現代家族の問題点とその展望(1/7)

98年5月21日日本女子大学特別教養講義
現代家族の問題点とその展望

家族機能研究所代表斎藤學

この講演の趣旨を学校の方からお送りいただきましたが、なかなか伝統のある講演会だそうです。そのわりには何の準備もしてきませんでして、一応みなさんのお顔を見て話すことを決めるということに、どこへ行ってもそうしています。国外で、自分の言葉以外で話すときはそれが怖いものですから、一応原稿--英文なり仏文なり書いたものを用意します。日本人の出席者はみんなそうやっているらしいけれど、私もそうですね。しかし、日本で日本語で話してもいいときというのは、ほとんど講演原稿というのは作りません。理由は、私が日々見ていることを話す以外のことは話せないということと、それがいつも変化しているということで、今日私が話したことが私の持論ということでもない。その点では非常にいい加減です。私が臨床家として患者さんと対するときというのは、まったくいい加減にしていなさいということを言いますので、その私がいい加減でないということは臨床家としての誠実な態度じゃないですからね。私の患者さんは私を見て、あんなんでもいいんだと思って気楽になって治っていくという、そいういうプロセスをとっています。

1、家族という領域のミクロとマクロ

1)家族の臨床学

私はいつのまにか家族の一つの領域の専門家だということになってきているんですが、その領域というのは精神医学、心理臨床にまたがるようなことでしょうか。ここは医学部がないので、むしろ臨床心理学というようなところが私のやっている世界に近いのかと思いますが、私が見ている家族というのはそういうところに登場する家族だから、社会一般の人々の考える家族よりも偏っているのかもしれません。しかし、私に言わせれば、大体見ていてまともな親をやっている親なんていませんので、どの家族の中にも愛と欲求不満、依存と愛着とでも言いますか、依存をめぐる葛藤、憎しみと暴力、そういったようなものは常在しています。
暴力といっても、何もひっぱたいて肋骨が折れた、鼻の骨が折れたというだけが暴力だとは思いません。みなさんにとって一番厳しい親の暴力というのは、一定の価値観を親がしっかり持っていて、これじゃなきゃ子供として認めないというような、条件付きの愛、これを押し付けてくる親の方がよっぽど怖いですよ。みなさんの親の中にもいると思いますが。
それから、親の期待で縛る。どうも日本で問題のある家族というのは、暴力的でいつも飲んだくれていて、家にいるときは大暴れみたいな、そういう父親をやり続けるのは難しいですから、さっさと妻も子供もどこかへ行ってしまいますので、そういうのよりは、もっと違うタイプの問題のある親の方が多いです。
子供の方の問題で親が来る場合もあるし、親の方の問題だと、親というのはだいたい二人いるものですから、その片割れのほうが問題を提示してくる。そういう場合には子供の方はとてもいい子で従順だというようなことがあります。私は「いい子」というのはあまりいい意味で使っていませんが、それがしばらくして親の方の問題が片付いた頃--片付くというのは、一番簡単な方法は離婚してしまうことですが、母一人、娘一人、あるいは娘と息子みたいな感じになって数年して、今度は息子さんの問題なり娘さんの問題でまたご相談に乗るというようなことがよくあります。言ってみれば、今の家族でいえば、四人いて、お母さんだけが一人、病人三人を背負っていろいろ相談に巡っているような家ですよね。だけど、本当に三人が病気で、お母さんの方は健康なんだろうかというと、そうとも言えない。要するに「健全な家」というのは疑ってみた方がいいと臨床家しての私は思うようになっているわけです。私の所の親は普通だったし、私は親を尊敬している、感謝している、そんなことを私の目の前でしっかり言ったりすると、「ああ、これは相当問題がある」と私に思われちゃう。もし皆さんの中にそういうふうに思っている人が居るとすれば、たぶん今日の講演会でもう一つ別な見方というのをもって帰るということになります。
タイトルが「現代家族の・・・」となっていますので、少しマクロな立場でお話しして、時間のゆとりがあればミクロな、微視的に見た家族像というものを少しお話しできるかなと思います。微視的と私たちが言うのは、もともと私がやっている仕事は微視的なものです。ミクロもミクロ、心の中を顕微鏡で覗くとか、一つの言葉をめぐっていろいろな解釈が成立するのをいつも考えながら先に仕事を進めるみたいなことをやっていますから、非常に微細なものです。それも、結果としてはクライアントの持ってくるものが、こうしてくれ、ああしてくれ、こうしたい、ということでわざわざ時間とお金を使ってくるんでしょうから、それを満たしたか満たされないかというようなことで判定されるわけです。患者さんが望んでいるようなものでなくても、別の形で問題の解決というものを試みるわけです。

2)精神鑑定という仕事

それからもう1つ私たちに課せられている仕事は、世間でいろいろ事件が起こったとき、例えばお父さんが息子を殺しちゃったなんていう場合に、どうしてお父さんが殺したのかということです。例えば、変な話だけれど、お酒をたくさん飲んで事件が起こって息子が死んでいて、どうも自分が殺したらしい、しかし覚えていないというと、責任能力というものが減免される。ときには心神喪失という判断がなされて無罪になります。その代わり治療してくれという話になりますが。こういうような、精神鑑定をしろと言われることがあります。鑑定をしろと言われなくても、いつもそういう事件があったときには、一応私の方としては何がどう起こったのか、どいう可能性があるか考えています。そういうことについてのコメントをいろいろな領域で求められたりしますので、私なりの考えを言ったりします。
神戸で中学生が小学生を連続して三回も襲ったということになりますと、いったい子供たちに何が起こっているんだろうかと聞かれます。そう聞かれても、子供なんていうのは親との関係の中でしか自分の振る舞いを決定できませんから、その振る舞いの奥にあるものを、推理していくほかない。家族についての情報が遮断されている場合には推理するほかないのです。
私たちは、ですから、大きな事件については精神鑑定という仕事が裁判所から回ってくることが多い。それは受けなくてはいけないというものではなくて、私の場合はどういうものを受けるかというと、これは現代の家族を読み解くヒントになりそうだと受けることにしています。
しかし、これは回って来るだろう、来るとすれば私しかいないなんて思っていると、回って来ないんです。例の宮崎某というのがいて、女の子を何人も誘拐して殺しました。あのとき私は、これは私の出番だと思ったんですが、どういうわけか私の周辺にだけ三回も来て、私の所には来なかった。でも、そういうときでもいったい何が起こったかということについてはいつも準備しているということがあります。どうしてこんな話をしているかというと、ミクロな話をするときに湯島の金属バット事件のことを、たまたま昨日弁護士会館で弁護士の人たちに精神科医としての見方を講演したりしたものですから、頭に残っているので、それを取り上げてみようかなと思うからです。(続く…

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Posted by ssworld