母の承認ということ

以下の文章は、現在製作中の本(仮題”寂しくて、退屈な人のために”、大和書房)の一部に用いたものです。’97年の年始に書きました。この前後、「承認」のことを考えていて、この本の中に挿入したくなったので、もうゲラ刷りの出ている段階なのですが、割り込ませて入れることにしました。昨年末から今年にかけて、麻布DNCの皆さんからの質問やシェアリング(わかちあい)で、このことを考えさせられることが続いたので、「対人恐怖」、「難治性抑うつ」、「親の承認」などの言葉が、今、私の中をめぐっているのです。

真の欲望とは「承認される欲望」のこと

母親の前で泣いている赤ちゃんのことを考えてみてください。この二人の間には言語が介在していません。母親は「オギャー」の叫びを空腹と受けとめるかも知れない。それは本当にそうなのかも知れないし、そうでないかも知れないが、母親が子どもの欲望を読み取ろうとする。そのこと自体がここでは重要なのです。これを「お腹が空いたよ、オッパイちょうだい」と聞き取る母親との関係の中で言葉が生まれ発達します。そしてその基底にあるのは、乳児の存在をまるごと認める母親の存在です。こうした乳児に向かう母親の意識と、そこから始まる充足感こそ、人間にとって最も基本的な欲望と言えるでしょう。こうした「母親から承認される欲望」のことをフランスの精神分析医ジャック・ラカンは「母親の欲望」と呼びました。わかりやすく言えば、「母が自分の存在を欲望しているという欲望」のことです。

「おねだり」は恨みを増す

人間は他者との間で、この基本的な承認を求める作業を繰り返します。それを「人生」というのです。その出発点で、この基本的な欲望がほぼ満たされている人は、その後の人生が比較的楽です。「私は人に認められ、受け入れられて当然」と思える人は、特定の状況で特定の他人から拒否されても無視されても、それほどこたえません。「あの人(他者)変だわ」くらいで済んでしまう。しかし基本的な承認を受けていない人は大変だ。自分の基本的な欲望を満たすためには、まず母(他者)に、「おねだり」しなければなりません。

しかし厄介なことに、「おねだり」して得られた充足は、真の欲望を満たさないのです。自分の欲求や欲望(欲求=必要というのは生理的なものです。欲望というのは、生理的な必要が満たされたという「記憶」によって生じるもので、そこには他者との関係という問題が含まれます)を読み取ってもらえないという「寂しさ」がつきまとうために、「おねだり」そのものが嗜癖化します。結果として「貰っても、貰っても」満足がないという「貪欲」に陥ります。

要するに「おねだり」は恨みを増します。恨みは他者との関係を破壊する感情ですから、これが蓄積するとやがて爆発します。この手の爆発は「自己愛性憤怒」と呼ばれるもので、これが承認を求める当の愛着対象に向けられるのです。もちろん相手は心身ともに傷つきます。思春期になって筋肉の力が増した子どもが親を罵り殴るとき、あるいは男が愛しているはずの妻を侮辱し暴力で制圧しようとすろとき、そこに生じているのはこの種の憤怒です。

対人恐怖と「承認」

「承認」に由来する恨みを抱えながら、「おねだり」もできず、憤怒の爆発も起こさないでいるのが対人恐怖者です。対人恐怖者は他者に承認されることを渇望しながら、そこで生じる「他者からの侵入」、「見知られる不安」に脅えている人です。自己と他者との「相互承認」が「相互侵入」という危険を犯してようやく成立するバランスというものがあります。

そうした危険にもかかわらず敢えてこの関係に踏み込むことを「親密性」と言うのです。対人恐怖者というのは、この「危険」を犯したがらず、それでいて自分が承認されることを望み、それが得られないことで世の中に恨みを抱えている人であることは、ここで明確にしておいた方がいいでしょう。

「おねだり」などするまでもなく、「私を受け入れてほしい」という人間としての最も基本的な欲望が、満たされずにいるわけですから、その苦痛はひどいもので、だから治療を求めるようになるのです。

実は、彼らが自分を「対人恐怖者である、治して欲しい」と訴えることそのものが、ここで言う「おねだり」なのです。症状を訴えることによってしか、「おねだり」できないくらいだから、彼らは異常にプライドが高い。でも、この必死の懇願が受け入れられることはまずありません。なぜなら、この悩みは自らが他者(仲間)を承認し、自己の侵入を許す他者の苦痛に共感することによってしか癒せないものだからです。医者に会い、症状を訴えるのは比較的やさしいが、仲間と出会い、彼らを相手より先に受け入れるのは難しい。ここに対人恐怖者の治療の難しさがあります。

ですから熟練した治療者は、彼らの訴える症状なるものをひとまず棚上げして、頭を空にすることを薦めます。そうしておいて、まず彼らの生活の外面を充実させようとする。例えば、丁寧に、一心不乱に部屋を掃除し、日々の日課をこなすといったことです(こうしたことなら対人恐怖者は得意なのです)。そうしているうちに自己の中の他者に気づくようになる。というより、以前は苦痛であった自己との出会いが多少楽になる。以前はネゲイション(自己否定)に満ちていた自己の内部の声が、自分に優しい友人の声に代わってくる。

こうして自己と自己との1.5人関係の対話が定着してきたとき、自己は既に「自分という他者」の侵入を受け入れていたことに気づくのです。ここから回復(というより「魂の成長」)が始まり、自己の外部の他者を承認することも可能になります。つまり対人恐怖者とは、「自己に否定的で、厳しい人」のことであり、「他者との間に親密な関係を築く能力の乏しい人」のことでもあります。

Taijinkyofuという言葉は、アメリカ精神医学会編「精神障害の診断統計マニュアル」第4版(1994年)にも登場するようになって国際的になってきましたが、このマニュアルでは、日本人の文化に結合された特殊地域的な病気として取り上げられています。実際はそんなことはないので、アメリカにもたくさんの対人恐怖者がいて、「社会恐怖」や「回避性人格障害」や、ときには「妄想型精神分裂病」などの診断名が付けられているだけの話です。

ただ日本の精神科医がこの病気に接する機会が多いことは事実で、だから日本には対人恐怖研究の膨大な蓄積があって(言葉の関係で、国外に知られることが少ないのは残念ですが)、森田療法などの治療法もいろいろ工夫されているのです。ということはつまり、日本社会に暮らす人には「親密性を築く能力」に欠けた人が多いのではないかということに気づかされます。プライドが高い、恥ずかしがり屋でコミュニケーション能力が低い、そのために「仕事で勝負、それこれだけの成績を上げたぞ、文句があるか」という態度になりやすい。こんなところに日本人の、特に日本の男たちの最も深刻な問題がありそうです。

嗜癖と対人恐怖

ふつう精神科医たちは、この二つを関連させて考えることがありません。多分その外見の相違のためだと思います。嗜癖者は「だらしがない」、「自分に甘い」、「酔っていたりすれば社交的である」、「すぐに他人に頼る」などの印象があるためでしょう。謙虚で奥ゆかしくて、几帳面そうな(そう見えるだけの話ですが)、対人恐怖者の印象とは随分違います。

しかし、仕事依存なども嗜癖であることを考えれば、この二つには密接な関連があります。というより、「嗜癖者とは対人恐怖者のひとつのタイプである」と言い切って良いと思うのです。更に言えば、対人恐怖者は嗜癖という形でしか、「おねだり」ができないのです。嗜癖者に見られる社交性なるものも、実は「清水の舞台から飛び降りる」ような冷や汗ものの無理であることを、彼らと長く接してきた私は知っています。

もともと親密な関係を作るのがうまい、社交的な人なら、なぜ酔っぱらって賑やかになったりする必要があるのですか?なぜ、子どもっぽい甘えの仮装を使って異性関係にのめりこんだりする必要があるのでしょう?共依存者になると、この関連がよりいっそう明確になります。共依存者の特徴のひとつは他人の評価を恐れることです。共依存者についてA.W.シェフが擧げているつの特徴は、そっくりそのまま対人恐怖者のものです。共依存者は他者の「承認」を求めながら、「おねだり」もできないままにそれを断念しているのです。人としての承認を相手に求める代わりに、相手の欲望にひたすら奉仕し、そうすることで、「他者にっとっての奴隷(あるいはロボットというモノ)」の役割をとり続けているのです。アンソニー・ギデンスという人は、共依存を定義して「他者の欲望を借りて、自分の欲望としていること」と言いました。これこそ、親密性の獲得に失敗した対人恐怖者が他者に対して取るひとつのタイプに他なりません。

「母の承認」を求め続ける女性

以上のことをわかりやすい形で表現している、一人の女性の生き方を紹介しましょう。その女性は自分のことを「嗜癖のデパート」と言いましたが、最初の嗜癖の記憶は、小学校低学年のときのアジシオ依存だったそうです。そのきっかけは今まで手作りのおやつを用意してくれていた母親がパート仕事にでるようになったことでした。

学校から帰った彼女は、暗い家の中に明かりをつけるところから始めなければならなくなりました。「母の不在」の寂しさを、彼女は過食で紛らわせました。初めはコンビニで買うスナック食品でしたが、やがて同じような味のするアジシオで紛らわせるようになり、アジシオの瓶が数日で空いてしまうようになりました。この塩味過食は、やがて抜毛癖(毛髪をむしり取る嗜癖)や喫煙癖へと進み、高校時代には既に帰宅後の飲酒が常習化していたそうです。自傷行為もやってみました。大学生の時には過食もアルコール依存も「症」も時を付けておかしくないほどになりましたが、それでも何とか有名大学を卒業しました。

そして就職。自分の自由になる収入を得るようになるとすぐに一人住まいを始め、連夜のバーと居酒屋通いが始まりました。そうした場で気のあった複数の男性と恋愛しました。

一人の男性との安定した関係というより、もう一人ないし二人の「スペア」がいつも居るような関係です。「スペア」を置いておくのは、耐え難い寂しさみ襲われる不安から逃れるためです。このように書くと、すさんだ生活に溺れる病んだ女性のように思われるかも知れません。が、そうではありません。彼女は元気に働いています。自由業的な仕事に就いていて業績も挙げており、むしろ仕事依存ぎみです。しかしもっと驚くのは、彼女は31歳になった今でも、母の前では萎縮した柔順な娘であることです。実は、彼女は今だに母親が怖いのです。母親に「見捨てられる」のが怖いので、数多い嗜癖も限度を超すことがありませんでした。過食はしても嘔吐はしませんでしたし、極端な痩せにも無縁だったのです。手首切りはしても自分で手当しましたし、抜毛しても丸ハゲになりませんでした。アルコールもタバコも母には隠し通してきたのです。

彼女は母の生き方を良いと思っているわけではありません。それどころか、世間を気にして気を使う母を軽蔑しているくらいです。ですから、専業主婦の母とは全く違った人生を自力で切りひらいてきたのです。そのうえ結婚もしました。付き合いのあった数人の男の中から、比較的上等と思える男を選んで結婚し、今では2歳の子どももいます。しかしそれでも母親からの「それでいいのよ」という承認の言葉が欲しい。母のこの一言の価値は「異性の魅力をはるかに超える」と彼女は言います。得られないものを待つ「耐え難い寂しさ」が彼女の嗜癖を生んでいたし、今でも寂しいのです。でも、このことを理解するようになったいまでは、彼女の生き方も変わらざるを得なくなるでしょう。

親密性とは対等な二人の関係

私たちは母親(ないし母代理)の関心と世話焼きの中で育ってきました。ですから母親との関係こそ親密そのものと言いたいところなのですが、そう簡単ではありません。私たちは母親にしがみつき、依存してきたわけですし、母親の方も私たちを拘束してきましたから、この関係は平等ではありません。

対等であることは二人の人間が親密であることの必須条件です。私たちにとっての「真の欲望」とは、自分以外のもう一人の人から「承認」してもらうことだと前に言いました。必要なのは条件をつけない「マルごとの承認」です。「そのままのあなた、そのあなたがいい」と言うのが承認ですから、自分が完全無欠で、この世の中心ということになります。しかし他者からの承認ばかり求める我がままが続くと、相手は奴隷のようになってしまいます。奴隷に承認されてもしようがないので、自分の方でも相手を承認しなければならない。そうなると、自分の方の都合ばかりも言ってられない。相手に承認されるように、自分の方も譲歩しなければならないとなると、他人が自分に侵入してくる不安に耐えなければならないことになるわけです。こうして私たちは「私を承認してという自己主張」と、自分を承認してくれる他者に価値を見いだす「他者承認」とのバランスを取って毎日暮らしているのです。親密性というのは、こうして相互に承認しあう二人の人々の間に漂う感情です。

このバランスが崩れた時のひとつのありかたは、自分を卑しめ、承認してもらいたい人の奴隷のように支えて過ごすという屈従の人生です。そんな人は多くないだろうと考えるのは間違えています。夫に支え、子どもにつくし、夫の出世と子どもの成長を自分のことのように喜んでいた一昔前の女性たちの人生はこれに近かったと思います。

逆に自分だけが優れていて強い、周囲のすべては自分に奉仕するモノに過ぎないということになると、これは寂しい世界です。寂しいから大急ぎで、承認してくれる「他人」を探そうとする。そしてそれらしい人々に出会うたびに、自分の力を確認しようとして相手を征服しようと攻撃します。この攻撃は、自分より強いもの優れたものに出会って、自分が奴隷になるまで続くパワーゲームです。子どもが暴力などで親を支配してしまった場合、子どもはこの種の寂しい世界の中であがき続けることになります。

ですから親は、子どもの自己主張に適度な規制を加える力と気力を持ち、子どもが承認してもらいたい人として留まる覚悟が要ります。子どもを承認しつつ、子どもから承認を求められる者であり続けること、これが親の仕事です。これが難しいから、成人になった子どもは、親から離れようとするのです。もっとも大人になってからもベタベタとまつわりつくような「友だち親子」や「一卵性母娘」ならたくさんいます。この場合は、相互に情緒的に分離した二人になっていないのです。子どもの方で大人になっていないで親子の融合が切れていないか、あるいは親自身がはじめから大人になっていないでチャム(なかよし)グループを続けているだけのことです。こうした二人は、親の方も、子の方も家族以外の人間関係が貧弱です。親密な関係は、あくまでも対等な個人の差異の感覚の上に成り立つものです。相手は自分とは違うという感覚が育てば育つほど、親密な関係の必要性も増し、親密性の感覚に敏感になるのです。

対人恐怖とは親密な関係を作る能力の欠如のこと

他人の奴隷になりたくない。かといって他人を支配しつくす力もない、というところで生じるのが対人恐怖症の人の世界です。孤独で、寂しい。本当は他者の承認が欲しくてならないのだが、それを求めるには自分の境界に他人が侵入してくるのを許さなければならない。その不安と恐怖に耐えられないという状態です。世界の中に孤立する、絶対者としての自己を保ちたいのです。親への過度な依存から脱し、親との相互作用を経験しながら独立した個人として育って行く過程で親密性の感覚は磨かれます。

対人恐怖症者は、この過程に恵まれなかった人ですが、だからといって、一生を閉じこもって過ごす必要はありません。必要なのは、知識とトレイニングです。まず、相互に承認しあうバランスをいうものがあり得ることを知り、体験する必要があります。親からの情緒的独立の過程で、磨く機会を逸した親密性の感覚を成人どうしの「安全な場合」で育て続けて行けばいいのです。どこにそのような「場」があるか?わたし自身は「問題縁」で結ばれた自助グループがその一つだと信じていますが、どこにそれがあるかを知ることも知識の一つです。

寂しさから嗜癖が生じると前に言いました。そこで言った寂しさとはこの種の対人恐怖症的な寂しさです。嗜癖者が食物やアルコールに手を出すのは、これらのモノとの付き合いであれば、自分が承認される、されないという恐怖から逃れられるからです。「冷蔵庫はしゃべらない」し、「酒瓶は要求しない」からです。

親密性とは「拘束されない愛」のこと

親密性とは愛の感情です。しかし愛そのものが親密性というわけではありません。愛は時に相手に侵入し、相手を支配する形を取りますが、こうした愛は親密性とは無縁です。愛に飢え、他人の承認を求めればこを、その他人を愛し、その人の生き生きとした存在を承認する。そのためには、自分の境界に侵入されることも辞さないが、他人の奴隷として屈服するわけではない、というギリギリのバランスのところで成立するのが親密性です。

セックスする二人は、陶酔の中でそれぞれの情緒的境界を破り、肉体において境界侵犯をゆるし合います。独立した個人にとっては危険な状態に入るというところに意味があり、だからこそ人間関係の中でも特異で重要なものとされているのです。したがってこれが、相互承認という前提なしに行われるとそれは加害と被害の関係になり、被害者は肉体だけではなく、心理的にも傷を受けます。そしてトラウマ(心の傷)は、被害者のその後の人生に深刻な影響を及ぼします。

セックスの際には、その人の親密感覚の発達が試されているとも言えるでしょう。情緒的独立が達成できていて、自己評価の高い人(自尊心の泥棒たちからの被害の少ない人)の場合、柔軟ではあるけれど輪郭のはっきりした自己境界を備えています。それを相手に向けて解放するという行為そのものが、自己主張でもあり、他者承認にもなるのです。

それはそのこと自体、自分への優しさを高める行為です。相手の欲望に奉仕するためだけのセックスは、自分に優しくないだけでなく、奉仕しているはずの相手からの承認も得られません。そのセックス相手は単なる道具、モノに過ぎないからです。男が金を払ってするセックスであれば、男は単なるキャッシング・マシーンです。

セックスを伴うような関係では、愛は拘束に変わりやすくなります。伝統的なセックス観の中では男がしかけ手、女が受け手のように考えられてきました。まるで女性は性的欲望を持たないかのように。そしてひとたび性行為が完了すると、しかけた男が女に責任を持つのが当然と考える傾向がありました。これではまるで経済行為です。たとえそこに愛が介在していたとしても、男だけがセックスする主体であり、女はその客体に過ぎないというような関係は親密性とは相いれません。

このような関係の中では、セックスはむしろ拘束のための手段と化します。男が女を引き留めるための、女が男に責任をとらせるための、あるいは愛情が少しでも残っているか否かを確かめるための手段です。このように考えてみると、世にありふれているセックス行為のほとんどは相手を拘束するために行われているような気がしてしまいます。

(斎藤学、精神科医)

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Posted by ssworld