オトコの生き方(1/4)

最近、「父性の復権」という言葉を耳にする機会が増えた。この主張の底流には、世の中の秩序の乱れは家族にはじまる、秩序の維持をはかるのは父の役目だ、だから「男はもっとしっかりしなくてはならない、家族から逃げて職場にへばりついてはならない」という考え方が横たわっている。これは、「女はもっと家庭を守ることに専念しなければならない」という一部の(と言っても、こちらの方が多数派だが)男たちの主張に呼応したものである。この手の説教は日本の男たちだけのものではない。アメリカでもヨーロッパでも、政治的保守主義と結び付いて最近活発になっている論調である。例えばアメリカでは「男たるもの家庭に戻って、しっかりした父親になろう」というプロミス・キーパーズと呼ばれる市民運動が巨大な流れとなりつつある。

挿し絵「叱れない父」は「強権的な父」の対局にある父親モデルで、世間の求める父親像の振り子は時代によって、この二つの極の間を左右に揺れている。ここ数十年、怖い父の人気が下がって振り子は左に傾いていたのだが、最近になって右への揺り戻しがはかられているといったところであろう。

「叱れない父」に人気が傾いてきたのは、現在の家族が家族メンバー相互の「やさしさ」を理想としてきたためである。現在、父親に期待されている役割は、とりあえず帰り着く場所、温もりの場所としての家族を維持することなのであって、それ以外ではない。学校でいじめられている子も、援助交際(売春)している少女もそれを知ったら「親がかわいそう」だから、親にだけはそれを知らせない。家族メンバーの各々は「妻子に言えないこと」「夫と子どもに隠さなければならないこと」「親にだけは知られたくない秘密」を抱え込んでコミュニケーション不全を起こしている。家族がこのような演技の場所となっているところには、その演技に慣れていない者などいない方がいい。せめて言葉を持たない父、主張しない父でいてくれるのなら、波風を立てることが少ない。というわけで、「不在の父」「叱れない父」は現代の家族に望まれている父親像なのである。

(1998年11月3日毎日新聞に掲載)

今の日本の家族は、家族メンバー相互の「やさしさ」を維持しようとしているうちに行き詰まってしまったように見える。学校でいじめられている子は、それを知ったら「親がかわいそう」だから、親にだけには知らせない。父親は「妻子には言えない秘密」を抱え、その妻は「夫と子どもには隠さなければならないこと」を胸にたたんで、相互のコミュニケーション不全を頼りに、波風の立たない平穏な日々を演じようとしている。

挿し絵『少女売春供述調書』(大治朋子著、リヨン社)という本には、このことが、まさにそのまま表現されている。売春している少女たちはみな、母親にだけは、それを知られたくないと言っているというのだが、その理由というのが、「母親がかわいそうだから」だそうである。「叱られるから」ではなく、「出て行けと言われてしまうから」でもなく「母がかわいそう」という彼女たちは家族にやさしいのである。

やさしいから言わない、コミュニケートしない。この子たちが検挙されたり、補導されたりしていよいよ母親が事実を知ることになると、母たちは、これまたいっせいに「やっぱり」と言いながら、泣いたり、腰を抜かしたりするそうだ。母たちは感づいていたのである。それはそうだろう。見慣れないバッグを持っていたり、高価な化粧品が並んでいたりするし、コンビニのアルバイトでは買えないような高額なレシートを屑籠の中から発見したりするのだから、気づかないはずがない。でもそれについて娘に問い正すことはしない。娘との関係が悪くなるのを恐れて、必要なコミュニケーションを避けている母親は、それなりに家族にやさしいつもりなのである。

そして何よりも驚かされるのは、この母たちのほとんどが、夫たちに娘の売春という事実を隠しているという事実である。「娘がかわいそう」と思うのか、「夫がかわいそう」と思うのか、ここでも必要最小限のコミュニケーションが断たれている。

この本によると、呼び出しに応じて警察を訪れるのは母親のみであるという。この種の「不在の父」たちを子ども側から見れば、単に無関心な父、それどころか子どもの存在を迷惑に感じている父にも見えるのだろう。自分に価値を認めてくれるかのように振る舞う「やさしい」男を求めて売春に走る少女とは、このような父の娘なのであろう。

(1998年11月10日毎日新聞に掲載)

