれぞれ味わえるようになると良いですね。良いことはそれなりの味がして、嫌なことはそれなりの味がするものです。そして、ちゃんと味わえたものはすぐに過ぎ去って行きます。残念ながら、良いことも嫌なこと同様過ぎ去っていきます。
一つだけ追加ですが、この癖は、自分に対して向かう時と人に対して向かう時は反対の働き方をすることが多いです。人の良いことは大きくして、人の失敗など嫌なことは小さくして大したことないと見るのです。
以上、一つの癖に対する、一つの考え方でした。
かつて書いた、事実に即して物事を見ることが出来ると、必要以上に大きくすることも小さくすることもなく、過ごせます。そして、その事実に関する自分の反応の仕方が良く見えるようになり、その反応の仕方に即した大きさの感情が自分の中に生じていることも見えるようになっていきます。
2007年06月04日 14:40:[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ]
2007年06月07日
考え方の癖(9)感情的理由付け
感情的理由付けとは、分かりにくいものかもしれないが、結構良く活用されている姿を見かける。
例えば、「こう感じるのだから、それは本当のことだ」と自分の憂うつな感情を自分の現実認識が正しいという理由とすることでもあるが、そう感じるのはそのように考えた結果としてあるのであって、その考え自体がくせによって偏っていたりする場合などは、以下のようになる。
ある出来事・状況(事実)
↓
偏った考え(くせ)・反応(思考)
↓
偏った感情(これは実感として感じることが出来る気分)
↓
この実感があるということは、その出来事はそう言うことであったのであり(自分の考えは正しかったのだ!)、自分の考えのくせによるものではない。事実だ!!(先行する考えを考えではなく、事実として認定しようとする考え)
===
以上の形で厄介なことは、感情は実感と感じるので、説得力が自分の中で強いのである。実感として感じるからその筈だ!
それは考え以上のものであり、そういうものなのだ!自分が考えていることは正しい!となる。
具体的な例を出そう。
友達に挨拶をしたときに返事をしてくれなかった。(事実・状況)
↓
私は嫌われている。(考え)
↓
どうしようもないような孤独感(気分)
↓
こんなにさびしいのは、私が孤独だからだ。私は一人ぼっちなんだ。(考えの正当化)
となる。実際にこの例では、友達はちょっと真剣に悩んでいたことがあって、挨拶されたことにも気がつかなかったと言うのが事実であったようである。
実感は大切なものではありますが、実感が正しいとは限りません。ご注意を。
2007年06月07日 14:02:[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ]
2007年06月12日
考え方の癖(10)「べき」「ねばならない」思考
「べき」思考は「ねばらなない」思考と同様、よく耳にするものですね。こうでなければならない、こうあらねばならない、こうすべき、などと沢山あります。
私達が生活していくに当たってもっているルールを表すことが多いです。私たち一人一人、少しずつ違うことをルールにしています。誰もが同じルールを持っているわけではありません。
例えば、「挨拶をしたら丁寧に返す」というのがルールの人はいると思います。ただし、これは正しいことだから、誰もが必ず絶対出来なければならないと言うことではありません。
出来たら良いのかもしれませんが、その人がそうしたければ、ということです。そうしないことによって問題が生じたとしても、問題を起こしたい人もいるでしょうから仕方がない。
===
それぞれ人によって、大切にしている領域が異なっていて、人が持つルールはその領域によって異なっていると考えられます。
人との関係が大切だと考えている人は、先ほどの「挨拶」のルールを持っているかもしれませんし、仕事の結果が全てであり、その過程の対人関係などはそのための布石に過ぎないという人は、「挨拶」のルールは持ち合わせていないと予想されます。
自分が何を大切にしていきたいのか、これは自分の欲求です。これを知っておくことは有益なことでしょう。
それと共に、自分の欲求が人の欲求とは違うことを知っておくことは大切なことです。さもないと、自分がしたいことを人がしたいと思うからです。
