オトコの生き方(3/4)

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ここ数週、神戸で起きた小学生連続殺傷事件の少年Aの親たちについて考えている。今回もその続き。今までに述べてきたような理由で、少年Aは、親たちの前ではあるがままの自己を生きられなかった。父母の前では演技を強いられたので、それに熟達し、小学生低学年のころには「親は子どもが泣けば許してくれる」と言い放つようになったという。このことは、親の前の自己を演技と認識する自己がすでに存在していたことを意味する。

挿し絵いわゆる「真の自己」と「偽りの自己」との分裂であり、このような状態を思春期以降まで持ち越している人をシゾイド人格(分裂性人格)という。人格の奥にひそむ自己が、操縦室から自分というロボットを操っているような感覚を持った人とでも言えば、わかりやすいであろうか。Aの場合、親たちの前で表現できない怒りや攻撃性は家族内外の弱者の前で放出され、親に見つかれば厳しく処罰された。こうして「悪いことをする自分」は「真の自己」の主要部分となり、Aはここから生きるエネルギーの多くを受け取ることになった。

同じジゾイドでも、「偽りの自己」の操縦にたけた者なら、細分化された生活空間のそれぞれで適当に演技しながら、「真の自己」の飢えや乾きの叫びを巧みに隠し通すことができる。もう20年も前になるが、私の先輩、小此木敬吾氏が『シゾイド人間』(朝日出版社)という一般向けの本を書いた。小此木氏の言うシゾイド人間は分裂性人格者そのものではなくて、そうした傾向を持ちながら巧みに生きている人のことである。いわば、「高機能シゾイド」で、小此木氏はその例としてウッディ・アレンの映画『マンハッタン』の主人公を挙げていた。この主人公は作家かプロデューサーかで、離婚した妻と時々会い、息子(娘だったかも)と遊んでやり、女子学生とベッドを共にし、友人の妻とも恋愛関係にある。その場その場を都合良く泳いでいるので、彼の対人恐怖にはだれも気づかないのだが、その生活に伴ううそくささと空虚はフィルムを通して観客に届くという仕組みの映画だった。あのころでこそ、シゾイド人間は話題になったが、今ではこのような演技をできる人の方が、あたり前の世の中になっている。しかし少年Aはこうした高機能なシゾイドではないようだ。

(2000年1月12日毎日新聞に掲載)

神戸の少年Aは「懲役13年」と名付けられた文章の中で「心の独房」という言葉を使っている。ここから自己を操っている感覚を持っていたのだろう。こうした状態の時には、周囲の現実から刺激は生々しさを失い透明な膜を隔てて周囲と向かい合うという一種特有な感覚の中におかれる。これを離人感という。この種の感覚の持ち主は、それほど珍しくないらしく精神科医としての私は、こうした訴えを持った若い人々からの悩みを毎日、聞いている。何よりも現実の課題に集中して取り組めないのが困ると彼らは言う。「負けてはならない」と愛する母から言われ続けてきたAだから、まともな成績を取って母を喜ばせたかったろう。中学2年という進路決定の時期になってこの少年がハジケてしまったことについては、離人感による現実課題への集中困難が大きな要因になっていたはずである。

挿し絵もっとも、「真の自己」と「偽りの自己」とのかい離など、程度の差はあれ誰にでもあるというのも事実である。心の独房はまた「仮想された『脳内宇宙』の理想郷」(これも「懲役13年」にでてくる言葉)なのであって、現実から離れてこの世界に閉じこもるというのは、むしろ10代の若者たちの得意技とも言えるものである。彼らは家でも学校の授業中でも、空想の世界にいりびたりその中でヒーロー、ヒロインとして大活躍している。中にはこの世界の中の登場人物それぞれに名前をつけている子もいる。この空想上の遊び相手に話しかけている時もあるし、自分がその人物(といってもそれが人間とは限らない)を演じていることもある。

少年Aにおける空想上のキャラクターの生々しさは、この年齢の少年にしては幼い。そして攻撃的である。その中には、Aの攻撃的衝動の責任を負わされているどう猛な犬ガルベスや自らの腕をかみちぎる短身の少女エグリちゃん(少年Aは自傷行為があったはず)がいたという。

小学校5年になると酒鬼薔薇聖斗が登場してくるが、これは「悪いことをする自分」に対してつけた名であったという。これはみんな「良い子」の自分を「偽りの自分」と感じてしまうせいで必要になったもの、つまりAにつきまとう病的な罪悪感の緩和剤であったと思われる。

(1999年1月19日毎日新聞に掲載)

神戸の少年Aは、つきまとう病的な罪悪感の緩和剤として、白日夢とその世界の中の数個のキャラクターを必要としていた。こうした空想上の友人たちは、子どもたちの多くが必要としているもので、特に異常なものではない。特に小学校の上級から中学生くらいになると、この空想は複雑に構成され、その子の意識活動のかなりの部分を占めるようになる。思春期の子どもたちは、この自分だけの世界の中でヒーロー、ヒロインとして活躍する。この空想の世界と現実生活とは、まったく連絡がないもののように思われがちだが、そんなことはない。例えば、その人の職業や結婚相手の選択などに重要な影響を与える大切なものなのである。ただし、この固有の空想世界のことは普通、決して語られることがない。思春期以後、そこには豊富な性的興奮が入り込むようになり、その代償としてストーリーの展開は痩せて貧弱なものになってくる。そんな性的幻想を他人に語りたいなどとは思わないものだから、大人は空想のことを話題にしないのである。

挿し絵昨年11月に、トリイ・ヘイデンというスコットランド在住のアメリカ人女性作家が来日した。「シーラという子」「タイガーと呼ばれた子」(いずれも早川書房)などの作品で日本でも良く知られた人だが、もともとは情緒障害児の教育者であり、10年前までは教育心理学者として精神科医たちと共同研究をしていた。この人は母親が15歳のときに生まれ、父親は母のものを去ったので、かなり苛酷な少女時代を送った。しかし母方の祖父母に預けられ、特に祖父の愛を受けながらモンタナの自然の中で過ごした幼年期には、それほど不幸とは思わなかったという。むしろ苦しかったのは、母親と同居するようになった思春期からで、この母は、あまりに早く自分の人生の中に「侵入」してきた娘に恨みの感情を抱いていた。娘のために、母親は教育その他、いろいろなことを諦めなければならなかったからである。ずっと後年になって、トリイが「シーラという子」の出版の決定を、まず母に電話したところ、その母は「そんなのってあり?それって不公平だわ!」と叫んだそうである。

この困難な時代にトリイを救ったのは、空想上の友人や動物たちだった。彼女はモンタナの自然を舞台に友人や動物たちと空想の世界に遊び、それを「物語として書いた」。カギカッコを付けたのは、このことが重要だと思うからで、それについては後に述べる。やがて奨学金で大学へ進めることが決まったとき、トリイが専攻したのは熊やリスの生態観察だった。この動物学者への志向は、アルバイトで始めた情緒障害児の教員助手の仕事をきっかけに、子どもたちへのケアの研究へと切り替えられるのだが、いずれにしても彼女の空想活動は彼女の人生を豊かにしたのである。

少年Aは空想癖の盛んな子だったし、トリイ・ヘイデンも空想癖のある少女だった。しかしこの二人の間には、決定的な差がある。空想・幻想は元来視覚的なものだが少女トリイはこれを言語化しようとし、少年Aは視覚の世界にとどまった。言語は対話相手を必要とし、文法という「法」に従うものであるから少年Aには苦手だったろう。この不器用さこそが、それでも必死に他者を威嚇し、自己顕示しようとするAの文章を特異なものに見せるのだろう。

(1999年1月26日毎日新聞に掲載)

先週に引き続いてトリイ・ヘイデンのこと。彼女は母親が15歳のときに生まれたこと、祖父母に育てられてモンタナの自然の中の生活を楽しんだこと、しかし思春期に入って母親と暮らすようになってから苦しんだこと、母親はあまりに早く生んでしまった娘に恨みの感情を持っていたことなどを述べた。

挿し絵困難な思春期にトリイを救ったのは、空想上の友人や動物たちだった。彼女はモンタナの自然を舞台に友人や動物たちと空想の世界に遊び、それを「物語として書いた」。カギカッコを付けたのは、このことが重要だと思うからである。やがて奨学金で大学へ進めることが決まったとき、トリイが専攻したのは熊やリスの生態観察だった。この動物学者への志向は、アルバイトで始めた情緒障害児の教員助手の仕事をきっかけに、子どもたち、特に選択性緘黙(子どもに見られる心因性の障害で、言語機能に異常がないのに、人前で決してしゃべらないこと)の研究へと切り替えられるのだが、いずれにしても彼女の空想活動は彼女の人生を豊かにしたのである。

少年Aは空想癖の盛んな子だったし、トリイ・ヘイデンも空想癖のある少女だった。しかしこの二人の間には、決定的な差がある。空想・幻想は元来視覚的なものだが少女トリイはこれを言語化しようとし、少年Aは視覚の世界にとどまった。言語は対話相手を必要とし、文法という「法」に従うものであるから少年Aには苦手だったろう。私的な空間での少年Aは思春期に入ってからも、もっぱら視覚像を用いて思考し、それが彼の直観像素質者としての能力(普通、成長すれば低下する)を維持するのに役立ったのではないか。少年Aについては、その文才に注目する人が多いのだが、彼の空想世界の豊かさを考えれば、「書かれたもの」の乏しさにこそ注目すべきだと思う。Aのような寂しさを抱えた子どもたちの中には、空想上の友人たちとの対話や冒険を熱心に書き綴る子たちがいて、それが彼らの外傷体験を癒す。Aの場合にはそれがみられず、彼の文章は威嚇や自己顕示のためにやむを得ず書かれたもののようである。

直観像素質者とはジャック・ラカン(フランスの精神分析家)の言いかたに従えば、「想像界」の人である。「父の名」による世の掟に屈服しないまま、象徴界(言活動の世界)の入口にたたずむ「イメージとナルシシズムの世界の人」である。このような人が「仮想された『脳内宇宙』の理想郷」(「懲役13年」より)に入り込めば、怖いものなど何もなくなる。(続く…

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Posted by ssworld