カテゴリー「ミーティング(友子さん)」の一覧
2007年04月23日
再来診1回目(1/3)(友子さん)
私がこちらにこさせてもらうのは今回で3度目です。それぞれ3〜4年間位づつ間があいています。
はじめてここに来た時は私は自分の事はほとんど全く話せない人間でした。また自分が何故ここにきたのか、ここが何をするところなのか、ほとんどわかっていませんでした。
そのころの女性向けの雑誌の中に「日経ウーマン」だったかと思いますが、「働く女性の皆さん、心のケアは大丈夫ですか。」という記事があり、それを見てここにつながりました。
===
私が始めにここに来たばかりの頃(9年くらい前だと思いますが)は、月曜日の朝、その一週間の簡単な目標を発表する「おはグリ(?)」というプログラムがありました。
私は「おはグリ」で前の席にすわると、何か言おうとしてもとたんに涙がいっぱい出てのどがキューッとひきしまってうめきになりことばを出す事ができませんでした。
何回やっても泣き声うめき声になってしまうので齊藤先生より、
「あなたは聞いているだけにしなさい。あなたの場合はここで話をしなくてもよい。ここで聞いているだけにしなさい。あなたの場合は、自分を語る事が自分にやさしいとは言えない。」
と言われました。
それは先生からの思いやりの言葉でしたが、私は内心あせりました。何十年もひとり暮らしで独立して生活していて蓄えもなく「聞いているだけ」というそんなに何年もかけて通える生活の余裕も、助けてくれる人もいないので、厚生年金から傷病手当金をもらえる期間内になんとかしなければならないと思っていました。
ここでの治療の根幹に「話す」ということがある、と齋藤先生より聞いたばかりでしたし、そのころ、図書室の壁に貼られていた新聞の切り抜きに、「感情をことばで表現していくことによって治っていく」というようなことが書いてある記事を読んだばかりだったからです。
回復には時間がかかる、と聞きました。「語る」ことができて、それでも時間がかかる。5年とか10年とかいう単位で。「語る」こともできないで、聞いてばかりいて、それで一体何年かかるのだろう、という考えに捕らわれてしまいました。
「先生は話さないほうが良いと言ったけれど、わたしは無理してでも自分で自分をどついてでもしゃべろう」
というような必死な気持ちになりました。
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2007年04月24日
再来診1回目(2/3)(友子さん)
それからは齋藤先生のミーティングではなくスタッフの方達のやっているミーティングに出てそこで無理矢理にでも語る事にしました。
でも、それ以前に齋藤先生のミーティングでも3回位はなんとか話したことがありはしたのですが。
ジェノグラムというプログラムを見つけました。そのときのスタッフの方がとてもやさしくて、私がどんなに泣きわめいたりうめいたりしてもいつもしっかりと受け止めてくれました。
そしてまたそのジェノグラムでの私の話をいつもほとんど必ず聞いてくれる仲間がひとりいて、その仲間も話すのが得意ではない仲間だったのですが同じく話すのが不得意な者として私が親密感を持つことができたひとりでもあり、その仲間が共感して聞いてくれている様子で大変励まされました。
===
そう言う環境の中でそうやってしぼり出すように無理に話しているうちにそのころとしてはとりあえず胸につかえているものをだいたい話してしまった私はどんどんラクになっていきました。
あんなに重かった頭もいつの間にか前のように重たくはなくなり自分でもびっくりしました。
これまであんなに苦しんできたのは一体何だったのだろう? 胸の中に封印していたものを、ただ話しただけなのに、なんでそれでラクになれるのかまるできつねにつままれているようでした。
それから世の中に飛び出していき、いろんな事を体験しました。また新たにいろんな人と巡り会い、その中でさいとうクリニックで学んだ事をいつしか忘れ徐々にほおむりさって行きました。それにつれて自分をかくすようになり、自分を否定し、相手に自分をあわせて迎合していく自分になっていきました。(続く…)
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2007年04月25日
再来診1回目(3/3)(友子さん)
話はまたふりだしにもどりますが、はじめてここを訪れた時は、「頭が重たいのをなんとかしてほしい」という問題でやってきました。でも先生はすべての人に「あなたはパートナーとの関係はどうですか?」と聞いていました。私はこれに非常に抵抗を覚えました。
「頭が重たい事が問題でやってきたのに何故パートナーのことをきかれなきゃならないんだろう!」
と不満をもちました。
しかし、だんだんわかってきたことは、つまり、頭が重いとかそういうすべてのことは、人との関係性の中から生じている、ということでした。
そして人と人は船の底につくフジツボのように自然についてくるものである、それがそうでないときはそうとうな阻害効力が働いている、といえるのだということを学びました。
===
その話を聞き、始めてここにたどりついた時より前の私は「阻害効力」ということばがピッタリの状況を何度も何度も繰り返していやになるほど体験してきたということを思い出し、その時先生がおっしゃったことばの意味がとてもよくわかりました。
一生懸命に胸につかえているもののことを話し、それがだんだんとれていくにつれてその阻害効力もだんだんとれたらしく、すぐに候補者が数人あらわれてきました。ほどなく結婚をすることになったのでした。
しかし対人関係に慣れていない私のことです。現実の新たな環境のなかではあっという間に昔の自分にもどってしまいました。そしてまた、いろんなことを胸におしこめ、また環境はそのおしこめたものを忠実に反映し、どんどん苦しくなって行きました。それでもう一度自分自身と向き合わざるを得なくなりました。
現在、のどのところがいつもつまっていて飲み込んだテニスボールがのどのところでひっかかったままになっているようです。なんでこんなにのどが苦しいのか。私は何をのどのところにつっかえさせているのか、と考えました。
以前さいとうクリニックで必死に語ったけれど、回数としてはまだ数えるほどで、今になって気がつけばまだ話してないこと、誰にも話してないこと、誰にも聞いてもらえなかったことが体の中にたくさん残っています。それでいつも体に力を入れていなければならないんです。
今回は前の様に自分に無理をさせたり、どついたりしてしゃべるのではなく静かに落ち着いて話せる様になるのが目標です。前にうめきながら話したことも平気でスラスラと話せる様に少しずつやっていきたいと思います。
よろしくお願いします。
※友子さんのミーティングでの発言は今後も続きます…
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2007年04月26日
笑え(1/2)(友子さん)
心因性失語症の友子です。
私は小さい頃、母からは養育放棄、父からは精神的いじめを受けていました。以前は母の事を話しましたが今度は父の事を話したいと思います。
父は若い頃自分の父親から精神的な虐待を受けていました。その厳しさは私がこれから話す私の精神的苦労よりずっと大変だったようにも思いますが、まず私の受けた苦痛の話から始めたいと思います。
父は自分の受けた虐待のせいで精神に少し変調をきたしていたように思います。頭の中がコチコチでした。父はその思いをはじめは母にぶつけました。母はその話を聞きたくないのではねのけてしまいました。
===
次に長男にぶつけましたが、長男もはねのけてしまいました。
次に次男にぶつけました。次男は逃げてしまいました。
次に末っ子の私のところにぶつけてきました。
私は私が逃げたりはねのけたりしたらこんどは父が行くところがなくなって頭が変になるのではないか、とかただ単に父が気の毒の様に思ったりして、私はグッと腹に力を入れて聞いてあげることにしました。しかしそれは生やさしい事ではありませんでした。なので私もやっぱり逃げる事にしました。
しかしそうしようと思った時には時すでに遅し。その時にはもう逃げ出す為に必要な羽はもがれてしまっていたのです。
父のやり方はこうです。まず何でもいいから、私のあり方にケチをつけます。たとえば私がため息をついた事とか。そのこと1つで2〜3時間ケチをつけます。
たとえば「私、今日マラソンがんばって走ったから5位以内に入った」などと言えば「マラソンなんかでがんばるのは馬鹿だ」と言ってそれがいかにバカなことかという話で2〜3時間文句を言い続けます。
そのうちもう私には何だか訳がわからないようなありとあらゆることがネタになって私にケチをつけて延々と文句を言い続けるのです。
身に覚えのないその言われように当然私は不満を隠せないのでした。しかし何も言い返すことはできずただただ黙って聞くばかりでした。(続く…)
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2007年04月27日
笑え(2/2)(友子さん)
そのうちなんとかその場から逃げのがれようと考えて少しずつジリジリと足を後ろにずらしはじめます。すると父はするどくきつい声で「逃げるな!」と言います。
その一言で私は縮み上がり、もう身動きがとれません。あとはヘビに睨まれたカエル状態です。ほとんど息を吸う事も出来なくなる位です。その場に凝固してしまいます。
そしてその場を釈放されるまで全身を緊張させてただじっと立っていることしかできなくなります。体はその場に釘付けになりますが目には「聞きたくない」という、聞くのをいやがっているという表情がでてしまいます。
===
こんどはその表情が父の説教の対象になります。オレの話を喜んで聞け、と言う様になってきます。笑顔で聞け。そんないやそうな顔をして聞くな。心から聞け。もっといい顔をして聞け。うれしそうな顔しろ。ほんとうにその通りですと言う顔をしろ。ニッコリしろ。何故できないんだ。全くお前は素直じゃない。頑固だ。と言う様なことを延々と言い続けます。
これは本当につらかったです。まるで拷問です。そして父のこれらのことばは心にささって、その後の何十年にもわたって様々な威力を発揮するのでした。
だいたいもともとの話は「おまえは間違っている。」と言う様な話から始まっているのです。「おまえは馬鹿だ、チョンだ、生き方考え方すべて間違っている。」と言う様な話です。ニッコリしてうれしそうに聞けるわけなどありません。
すでに泣く事はとうの昔に禁止されていました。私はその場からひたすら逃げたいという思いで一杯でした。
威圧されて硬直してしまっている事、自分そのものが頭ごなしに無条件に否定されている事、自分の想うことなどひと言も言う事が出来ない事、そう言う考え方ややり方をする父のこと、その時の自分がそう言う目においこまれていること、愛する父からそこまでの苦しい状況に追いつめられてしまっていることなどからもう悲しくて悲しくて、私にとっては悲しみの絶頂という位悲しかったです。
でもそんなに悲しい時にこころからニッコリしていい顔をして笑えとこの世で唯一頼りにしている父からつめよられているのです。私は何をどう考えてどうすればいいのか全くわからなくなっていってしまいました。
その時わかっていることはただひとつ。言われている通りのことをすれば話題を変えてもらえるかこの場を立ち去ることが出来るかも知れないということです。
・ ・・私は全身全霊の力を振りしぼってニッコリと笑って見せました。もうそのあとのことは覚えていません。多分釈放されたのだと想います。
この様にして私の思いと私の行動や表現がかけ離れてしまっていったのでした。そう言う矛盾だらけの自分がつくられていったのでした。この世で最も悲しい時でさえめいっぱいうれしそうな顔をして笑っていられる私ができあがっていってしまったのでした。
※友子さんのミーティングでの発言は今後も続きます…
斎藤学の講座・ワークショップ
| 講座名 | 日程 | 時間 | 料金 | 対象 | 会場 |
| 斎藤学ワークショップ | 6/16、17 | 14:00〜20:00 10:00〜18:00 | 31,500円 | 一般 | 東京麻布 |
| 斎藤学オープンカウンセリング | 火 | 18:30〜20:30 | 3,000円 5,000円 | 一般 | 東京麻布 |
| 親のための家族相談 | 火 | 18:30〜20:30 | 3,000円 5,000円 | 一般 | 東京麻布 |
※開催日については必ず各講座の詳細ページでご確認下さい
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2007年05月15日
小1の廊下立ち(友子さん)(1/2)
身体性表現疾患の友子です。
私が小学校1年生のころの学校でのできごとです。私は小さい頃からわりと意識とでも言う様な物がハッキリっとしていました。それはどんなことかと言いますと、ある日の1年生の教室で起こった出来事です。
クラスの中で何か事件があって先生はそのことで生徒全員にお説教を始めました。
そのお説教の内容は「どんな時でも絶対に決して嘘はついてはいけない」と言う様な話でした。
===
先生は時間をかけてこんこんとそのお説教をしました。子供達はみんな首を落としうなだれてただ黙ってうつむいてその話を聞いていました。でもその中でひとり私は首をまっすぐに持ち上げて先生の目をじっと見つめながらその話を聞いていました。そして思ったのです。
「この先生はちょっと嘘をついている。絶対に嘘をつくなと言っているが、ちょっとくらいは自分だって嘘をついたことがあるに違いない。便宜上の嘘ということだってあるかもしれないし」
とそんな様なことがはっきりと頭に浮かんでとても首をうなだれて聞く気になれませんでした。
他のみんなが神妙にして先生の話を聞いているのに私の目には反抗心がありありと浮かんでいました。そして壁に貼ってある絵をみたり、外の景色や空の様子などを見たりして態度でも反抗心を隠しませんでした。
私の反抗心に腹を立てた先生は私に廊下に立っている様に命令しました。全校生徒3000人以上のそのマンモス小学校の1年生の校舎はただっぴろい学校の敷地の中の最も辺ぴなところにありました。
放課後になって誰一人いなくなっても私はずーっとひとりでたたされ、ひとっこひとりいなくなった薄暗い校舎に一人取り残されたままでした。小学校一年生のちびの女の子なのに。
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2007年05月21日
小1の廊下立ち(友子さん)(2/2)
同じその小学校一年の頃、家ではさっき説明したような父の説教が毎日始まりました。
父の説教はいろいろありましたが、どれを聞いても私は何一つ納得することはできませんでした。私は父とは考え方が違うのだと、ハッキリと思いました。
その頃「思想」ということばは知りませんでしたが、今思えばその時考えていた内容は父と私とは「思想」というか思考内容が違うと言う様なことでした。同じくそのことばは知しりませんでしたが、いわば父は「性悪説」で私は「性善説」なんだと思いました。そう言う様な感覚の内容を私は感じていました。
父は私を性悪説者にしたかったのです。でもそれは私にはどうしても不自然に思えました。だからいくら父の説教を聞いても聞いても私の考え方が父の考え方に染まることはできなかったのです。父にはそれがどうしても許せなかったのでした。
===
だから父は小学校の先生の様に「廊下に立っていなさい」と言う変わりに「オレの話を聞いたら心から『はい』と言え! そしてその印に聞くのがうれしいという表情をして話を聞け」と命令したのです。そしてそれは毎日毎日2〜3時間。
その頃にもし私の考え方がこんなにハッキリしていなかったら、意識がこんなにハッキリしていなかったら、この頃をやり過ごすのはもう少しラクであったかもしれない、とただの気休めに考えたりすることがあります。
自分というものをこんなにハッキリ持っていなければ父の考え方をただ受け入れるだけで済んだかもしれないと思ったりします。憲法では思想信条の自由は守られていますが家庭内の、特に権力者としての親と無力な子供の関係性の間では無力なものの思想・信条が守られることは難しいことだと思います。
私は持って生まれたありのままの私をとうてい守りきることができず毎日毎日、しかも一日につき2〜3時間という長時間自分自身を精神の危機にさらさなければなりませんでした。
父の話を聞くたびに、そしてその話を聞いて笑顔を作るたびに自分が壊されて行く様でした。
自分の置かれている立場を把握する様になった私は小学2年生になって家出を真剣に考える様になりました。この家には私の生きていける場所はないと思いました。三日三晩ほとんど寝ることもできずに、考えました。
今ここで家出をしても捜査願いが出れば見つけられてしまうのは時間の問題だろうと思いました。
小学校二年の女の子がひとりでふらふらとしていれば見つからないでいることはむずかしいだろう思いました。かといって人の住んでいない山の中に隠れても生きていくことは出来ない様に思われました。家は太平洋の近くにあり、人のいない山にたどり着くまでには誰かに見つかってつかまってしまう様に思えました。また、もし見つかってしまったとしてそれから家につれもどされてしまったら、それからは家出を企む前よりももっと厳しい状況になるに違いないと思えました。
いくら考えてもたとえ家出をしたとしてもその先に私の生きていける道があるとは思えませんでした。考えあぐねた揚げ句に私は家出をあきらめ合法的に家を出られる日が来るのを待つ、という選択をとらざるを得ませんでした。
それからまた永い永い緊張と苦渋の日々が始まりました。
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2007年05月25日
服従とおしっこ(友子さん)(1/2)
友子です。(私の両親の物語について話します。)
私の家には、全身関節リュウマチと全身神経痛で立って歩くことはおろか、曲がったままの足を伸ばすことも曲がった手や指を伸ばすことも、体をよじって寝返りを打つことさえもできない寝たきりのおばあさんがいました。
父はこの自分の母をとても大切にしていました。家の中で一番大事な存在でした。苦しい家計の切り盛りとこの動けない祖母の世話とで実際両親はもうぎりぎりの生活ですでに男の子を二人授かっていた両親はもう子供はほしくなかったのですが、私ができてしまいました。父も母も私を堕したかったのですが
お金がなくておろす手術ができなかったために私が生まれてしまいました。うまれてきたらほしくない女だったしうちでは曰く付きの芳子おばさんにそっくりで、私は母にとって嫌いなうちの象徴となりました。
===
今と違ってその頃は介護用品や社会的ケアもなく動かない祖母を風呂に入れること一つ大仕事でした。家族全員の力仕事でした。(冷静に考えれば上のふたりの兄たちが手伝っているのを見たことがない。私はいつも手伝っていた。)母はこの祖母の下の世話をするのがその臭いがくさくていやだったそうです。そしてわたしのおむつを変える時も祖母の時と同じにおいがするので、おむつを替えるのがいやで赤ん坊のわたしがどんなに泣いてもおむつを取り替えずにほっておいたそうです。
また、やぎを飼っていて、乳が出ましたがその乳は全部祖母にやらなければならないという沈黙のルールがあり(特に小姑が見張っていて赤ん坊に与えることは許されなかった。)貧乏でミルクも買えないので私のミルクはなく私はどんどんやせ細り、そのうち泣きも笑いもしないでただころがっているだけの赤ん坊になってしまったそうです。
いよいよ私が動かなくなった時に母は実家からミルク代を都合してもらい、その時はそれで私は餓死せずに済んだと言うことです。
私が3才の頃まで信州の山の中で木こり、炭焼きの仕事をしていた父が、田畑を売って明るい海のほうへ引っ越すことになりました。そのときも兄二人と祖母の世話が精一杯で私のことは山の中に捨てていこうかと思ったがあの時は捨てられないでよかったなぁ、と父が私に語ったことがあります。
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2007年05月28日
服従とおしっこ(友子さん)(2/2)
母は私をストレスのはけ口にしていたと思います。
父と母は毎日口喧嘩をしていましたが、特に大きな喧嘩をした時はそのイライラを私に向けました。上の男の子二人には木下のわたしの血が(母の実家は木下といいます。)流れているがあんたには私の血は流れていない。あんたはお父さんの子であんたに流れている血は**家の血だけだとそのたびに言いました。いつもずーっと同じことを言い続けました。
何かにつけてそう言いましたがまたある時には「お嫁に行く時は私を一緒に連れて行ってね。」とも言いました。私はそう言う母を気の毒に思いその時は絶対に連れて行ってあげようと思っていました。
私は赤ん坊の頃からほっておかれたので物心ついたときはもうACになっていたと思います。
===
母からの拒絶を幼少より直感で感じ取り私は父親っ子になりました。でもその父親より強要されて、どんなに悲しい時でも父の前でニッコリと目の奥の奥まで全身全霊で笑顔でいなければならなくなりました。
私は夜尿症ではなく、幼稚園の時もそれ以降も夜寝ていて「おねしょ」をしたことはありません。
しかしこうして父に服従するようになってから学校で毎日おしっこをもらすようになりました。家で漏らしたことはありません。学校で休み時間私は自分から友達を求めて行ったことはありません。
いつも私の周りには人が集まって来ました。その集まってきている人たちに対応している間に(父より自己滅却して目の前の人のことに集中するように訓練された。)トイレに行くタイミングを失い授業開始のベルがなってしまい、先生にトイレに行かせて下さいとも言えず、授業中の間ずっと必死で我慢していて結局いくらかおしっこを漏らしてその次の休み時間に終了のベルとともにトイレに飛んでいくというパターンを毎日くり返していました。
当時の小学校は校舎も机も椅子も床も木で出来ていました。だから私の椅子やその下の床はいつもしめっていました。だから私はみんなに私の周りに集まって来てもらうのは困るのですが何故かいつも私の周りには人が集まってきました。
自分で考えると私は泣きたいとかため息をつきたいとか自分の想う通りに動きたいとかしゃべりたいとかふっと浮かんでくる自分の内的心理的生理的衝動をまず反射的に止めてしまうクセがついていました。いつも緊張していました。だからトイレに行きたいと言う衝動はまず一瞬止められその時周りにいる誰かに話しかけられたり話している途中だったらそれを全部聞かなければ次の行動に移ることが出来ずいつもそうしてもじもじしている間に始業のベルが鳴ってしまうのでした。そしてその事をどうしてよいかわからないままどんどん年月が過ぎていきました。
小学校2年生の頃から始まって小学校6年になってもまだ毎日一回は必ず学校でおしっこをもらしていました。私はこのことが誰にも見つからない様にすることに毎日全力を費やしていました。父にも母にも先生にも友達にも見つからない様に、毎日毎日ひとりで戦っていました。
どうしたらこんな目にあわないですむのかもわからず毎日毎日おしっこを漏らさない日はなく毎日毎日それを隠したりごまかしたりすることでせいいっぱいでした。涙なんかもうどっかにすっ飛んでいました。学校から帰る道のりの10分間だけに限りたまに自分では気がつかない時に目から水が出ていることがありましたがそれはただの水で何か目の病気と思いました。
そのおしっこ壁は中学生になっても止まりませんでした。中学生になってからはちょっとだけ回数が減った様に思いますが二日に一回か三日に一回くらいになったと思います。
高校生になってもまだ完全には止まりませんでした。でも高校生になってまもなくのある一週間を境に私の精神のある場所がものすごく変わりそれ以来二度とそういうことはなくなりました。
私の小中学時代は毎日緊張して緊張してとても大変でした。
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2007年06月04日
話しても良い&ままごと(友子さん)(1/2)
友子です。
何日か前の夜のことです。ここにくるまで私は生まれてこの方自分のことばを誰かにきちんと聞き止めてもらったことはなかったなぁーという思いが湧いてきました。
このさいとうミーティングで今までに3回続けてシェアーをさせて頂きました。
2回目のとき、なぜ5分なのかという話がありました。この5分というのは導入みたいなもので大事なのはそのあとの会話のやりとりなのだ、ということでした。
その話には私はあせりました。私は何がにがてといって「会話」というものが一番にがてです。先生は「会話の自由なリズムとかそのフローティングを楽しむことが大事」とおっしゃいました。
===
私にはこのさいとうミーティングのハードルが再び急に高くなりました。私にはそんなことはとても無理と思いました。でも今、目の前にあることで出来ることを一つ一つやっていくしかないので、話すことのつらさやのどの苦しさをおしてまた3回目のシェアーに取り組みました。
この夜、これらの出来事が思い出され自然に涙が出てきました。静かで自然な涙でただハラハラと流れました。そして感慨深く感じたことは、「私がここに来てしゃべったのはまだ3回だけだけれど、私のことでもここではちゃんと聞いてもらえるんだ、」ということです。
また逆に、ここに来るまで私の話は誰にも聞いてもらえなかったんだなぁ、ということです。
私はこれまで一体何人位の人々と出会ってきたのかわからないけれど、これまで私の話を聞いてくれる人は誰一人いなかった、ということです。
4〜5才の頃の話にもどります。私がこの世に生まれて来て始めての記憶は、それは「母に近づいたら殺される」というものでした。
「この人の半径5メートル以内に近づいたら私の命が危険にさらされる」という体験でした。
そして、子供ながらに、こんな思いはとても不謹慎な思いであり、その思いはたとえ誰かに話したとしてもだれにもわかってもらえるものでもなく、特に大人に話した場合にはかえってこちらがとがめられるのが関の山と思い、こんな考えは決して誰にも話すまい、と思って胸の奥深くにしまいこみました。
それ以来私は母の半径に入らない様に緊張して過ごしました。そして小学校に入った頃からは父から否定されるようになり、さらに緊張して過ごしました。
(続く…)
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2007年06月07日
話しても良い&ままごと(友子さん)(2/2)
この頃より私の頭の中に小さい黒い点のようなシミができた感じがしました。
それはとても小さいシミでしたがまるでブラックホールのように大きな存在感がありました。
その小さなシミは時には大きく広がって私を飲み込んでしまう時がありました。そんな時は空気がとても重く感じられました。いつもより5倍も10倍も空気が重く感じられました。
そのような時は立ち上がったり起きあがったりするのがとても苦しかったです。うなりとも気合いともいえない声を出して全身の力をしぼり出して両腕に力を込めなければ立ち上がることができなかったのです。
その頃近所の子供達4〜5人とままごと遊びをする機会がありました。
お父さん役、お母さん役が決まりその他の役割も決まり、私は子供の役になりました。
===
そのままごと遊びが始まってすぐ、子供役の私は父役、母役の近所の子供に我を忘れて甘えてしまいました。
普段、父にも母にも近づいたこともさわったこともさわられたこともない私は、その父役母役の子供達に思わず全身を投げ出して本気で甘えていたのでした。その一瞬、私は日頃のスキンシップ不足の欲求不満を爆発させていました。
その時、フッとあたりの空気がおかしくなったのに気づきました。そのままごとに参加している私以外の全員の子供が唖然としてしまって、その遊びを中断していました。
他の子供達が互いにやや顔を見合わせているような感じでした。その次の瞬間、いっせいに「気持ちワリーィッ!」と言いました。
私はハッとして我に返りました。なにがおこっているか察知しました。恥ずかしいやら、情けないやら、みっともないやら、またそう言う行動を起こしてしまった自分の境遇への哀れさやら、いろんなことが、どっと頭に押し寄せて来ました。
これが私にとって友人達に拒絶されたはじめての体験です。
それ以来、子供同士の遊びの間でさえ私は自分で自分を見張っていなければならないことになり、私が緊張の糸を緩めて過ごせる時間はどんどんなくなって行ってしまいました。
それから今日まで長い年月がたちました。そしてこちらに来てこの一ヶ月間の間にこのさいとうミーティングで3回のシェアーをさせて頂いたことが私にとって予期できなかった感覚を私にもたらしてくれました。
それは「私でも自分を出していいんだ」という感覚です。私が話すことでも聞いてもらえるんだ、聞いてもらえる場所があり、聞いて入れる人がいるという感覚です。私が私であることが許されるのだという感覚です。もの心ついて以来、父や母や友人たちにずっと拒否されてきた私にはこれは初めての感覚です。
そしてこの感覚を感じた瞬間に驚いたことに、私の頭の中に血液が音を立てて流れ込んできたのです。目には涙が流れていました。
いつも圧迫されている後頭部の真ん中のコチコチの所に、生まれてこの方ずっとひでりだったような脳の部分に血液が流れて行くのが感じられました。
ありがとうございました。
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2007年06月25日
跳び箱大会(友子さん)(1/2)
以前、このミーティングで小学校低学年の時に行われた無慈悲な体力測定の話を聞きました。
私のいたマンモス小学校では無慈悲な跳び箱大会というのがありました。
小学校三年生の時です。その時、その小学校に三年生だけで300人位いました。その300人全員の跳び箱大会が行われたのです。
校庭に跳び箱が8列並べられました。1段だけ、次は2段の列、3,4,5,6,7と8段までの8列です。
それをこの300人全員が1段から始めて1段が跳べた人は2段の列に並び、2段が跳べた人は3段に並ぶという方法でした。
1組の人から始めてその1段目を全員が跳び終わるにはそんなに時間はかかりませんでした。
やがてほぼ全員のそれぞれが自分の跳び越えられない跳び箱の前に並び、その跳べない跳び箱にむかって何回も何回も時間がくるまでその跳び箱に挑戦し続けることになりました。
===
私は小さい頃は背が高く、幼稚園のとき本当は近くの映画館にただで入れるのにあんたは小学生だからといって絶対に入らせてもらえなかったり汽車やバスも幼稚園はただのところをただでは改札を通してもらえなかったりしたのですが、この時も学年で2番目くらいに背が高くてたった1段だけの跳び箱などほんのひとっ飛びで跳べそうな身長だったのに、私ともう一人、身長がまだ幼稚園児と言うくらいの学年で一番背が低い子とこの二人だけが、たったの1段が跳べずにそこに取り残されました。
他のみんなが次から次へと高い段に挑戦していく中、私とその子はたった二人なので皆が他の段に挑戦している間中ずーっと跳べない跳び箱にむかってむなしく走り続けなければなりませんでした。その間3時間くらいあったような気がします。
その頃は何故跳べなかったのかわかりませんでしたが今思えばもうその頃には立派な鬱状態で頭も重く体も重く、また自分の感情や自分の意志を思うように動かす事を禁止されていて朝起きた時に自分の体を持ち上げるのがやっとという状態で生きていました。
それで飛び上がるということがどういうことなのか体が機能せずどうすればいいのかさっぱりわからず、何十回も跳び箱の前までかけていくのですがどんなにがんばってもがんばってもそのたったの一段の跳び箱をとぶどころか、その鞍の上に飛び乗ることさえできませんでした。
当然この二人は何時間も皆の好奇の目にさらされ続け、その無力感、取り残された感じ、跳べない事の恥ずかしさ、みっともなさ、もう一人の子は始めから身長が桁外れに低くて跳べないのはほとんど当然に見えたのに対し、私の場合はほとんどの誰よりも背が大きいのにたったの一段も跳べなくて、さらしものもいいところでした。
そういったことを感じながら、できもしない事を何時間もさせられるのはとてもみじめでした。
この時を境に私は恥ずかしさを感じる感覚をもっていることを捨てました。
あったかなかったかわからないですが、誇りとか自尊心とか、いろんなものを捨てました。(続く…)
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2007年06月28日
跳び箱大会(友子さん)(2/2)
前回、小中学校で毎日おしっこを漏らした話をシェアさせて頂きましたが、おしっこだけでなく、時々うんこももらしました。
おしっこはいつもなんとかごまかすことができたけれどうんこはにおうのでごまかすことはできませんでした。
何回か失敗しましたがそれでもその都度いろんな事をしてなんとかきりぬけましたが、切り抜けられない時もありました。
一番ひどかったのは小学6年の時です。
この時はもうあまりにひどくて策なしでした。
ただただ自分の席にすわったままじっと身動きすることもできず、放課後になって全校生徒が帰るまで待つしかない状態でした。
===
でもそうしてじっとしている時間に噂を聞きつけた他のクラスや他の学年の子供達が入れ替わり立ち替わり見物に来ました。
特に小学1年生や2年生の子供達が見に来た時はどうしようもなくて、自分が自分であるという感覚を捨てる事以外その場の苦境を逃れるすべはありませんでした。
そのうち、担任の先生が母親に電話をしたのだろうと思いますが、親が着替えを持って迎えに来ました。
私はその頃図書館のスリラー物のシリーズに熱中していて、先生と親との話し合いでは、「スリラー物の読み過ぎだろう」ということになったと聞きました。
でも先生も親も知らないけれど、実際は私は小2の時より毎日学校でおしっこもうんこももらしていたのです。
近所に兄の同級生の親がやっている歯医者がありました。
その歯医者は入り口をあけると靴置き場があってすぐに畳の部屋になっていて、皆座布団にすわって待つようになっていました。
待つ時間が長くなかなか呼び出されませんでした。
でも次は私か次は私かと待っている内にトイレに行くタイミングを失いとうとう座布団全体がびしょびしょになるほどもらしてしまい本当に次が私という時になって必死で飛び出して逃げてきました。
成り行き上バレエを習っていたのですがバレエの休み時間に漏らしてしまい靴や着替えはレッスン場の奥にあって取りに行けずレオタードのまま町をさまよい、とにかくいろいろとそう言う苦境にたたされたことがありました。
でも跳び箱がとばなくて広い運動場に取り残された時に恥ずかしさを感じる感覚をすててしまったので、もう恥ずかしくもなんともなく、ただいつも抜群の緊張感だけに支配されて子供時代を過ごしました。
(つづく)
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2007年07月02日
父の家、母の家(友子さん)(1/2)
我が家に緊張感をもたらした構造や歴史について語りたいと思います。
父方の祖母は前に話した通り全身リュウマチと神経痛で全く動けませんでしたが、若い頃3〜4回の離婚・結婚をくり返したようです。
その中の一人は婿養子でしたが**家に入籍して財産を全部自分名義に書き換えさらに**家の位牌まで自分の物として持ち出して出て行ってしまったそうです。
もとは裕福だったそうですがこの時以来**家は貧乏になったらしいです。
===
祖母が最後に結婚した人が私の祖父にあたりますがこの人が婿養子になってやってきた時には祖母には前の夫との間に出来た娘が何人かいました。
この祖父はこの義理の娘達を次々と侵していったそうです。
別の父親から生まれた娘達は寝る時はこの義理の父におそわれるので自分で自分の両足をなわでグルグル巻きにしばって寝なければならなかったそうです。
この祖父はその後、その中の一人を別の家に住まわせて子供まで産ませたそうです。
さいとうクリニックにきて「ジェノグラム」というプログラムに出ました。
その時に私は昔の資料を調べてみたのですが、この祖父と叔母の間に子供が三人産まれていたことがわかりました。
三人とも1才前後で他界した記録がありました。
父はその祖父の長男として産まれました。子供の頃の父にとってそれは厳しい環境であったろうと思います。
貧乏なのはいくら貧乏でも構わないけれど、こういうことだけは本当に耐え難くて、いやだと母に語った事があるそうです。
この頃の環境の影響だと思いますが、父は私の交友関係を執拗に見張り、管理・支配していました。
中学や高校の頃、学校の男友達から来た手紙などは父が最初に封を切ってしまい私の知らないところで読まれてしまいました。(続く…)
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2007年07月04日
父の家、母の家(友子さん)(2/2)
母のことについて話します。
母の家は老舗旅館で明治天皇が京都から江戸に向かう時に泊まったそうです。
この母方の祖父は明治の時代に男ながら二重瞼にする整形手術をし、祖母は髪結いを毎日自宅に呼んで髪を結わせ、子供達は近所の和菓子屋の菓子を“つけ”で食べ放題であったそうです。
その子供達の一人が私の母で、男の子十人に女の子ひとりでした。下から三番目のたった一人の女の子でした。
===
母は自分の兄からも弟からもとても大切にされたそうです。
母は祖父からも祖母からもかわいがられ祖母は着せ替え人形のようにいつも違う着物を着せ、お花・お琴・和裁・洋裁などを習わせました。
洋裁は自分が着る服を作る為ではなく、洋服を注文する時細部にわたってキチンとした注文を出せる様になるために習わされたそうです。
使用人やじいやとか身の回りの世話をしてくれる人もいました。