このような順番で考えてみると、それはそうだ、と思うかもしれませんが、「・・・のようにすべきなのに、あの人はそうしていない」と考えている時に、そのように考えている人は自分が自分のルールを相手に押し付けていることにはあまり気がつかないものです。
私はそうすべきだと思っているからそうする。しかし、それは社会一般の道徳や倫理から見ても正しいことであるように思えるが、そのことをしないことに対して、神に代わって私が罰を与えよう、とはしないでおこう。
人にはそれぞれ私には思いもよらない理由があるのだから。という辺りで、留めておくことがいいのでしょう。「べき」「ねばならない」思考は、自分が正しいと思っていればいるほど厄介です。
時には、自分の「べき」思考に気がついた時に、「人に認められる為には、自分を犠牲にしてでも人に合わせるべきだ」といったものに気がつく時もあります。
こういった「べき」思考は正しいとは思っていたのでしょうが、改めてはっきりさせてみると「おかしい!」と思いやすいものです。きっと、過去には存在する為に有益だったルールなのかもしれませんが、今となっては必要なくなったにも関わらずルールだけを残してしまったのでしょう。
自分が持つルールを探してみると、面白いですよ。
2007年06月12日 11:42:[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ]
2007年06月18日
考え方の癖(11)個人化 くせについて
個人化とは、何か嫌な事柄が起こった際に、自分に責任がないような出来事に対しても自分のせいにしてしまうといった癖のことである。
ある意味、エスパーに似ているが、この場合のエスパー能力はある特定の事柄を自分が引き起こしている、というものである。
絶大なる影響力が世間に及ぼされているのである。
ある人は、赤信号に出合うことが多い。このEさんは、信号が赤になるのは自分のせいだと考えるに至った。自分が信号を使う時でない時でも、赤信号で止まっている人や車を見る度に、「悪いなぁ」と思うようになっている。
===
それ自体は特に何か困ったことではないのだが、自分が近づくと赤信号になるので、家の外に出られなくなってしまうと困ったこととなる。
実際の状況を考えると、Eさんが家の中にいても信号は時により赤信号になるからである。Eさんがある方向を赤信号にした時、別の方向を青信号にしているのである。そちら側の人からは、感謝されてもいいようなものだ。
しかし、このくせを持つ人は大概が謙虚な人たちであり、ネガティブな事柄だけは自分のせいで起こっているのみなすのである。
よく聞くことですが、雨男、雨女といったものがあります。これも似ていますが、雨が降るのは自分のせいになるのです。
確かに、そのように思われることもあったり、昔から船乗りとか様々な職業によって言い伝わっていることなどもあったりしますので、一概に否定することも出来ません。それらも何かに責任を転嫁してしまおうと言うだけのものなのかは不明です。そうではないのではないかと私個人的には考えております。
この個人化というくせは、ちょっと気持ちが弱くなっている時などは誰でも体験します。ちょっと落ち込んでいる時に、人の憂うつそうな表情を見て私のせいかな、と思ったり、疲れて判断力が低下している時に、人が出した大きな音に対して「私に対しての嫌がらせだ」ととったりすることもあります。
いつも言うことですが、事実は事実、考えは考え、そして感情は感情でそれぞれ繋がってはいますが別物だということが分かると良いですね。
今まで、心のくせについて概説してきました。
心のくせは、理由などがあるものもありますが、殆どは理由と言うよりもただくせなのです。右利きの人が右手を使うのは何故?と聞かないぐらい自然にくせなのです。癖がないと思う人がいたら、きっとそれもくせなのでしょう。私は今までのところくせのない人を見たことがありません。
自分にとって有益なくせも不利益なくせもあります。くせをただ一つのくせとしてみて、そのくせとの付き合い方を見つけていければ良いのかと思います。
2007年06月18日 09:21:[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ]
2007年06月22日
認知行動療法で、何をしたいのか
このところ、考え方のくせについて書いてきました。
