最近の青少年の暴力行為について(1/3)

昨年の夏、久留米大学医学部の同門会(同窓会)の記念講演に呼ばれました。そのときの話を収録します。聴衆は精神科のお医者さんたちでしたが、スライドも使わず、しゃべりたいことだけをしゃべってきましたので、皆さんにも参考になると思います。

1.はじめに

私はアルコール依存症の臨床をしていたのですが、そのなかで、だんだん、家族のほうに視点が移っていきました。もちろん「システムズ・アプローチ」と呼ばれるような家族療法にも関心がないわけではないのですが、もう少し広い視野にたって社会的文脈のなかで「家族」を捉えようと試みています。

きょうは、資料の蓄積をお見せするよりも、私が接している問題、関心をもっていることについて具体的にお話しして、皆さんのご批判や感想をいただく方がいいと考えましたので、まとまりを欠くかもしれませんが、よろしくお願いいたします。

2.少年事件をめぐる社会的状況

今日の講演のタイトルからしますと、最近の栃木県黒磯の事件や神戸の須磨区の事件についてお話しすることを期待されるかもしれませんが、きょう、私がまとまった話をしようと思うのは、東京都文京区湯島の父親による金属バット事件です。きっと私のところに鑑定依頼が来るだろうと日程をあけて待っていたのですが、来ませんでした。加害者のお父さんが「私はよく考えたうえで息子を殺した。精神科医の判断をあおぐようなことではない。私が悪かったのだから刑に服する」とおっしゃったので、私の出番がなくなったのです。

かわりに、今依頼が来ているのは長期に子ども病院に入院していた子どものケースです。この子は、知的発達障害と場面性かん黙をかかえたまま子ども病院で18歳になり、そろそろ成人病棟に移さなくてはならない。この子の親の加害性をめぐって長い争いになっていまして、「親に監護権を与えていいかどうか」という精神鑑定の依頼が来たのです。このような親の養育能力をめぐる争いは結構あります。これまでは、密室に子どもをおいて親の勝手で育てていたものが、いわゆる「児童虐待」という形で問題が現われだし、「そういう親に子どもを任せておいていいのか」と周囲のものがいうようになりはじめています。それでこのような親権の剥奪をめぐる争いが起こり、訴訟に持ち込まれたりする。しかもそれを精神鑑定という形で結論を出すことも起こってきた。これは比較的新しい動きではないでしょうか。

家族のなかの暴力は昔から多少はあったでしょうが、特にこのところ、家族のなかのダークサイドについてもいろいろ論議されるようになっている状況です。

これを「家族が変容から崩壊に向かって、伝統的な価値観が崩れて、その結果、家庭内暴力や児童虐待のような問題が生じている」などと括ってしまうことは、一見わかりやすいのですが、よくよく考えると、それほど子どもの事件は多いだろうかと、疑問になります。たとえば、アメリカなどと比べてはいけないといわれるかもしれませんが、子どもの非行犯罪の数はアメリカと日本ではけた違いです。たとえば、殺人を犯した子どもはアメリカで2,600人前後、日本では100人以下です。19歳以下の人口はアメリカのほうが2.6倍多いだけですのに。また、日本国内だけで比べても、昭和20年代の18歳未満の子どもの殺人は年間300人から多いとしは300人台のなかばまでいっていますが、ここ20年くらいはずっと100人台で、少ない年は87人とか88人です。最近でも増えてはおらず、100人を超すことはありません。

それから、子どもの自殺が多いといいますが、たしかに去年はちょっと増えましたけれど、これも、第2次大戦後の青年層の自殺が多かったことに比べれば、ここのところ人口10万対で16~17人で、特に14歳未満は4人とか5人で非常に少ないのです。ハンガリーみたいな自殺大国と比べなくとも、たとえばフランスでは、ここ20年に青少年の自殺が非常に増えています。日本では全然増えていませんからこのままおいこされるでしょう。日本で自殺を取り上げるなら、高齢者、特に郡部の男性老人の自殺問題のほうがずっと問題です。

では売春はどうか。「援助交際」とかいろいろいわれていますが、これも「性的逸脱」の指標をとって見ると、「犯罪白書」なり「青少年白書」を見ればわかるとおり、ちっとも増えていません。どれをとっても非常に「サイレント」です。むしろ不気味な静けさのなかで、ときどき神戸市須磨区のようなグロテスクな事件が話題になるところが、日本の青少年の問題なのでしょう。

