2007年04月の一覧

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2007年04月02日

感情について(四戒(剣道))(1/2)

 四戒とは、聞いた事があるだろうか。四戒とは、驚(きょう)・懼(く)・疑(ぎ)・惑(わく)の四つを言い、修業中に、この中の一つでも心中に起こしてはならないという戒めのことである。

 それぞれについて簡単に述べると、

 驚とは、予期しない相手の動作に驚くこと。一時心身が混乱し、正当な判断と適切な処置を失い、甚だしきは呆然自失することもある。
 懼とは、恐怖の念。精神活動が停滞し、甚だしきは手足がふるえて、その働きを失うものである。
 疑とは、疑心あること。相手を見て見定めがなく、自分の心に決断がつかず、敏速な判断、動作ができない。
 惑とは、惑うこと。精神が混乱して、敏速な判断、軽快な動作ができない。

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 以上は、以前既に書いたような否定的感情としやすいものであろう。この四戒は、剣道修行における戒めであるが、少し考えてみよう。

 このような戒めについてだが、戒めるということは、これらを禁じるということである。ただ、確認しておく必要があるのは、禁じようがどうしようが、それらを感じることはあるということである。

 よくある失敗に、これらを禁じるが故に、実際に感じてしまっているのにそのことを否定して、自分がさも大丈夫かのように振る舞うのである。結果として、否定的感情を自分では認識できていないままに、その影響を受けて活動が継続され、うまく行かないということが多い。(続く…)

2007年04月02日 10:29:[←ブログメインに戻る]←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2007年04月06日

感情について(四戒(剣道))(2/2)

 よって、大切なことは
「自分が四戒を破ってしまったことを理解することであり、受け入れること」
 なのである。
 それによって、四戒に対応する自分に気づきやすくなり、対応していくことが出来るようになるのである。

 昔は、圧倒的な稽古の量と質で感情をゆっくり感じている暇が無いほどに自分を追い込み、その中で得たものがあったのかもしれない。

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 当相談室のスーパーバイザーである斉藤学は、「男らしさの病」という言葉を使い、男性が否定的感情を認めることが難しいことを言っている。恥をかくことを嫌がり、弱いことを認めずに、強者であろうとする。

 昨今なんともいえない場面も多いが、どちらかと言うと女性のほうが「弱い」ということを認めることが上手いようである。物理的な力が「弱い」ことによって生じたおまけ、特権でもあろうか。
 ただし、昨今のマスコミや著名人の発言を見ると、「弱い」ことを認めた挙句、今度はそれを権力として活用している人も良く見かける。感情を認めるまでは大変なプロセスがあったのだろう。しかし、少し困ったことでもあろうし、本人たちも決して楽そうではない。

 本来、感情を認めることは楽になることであり、自分が行く方向を確認することに役立ったのである。このギャップについて、次回述べる。

2007年04月06日 16:07:[←ブログメインに戻る]←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2007年04月09日

感情について(感情の変遷)(1/2)

 感情は変化する。基本的には、一つの感情は一分と続かないのが通常であろう。
「泣いた子がすぐ笑う」ということは昔から言われていたことであり、正しい。しかし、嫌な気分は引きずる、とも言われている。
 自我が芽生えてきた小学校高学年以上から大人に見られることである。

 認知モデルが明らかにしていることは、感情に先行する認知(思考・イメージ)があるということである。

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 感情の発達過程において、認知が感情に優先されるのかどうかは、未だ結論が待たれるところである。ただ、観察するところ、子どもの感情がすぐに変わるのは、そのことをしたらどうなるという冷静な思考よりも、・・・したいという欲求が先行していることによるとも思われる。
 これらのことについて、学習理論からも多く見直す点が多いが、私自身の連想に歯止めが利かなくなるので、一旦横に置こう。

 今回書きたかったことは、感情がどのような出かたの変遷をたどるか、ということである。

 少しトラウマ理論について触れる。トラウマとは、過去の嫌な体験であり、今そのことを思い出しても普通以上の嫌な感情を思い起こさせるようなものである。
 過去の嫌な事は誰しも経験しているであろう。それを思い出して、「そういうこともあったなぁ」と昔の新聞を見るように、特に大きな感情が出てくることが無いのであれば、それはそれでもうその過去の事柄はトラウマになっているとは言う必要はないであろう。