さて、くせは分かったもののどうしたらよいのだろう、と途方にくれている方はいますか。それとも、そのくせと上手く付き合えるようになる方法を見出せているでしょうか。
認知行動療法のグループでよく確認する質問があります。
「あなたは困ったくせ、つまり嫌な考えや嫌に感じる感情が自然に出てこないようになることを求めているのですか。それとも、その困ったくせにうまく対処できるようになりたいのですか」
あなたはいかがでしょうか。多くの方が、心情的には前者だと思うのではないでしょうか。しかし、またその内の何割かの人も含め、後者だと思う人もいるでしょう。
===
気持ちとしては、いつも自然に、嫌な考えは頭をよぎらないし、自分にとって喜ばしい考えがいつも頭に浮かんでくるし、ネガティブに感じやすい感情は殆どなくポジティブに感じやすい感情ばかりがあり、生き生きしている、というほうがよさそうに聞こえるかもしれません。
でも、ネガティブに感じやすいものも出て来ますよ。これからも。
なぜなら、ポジティブに感じやすいものと、ネガティブに感じやすいもの、そのように決めているのはあなたですし(プラス思考でないといけないといった強い思い込みなども含む)、ネガティブに感じやすいものもあなたにとっては必要なものだからです。
つまり、ネガティブに感じやすいものもあなたにとっては遠回りに思うかもしれませんが、大切です。嫌かもしれませんが、これからも付き合っていく必要があります。
ただ、上手く付き合っていけるようになると、それほど困らなくてもよくなると思います。
「対処方法が分からない」、「どうしようもない」、「自分に問題がある」、といった考えでその困ったくせに立ち向かおうとすると、確かに、その考えを証明するかのような行動しかとれない起こりそうですね。
どうしようもないと決めている場合に、どうしようもなく感じ、どうしようもないと行動も停止してしまうのは当然のことですよね。
ただ、「どうしようもない」というのは、事実とは限らず、単なる考えである場合が多く、自分でそのような考えを継続的に考えると決めて考えているのです。「何とかなるかもしれない」、「何とかする方法を相談してみよう」、「今までどうやって乗り越えてきたのか思い出してみよう」、「こういうことに対処するのが上手な○○さんならどうするのかな」等々考えてみることも出来るのです。
そのような沢山の考えの中の一つ、「どうしようもない」を選んでいるに過ぎないのです。
2007年06月22日 11:49:[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ]
2007年06月25日
認知行動療法は、何をしたいのか
認知行動療法では、考えにも行動にもアプローチしていきますが、前回のように考えに対してアプローチしていくことは、立派な対処方法でしょう。
いずれにせよ大切なことは、頭に浮かんでいるものは「考え」であり、最初から良い考えが出てこない場合でも、出てきた嫌な考えに対してどのように考えるかはあなたの自由な選択に任されているのです。
問題が起こった時に、人のせいにするのも考え方の一つの選択肢です。ただ、最終的には自分で責任を取れるようにしたほうが、喜びも多くあるようです。
自分で責任を取る喜びは、その大変さとプレッシャーとも背中合わせになるようですが、自分のことを自分でやっている、自分の事を自分で選べるようになります。
===
人が自分のことを苦しめると思いがちの人もいます。別にその考え方に対しての良し悪しをいうつもりはありません。その結果は自分で受け止めているでしょうから。
人が自分の事を楽しませてくれない、人が自分の思い通りに動いてくれない、だから人が悪い、という考え方もありますが、人は自分の事を楽しませる為に生きているわけではありません。
その人も同じように楽しませて欲しいと思って居るときに、どちらの思いが優先されるのでしょうか。大変に悩みどころです。
主従関係がある場合には、主が優先されるかもしれませんし、サービスの提供者と受けて側であれば、受け手の思いが優先されるかもしれません。その他の場合もあるでしょう。時により関係が逆転もするでしょうし、世の中複雑です。
親子関係の場合は、よく親がこどもに何でもやってあげることが必要だと言う考えもあります。でも、一定のところまでですよね。
実際には親子関係も子どもが大人になったら一人の人と人の関係ですよね。親も単なる一人の人で、子も単なる一人の人、と言うのが事実ですから。
