最近の青少年の暴力行為について(2/3)

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6.暴力が激化するいくつかの要因

●自己処罰願望
この人たちが激しくなる要因がいくつかあると思います。

一つの要因は、子ども側が持っている「自己処罰願望」だと思います。
罪悪感、自己処罰願望などというものはろくなものではありません。私箱の仕事を30年続けていてつくづく思います。こんなものはないほうがいい。「罪悪感を持たないと、反省もしない、困った人になりませんか」とおっしゃるかもしれませんが、「自分は悪い人だ」とか「あの人にひどいことをしてしまった」とか思っても、償いができるわけではなく、むしろ、相手に会いたくなくなって逃げてしまったり、かえって失礼をしてしまうことが多い。「私はそれなりに意を尽くしたのだけれど、誤解されてしまったようだ」くらいに思っていたほうがきちんと対応できるものです。

特に若い人たちには人間関係のスキルがないものですから、変な罪悪感を持つのはよくない。しかし、若い人たちは罪悪感のかたまりです。自分のことを思い出してみてもいちばん罪悪感を感じていたのは10代の終りから20代にかけてで、ではその罪悪感にそれなりの理由があったかといえば、なにもないのです。理不尽な罪悪感です。

この罪悪感がどこから来るかというと、一番大きな出所は、親の期待ではないでしょうか。

現代の家族の特徴と言えば、核家族化、少子化ですが、これは、少数の子どもが親の期待を背負って生まれてくることを意味します。昔の子どもは神様、仏様からの授かりものであって、勝手にやってくるものでしたが、今の子どもは親の綿密な計画の下に人生戦略上の拠点として生まれてくるのです。ベンツを買うか、子どもを生むかという比較の中で子どもがつくられる。子どものほうもそれがわかりますから、ベンツと競争しながら育つわけで、ベンツに負けた子どもは、当然、「申しわけない」と思う。こんなふうに思わせるような親子関係の中で子どもは育っているのだという、この簡単な事実を、私たちは時々忘れてしまいます。

「せっかく高価な子ども服を買ってきたのに、何だこの子は、ちっとも似合わない。不細工な子だ」と思いながら育てるのと、端から見るとちっともかわいくないような子を「かわいい、かわいい」と一生懸命かわいがって育てるのと、後者のような「親ばか」が、実は親の仕事だと思うのです。

ですが、現代の親は怜悧です。しかも比較の対象が多い。ミキハウスのCMにでてくる子どもをしょっちゅうみているから、「どうしてうちの子はこうじゃないのか」と、冷静に観察してしまいます。これがまずい。子どもが「どうも自分は親の期待に沿う子どもではない」と早々と認識してしまいますと、子どもの中に罪悪感が出てきます。加えて、学童期にもなれば、学校のブランドなどというものがものを言い始めます。
 
たとえば東京のK幼稚舎などという小学校は、入るのが非常に難しいのですが、実はあれは親で入学の可否がきまるのです。ですから入れなかったら親のほうが「申しわけない」と思わなくてはいけないようなものなのに、入れなかった子どもは、親に対してすまないと思ってしまう。こんなふうに小学校入学の時点から「選抜」が続いていき、こんなことが親と子の関係の重要な部分を規定して行くのです。このような選抜人生のなかで、ずっと勝利者である子どもなどいるはずがありません。どこかで親の期待を裏切ることは多いにありえますから、こうしたことが、自己処罰願望の一つの出所となります。

「自分が悪い」などという感情はもともと非合理的なものだと申しましたが、これが進むと「自罰パラノイア」のようなものになりかねない。「自罰パラノイア」だなんて、出してくるのも恥ずかしいような古い概念ですが、この概念を言い出したのはジャック・ラカンです。この人は後にいわゆる「ラカン派」の教祖様のようになってしまうのですが、もともとはまっとうな精神科医でした。「症例エメ」という女優を刺した女性の精神鑑定例で30代の後半に博士号をとっているのですが、まっとうな精神科医だったころのラカンはこんなことを言っています。子どもは、まだ言語を理解しない乳幼児期に、特に男親の罵声や怒鳴り声、ドアがバタンと閉まる音など、こうしたものを体に感じる。そして、こうした記憶によってもたらされる原始的な超自我が確立されてしまった子どもは、後年、わけのわからない自殺衝動とか犯罪傾向とか、自己破壊的行為などを起こしやすいと。これをラカンは「懲罰的超自我」といいました。