 ただ、思い出すだけで感情が麻痺してしまったり、今はその時から随分と時間がたっているにも関わらず大きな感情が出てくるのであれば、トラウマとなっていると思われる。
 これは、必要以上の大きな感情、があると言うことによって確認される。
 認知モデルから言うと、
 状況の想起 ⇒ 自分・他人・世界への否定的認識 ⇒ 否定的感情
 が生じているのである。

2007年04月09日 16:27:[←ブログメインに戻る]←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2007年04月13日

感情について(感情の変遷)(2/2)

 別段、特にトラウマという言葉を使わずとも、同じことを説明している。更に付け加えると、認知療法では現在の問題に対応していくというが、まさに過去の問題を現在においてどのように捉えており、その結果どのような気分が現在引き起こされているのかが焦点となり、過去の事柄が現在に影響を与えている、「現在の問題」に対応しているのである。

 トラウマ治療の概略を述べると(本当に大まかであるが)、治療初期から始まる最初のステージは、「過去に経験したことにより、如何に自分が大変だったか(被害者だったか)」を明らかにすることである。
 このステージは苦しい。このステージでは、悲しみは恥、喪失など受け止めにくい感情が出てくる。

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 次のステージは、「如何に自分がその過去を乗り越えたか」を確認していくのであり、過去の事柄は自分を苦しめるというよりも、それを乗り越えることが出来た自分、を確認するためのものとなっていく。
 このステージでは、怒りを中心としたエネルギーを自分の中に感じていくことも出来るようになる。臥薪嘗胆という言葉に代表されるものともつながろう。

 最後のステージとして、「そんなこともあったっけねぇ」といったように、過去のことを捉えられるようになり、過去の事柄がなんら足を引っ張るものでも、自分を奮起させるものでもなくなっていくということである。

 なぜこのようなことを書いてきたかと言うと、前の「四戒」における弱者の感情について考えてみたかったからである。
 「怒り」であるとすると、前述のように自分が様々な事柄を乗り越えていくプロセスとして感じ、更に推し進めていくものであろうし、「不安」であるとすると、「弱い」ことを認めることが出来ずに強気ではったりをかましているに過ぎないとも言えよう。

 さて、どれぐらい私たちは自分の感情に気がついているのであろうか。
 このように書くのも、私自身の思いもよらなかった感情に最近気がついたからである。どれ程時間をかけても完全に分かることはない。どれ程、自分の事に気がついているであろうか、あるいは気がつこうとしているだろうか。確認の道のりも楽しみである。

2007年04月13日 14:39:[←ブログメインに戻る]←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2007年04月16日

心理療法の成り立ち(生活の中で活かす心理療法)(1/2)

 さて、今回は少し趣を変え、考えていたことを書いてみる。

 本ブログは認知行動療法に関連することを発信していきたいと思い、スタートしてものでもあります。そしてその認知行動療法も、様々ある心理療法の一つの理論と体系化されたアプローチに過ぎないのです。

 心理療法において、最後に大切なものは「終わり方」であろう。以下に上手く終わるのが、これが難しい。認知行動療法における究極の目標は、「自分自身の治療者(認知療法家)になる」ことである。生活の中で、自分が学んだスキルを生かして、生活する中で終わりなく生じる種々の困難に対して対応していくのです。

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 ふと考えた。「生活の中で活かす心理療法」。昔の人はどうだったんだろう。

 この疑問は、心理療法とはいったい何なのか、という疑問とも似ている。
 随分と前に私が書いた論文で、「祈り」についての研究があるが、大きくとらえるならば同じ問いである。心理療法自体は、19世紀後期から20世紀初頭にかけて出現している。著名な「フロイト」の時代である。何故心理療法が生まれたのか、その社会的機能の変遷にいたるまでのことはとても書けないし、私の手には余る。ただ、大きくは二つの見解に分かれると思われる。

 一つは、科学の発達である。物理学から心理学へ、そして精神医学とも合わさってこれらの科学としての領域における研究が進められていった。その発展とともに、新しい心理療法という介入法や治療法の発明に繋がったというものである。
 この視点では、心理療法は臨床心理学と精神医学という学問の蓄積に裏付けられた技術と言える。セラピストが優れた人間であるかどうか、そのことが求められているのではないのである。(尤も、心理療法に携わる人間には強い職業倫理が必要であることを加えておく。)

 限定して考えるのであれば、優れた人間としての感化をするというよりも、研究されて有効であった最新のアプローチを知り、それをクライエントが持ってくる問題の解決のために役立てることがセラピストの仕事でもある。単なる「これが良さそうだからやってみたら」ということではない(筈である)し、現在の心理学系大学院教育においても、エビデンス・ベースド・アプローチとしてそれが重視されている。

 昨今、認知行動療法の有効性が語られているのも、まさにそのことによる。
 前述のところで限定して考えたのは、確かに優れたセラピストには存在が感化力を持つにいたる人もいると感じられるからであることを補足しておく。

2007年04月16日 16:43:[←ブログメインに戻る]←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2007年04月20日

心理療法の成り立ち(生活の中で活きる心理療法)(1/2)

 心理療法の生まれたことに対する2つ目の見解は、「過去の古い文化的伝統に遡る回帰とみなす」(マクレオッド著『物語としての心理療法』より)ものである。

 この中では、文化の中にお互いがお互いを癒す対処様式を持っており、それが世代を重ねるごとに発展し、変容を遂げてきており、心理療法もその変容の一つの流れとして近代産業社会の価値観やニーズを取り入れて発生したものということになる。
 確かに、かつて宗教の中で語られていたこと、与えられていた癒しはあったし、その任を様々な形態で様々な人が担っていたことは明らかだろう。

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 日常で生じうる困った感情にどのように対処するのか、科学的に正しいと統計上確認が出来ている対応を活用して対処するということもありえるでしょう。一方、状況の改善がなくてもちょっとした愚痴を言えることで流すことの出来る困った感情もあるのです。一つの事柄に対して一つのアプローチのみが有効ということでもないでしょう。

 例えば、「恐怖」の感情に対する方法としても、ある時には、「タイムアウト」を取ること、その感情に気付いたら安全なところに回避することが有効な場合もあります。
 また同じ「恐怖」に対しても、別の時にはあえて逃げ出さずにその感情に自分をさらして耐性を高めていくことが有効なこともあります。その時と場合により、文脈により対応は変わっていくのです。

 科学、という言葉の中では厳密であろうとすることで把握することが出来なくなる、つまり取りこぼしてしまうことが起こってしまうことがあります。文化は、そのような取りこぼしたものを拾い集める力があるかもしれません。
 心理療法の発見も、それらが相互に作用した結果と言えるのかもしれません。境界性パーソナリティー障害に有効と言われた弁証法的行動療法(DBT)なども、禅の思想なども取り入れていますし、その文化の良いところを吸収していこうとしているとも言えるでしょう。

 「科学」が全てではないということを示す例をあげます。私が天文学を学んでいた頃、宇宙論のレクチャーではしばしば「もしこうだったら・・・こういうことが言える」と言った発言がよく聞かれた。つまり、数字上予測されることはあっても、実際には分からないことがあったり、実際に分かっていることを整合性のつくように説明しきったと思った理論が、後にひっくり返されるという事実がしばしば確認されていたからです。

 科学を追及しようとする知的な好奇心は健全ですが、知らなければ安心出来ないのであればそれは困ったものとなります。そしてこれらは裏表かもしれません。同時に、文化自体が科学それ自体を求めたということも言えるでしょう。

 科学が全てを解決してくれるのではありませんが、参考になる指針を沢山示してくれるものとして、有効であると思われたものを試し、実際に自分に適して有効であったものを継続していくことで、生活にも繋がっていくのでしょう。

 生活の中での心理療法を考えて、その発見を通って生活の中での心理療法に戻ってきました。

2007年04月20日 13:26:[←ブログメインに戻る]←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2007年04月24日

考え方の癖(1)

 さて、今回から数回にわたって、認知療法においてしばしば言及される考え方の癖を説明していく。

 人には様々な考え方の癖や考え方の出かたの癖があり、それらについて認知療法で一般的にまとめられている事柄を解説していく。
 まず、初回は全体像を示し、その後にそのうちの幾つかを詳述していく。
===
白黒思考(全か無か思考)状況を極端な2つのカテゴリーで考えてしまう
過度の一般化たった一つの嫌な出来事があると、実際をはるかに超えて世の中全てこれだと考える
心のフィルター(選択的抽出)全体を見ることなくたった一つの嫌な事にこだわることにより、現実を見る眼が暗くなってしまう
マイナス化思考(トンネル視)状況に対して、良い出来事を無視してしまうことにより否定的な側面しか見ない
4-1肯定的側面の否定や割引良かった自分の経験、功績、長所などを不合理に無視するか割り引く
結論の飛躍根拠もないのに悲観的な結論を予測してそれが起こると信じる
5-1心の読みすぎ(読心術)現実な可能性を考慮せず、相手が自分に対して悪く考えていると早合点する
5-2先読みの誤り事態が悪くなると決め付ける
拡大視・縮小視自分の失敗を過大に考え、成功を過小評価する。逆に他人に対しては反対の事を行なう
感情的理由付け例えば「こう感じるのだから、それは本当のことだ」と自分の憂うつな感情を自分の現実認識が正しいという理由とすること
「べき」「ねばならない」思考(命令型思考)自分や他人の振る舞いや考えに対して固定された思考を要求し、それが実現しない事を最悪な事と考える
レッテル張り極端な形の「過度の一般化」であり、ミスをした自分や他人に対して、固定的で包括的なレッテルを貼ってしまう
10個人化何か嫌な事柄が起こった際に、自分に責任がないような出来事に対しても自分のせいにしてしまう

 補足しておくが、以上のようなリストの活用方法は時により十分に配慮する必要がある。
 以上のリストは、自分の癖を確認し、修正をしやすくするために活用するものである筈だが、人によっては、以上のようなリストを見て、全てが自分に当てはまると思って落ち込んだり、そのうちの幾つかをあてはめて「こんな癖があるからには、私はダメだ」と自分にダメ出しをしていく人がいる。

 様々な認知療法関係の本で、以上のようなリストが少しずつ形を変えながら提供されている。それも様々な言語で。
 つまり、65億超といわれる人類の多くが、似たような癖を持っているのである。癖がいない人を私は見たことがない。

 今回示したようなくせも、多かれ少なかれ誰もが持っているものである。
 くせを確認したことで落ち込むことなく、「私も他の人と同じようなくせがある」ぐらいに捉えて頂きたい。

2007年04月24日 15:38:[←ブログメインに戻る]←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2007年04月27日

考え方の癖(2)白黒思考

 白黒思考は、よく耳にするものである。全か無か思考と呼んだりもする。仕事で一つ達成できなかったことがある。全体から見れば5%にも満たない。しかし、1%でも出来なかったことがある以上は、「ダメ」であると言う発想である。完璧思考を自分に課し続ける発想でもある。

 以前、DBT(弁証法的行動療法:境界性パーソナリティー障害の治療に有効といわれる)のワークショップに参加した時に、この白黒思考について述べられていた。そこでは、灰色と言うものすらないんだ。実際には白と黒が互い違いに現れているものだ、と言っていた。つまり、以下のようなことである。
===
白黒思考
ちょっと改善
もはや白黒思考ではなくなっている
細かく白黒の線を書いていたら、灰色のようになった。これがよく言われる灰色(中庸)であろう。厳密には白黒の交互である。


 以上のように、白黒思考は白黒思考でありながらも白黒が細かくなっていくと白黒に見えなくなっていく。最初の、白と黒一つずつしかないことのほうが、厳密には珍しい。自分は白黒思考だと言い張る人でも、極端な基準を設けて正確に確認していくと、それほど白黒思考ではない。とはいっても、そのくせで自らを苦しくしている人はよく見かける。

 白は白でなくなるのではなく、黒は黒でなくなるのではなく、それぞれ白と黒がバランスよく共存していけるようになると、楽になる。

2007年04月27日 15:54:[←ブログメインに戻る]←IFFトップページへ][↑ページ上端へ