はっきりいって「おとなしくていい子」。これが日本の子どもの特徴です。事件の多発ということを主に考えてものをいうよりも、従順さとか問題のおこらなさといったネガティブな面について、これはいったいどういうことなのか、考えたほうがいいと思います。

私は、この静けさは結構不気味だと思うんです。静けさのもとになっている問題を、私は「よい子の問題」といっているものですから、「よい子」たちがどのようにつくられ、日本のマジョリティーを形成して、その人たちがどういう結婚をして日本の家族システムをつくっていって、そのなかで何が行われているのか、こうした全体的な背景を把握するなかで、最近話題になっているような事件を見ていきます。ソーシャル・コンテクスト(社会的文脈)を先に考えて、それから個々の家族の特徴を見て、そこで事件の発生に至る要因を探る考え方をしていったほうがいいような気がします。

3.家庭内暴力について

今日の「荒れる青少年」の問題を考えるとき、まず、家庭内暴力の問題から入っていったほうがいいと思います。私たち臨床精神医学が「家庭内暴力」と呼んできた問題について、私なりの見解を述べさせていただいて、日本の家族とはどういうものなのか、叩き台のようなモデルを提示してみようと思います。

まず、「家庭内暴力」という言葉自体にいろいろ問題があります。

家庭内暴力を英語でいえば「ドメスティック・バイオレンス(DV)」ですが、アメリカ人や日本のフェミニストが「DV」という言葉を使うと、これは女の人が男の同居人に殴られるということで、いわゆる「バタード・ウーマン」の問題になります。

私がやっているような学問の領域は、最近は「スタディーズ・オン・ファミリー・アンド・バイオレント(家族と暴力)」と、「アンド」を使うようになっています。

ところが、日本流でいう「家庭内暴力」とは親が叩かれる場合です。これはどういういことでしょう。要するに被害者の声の大きさによるわけです。アメリカの女の人たちは叩かれると「たいへんだ!」と大騒ぎしたので、70年代から市民運動が始まりまして、シェルターがいっぱいできて、国会が動いて、家族間暴力を防止する法律ができて、「叩く男」たちに対していろんな規制が加えられてきたのです。

日本流の「家庭内暴力」は、要するに子どもが暴れて親を叩くと、親が大騒ぎして精神科医のところに駆けこんで「うちの子が狂った」といったわけです。精神科医のほうではこれを、精神分裂病を中心とした精神障害(最近ではBPDなどの「人格障害」と言うこともあるでしょう)が何らかの形で発症したと考え、「早期発見・早期治療」とばかりに「精神病院に入院させましょう」といっていた。

これは、「親代りの発想」に立った一種の「介入」で、家族で生じた暴力問題について完全に100%被害者の側に立った迅速な対応をしているわけです。しかし拘束期限は3ヵ月ですから、3カ月後に病院から出てきたときがまたたいへんです。「一生恨むからね」などといわれて、親は一生この子を抱え込むことになります。教師、医者といった職業までをも捨てて、町から町へ子どもにおわれて逃げ歩いているような親ごさんもいます。こういう形が日本流の「家庭内暴力」です。

「家族と暴力」問題では、加害者・被害者がかならず出てくる。そしてもう一人、「目撃者」という第3の立場があります。夫婦間暴力だったら、子どもが目撃者になることが多いし、児童虐待だとどちらかの親が目撃者の役割をして何らかの形で巻き込まれているわけです。

日本流の「家庭内暴力」の場合は被害者が「バタード・ペアレント」というわけですが、親たちだって暴力にさらされていれば必ず暴力被害者に固有の問題が起こってくるのですが、これがあまり取り上げられない。私はよく、バタード・ペアレントを10人ほどのグループで集めて、皆さんのお話しを聞いたりしています。よその家庭でどんなふうに解決が進んでいっているか、いろいろ同じ境遇の方の話を聞いていただくと、「うちもこうすればいいのか」と私が何も言わなくとも納得してくださる。私が一言「たいへんでしたね」と言っただけで、40代、50代の立派な紳士の目から涙がぼうだと流れる。お母さまたちも「凍りついた瞳」をしています。これは、バタード・チャイルドにみられる一種の被害者顔貌ですけれど、完全に暴力に制圧された人の顔をしています。これは非常に強い情緒的なストレスを受けている状態で、臨床精神科医の治療対象だと思います。