私は精神鑑定をそうたくさんやっているわけではないのですが、この「懲罰的超自我」を精神鑑定の中でどういうわけかよく意識することが多いのです。ラカンはこの概念をトラウマセオリーに基づいて言っているのではないのですが、私自身、とても合点がいくのです。精神鑑定例とまではいかなくとも、たとえば、摂食障害の若い女性たちに万引きがとても多いでしょう。症例の7割くらいに窃盗癖があります。
 
この「万引き」も、よく見ると、彼女たちが自己処罰のためにやっているようなところが多いと思います。食欲をコントロールできない自分を責める自分がいて、「責める自分」が自分を処罰するために盗みをさせているというプロセスです。これが顕著な場合はつかまるまで盗みます。盗むことよりつかまることのほうが大事なのです。だから彼女たちは、盗んだものを使わないでしょう。真性のクレプトマニア(盗癖)は、盗んだものを使いません。こうした人たちは、盗んだものを部屋に飾って「何月何日どこそこで盗んだ」とながめている。こうした行為全体が、自分をはずかしめ、世間から逸脱させ、「人に見せられない自分」に自分を押し込めていくプロセスなのです。こうした過程のまだ未熟な形が、摂食障害に見られる万引き癖だと思います。

これに似た行為は思春期の子どもの逸脱行為に多いと思います。盗みを働いた店の主人に「親を呼ぶぞ」と怒られると、「親にだけは連絡しないで」などというのですが、内心では「呼ばれればいい」と思っていたり、親が店長に頭を下げているのを見て「ざまーみろ」と思ったり。親への復讐、攻撃衝動の意味もあるわけで、ですからつかまると一石二鳥ですね。自分も処罰できるし、親も恐縮させられる。

埼玉県浦和市で起こった高校教師による23歳の長男殺し事件についても、このような見方ができると思います。

この事件については共同通信の記者による『仮面の家』というルポルタージュが出ています。この事件については何冊かの本が出されていますが、私たちは、資料を集めて分析するのは一苦労ですからルポが出揃ってから研究に入るのが一番いいかもしれませんね。さてその『仮面の家』によれば、殺された長男の弟、つまり次男は、埼玉地方裁判所で「兄さんは自殺だ」と証言しているそうです。この次男は長男みたいに家にこびりついていないで、高校中退で家を出て土方をしているのですが、土方をやっていれば、家で暴れているより親に殺されないですむというのは一つの真理ですね。彼はこのように言っています。

「兄自身、精神的に行き詰まった状況にありましたので、場合によっては親に殺されたかったのかもしれません。今回の事件は私の両親が兄を殺したの出はなくて、兄が自分自身で自殺行為を図ったのだというふうに、私には思えてなりません」。

こういうことは本当にあります。文京区湯島の事件についても同じことが言えると思います。こうした無意識レベルの精神力動について、もっと考慮した方がいいのではないか。

では、これが何を意味するのか。「殺して。殺さないのだったら、今の私のままでいいといって」という承認を求める声でしょう。23歳の男性の言葉と思うとちょっと気持ち悪いですが、退行した3歳児の言葉と思えばよくわかります。「だっこして。だけど私が悪いのなら殺して」ということです。親のほうから見れば、無職で音楽ばかりつくってプラプラしていようと、朝から酒を飲んでいようと、女とホテルへいって「セックスができない」と電話してこようと、そういう息子をそのまま受け入れることにするか、あるいは「親切な殺人」を敢行するか、どちらかを迫られている事態だったのだと思います。

