フェミニズムと臨床(6/6)

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彼が治療者としての自分を位置づけるときには、癒し手である「呪術師」ないしは患者を自在に手術する外科医としての自己と、ケアの「対象」としての患者という図式です。自衣を着て清潔極まる、雑菌の入らない、これはメンタルな領域での雑菌が入らないということで、つまり余計な言説が自分たちの治療の純粋な環境を犯さないということで、すべての言葉は治療の素材として使うという精神です。それで要求されたのが「術者」であること。絶対的中立、受容性、受動性、そして禁欲原則です。患者さんにみだりに触ったり、愛を感じることも含めて、そういうことの禁止です。こういうことを前提としたわけです。

しかし、これ自体が幻想です。「精神分析」とはつまりは、フロイトのファンタジーにつき合わされる仕事になるわけで、精神分析が繰り広げるような論述は、決して神経解剖学に対応するような精神解剖学にはなり得ないわけです。解剖学ではなく、一種の神話です。

ただ、ある程度の有効性はあった。1人の人がもう1人の人の前で話をする。これをある一定の方法で続ける。これは例えば1回50分の面接週4回などというやり方です。しかもそれだけではなく、患者から料金を取り上げると治療が進むという事実があるのです。

フロイトは一介の開業医ですから、患者さんをみることで食っていたわけで、そのうえ、自分のやっていることは科学だと信じていまして、正当な治療だと思ったがら料金をいただいている。たしかアメリカ人の精神科医の卵が、フロイトの患者になって勉強しようと、ウィーンに行ったときのことを手記に書いています。彼がフロイトに診察料を聞いた。高かったので、「とても払えない」と言ったら、フロイトは「私の余命は少ない。1人の患者からできるだけたくさんいただきたいのだ」と言ったというのです。

このことはしかし、患者と医者との上下関係を増大させるのではなくて、金銭の授受が両者の平等に寄与するという意味があります。つまり、患者によって医者は食っているわけだから、患者様はお客様なのです。「ようこそいらっしゃいました」という態度になります。これは国公立病院の精神科に行ってみればすぐわがります。国立ないし都立の病院に患者さんとして行きますと、医者たちは実に迷惑そうな顔をします。私も都立病院や国立病院でも働いていたことがありますし、大学病院にもいましたのでわかりますが、要するに患者が来なければそれに越したことはない。もし不運にして来てしまったのであれば、なるべくおもしろい症例報告ができるような患者であってほしい。こんな気持ちでいるのです。そういう中ではがえって、医者と患者の間に上下関係がつきやすいが、フロイトのように真摯に、たくさんの子どもを抱えて、真っ当な方法で食っていこうと思うと、1人ひとりの患者さんが非常に大事なものになってきて、「ようこそいらっしゃいました」という気持ちになります。そういう意味では、むしろ均衡がとれる。

それで、「臨床家とはだれが」ということになりますと、実に上野さんの言ったことは含蓄に富んでおもしろいのです。他人の悩みに関心をもち、対象のところに自分の身を置いて喜んでいる人と言いましょうか。喜んでいなければ長年やっていられません。人というのは実に奇妙な存在だし、多分、彼自身の悩みとかコンプレックスだとかを発見したくて手ぐすね引いて待って、よだれをたらして喜んでいるような、ピーピング・トム(のぞき魔)というか、変態ですね。私は変態だと思っています。

ナバ(NABA)という摂食障害の自助グループがあって、もともと私が組織したものですが、どうも私には男性より女性の方が感じがいいのです。男の人は嫌いではないが、彼らの集団をなんとか支援しようなどとは思わない。

たまたま私は子どもが娘2人だったものですから、女の子がどういうふうにしてこんな考え方をするがということに非常に関心をもった時期があった。彼女たちは思春期に入っていたわけです。私は、直接娘と対話するのが怖かったので、娘をちょっと年上にしたような連中をいっぱい集めました。2DKの部屋に2、 30人が入りこむという殺人的な過密の中で、私1人男で座っていたのです。彼女たちが2時間にわたって1人ずつ話すことをじっと聞いていた。糸が糸で糸をくくったようなグルグル回りの話なのですが、しがしその中で私が気づいたのは、そこでこうして話しているうちに彼女たちは治るということです。私が診察室で精根込めていろんなことをやるとかえってどんどん悪くなる。手首を切るわ、どこかに失踪するわ、橋の上から川に飛び込んでダルマ船にぶつかるわ。で、私はだんだん、こうしたグループの中で話を聞く方へと身を移したのです。

