オトコの生き方(4/4)

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さて先週はフランスの精神分析家ジャック・ラカンと、彼の「父の名」という言い回しにふれた。この「父の名」というのは、個々の父親の姓をさすわけではなくて、子どもの中に内面化された父性的機能のことである。それは、すべての人に割り当てられ、彼らの行為に一定の限界をもうける「掟」のことである。ラカンは言語活動(ランガージュ)というものが、この種の象徴的掟によって生じるという。この掟は見えたり、聞こえたりする具体的なものではないが、これがさまざまな姿をとって私たちの生活に作用し始める時、人は自分の限界を「思い知る」ことになる。精神分析学は、このことを「去勢」という変な用語で呼んでいるのだが、これ抜きには言語活動の開始はないというのである。考えてみるとそうかもしれない。

挿し絵永遠の胎児として子宮の中に浮遊している限り、私たちは「ママ!」という原初の言葉を持つ必要がない。子どもの口がミルクのチューブ(乳房)でつながれているときにも言葉はいらない。そのチューブがはずれて、ぽっかり空いた口の穴が取り残されるとき、その口から言葉が漏れ出る。まず「不在(欠如)」の認識があって、次に「在」を感覚できるようになり、不在を在に変える欲望が獲得され、言語活動はこの欲望に導かれて発達する。掟とは、私たちにその「不在」をつきつけるもののことである。

「いやだな」と思いながら職場に遅刻しないで出勤するときなどの日常生活上の「問題」に立ち向かう時、私たちは自らの「不在」を埋めようとしているのである。こうした体験の連続の中で私たちに言語活動という象徴が滲み込むのである。

視覚像(イメージ)では「無い」が言えない。絵では「リンゴが無い」ことを表現できない。それを表現しようとすれば、リンゴの置かれた机と、置かれていない机の二つの絵を並べなければならなくなり、このような「ある」と「無い」の対比は既に言語である。

私たちに「無いこと」の認識と「無くすこと」の恐怖を与えるもの、それがラカンの言う「父の名」である。

(1999年2月9日毎日新聞に掲載)

挿し絵言語活動と視覚像の話を続ける。今回はラカンから一挙に飛んで、脳機能のイメージング(図像化)について。ラジオアイソトープ(放射性同位元素)を含むガスを被検者に吸引させ、放射性元素が破壊されて行くときに生じるガンマ線や陽電子(ポジトロン)を外部から測定してコンピューター処理するという方法で、脳内の血流や代謝の動きを直接目で見ることができるようになった。こうした検査法を核医学的検査と呼ぶのだが、SPECT(シングルフォトン放射コンピューター断層撮影法)やPET(ポジトロン放射断層撮影法)などと呼ばれるこの種の検査は、今まで推測の域を出なかった脳内の機能低下や機能喪失を図像で示すことによって、トラウマ(心的外傷)によって生じた脳の“傷”の実態を私たちに教えてくれる。

挿し絵アメリカの精神科医ベッセル・ヴァン・デア・コークは、1997年に来日したときの講演で次のようなことを報告をしている。彼はPTSD(心的外傷後ストレス性障害)の患者8人に二通りの台本を読み聞かせた。ひとつは彼らの身に起きた強姦被害や目の前で我が子を殺された体験に基づいた台本であり、もうひとつは朝起きて歯を磨くといったニュートラルな体験を描いたものであった。これら2種類の台本を読み聞かせている間に、被検者に放射性酸素を含むガスを吸入してもらい、SPECTおよびPETによる脳機能のイメージングを行った。その画像を見ると、トラウマ体験を読み聞かせられているとき、被検者の大脳辺縁系(情動の中枢で、旧皮質から成る古い脳)は強く活性化されている。このときには右後頭葉新皮質の一定部位(視覚野)も活性化している。つまり被検者はトラウマを視覚的に再体験していたのである。このとき活動不能になっている部位があって、それは左前頭葉の前頭連合野(ブローカ中枢、個人的体験を言語に翻訳する作業をつかさどっている)であった。

このとき被検者は強い恐怖と不安を感じ、しかもそれを言語的には表現できないという状態(「言葉に出せないほどの恐怖」)にさらされていたことになる。言語化されない強い情動は「わけのわからない不安」として感じられ、時には身体症状(胃や腸の痛み、失声など)として表現され、それが日常生活の中でいつまでも繰り返される。

(1999年2月16日毎日新聞に掲載)

ここ数回難しい話を続けてしまったが、要するにイメージ(視覚像)の世界と言語の世界は違うということ、イメージを言語化することによって人の心は発達するということ、そしてこの発達には「世の規範」というものの受け入れが欠かせないということを述べてきたわけである。母子関係という視覚(を含めた感覚)の世界から、父母と子の関係という掟と言語の世界に入ることによって、子どもは人間になる。人間にならないとコミュニケーションを楽しめないし、世間に合わせようとしていると虚しくてやりきれなくなる。そしていずれは自分だけの世界に閉じこもる。

挿し絵このような心の発達は暦の年齢に沿って自然に進むものではない。親がそのように子育てすることによって進むものなのである。親の子育ての仕事の中には、規範の受け入れということが含まれていて、それをわかりやすく言おうとして私は「子どもに欲求不満を起こさせる仕事」と呼んでいる。「我慢させる仕事」と言ってもいい。この仕事は「子どもを抱く仕事」や「子どもと別れる仕事」と並んで、親の三大仕事の一つであると思う。これらはどの一つも欠けてはならないし、相互に関連している。抱くことのできない親は、子どもに我慢を教えられない。抱くことも我慢させることも教えられない親に限って、なかなか子どもを手放せないし、子どもの方もいつまでも親から離れられないというわけで、いずれも重要なのだが、このうち「子どもを我慢させ、怒らせる仕事」はとりわけ父親に負託されることが多い。子どもに嫌われたり、怒られたりすることを避けて、ものわかりのよい父をやっているばかりでは、親の仕事を手抜きしていることになる。

家の中に「父なるもの」がいない場合を考えてみよう。この「父なるもの」は父と呼ばれる男のことではない。多くの母子世帯では母がこれを引き受けているだろう。「父なるもの」は人間になる時に必須なので、その子の家にこれがなければ、外へ探しに行く。自分の振る舞いにストップをかけ、時には自分を処罰するものを求めて世の中をさまよう。いわゆる非行とは、この「父探し」のことである。父を外に求め、それがいきなり国家権力(警察)というのでは、あまりに悲しい。

(1999年2月23日毎日新聞に掲載)

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Posted by ssworld