殺されたあの青年は、どうしてあんなにも自己処罰的だったのか。彼は県内のエリート高校を総ナメにする力があったし、高校1年で中退しても現役で某大学に入っています。だから「こんなバカ大学いけるか。行かなくったって弁護士になって、それで食って行って作曲家になるんだ」というわけで、授業には出ずにスキーと軽音楽部だけに行って、とても華やかな学生をやっていた。とても楽しそうにやっていたはずなのに、どうして「罪悪感」なのでしょう。
ここが今の子どもたちの難しいところなのではないでしょうか。なまじ小学校、中学校で秀才といわれていると、並みでは駄目なのです。少子化時代の子どもが背負っているのは、親の立場からする「これくらいは期待していいだろう」という期待です。

このお父さんは、江戸時代の女性言葉の研究などをやっている方ですから、がちがちの家父長とは違うはずなのです。少年時代は年の離れた2人のお姉さんとままごとをして育った人です。そんな自分を変えようと思って東大法学部に入り、それが行き詰まって文学部に入り直して、7年か8年かかって卒業しました。挫折の人です。だから決して「マッチョな人」ではない。そんな人が、男のこの父親になったら急に「父として、父として」と言い出すんです。
お父さんが長男殺しを考える最初のきっかけとなったのはこんなことでした。長男がガールフレンドとセックス旅行に行った。そうしたらセックスができなかった。あたりまえですよ。いきなりは無理でしょう。今までもてるふりをしていたから困ったのですね。そしてお母さんに「できないよ」と電話してきた。

おかあさんは「そういうことはお父さんに聞きなさい」といった。本当はお父さんに会いたくなかったのだけれども、帰ってきてお父さんに会った。ところがお父さんはどういったかというと、「本を読め」とか「福沢諭吉がどうした」とか「鰯の頭も信心から」とかわけのわからないことをいう。そこで息子が「てめえの意見をきいてるんだ」と言ったというのです。この「てめえ」という言葉で、彼は父親に殺されてしまったんですね。「これを聞き捨てにしては父として息子に対することができない」というのがお父さんの論理なのですが、彼は本来はジェンダーとしてはどちらかといえば「女性」に入る人でしょう。それを完全な100%男性意識をもとうとして「父だ」などと思ってしまったのが不幸のもとでしょう。女性性に富んだ人が男性を演じると、つい行きすぎる。「てめえ」といわれて「まいったな、どうも」なんて頭を掻いていればよかったのでしょうが、「男」にこだわってしまった。

隣の家では「その家から阿鼻叫喚の声が聞こえたことはない」といいます。この家の「家庭内暴力」の実態は、冷蔵庫が一回横倒しになって、スパゲティーの皿が床に投げつけられた、という程度なのです。お母さんはずいぶんこずかれたりしていますが、お父さんはちょっと胸ぐらをつかまれただけです。そんな「家庭内暴力」の末に両親が、旅人を殺す宿屋の夫婦みたいにひそかに相談する。勤め先の高校に退職願を出すというお父さんにお母さんはききます。「あれを用意した?」。あれというのは出刃包丁です。出刃包丁で胸を刺し、刺し切れない。お母さんはプラスティックのモデルマシンガンで長男の頭をたたく。これが壊れてしまったので1階へ降りて牛刀をもってきて、これで殺しています。事件としてはかなり凄惨な殺人ですが、親からすれば「やさしい殺人」なのです。「このような子どもは将来にわたって不幸だ。みすみす不幸になるものを見るに忍びない」と親が決めてしまった。「生んだのは私たちなのだから始末してあげよう」という「やさしい殺人」なのです。「教師もやめて郷里の四国に引っ込んでのんびり暮らそう」といったときに長男が「一生つきまとってやる」といったことも動機の一つです。期待をかけていた3番目の子どもにこの長男が迷惑をかけるだろうとの心配もあったようです。

この青年が優秀だったせいもあって、親が彼に頼むところがとても大きかった。これが彼の罪悪感を強め、無意識レベルではあるが、殺人被害者になるすきをつくっていたと思います。親の殺意を誘惑したとでもいいましょうか。私はそんなふうに思います。(続く…

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Posted by ssworld