思うに、臨床家というのは、何か白分の欲望があるのです。人の欲望の基本は何かといったら、それは、人に承認されるなり受け入れられるなり、おまえそれでいいと認めてもらうことが、その基本です。しかし、そのときに自己点検のようなものが働いて、「こんなおれでもいいの?」と言いたくなってしまうところがありまして、それは例えばどんな点でかといいますと、私の場合は、娘たちと私の関係の中での、男である私と女である娘たち。こんな点に引っかかりをもってしまう。これが知らず知らず置きかえられて、シンボライズされたのかもしれませんが、患者であるナバの女の子たちと、治療者である私に置きかえられた。これは客観的に見てそんなに不幸ではない置きかえだったと思うのです。

彼女たちを見ていましたらば、その心の動きが比較的よく見えた。よく見えたのは私が勤勉で献身的であったからではなく、私の関心がそこの部分にちょうど当たっていたからだと思います。臨床家とは基本的に、このようなものであろうと思います。

だから、いい臨床家とは、自分の葛藤を患者さんに投射できる人のこと。だから、みんなそれぞれワンポイントのホームランのコースをもっていて、考えようによっては、そこしかヒットが打てない。逆に言えば、たくさんの盲点を抱えていて、その辺になると空振り空振りで三振ばかり。でも、どうして私はこういう患者を治せないのだろうと思うときには、もう見えはじめているわけです。私たちは良心的にサイコセラピーをやろうと思えぱ、必ず人にシェアしろと言い合っています。こういう患者についてこういうぶうにやったらこうなったと、それを正直に見て話せと言うわけです。

ここでようやく、ナラティヴ・セラピーの話に入ります。私は、ナラティヴ・セラピーというのは、コ・カウンセリングの方向へと収斂するのではなく、もっと特殊化していくだろうと思うのです。ナラティヴ・セラピーというときには、セラピストは何をやるかと言ったら、「いい質問をする」ことです。質問をするのが仕事です。いい質問とは何かと言ったら、患者が自分のことを理解するようなことをつい答えてしまうような質問。これは「あなたはだれ」から始まる質問であっても、「どうして来たの」から、「なぜそんなに食べないの」あるいは「食べられないの」という話になってもいいし、「あなたの手の傷はどうしてついたの」という質問でもいいですが、質問の羅列の中で患者さんはいつの間にか自分で自分の答えを知って、「私はこうやって生きればいいんです、さよなら」と言って帰っていくのが、このセラピーのコースなのです。

この、適切な質問をする仕事は、たぶん、コ・カウンセリングではできません。それは、セラピストが、専門家として適切で多様なパラダイムをもち、オルタナティヴ(別の)・ストーリーを豊富に憶えていてこそできる仕事です。例えば『ナラティヴ・セラピー』(金剛出版)という本の中でギアンフランコ・チキンというセラピストが、書いているところ(第4章)がありますが、彼は自分のところのスチューデントにこう言っているのです。25種類程度の解釈のパターンをもてと。それがプロの条件だと。そのうちのどれかを使ってストーリーをナラティヴに当てはめろと。ストーリーとはナラティヴの塊のことです。ナラティヴからいく通りものストーリーを読み取るのです。

言ってみれば何でもない、自分で答えようがないから質問するという無知の仕事こそ、一番難しい仕事になる可能性がある。

しかし、そうは言いながらも、職業的セラピストは、いろいろ患者さんの呼称を変えてきています。最初は「ペ一シェント(悩む人)」と言いました。患う人。そのうち「クライアント(依頼人)」になりました。こうなると弁護士と依頼人の関係のようです。弁護士のようにして、自分を専門職の人だと定義したがったのです。そして、このごろは「コンシューマー(消費者)」と言い出した。我々はショッピングされ、消費されるものになった。このペーシェントからコンシューマーヘの流れというのは、要するに絶対的権威者としての白衣を来たフロイト像から、同じサイコセラピーでもファミリーセラピーあり、システムズアプローチあり、ミルトン・エリクソン以来またヒプノーシス(催眠術)が戻ってきたりと、いろんなパラダイムが展開してくる中で、絶対的権威が相対化されてしまった結果です。

あの大先生はl時間500ドルとか600ドルとかとるそうだが、こちらは大学出たての女性だけど20ドルだ、どちらを取るかというときに、20ドルの方がずっとよく治ったということになれば、非常にはっきりショッピングの効果が出るわけです。そういうような形で、ナラティヴ・セラピーの徹底と同時に、患者さん自身がコンシューマーとして、誇りをもった市民として自分のことを語るという形になるわけです。

そうなると、今、セルフヘルプ(自助)・グループと言われているものと、治療的現場の姿とは、一見形は似てきます。しかし、そこにはやはり達うものがあって、コンシューマーたちはやはり自分に関心をもち、自分がそこに行くと心地がいい臨床家を選んで、その前に座り続けると思います。

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Posted by ssworld