「叱れない父」の困るところは、これでは父親に付託されてきた仕事がこなせないことである。家族とは何よりもまず子育ての場所だから、父の仕事の欠損は子どもの成長に悪影響を与える。それが顕著になったというところで「家父長的父」の出番が来たような議論が湧き出しているのである。

では、父親の仕事とは何か。その本質は「区切ること」である。これと対になる母性の本質は「包むこと」と言えるであろう。父はまず「このものたちに私は責任を負う」という家族宣言をすることによって、自分の家族を他の家族から区分する。つまり「内と外とを分かつ」。このことを指して「社会的父性」の宣言という。

挿し絵第2に父は、正と邪を区切る。掟をしき、ルール(規範)を守ることを家族メンバーに指示するのは父の仕事である。「父性原理」という言葉は、この機能を指していう。父は世の掟の体現者としてこの仕事を行うから、家族という閉鎖空間に世の中の風を送り込むという役割を果たすことにもなる。

父の仕事の3番目は、母子の癒着を断つこと、親たちと子どもたちの間を明確に区切ることである。父を名乗る男は、妻と呼ばれる女を、何よりも、誰よりも大切にするという形で、この仕事を果たし、子どもは父のこの仕事によってようやく、母親という子宮に回帰する誘惑を断念することができる。実際のところ、子どもが尊敬するのは父の腕力でも経済力でもない。このように他者である妻を大切に思う人として父は子に敬われるのである。この仕事のもう一つの側面は、母という子どもにとっての絶対者の価値を相対化することである。子どもに耽溺する母が、その価値観を子どもに押し付けようとするとき、別の価値観を提示することによって子どもを母の侵入から守るのは父の仕事である。

「包み、保護し、愛育する」という母の仕事が、子の現実に即応したものであるのに対し、上に挙げた父の仕事は、いずれも抽象的なもの、象徴的なものである。そしてヒトという動物は、周囲の事物を抽象する(象徴化する)能力によって人間になった。この象徴化の能力を具体的に示すものが言語である。言葉によって父性を宣言し、規範を定め、親と子の身分差を明確にする存在を得て、ヒトは人間になった。

(1998年11月24日毎日新聞に掲載)

前回は、「父」という抽象的(象徴的)なものの存在を認知することによって、私たちが「言葉を使用する人」になることを述べた。

母と子の二者関係を平面的なものとすると、これに父が入った三者関係は立体的である。三次元の世界には、光も影もある。私たちが存在する世界に、より近い知覚が、これによって私たちにもたらされる。子どもたちは幼いとき平面的な絵を描き、年長になると、それが立体的になってくる。このような表現形式の発達は、子どもに見える世界観の発達に対応しているのであろう。子どもに影の存在を教え、より現実に近い知覚を与えるもの、それが「父」の認識である。

挿し絵「父の掟」とは、「日は東から昇り西に沈むものであって、決してこの逆は起こらない」とか、「人は人を殺してはならない」といったものを含むものであって、一人の男が家族を支配するためのさまつで恣意的なルールだけを指しているわけではない。こうした「父の掟」に従って生きるほかない自己を認識すること、それによって子どもは人間の一人になる。

神戸で小学生連続殺傷事件を引き起こした少年は「直観像素質者」であったという。直観像素質者(エイデティック)とは、過去の出来事や空想上の状況を生々しくイメージできる能力を持つ者のことである。アメリカの神経内科医で作家の、オリバー・サックスは、通常、言語(象徴)として記憶、学習、思考するところを視覚像で行うすぐれた学者について報告しているが、この女性学者はかつて自閉症児であった。

視覚像の再現能力は乳幼児期に高く、言語の使用に慣れてくるに従って落ちてくるものだが、象徴化(言語化)の発達に問題のある場合には、この能力が維持されることがある。少年Aについては、犯行声明文などに見られる「文才」が問題にされることが多いのだが、私には彼が、言語の使用に慣れた者には見えない。むしろ言語表現の不器用さが、それでも世間に自己を表現したい少年の必死さを際だたせているかに見える。
我々を象徴と言語の世界に投げ入れるきっかけを作るのが「父」の認識であるとすれば、少年Aの場合には、「父の不在」のありようが問われなければならない。(1998年12月1日毎日新聞に掲載)(続く…

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Posted by ssworld