けれども、ただ薬を処方してすむ問題ではなく、やはり扱わねばならないのは、子どもの暴力と親の対応をどう考えたらいいのか、という問題です。

こういうときに「要するに子どもが暴れなければいいのではないか。暴れないように子どもをどこかにいれてしまえ」などといってしまうと問題がかえって大きくなる。たしかに分裂病がその問題の基底にあり、薬を飲ませて何とかなる事例もありますが、それはごくわずかです。ではどうすればいいか。そのマニュアルがまだ十分に整っていないのが現状です。「家族と暴力」の専門家が欠けていると思います。

家庭内暴力とは、家族内で強い人が暴力をもってほかの人をを統制することです。暴力を使って有利な人といえば、強い人、腕力のある人ですから、どうしても壮年の男性が多く、被害者は子どもや女性や高齢者が多い。一番多いのが児童虐待で、次が高齢者虐待、その次がバタード・ウーマン、一番最後に来るのが親がやられてぼろぼろになるケースです。ですから、「家庭内暴力」という名で子どもによる親への暴力だけが取り上げられている事態は、ちょっとおかしいと思います。

よく考えて見ますと、暴力をふるっている青年子女は、お隣さんや通行人には暴力をふるわないという著しい特徴があります。時々このことを見逃してしまうのですが、土下座させられたりしている親が必死の思いで暴力を受ける辛さを話しているのを聞いていると、私たちもそちらに巻き込まれてしまって、加害者である子どもを何とかしようということに注意が集中してしまう。そのうえまずいのは、医者には薬とベッドという武器があるものですから、これを使ってこのかわいそうな親たちを助けてあげたいと思ってしまうことです。このことに注意して先のことを考えなくてはならない。

その対策はあとで話しますが、とりあえず暴力の対象は家族内に限られているのですから、家族メンバー以外の人に中に入ってもらうことは、問題の沈静、親のシビアな状況を緩和するのに役立つだろうことは考えられます。

4.暴力的な家庭に育つ子どもたち

加害者の年齢は10歳くらいから14、5歳でしょうか。こうした加害者の出自を見ると、二通りに分けられるような気がします。その一通りは、もともと暴力的な家に育っています。暴力が夫婦間に起こっていて、子どもがその目撃者になっているような家で、この家ではどんな問題も直接暴力によって解決されます。こういう家は家族内に限らず、たとえば、近隣との境の塀がちょっと出たとか出ないとか、ゴミの出し方がどうだとか、そんなのはみんな暴力で解決する。ここでいう暴力のなかには法的追及といったかたちの行為も含まれます。こうした攻撃的な家の子は攻撃的です。

夫婦間暴力のなかで育った男の子、女の子がどういう大人になるかというと、男女で表現がずいぶん違っていて、男の子はバタラーのほうに同一化が進むし、女の子の場合は、お母さんのほうに一致して、次の世代のバタード・ウーマンになってしまうことが、残念ながら観察されます。これは、私のような形の臨床をやっていますと、次々に出会うことで、現に夫の暴力に悩んでいる人のお母さんが実に彼女と似たような形でバタード・ウーマンをやっていまして、「女というものは殴られるもの」とでもいったような定義がその家には代々伝わっているかのように見えます。たとえばこういう家はどういう夫とどういう妻の場合に多いかというと、私がかねてから観察していたアル中夫とそれを支える「共依存症」妻のパターンです。実は私はこれで博士論文を書いたのです。これは暴れる夫と殴られる妻の典型です。

この種の暴力的な家庭のなかで子どもをやっていると、どうしても暴力で問題解決する癖がついてしまうことがあります。子どもが目撃者の立場をとらされること自体、私は一つの心的外傷だと思います。また、「目撃者・被害者から加害者へのプロセス」という言い方もあったりします。もちろん、子ども時代に虐待を受けて大人になってからまた配偶者との間で被害者になる人もいますが、子ども時代被害者で大人になってから加害者にまわるという例が多いようです。この人たちの攻撃性は時には自分自身に向いて、自殺、自傷行為の形をとることもあります。

そういうところで育ったアル中の父に苦労してきた娘と、暴力を覚えて育った男がよく一緒になる。これがまた、どうしてまったく別々の出自の人同士がお互いのおいたちを見分けるのか、実に不思議なのですが、こうしてみると一目惚れというのは実に危険だとしかいいようがない。聞いて見ると、パーティー会場でもたもたしていたり、すみっこに張り付いていたり、お酒をこぼしてしまったり、女のほうが世話したくなる男だったから、というわけです。プライドばかり高くて現実的な処理能力が低い男というのがよくいますね。「そんな男にケア・テイクする女」という典型があって、こういう結ばれ方がずっと私たちの世界のなかにあったのでしょうね。