この事実をどのように取っていくのか、どのように取るのが正しいというよりも、どのように取ることが今のあなたにとって有効なのか、または限界なのか、はっきりさせてみることもいいでしょうね。
この親子関係の話については、親離れ、子離れという大きな話になるので、一旦横においておきましょう。
人を楽しませる、というのはいったいどういうことなのでしょうか。その楽しさを提供する人が、楽しいと思うことを相手に提供することなのでしょうか。それとも、その提供者自身が楽しんでいることで楽しい気分が広がっていくのでしょうか。それを求めるというのはどういうことなのでしょうか。
楽しさを提供しようとする余り、相手のことばかり考えてしまって自分が本当に何が楽しいのか分からなくなってしまっても困りますね。こんなことだらだら考えていると訳分からないから、どうでも良いから楽しみゃ良いや、という気になったりして。
楽しさの提供はさておいても、苦しさの提供は避けたいものですね。この場合、自分がされて嫌なことはしない、というのが分かりやすい。人を呪わば穴二つ、と昔から言いますからね。これもあなたの選択ではありますが、あなた自身の為です。参考まで。
2007年06月25日 11:12:[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ]
2007年06月29日
認知内容特異仮説(Beck, 1976)
今回は、最初に認知療法の創始者であるベックが唱えた一つの仮説について振り返ってみます。認知内容特異仮説というものです。
この仮説は、それぞれの感情の障害は、それに応じた典型的な認知内容またはテーマを持っているというものです。つまり、抑うつ感情は価値の引き下げや喪失によって導かれる、不安という感情は危険や脅威によって引き起こされる、恐怖という感情は状況特異的な危機によって生じる、被害妄想は正当でない押し付けによって生じ、怒りといった感情は正しいことが守られないことによる、といったものです。
この仮説は、1980年代に行われた実験的調査によって立証されています(Weisharr, 1996)。
===
認知モデルでは、考えが感情を導いていくというスタンスで物事を確認しながら進めていきますので、以上のような仮説は確かにもっともなものです。
私個人として補足する必要があると考えるのは、その感情が導かれるのは考えによる、そしてその時にその考えとともに感情が出てくるのは、その人の「くせ」、その人がいる状況にもよると考えております。
本仮説に異を唱えているわけではなく、感情は一つの決まった考えによって決まっている、というがちがちなものを提案している仮説ではないと、補足しておきます。
同じ考えであったとしても、セラピーの中でその意味合いが変化していくことは多々感じるところです。
何故、このような仮説を引っ張り出してきたかというと、やはり「くせ」をはっきりさせたいからです。そして、そのくせとともにそれが語られる状況の影響を受けていることも確認したかったからです。
その人に特異な反応として、それを把握すること、その中で自分の「くせ」とともにそのくせの生じやすい場面やパターンなども含め、見やすくなってくるものです。
認知行動療法においては、普通の生活の中で紡がれる物語の中から切り出すかのように思考と感情を把握していく作業が進められるのですが、その切り出したものがきっちりと細かく切り分けられているほど物事がはっきりするように感じやすくなります。
その上で、切り出される前の物語の中に在った考えや感情を見つめてみると、それらの繋がりを感じるとともにより豊かにいきいきとそれらの考えや感情を見ることが出来るようになります。
しばしば、認知行動療法を行う際に、客観的に自分を見るのですね、というようなことを聞くのですが、客観的に、と言うこともある程度は試みるのも有効かもしれませんが、それを主観的に味わうのも大切なことです。
今回の話は、始まりの地点から随分と横に流れてしまい、分かりにくかったでしょうか。実は、後半は認知療法から外れた話をしています。物語についてです。少しつながりが強引だったかもしれません。
2007年06月29日 17:02:[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ]