マリの物語

マリの物語 「血と言葉」という本があります。マリ・カルディナルというフランス人の女性が書いた本(柴田都志子訳、リプロポート刊)です。どうしてこの本を引用するかというと、安全でない親子関係の実例を示すためです。マリ・カルディナールは精神分析の被分析者ですが、極めて幸せに治療が終わった例だと思います。彼女はその経緯を豊かな表現力で語っています。そしてそこに示されているのは子供というものが親にいかに虐げられながら必死に生き残るかということです。

この人は30歳前後に子宮からの激しい出血があり、この不正出血のために死にかけました。 これに伴って、何者かの「目」にじっと凝視されている恐怖、不安と心悸昂進、これらによるパニック発作などを起こし、精神病院に入れられます。
 
彼女は親戚中がお医者さんなものですから、すぐ入院させられてしまうんですね。その病院で薬を飲まされ、それを嫌がって脱走したり、とにかくこのままだとまともな生活ができないというので親戚中が彼女を拘束しようとするのですが、彼女はそこから抜け出し、行き場のないかたちで路地裏の精神分析医のところへ行くわけです。精神分析医というのは路地裏が似合いますね。ひっそりとしているのがいい。

そこへ行って不正出血の話をして、薬を飲んでいることを言ったら「薬は使うな」と言われ、高額な料金を告げられて「週4回来なさい」と指示されます。「そんなお金ありません」と言うと、「稼ぎなさい」と言われました。彼女は大学を出てパリで学校の先生をしていたのですが、編集の仕事を探して必死で稼ぐようになり、分析医のもとに通ったわけです。マリはこの分析医のもとに週4回、7年間通いました。その間、彼女が分析医に語るのは、一貫して母親の回想です。

このお母さんというのは非常に美しい冷静な女医さんでした。出身はアルジェの大富農でフランス植民者の家庭です。この農場にはアンドレ・ジイドが亡命中に滞在していたりといういわゆる名家でした。その後アルジェリア戦争でフランス人が追い出されて家族が零落してパリへ戻ります。この母親は医者としても熱心で有能な人でしたが、マリのことには関心がない。それというのもマリは彼女が離婚する時に産まれた子なのです。マリの上にお姉さんがいたのですが、この長女の年子で男の子が産まれて男の子が1才くらいの時に長女は死んでしまう。死因は結核でした。この長女の死をきっかけに離婚が成立し、その時にお母さんがマリを妊娠したことに気づくわけです。

このお母さんは妊娠中何度も流産しようとしましたが、フランス人はカトリックですし、日本ほど簡単に人工中絶はできません。それでマリの母親はいろいろ事故で流産しようとするんですが、結局マリが産まれた。そのことは母親がマリに言わない限り知らないことですから、マリはそれを母親から聞いたわけです。しかし娘は母親に言われたことを長い間忘れていました。アルジェにいたときの母親は貧民街に出掛けて行って熱心に救済的な治療をしています。お金は取りませんでした。赤ちゃんが育てられないお母さんに献身的に尽くしたりします。しかし自分の娘については全部女中さんまかせにした。

両親の離婚の理由というのは、長女の死に加えて、お父さんが病気で、事業にも失敗したからです。お父さんはお母さんより15才も年上で、低い階層から成り上がった産業経営者でした。しかし、この産業経営者というのはちょっと情勢が変わったりするとすぐ倒産してしまう。その倒産の時期と結核が悪化してスイスで療養しなくてはならなくなったこととが重なり、その頃に2才になった長女が結核で死ぬわけです。母親は結核を隠して結婚した夫への怒りを抱え、おまけに実家の財産を注ぎこんだ事業に失敗したということで離婚になりました。このお父さんは、同じアルジェの町に住んでいてマリは日曜毎に彼に会いに行って一緒に過ごすという生活をしている。

マリは初潮が大変遅れています。18歳でした。その初潮が来る直前、母親から突然に「実はお前の出産については随分考えた。産みたくなかった」と言われる。アルジェの町角で、それを言われました。「せめて暖炉の燃えている居間で言われたかった」とマリは思うわけです。それは分析医との回想の中で出て来ます。それを想い出すのに7年もかかったんですね。週4日も会っていて、どうして7年か、と思われるでしょうけれど、そういうものなのです。私たちは普通そういう思い出したくないことは忘れてしまっているものなのです。

彼女の回想の中に出てくる重要なエピソードのひとつは次のようなことです。お母さんは熱心なキリスト教徒で、毎朝礼拝に行く。そしてその足で貧民街へ行って医療をするのですが、休日には必ずお姉さんのお墓に行きました。そこでお墓をなぜながら話しかけている。マリは「水を汲んでおいで」と言われ、お墓の下の方にある泉へ水を汲みに行く、泉にはいつも列ができていてなかなか汲めない。小1時間かけて戻ってくると、お母さんはまだ、お姉さんのお墓に向かって話しかけている。その間マリは全く関心の外です。お母さんの頭の中にあったのは2才で死んだお姉さんで、自分ではないということがマリの頭にたたき込まれました。マリの着る物、あるいは文房具についてはお父さんの出費だということでお父さんとお母さんとの間で喧嘩ごしのやり取りが繰り返される。「私には収入がありません、あなたが出しなさい」とお母さん。お母さんは医療をしてもお金を受け取らない人でした。

精神分析の過程で彼女の排尿にまつわる子どものころの自慰の経験が言葉に出されるようになりました。この回想に伴って、彼女の恐怖の核のような「体の記憶」が徐々に言語化されてきます。1才半のころ、お父さんがスイスの療養所からかえって来たときに、彼女がおしっこしているのがかわいいと写真に撮った。そのレンズの「目」の恐怖が言葉になってきたのです。

こうして、1才半の排尿の回想、排尿にからんだオナニーに関する恥と罪悪の感情のよみがえり、遅れた初潮と不正出血という身体感覚についての懸念などが、時計の針と逆まわりの順序で想い出されて来たわけです。これらがマリの「自己物語」として語られる前、彼女はパリで大学を卒業し、教師となり、結婚しました。そして彼女の中に潜んだ体の記憶は、成熟した女性となった20代の終わりになって、マリを死の淵に追いやるような身体症状として表に出てきたのです。

マリはパリの大学に進んだころから、母親に会わなくなりました。仮装された独立と母親回避が始まります。実際には母親との情緒的な臍の緒が切れていないのに、独立したフリをすることを称して、私は「仮装された独立」と呼んでいます。こうした女性に限って、「母を回避」することに熱心で、母の代わりを求めて「オッパイを持った男」、つまり自分を受け入れてくれる優しい男と結婚します。
 
しかし、こうした男は所詮代用品ですから、やがて欲求不満の渦に巻き込まれ、男を困らせるようになります。マリも、このようにして結婚したのでしょう。夫に甘えつくし、困らせました。3人の子どもの母になってからも、それが続いていて、マリはこの結婚を失敗したと感じていました。結局二人は別居します。夫はギリシャでフランス語教育に携わることになり、彼女はパリに止まりました。その頃に不正出血の問題が出てきたのです。

治療の経過中に母親のイメージがはっきりしてきて、自分が母にとって、どのような子であったのかが鮮明になってきました。自分の子供時代の悲劇性が明瞭になることとマリ・カルディナールの治療が進むこととは連動しています。実は、母に冷たくされた子、虐待された子の方が母親への情緒的結びつきが強くなるのです。アカゲザルを用いた実験報告があります。動物の情動の中枢である扁桃体を剔除して暫くすると、サルは無感動になり、周囲のサルとのコミュニケーションに気をとられなくなります。「自分勝手なサル」になるわけです。

こうした雌ザルに人工授精で出産させますと、この母ザルは子ザルに無関心で、授乳どころか、子ザルの上を歩いたりしてしまう。ところが、こうした哀れな子ザルは母親を断念しない。しつこく母ザルにしがみつき、やがて殺されてしまいます。母親から虐待されたり無視されたりしている人間の子どもも、決して母を諦めず、しがみついています。私たちが子どもを保護しようとして介入すると、必死で抵抗し、私たちが悪者みたいになってしまうものです。

こうした子どもが成長し、母を恨んだり、ののしったりしても、それが情緒的きずなの分断であるとは限らない。逆に、彼らがいかに母の愛を求めているかの証拠のようなものです。亡くなったマザー・テレサの言葉のように、愛の対局にあるのは憎しみではない、無関心です。健康に発達した人間の心の中では、母の占める割合はそれほど高くない。「ああ、お母さんね。ああいう人だったわ」みたいなことで終わってしまいます。母に注がれる情緒的エネルギーは他の愛する者たちに注ぎ変えられているものです。

マリの場合、鮮明な母親像を持つには母への思いが複雑すぎたのだと思います。マリとしては、「産みたくなかった」という母の言葉を聞いても信じたくはなかったでしょう。聞こえていても聞こえない、体で聞いて覚えていないということは良くあるものです。「私は母にとって第一の子ではない」と頭でわかっていても、「冷たいな」と感じていたとしても、それならそれで一層強く母を求めるということも良くあることです。こうしたとき、母はいっそう気高く、美しく、強い魅力(時には魔力)で引き付ける人になります。

母についてのマリの複雑な回想が自己物語としてまとまってこないうちは、体の中に蓄積された潜在記憶が、自律神経系の興奮という情動の嵐を生むことになります。不安とパニック(恐慌)、そして、冷汗、心悸亢進、鳥肌、悪寒、吐き気、窒息感などが、これの内容で、トラウマ(心的外傷)のフラッシュバックなどとも言われます。こうした潜在記憶の断片が回想という形で言語化され、さらに「自己物語」としてまとまるようになるにつれ、この種の症状はおさまってくるものです。

まだ言葉を持たない段階の、従ってエピソード記憶(顕在記憶のひとつ)として回想されることもないような母の記憶(体の記憶)は、自己物語の成立するころには、捨て去られてしまいます。ちょうど古代の大母神が、ギリシャ神話の中のおぞましい怪物メデゥサへと変身させられ、ついにはペルセウスの刃にかかって滅ぼされるように、体に溜め込まれた母の記憶は、父が登場してからの自己物語の中で「おぞましい」ものとして棄却されます。このことに注意をうながしたのは、ジュリア・クリステバというフランスの女性分析家です 。
 
彼女はこうして棄却されるものをアブジェ(abject)と呼びました。アブジェは、オブジェ(対象)ないしママ(母)という言葉として、自分史の中に位置を占める前の、捨て去られる対象です。清潔で明晰な論理の世界からみれば、まるで臍帯や胎盤のように血にまみれた汚物、それがアブジェです。アブジェがアブジェクシオン(abjection、棄却)された後に成立するのが、「父の名」(nom de pere)、つまり父と言う言葉によって統括された論理と秩序の世界であると、クリステバは説いたのです。私たちはみな、神話さぁ !

アルジェリア戦争が終わった後、マリの母は、アルジェの家を断念してフランスに引き上げて来ました。マリの治療の最後の年のことです。治療によってマリが逞しくなっていたのに対し、母親はもう、かつての堂々としていた姿ではありません。見る影も無くボロボロになって、弱々しく年老いた母です。たくさんお酒を飲むようになっていました。その母親をマリは引き取ります。アルジェの大きな屋敷とは較べることもできないようなパリのアパルトマンで、母はマリたち一家と暮らすことになるわけですが、やがて大量飲酒によるボケ行動を繰り返すようになりました。
 
そしてある日、マリは母親が糞尿にまみれて酔っぱらっているところを発見します。もうこれ以上置いておけない、精神病院に入れようということになります。そして明日入院ということになったその晩、母親は自殺して果てます。こうして「危ないお母さん」についてのマリの物語は完了しました。この本を書くことによってマリは、「母に愛されなかった惨めな子ども」の物語を捨て、「なけなしの“母の愛”を汲みとり、その限界を赦せる人」に成長したのだと思います。

サバイバーとスライバー

サバイブ(survive)とは生き残ること、スライブ(thrive)は成長することです。小児科学には、「成長の失敗(failure to thrive)」という概念があって、児童虐待などで心身の成長の停滞している子どもなどにこの用語を用います。精神科医の私がスライブという場合は、もちろん心の成長のことです。

トラウマ(心的外傷)に関する精神療法や自助グループの分野ではサバイバーズ(生き残った人々)という言葉がよく使われます。これはどういう人たちかというと、過去の外傷的体験、それは殆ど親による虐待などの被害を指しますが、それによって、その後の(児童虐待の場合、思春期以後の)人生が影響を受けたと考えている人のことです。言い換えれば、「今、わたしがこんなに生きにくいのは、親(その他の加害者)によって、あのような目に合わされたからだ」と考えるようになった人のことです。

サバイバーの特徴

この人たちには、幾つかの特徴があって、ひとつは心身の不調です。心の障害としては、抑うつ、無気力、自殺願望、自傷行為の繰り返しなど衝動コントロールがうまく行かないこと、過食、ギャンブルなどを含む嗜癖、それに対人恐怖などがあります。身体の不調としては、呼吸器系、消化器系の障害、生理痛や不正出血、性交疼痛などの生殖器系の障害、月経前緊張証、慢性の頭痛、思春期・成人期にまで引き続くアトピー性皮膚炎や喘息などの頻度が高い。パニック発作と呼ばれるような、呼吸不全や心拍数増加、あるいは呼吸不全を伴う恐慌状態を頻回に起こす人々もいます。

サバイバーと呼ばれる人々は概して怒っています。当然のことでしょうが、親への怒りがあらわで、そのことをしきりに口にします。他人への不信感も強く、治療者に対しても怒りや不信をぶつけやすいから、扱いやすい人々ではない。この怒りは自分自身にも向けられていますから、自己懲罰的で、自殺や自傷と結びつきやすい、といった人々です。自己不信と著しく低い自己評価も特徴のひとつとしてよいでしょう。サバイバーとしての自己に気づくまでは、この低い自己評価が、他人への過度な迎合、従順さ、そして仕事依存的な完璧主義になっていたのです。

親を憎んでいるくせに、親と良く似た行動をとってしまうことも特徴のひとつです。子どもを持てば親と同じように虐待する親を演じてしまう。力への渇望の強い、マッチョな男になったり、やたらに暴力で他人を支配しようとしたり、そのような男に仕える従順な女性をやっていたりします。

大人としての自分の行動の中に、子ども時代の自分が顔を出してしまうのもこの人々の特徴です。サバイバーは、情緒的な発達に停滞を起こしていますから、かつてのトラウマ状況に良く似た状況に遭遇すると、いっぺんに子ども返りしてしまう。男の怒鳴り声、ドアのしまる大きな音、ガラスの割れる音など、暴力を匂わせる各種の音が、そのきっかけになったりします。ガタガタ震え出したり、逆にニコニコと不自然な笑い顔が出てきたりします。アダルト・チルドレン(AC)という言葉はサバイバーのこうした特徴をとらえたものです。
 
この言葉の作り手、ジャネット・ウォイティッツは、「ACは55歳になっても、5歳のときと同じです。5歳のときの情緒と行動が、55歳になっても突然顔を出すことに気づいて、わたしはこの言葉を作ったのです」と言っています。非現実的な完璧を求めたり、すぐに被害妄想のとりこになったりするのも、彼らがときどき子ども返りするということを念頭におけば理解できます。子どもは非現実的なパワーの幻想に包まれ、それが壊れそうなときには被害妄想を抱きやすいものなのですから。

このことを一種の「時間感覚の障害」と考えても良いでしょう。時間感覚の障害はサバイバーの生き方の方々に顔を出しています。彼らは、1週間なら1週間という単位時間の把握が、健康な人と違っているようなのです。何もしないうちに過ぎてしまったように短く感じ、まるで浦島太郎のように「たちまちおじいさん」といった感覚に襲われやすい人たちです。逆に、退屈で空虚な時間の群れに圧しつぶされるように感じることもあります。現在の苦痛が一生続くかのように考えて絶望してしまう人たちとも言えます。ずっと昔の心的外傷の記憶がいつまでも生々しくよみがえるという現象も時間感覚の障害と言えるでしょう。

こうした時間感覚の障害はサバイバーたちが、記憶や記銘の能力に障害を生じていることによって強まります。サバイバーは外傷体験やその周辺の記憶を忘れていることが多い。想い出すのが苦痛な記憶の回想を抑制しているうちに、回想できなくなるという現象を指して抑圧といいます。過去に起こった事実は想いだされないまま、そのときの不安、恐怖、絶望の感覚だけが生々しくよみがえるということになると、その生活は苦痛そのものになります。一方、サバイバーは苦痛な体験に繰り返し出会ううちに、その体験中の自分を放心状態にしておく術を会得するようになった人でもあります。この術は、一種の自己催眠ですが、これに熟達すると体験したことが現実感を持って想起できなくなります。中には放心したまま、はた目には異常を感じさせないで「夢の中に生きる」ようにして生きている人もいて、この放心状態を離人症といいます。何かのきっかけで離人症が始まる場合もあり、そのときには自分の「たましい」が自分から抜け出て、自分のやっていることを外から見ているという一風変わった体験(幽体離脱)を味わうこともあります。

このようにさまざまな問題や障害がサバイバーたちには伴いやすいものですが、中でも最大の問題は彼らにみられる世界感の歪みでしょう。世の中を危険なもの、自分に敵対するものに満ちたものと考え、その中で自分は敗北し、絶望し、悲惨な死を遂げるのだという思い込みです。この非合理的な信念にそって、周囲の人々の振る舞いを見れば、その人々はすべて敵に見えます。自分を侮辱し、嘲笑し、傷つける人々の群れのように思え、そこかに逃げるか、追いつめられて反撃したくなってしまいます。逃避して孤立している人や、攻撃してくる人に対して、世間は不審に思い、警戒します。こうしてサバイバーの思い込みは現実になって行くのです。

スライパーの特徴

スライバーとは「サバイバーであることを主張する必要のなくなった人」のことです。「必要がなくなった」とは、自分がサバイバーであることが、それほど重要なものと感じられなくなって、口にも出さなくなったという意味です。サバイバーであるという自覚はあるのですが、「それがどうした」という感じの人です。

こうした人々は以下のような特徴を備えています。

  1. ひとりで居られる、ひとりを楽しめる(理解してくれそうな人、共感してくれそうな人を必死で探す必要がないということです。この術を身につけると人から裏切られるという辛い思いをしないですむようになります。他人を責めなくなり、逆に他人にやさしくなります)
  2. さびしさに耐えられる(この件については、「『自分のために生きていける』ということ」(大和書房)に詳しく説明しました)。
  3. 親のことで過剰なエネルギーを使わない(憎んだり、恨んだり、「賠償金」を取り立てようとしたり、依存したり、甘えたりしないということです。「ああ、あの人はかつてわたしの親でした。限界のある親でしたが、わたしを愛してもくれました」とい、状態になることです)
  4. 自分にやさしい(あるがままの自分を受け入れているということです。欠点や限界も含めて自分というものを愛し、いたわります。決して自らを叱咤せず、萎縮させません。たとえ失敗しても、自分の失敗の経過そのものに関心を持つことができます)
  5. 他人(世間)の期待に操られない
  6. 自分で選択し、決定する(ゆとりが出来てくると、自分の前に幾つかの選択肢が横たわっていることに気づきます。不安、緊張、恐怖にとらわれているときは、とるべき道がひとつしかないように感じます。選択肢がない人生を歩いているとき、人はその道を宿命と言います。安定し、成長してくると目の前の幾つかの分岐のうち、どれか一つを選び続けることが人生なのだと考えるようになります。自分の欲するところに従って選択することができるのはスライバーの特徴です)
  7. 自分の選択したことに責任を取れる(選択を間違えたとき、それを他人のせいにしません。生じたマイナスは、自分の力で少しずつ埋めようとします。現実的で、失敗の経過から学ぼうとする柔軟さがあります)
  8. 自分は世の中に受け入れられてあたりまえという確信を抱いている(自分は他人に必要とされていると信じ、誰かに愛されて当然と思っている人は、人に愛されます。世の中を肯定的に見る習慣を身につけていると、周囲の多くの人々がやさしく温かい人のように感じられてきます。そのように思うあなたに、世間の人はやさしくなる。こうしてスライバーの確信は現実となります)

というわけで、スライバー(成長した人)の方が、サバイバーより遥かに生きやすい。それではサバイバーがスライバーへと変身するためには、どうすればいいのだ、という話になります。この本では、「お母さん」についての記憶を切り口に、そのことを探ってみました。サバイバーたちには「お母さん」についての恨みや怒りが必ず見られるからです。こうした愚痴や嘆きがムダと言っているのではありません。不満を自覚しなければ、何も始まらない。しかし、「なぜ、あの母はあのようであったのか」という理解なしに、母へのマイナスの感情を抱えているだけでは、こころの発達の停滞から抜け出すこともできません。いったい、母とは何なのでしょう。彼女はどのようにして、わたしたちのこころを、支配してしまうのでしょう。

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Posted by ssworld