5.「普通」の家庭に育つ子どもたち

しかしこのタイプは、家庭内暴力児の割合としては少ない、というのが私の見方です。たとえば私の外来に来る人たちには、このタイプの人はほとんどいません。そういう人たちは刑務所にいますし、多少ましな人は精神病院の薬物・アルコール依存病棟にいたりする。

私のところにはベッドはなくて、外来とデイケアをやっているのですが、まず親が、「子どもに殴られます。どうしようもありません」といってやってきます。そういう親は子どもを殴ったり、妻を殴ったりする親ではなくて、職業でいえば医師・教師など「師」のつく人や企業の幹部などが多いです。年齢は40代後半から60代初めくらい。ご近所からいえば、地域の中堅層でしっかり根を降ろしている方でたいてい一戸建。都内でいうと世田谷区あたりで広いお庭があるような人たち。この人たちが「今まで子どものために一生懸命考えてそれなりにやってきたと思っていたのが、こういうことになって、これ以上どうしていいかわからない。どうしましょうか」といってやってきます。

●子どもは連れてこなくてよい
こうした問題をどう解決するか。今お話ししたようなプロファイルで親がやってくれば、「子どもがおかしいのだろう」と推測してしまうのはあたりまえでしょうね。臨床家としてまず「子どもさんが来なければどうしようもない」「子どもに問題があるのだろう」と思ってしまいがちです。これは「個人のすることは個人に原因がある」と考えるからですが、実際のところ、人間が自分一人で起こしている行為など一つもありません。この簡単な事実に気がつけば、なにも「システムズ・アプローチ」などというまでもなく、来たくない人を無理に来させなくても、行動を変えることができることに思い至るのです。

たとえば、アル中の夫を抱えた奥さんの場合、夫を無理に精神科に連れてこなくとも、奥さんの行動が変われば夫の行動も変わることがわかっています。断酒会やAAといった酒をやめ続けるためのセルフヘルプグループがありますが、いやがる夫をそういうグループに連れていかなくてもいいんです。「断酒会にいく」という今までとは違う行動を妻がとり始めますと、夫との関係が変わってくるのです。夫のほうに何も働きかけずともいいです。私だってアル中の男なんかそうそう見たくありませんし、奥さんのほうだけ来ればいい。奥さんのセルフ・エスティーム(自尊心)を高めていきますと、アル中は飲まなくなりますよ。同じようなことは家庭内暴力についても言えるんです。

●暴力被害者としての親の保護とトラウマ治療
まず、やらなくてはいけないことは、子どもからの暴力を受けてやって来た親たちを、暴力被害者として保護することと、トラウマを治療すること。暴力の飛び交うところに身を晒しながら「冷静に考えろ」と言ったって無理ですから、とりあえず安全をはかること。治療にやってこない、暴力を振るう側の人のことは考えない。目の前にすわっている被害者のことだけを考える。それがバタード・ウーマンであればシェルターに逃がす。バタード・ペアレントであれば、シェルターがあればそこへ、なければホテルなり何なりへとにかく逃がす。ここから始まります。

1週間なり、2週間なり、もう新しい青痣ができない状態を作ってから、ほかの親たちの意見を聞いていただいたりする段階に至ります。そこで、粉々になった「親としての誇り」に問題の焦点を移していきます。親たちは「私のいたらなさゆえにこうなったのだ」と自分をせめています。暴力被害を受けた上に自分の親業に対して面子と自信を失う。自分の生き方そのものに肯定的でなくなっています。
 
私の仕事は、そこで「そんなことはないですよ。あなたは自分がいいと思うことを一生懸命やってきたのですから、それでいいのです。たまたまこうなってしまったのは、いろんな要因が重なったからですが、あなたは、あなたの限界のなかで一番いいことをやろうとしたことに間違いはないでしょう」ということです。その人がもっている能力に自信を持っていただく作業をしなければ、それから先がないですね。

●危機管理
その次、3番目に何をするかというと、とにかく現実対処が先です。「家族と暴力」の問題で一番大事なのは、危機管理であって、精神療法などというのはずっとあとの話です。ここのところを間違えるから実に妙なことが起こる。たとえば、危機管理問題を登校拒否問題などと間違えたり。暴れる子はたいてい学校には行っていませんからこれを「不登校の問題だ」などと思い違いをしてしまうと、問題はどんどんずれていきます。
 
