フェミニズムと臨床(2/6)

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このあたりの説明を、ベンジャミンは、自己主張と他者承認の成立を阻む男性のアイデンチィティととらえていて説得力があります。自己主張と他者承認は、自己と他者の関係のなかの中心間題とベンジャミンは考えますが、男性の発達過程そのもののなかには、自己と他者が対等なものとして出会える条件である自己主張と他者承認の成立基盤の剥奪があるとみます。自己主張と他者承認の関係が崩れるとき自己と他者の関係は支配と服従に変質することになるので、男性は容易に支配一服従の関係に陥りやすい。

そういうわけで、チョドロウは、「女の子は母とのつながりの中にとどまり続けることで、母親になるべく学習を行う」と。そして母親との連続性と同一性の感覚は、女の子のジェンダー・パーソナリティを決定づけ母親業に向がわせる。女の子と男の子のジェンダー・パーソナリティの差異は、家族の中の男女の分業を持続させ、男性支配を再生産する。

チョドロウの貢献で一番に挙げられるのは、当時まだ知られていなかった対象関係論を広範囲の人々に知らしめ、特に社会学的な分野との橋渡しをして、パーソナリティー家族一社会をつなぐ女性解放理論を提示したことです。

チョドロウさんには3年ほど前にバークリィまで会いに行って、講義に出席したりインタビューをしたりしました。驚いたことに、母親業の本はいくつかの学部の教養課程のリーディングスなんです。それくらい、対象関係論の紹介を通して精神分析理論をポピュラーにしたのが母親業の本であったということです。

2つめの大きな業績は、母娘関係に光を当てたことです。母娘に焦点を当てたパーソナリティー家族理論は、チョドロウが最初です。以降、アメリカでそして日本でも母娘関係を扱った本がたくさん出版され、女の子の発達論は1つの研究分野になりました。また、フェミニスト・セラピーの方法としても定着するようになりました。精神分析派フェミニズムあるいは女性心理学を標傍する本で、まずチョドロウの引用のないものはないでしょう。余談になりますが、ただもう1 つのフェミニズム心理学の流れ、ジーン・べ一カー・ミラー、キャロル・ギリガンたちは一切チョドロウには触れないようです。どうもケンケンガクガクの関係にあるらしくて。ミラーとギリガンは教育学畑の心理学者ですが。ミラーの本を読んでいて不思議に思っていたことがあります。実はミラーの本の中にチョドロウと似た論述があるのを発見したのですが、しがし、ミラーの本はチョドロウの母親業の本より2年前に出版されている。けれどもチョドロウはミラーを一片も引用などしていない。チョドロウは膨大な脚注や細かに文献を引く人なのに、どこにも触れていない。そして、ギリガン派もチョドロウを無視している観があります。

チョドロウの著作でおそらく母親業の本以上に衝撃を与えたのではないかと思う論稿があります。これは母親業の出版と同じ年の1978年4月、バーナード大学での「第6回・学者とフェミニスト会議一「差異の未来」」の席での講演をまとめたものです。私も実はこれに衝撃を受けた1人で、いつかこの人と会ってみたいと思いました。それに、母親業の方は読むのがなにしろ大変ですが、こちらはチョドロウの論点が圧縮されていてわかりやすい。翻訳は「精神分析的パースペクティブにおけるジェンダー・関係・差異」(季刊iichiko,1986)に出ていますのでお勧めします。この論稿の要点は次のようなことです。女性は男性でないものとして自己規定することはない。当初から私すなわち女性であると規定する。男性は女でないもの、母でないものという、否定形の同一化の道筋を経る。この道筋はもちろん前エディプス期を主に指していますが、こう言われてみますと、私自身フェミニストをやってきたつもりでしたが、とくに成長過程で男性を軸にする考えの枠を越えるものに出会うことがなかったのだと、これはすごいと興奮したのを覚えています。なぜ男性を軸にする考えが前提になるかと言えば、要は、男性支配のへゲモニーを用いて前エディプスの経験の変形が行われるということです。日常生活や知的な公式化において、男性は男らしさを基本的、人間的と定義します。そして女を男でないものと定義するという反転をやってのけるわけです。そして個々の男の子たちによって人生の初期に、反転は繰り返し行われる。私たち女は、この反転の意味を想像できずに生きてきたのではと思うと、取り返しのつかない発見のような衝撃を受けました。

こういったエディプス移行期に学習される変形された男女のパーソナリティ差異、そして差異が再生産されていく問題について、チョドロウは、もし異なった親業編成がなされればつまり、男の子及び女の子の養育にかわる父と母の親業パターンが違ったものになることで解消できると、結論づけたわけです。