だいいち、不登校なんて危機でも何でもない。考えてみると、あんなにたくさんの子どもたちがいっせいに毎朝8時半に学校へ行くのは、気持ち悪いくらいでしょう。しかし、親が子どもに殴られている事態は明らかに「危機」です。もちろん子どもが殴られているのも「危機」ですけれど、この問題はちょっとおいておきましょう。

●効用の発見
その次には、「ではいったい、何が起こったのでしょうか」という話をします。このときに強調するのは、「人間がやっていることで無駄なことなんか何もないはずだから、いまあなたのお宅で起こっていることにも何か必ず効用がある」ということです。これは、家族療法家がよく用いる「ポジティブ・コノテーション(肯定的意味づけ)」という考え方です。過食してゲロをはいていようとも、アルコールを飲んでつぶれていようともそれには何か効用があるわけですから、「お宅の場合はどうでしょうか」とその効用性を親たちに考えてもらい、発見してもらいます。

こういう話になると、少し、笑いが出てきます。たいがいの人が発見するのは次のようなことです。

たとえば、家庭内暴力はまず弱いものからやられます。最初はガラス、壁、机の足、猫、カナリヤのたぐいから弟や妹、母、そして男の子の場合は父親までいきます。女の子の場合は父親とはバトルをやりません。やりあったら負けるのがわかるから。思春期の男の子にとって父親を殴り倒すということは、自分の中で父親をなくすことです。殴り倒されて這いつくばった父親の姿は、自分のもっている掟、父という存在を消してしまうものですから、これは最後の最後までとっておきます。
 
順序としては、きょうだいが逃げ、お母さんが逃げ、ついにお父さんに手が及ぶ。この時私たちは「おとうさん、そこでがんばらないで逃げましょう」ということが大切です。逃げてしまえば、一見負けたようだけれどあとから「兵糧攻め」で仕返しができます。こうしたことも、ミーティングで話をしてもらう中で「こうなったら、こうする」と、予行演習しておくと衝撃が少なくてすみます。「そろそろ私(父親)にも暴力が及んでいます」と私のところで話しながら、心の中で覚悟をしてもらう。この状態が「妻がとうとう逃げまして、今は私が残ってコンビニのお弁当を買って渡す係です」となり、次の週には「私もとうとう逃げ出しました」という。奥さんが先に逃げ出した基地に移っていくわけです。この場合、もともと逃げ場所がはっきりしていますから無理がありません。

さて、前置きが長くなりましたが、こんな状態の「効用」とは何でしょうか。これを奥さんのほうから見るとどうなるでしょう。ほとんど口をきかないコミュニケーション不在の夫婦だったのが、暴力息子から逃げて二人で6畳一間の「神田川」の世界になるわけです。2人そろって銭湯へいったりして、とても親密な世界ができ上がる。「息子は体を張ってこういう機会を与えてくれたんですね」と考えたほうが、「息子に追い出されるなんて」と考えるよりはましなのです。

問題解決に一番役にたつのは笑いです。あまり悲惨だと「なにこれ!笑っちゃうよ。一年前にはこんなこと考えても見なかった」なんて「笑っちゃう」。こんなふうに笑っているときはどんどんいい知恵が湧いてくる。また、「どうやったって、なんとかなる」と思えるときには、親殺し、子殺しは出てきません。

考えてみますと、「いい子」とは「従順な子」ということです。何に従順なのかというと、親が世間に従順で、その従順さを子が見習っているということですから、これを私は「親教(ペアレンティズム)」とよんでいます。

ちょうど2、3年前にマインド・コントロールとかオウム真理教が話題になったときに、テレビに出ているオウム真理教の幹部たちを見ていて「どこかで見たことのある人たちだな」と思ったら、私の周りにいるアダルト・チルドレンたちにそっくりなのです。私は「神を求める若者たち」とよんでいますが、彼等はいつでも自分たちを子どもの位置において、指示をしてくれる人を待つという学童期の少年のような心性がいつまでも残っている。こんな子たちは当然、「いい子」ですから、一見従順です。自分たちの自主性をどこかにおいて、世間が求めるものを探しています。
 
「親教」とは、「親が何でも知っていて、おまえたちは何も知らない。だから、親のいうことをきいていればいいのだ」というドグマを持っています。これが第1のドグマ。第2のドグマは「世間並みであれ、世間から逸脱しないように」というもの。第3は第2と少し矛盾するのですが、「お友だちに負けてはダメだよ」というもの。親というものは、だいたいこの3つを繰り返していっています。私たちも親になればそれを子どもにいっている。こういうものに囚われていると、「いい子」になってしまう。

「世間並みでいなさい。あなたは何も知らないのだから知っている人のいうことをよく聞きなさい。だけど友だちに負けないようにしなさい」。こんなふうに日々生きている人たちが親をやっていて、その子どもたちがどうして暴力をふるうのか。この親たちによってつくられたシステムが機能しなくなって、全体が息苦しくなっているからです。

「いい子」が生まれる家族システムはたいへん強固です。安定性がいい。世間のとおりがいいし、お父さんは一部上場企業の幹部社員か何かをやっているし、お母さんは時に地域の署名運動などを展開する「高学歴奥さん」やっている。けれども内実は父方のおばあさんが同居したりして、嫁姑をはじめとする人間関係がそうとうギクシャクしている。なのにそうしたことは口に出していえない。こうした「一見波風がたたない家」というものがあります。こんな家の中で暮らす子どもがだんだんに自己表現というものに懐疑的になって、息詰まりを感じるときに、暴力は発現してきます。

さて、「効用」の話に戻ります。要するに、「波風のたたない家」は安定しているので、システムの変更は起きにくい。このような家でシステム変更が必要なときには、直接暴力が一番よくキクのです。直接暴力は、言って見れば「革命」ですから。

たとえば、こんな家がありました。何代も続いた老舗で、屋号がよく通っているような家です。ここではおばあさんが権力を握っていて、社長であるお父さんには実権がない。その奥さんであるお母さんがたいへん苦労して全体をまとめている。こんな家で、大学を出て1、2年、年のころは23~24歳という長男が暴れ出しますと、ものすごくドラスティックな変化が起こります。彼はまず、おばあさんの部屋へ行って「ばばあ、200万円よこせ」と言った。「そんなお金はわたせない」とおばあさんが言ったとたん、彼はバットを持ち出します。そしておばあさんには直接手を出さなかったのですが、部屋中のガラスを全部たたき割った。おばあさんは腰を抜かさんばかりにびっくりして、隣の区にいる娘の家へと移っていきました。次に彼はチェーンソーを持ち出し庭へ降ります。彼は大学時代森林保護のボランティアをやっていましたので、チェーンソーの扱い方がとてもうまい。チェーンソーで屋敷内の木を全部切り倒したのです。これが全部敷地の内側に倒れた。あとでお母さんは「お隣りさんには迷惑をかけませんでした」と感心していましたが。

呆然と見ている両親を振り返り、彼はお母さんに向かって「ばか!八方美人!」と言い、「ばばあが出て行ってさっぱりしただろう」と言ったのでした。彼がやっていることは明らかに正常だと思います。一種の「革命」だと思えば理解できると思います。

そのまま彼はお父さんの車に乗ってどこかへ行ってしまいました。結局、ある宗教道場へ入って、たぶんその宗教団体のためだと思うのですが、時々実家へ戻ってきてはお金を強奪して行くのです。何ヵ月かしてお金の要求が頻繁になってきたところで、お金渡し役のお父さんが「どこにいるのか明かさない限り、もうこれ以上、お金はやれない」と交渉を始めた。こうして旧勢力が打倒されたあとの脆弱な新政権と革命軍とのネゴシエーション(交渉)の段階に入って、IMFである私が参加する。彼はまだ宗教団体に片足を突っ込んでいますが、少なくともばあさんが出て行ったあとの体制は固まってきています。

「こんな仕事を精神科医がやるの?」と言われれば、私がやらなくてもいいかな、とは思うのですが、社会が精神科医に期待しているのはこの辺の仕事だと思います。できれば、精神科医よりも少し時間の余裕のあるソーシャルワーカーなどが一緒に担当して、一緒に交渉に立ち合ってくれればありがたいと思います。

このような暴力の問題は、それなりに効用を持っています。家のシステムを硬直したものからもっと柔軟で新しいものに変える効用があると思うのです。このことをグループ・ミーティングなり何なりで被害者である親たちに納得してもらうことは、彼らを助けます。(続く…

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Posted by ssworld