チョドロウが示した論点でもう1つ私が大いに影響を受けたのは、女の子の発達についてです。このテーマではチョドロウよりもギリガンの方が日本では有名ですが。ギリガンの女の子の発達を見る鍵概念は、連続性connectiveness、人との連続感とともに自我を成長させていくと見ます。ギリガンは、女性の発達が従来わかりにくいとされたのもここに理由があると主張し、「ライフサイクルにおいて女性は人に対して愛着を持ち続けることの重要性を認識していると思われます」とか、「女性たちはそろってアイデンティティを人間関係の中で定義し、責任と心配りを基準にして評価している」という言い方をしています。この観点はミラーからギリガンに受け継がれているのですが、彼女の著書の中のミラーからの引用箇所でそれがよくわかります。「女性の自己の観念は、親愛の情に満ちた人間関係をつくり、それを維持していくことを中核につくり上げられていくものです」、「結局多くの女性にとって、親和関係が崩れることに対する脅威は、単に人間関係のというにとどまらず、全く自己の喪失そのものといった観念でうけとめられているのです」。これらの引用の後でギリガンは、ミラーが求めたのは、「こうしたことを認めるような新しい女性心理学でした」と、結んでいます。先ほども言いましたが、チョドロウは一切ミラーにはふれていません。全てが対象関係論からです。チョドロウさんにギリガンについて話を向けてみたのですが、まったく評価をしないという態度でしたね。とくに、ギリガンのグループが大々的に展開している青春期に女の子の自己評価が下がるという調査結果について、「結果について全く信用していない」と切り捨てました。ギリガンたちの結果は我々の日本に照らすと納得できるのだがと言いましたら、「日本ではそうかもしれないが、ここではあてはまならない」と一蹴されました。このやりとりは、チョドロウのインタビューにありますので、読んでいただければと思います(季刊iichiko,1995,『家族機能研究所研究紀要1』に収載)。

ベンジャミン『愛の拘束』(青土社、1996)の翻訳は2年くらい前に出ていたんですね、知らなかったんですが。これも書評を書いていますので読んでみて下さい(『アディクションと家族』1997)。書評を頼まれてはじめて翻訳が出たことを知り驚きました。チョドロウさんが講義の中で頻繁に取り上げていたので原著は持っていたのですが、難しくてよく読めていなかった。翻訳で読むと早く良くわかります。

ベンジャミンはフロイトのペニス羨望について改めて新説を出しています。新説はなかなか説得力があり、チョドロウも評価していました。父親への女の子の identificatory loveという概念によって、ペニス羨望と呼ばれてきた現象の説明をしています。父親を見失った女の子の状態なのだと。母親は権力をもっていない、性的欲望の主体たりえない母親を知って、女の子もまた父親に向かうが、結局それは遮断され父へと向かっていた愛を見失ってしまうことになる。父へ向がっていた愛の対象を見失った状態が、ペニス羨望と呼ばれてきた現象だと。経験的にも、通常父親は女の子にどう接しているか、どんな女性イメージや将来像を描くものかを考えると、父親が身近な存在になれば一層影響は大きいと言えます。たとえば、ただかわいいお人形として接している父親、柔道やレスリングのコーチ兼父親として彼女の同一視的愛を受け止め続けた父親、突如、青春期になって女の子だからとそれまでとは態度を変えた父親とか。女の子の父親に対する同一視的愛、それをどう父親は取り扱い受け止めたが、支えたか切り捨てたがは、女性のパーソナリティや将来にとって相当に違いをもたらすでしょう。

ペニス羨望にかかわることはチョドロウは全く触れませんでしたし、母親の欲望というテーマももちろんです。チョドロウは、人間関係のモデルとしての母娘関係、前エディプスに徹底して焦点をあてたから当然ですが、ベンジャミンはそうしたチョドロウ以降の動向について次のようなコメントをします。「現在のフェミニズムが、女が母親から受け継ぐ自我の面を強調していることは、欲望問題の本質を覆い隠しがちになる」という、大変的確な指摘です。そして、『愛の拘東』でこの欲望問題に挑戦し、チョドロウも評価していますがかなり成功していると思います。

関係自我あるいは関係自己に注目するとき、しばしば欲望、支配一被支配はどこか隅に押しやられることになりがちです。ミラーやギリガンの言っていることはその通りだと思いますが、少々牧歌的で一面的に過ぎる。母親が欲望の主体であることを認めることで人は大人になるという、きつい側面は関係自己の観点では触れられず、ぼかされてしまう。ベンジャミンはこのあたりを、人が生涯必要とし持ち続ける「愛着」の領域から権力論に迫るという方法で論を展開します。子どもが初めて、他の人々との間にかたちづくる差異感覚において、母を単に子どもの欲望の対象にしてしまう養育環境がつくりあげる人間モデルの問題です。ベンジャミンは、子どもに自分の欲望の延長と認識される母のありさまは、自己と他者が対等な者として出会える条件である「自己主張と他者承認」という相互認識の緊張バランスを破壊するものだと言います。

女の子が父親に向ける「同一視的愛」の概念による女の子のエディプス理解、子どもの欲望の対象でしかない母の存在がもたらす問題、そして「性的主体として表現される母親像」あるいは母の主体性を含む「新しいエディプス」へのかなり現実味のある言及。いずれもチョドロウにはなかった、チョドロウを越えたと思わせる内容です。どうもありがとうございました。

注1)ミッチェルは、社会主義派フェミニズムと精神分析派フェミニズムのちょうど中間点に位置する理論家である。「ザ・ロンゲスト・レヴォリューション」では、まず社会主義の理論と実践の双方で女性抑圧の問題がどのように欠落、回避されているかを分析し、次に女性の被抑圧状態の主要な構造として(つまり、家父長制)、生産、再生産(生殖)、性欲、子どもの社会化の4つの諸構造をとりあげている。ミッチェルがフロイト理論を援用したのは、この女性と家族の一体化を解き明かし瓦解させる方途を見いだすためであった。 (続く…

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Posted by ssworld