私がさいとうクリニックに来てから聞き覚えた言葉に「見捨てられ不安」という言葉がありますが、もし見捨てられ不安を持ったことがない人がいるとしたらこの母のことだろうな、とつくづく思います。
いつも言いたい放題したい放題です。傷つくと言うことがあまりないみたいです。
それに反し私は見捨てられ不安の固まりになっていると思います。
母の生活に対して、父の家は台風が来て屋根が吹き飛んでも屋根を作り直すことも出来ず、母が嫁に来る時に持ってきた着物は片端から売り飛ばし、
売る物がなくなって畳まではがして売ったなどと話しているのをきいたことがあります。
母が嫁に来た時、**家には手も足も動かない寝たきりの姑とまだ若年の父の弟妹、いわゆる小姑が三人。
この小姑達は母の寝具にバケツで水をかけてビショビショにしたり、母の入っている風呂の火を消してしまったり皆でこぞっていじわるをしたらしいです。
最近になって母にいろいろ尋ねてみると母は「婚約した後に加代ちゃん(両親の仲人、父のいとこの嫁で母の幼稚園来の親友)が『貧乏だよー!』といったけれど私にはその頃貧乏なんてなんのことかさっぱりわからなかったし、もう婚約してしまっていた。」と言います。
とにかく母はこの雨宮家と**家とのギャップの腹いせを最も弱者の私にぶつけました。
私に向かって「あんたには私の血は流れていない。上の二人の男の子は私の++家の血が流れているけれどあんたには**家の血しか流れていない。
雄一と正二はわたしの子だけれど友子は私の子じゃない。あんたはお父さんの子だ。あんたには私の血は流れていない」と何度も言いましたし、その言葉に従って行動していました。
母は赤ん坊の私のウンチのにおいが**家の姑の臭いと同じにおいがして臭くてきらいで、あまりおむつもとりかえないでほっておいたと言いました。
泣いても泣いてもほっておいたので、そのうち泣きも笑いもしなくなったのだそうです。
(つづく)
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2007年07月09日
熟睡&勉強するな その1(1/2)(友子さん)
友子です。
**家の方針で私は「勉強なんかするな」といわれました。兄たち二人は勉強しろ勉強しろと言われその環境も与えられました。
しかし、女は勉強しなくてもよいのだそうです。長男はスポーツに熱中し次男は勉強に熱中しました。
私は早くに背が伸び、小学6年では160センチになりました。小4の時に担任の先生と両親の身長を抜きました。
私のするべきことは家業の手伝いでした。小学4年生の時、父が自分の右腕の肘の所の黒くなってしまっているところを私に見せて、腕が腐ってしまって力仕事が出来なくなったので力仕事を手伝ってほしいと言いました。
===
それからは、配達や餅つきや「すあま」の練り、これは蒸気で30分間位蒸らした米粉の固まりに素手で粉砂糖を練り込む仕事で、蒸気からおろしたての湯気のほやほやの所に手を突っ込んで砂糖をまぜる仕事で、砂糖が溶けて80℃か90℃位の湯の様になるのですが、温度が下がるともうバラバラになって混ざり合わなくなるので、ほとんどやけどをするくらい熱いうちに生地の中に手を突っ込んで、のしもち一枚くらいの米粉の固まりを練りあげなければなりませんでした。
正月に食べる様な普通の餅は機械でつくことが出来ましたが、柏餅の生地とか団子の生地とかその他の菓子にする米粉の餅は機械でつく事が出来ません。臼と杵で毎日5杯以上はもちつきをしました。
ちなみに勉強ばかりしている兄があるとき勉強部屋から出てきて手伝おうとしましたが、鉛筆より重たいものを持った事がない兄は、腰がへなへなで力が入らず、ただの一杯の餅もつくことはできませんでした。
配達と餅つきと「すあま」の練りは毎日毎日の仕事でした。当時は月に1回か2回しかお店を休むことはありませんでした。
両親は毎朝2時か3時に起きて働き昼寝は少しするけれど夜は夜中の12時ごろまで働いていました。
そんな大変な両親を見ていたので、仕事を手伝うのは全く苦ではありませんでしたが、でも兄たち二人は手伝いを免除されていました。
そして兄二人は百点をとると百点一枚につき50円の小遣いをもらっていました。
私は家では勉強するな、仕事をしろといわれ、学校でその授業が始まる前の休み時間を使ってその寸前に宿題をしていました。
でも私はいつも兄たち二人よりも百点がいっぱいでした。しかし私には百点を取った時の報奨金はありませんでした。
家は貧乏なので私が百点を取るたびに小遣いを払っていたら家のお金が足りなくなるのだと思って親をうらまないことにしました。(続く…)
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2007年07月13日
熟睡&勉強するな その1(2/2)(友子さん)
私は家の仕事を手伝うのは苦ではありませんでしたが、仕事を手伝っている間中父親と一緒に居なければならず、一緒にいればその間中、
私への理不尽な中傷が止むこともなく続くので、それが私にはたまらない苦痛でした。
毎日、学校から帰るとまず自転車に乗って町中を走り回って配達をこなし、それが終わってから餅つきを5杯以上と「すあま」練り、
それはちょっとは大変なんだけれど、体力抜群の私にはそれほどでもありませんでした。
しかし父のそばで働いている間中、何か私には訳のわからないことで、何時間も叱られ続けるのです。
私にはなんと言ってもこれが最大の苦痛でした。私はなんで叱られるんだろう、何を叱られるんだろう、と考えるのだけれどさっぱりわかりませんでした。
父と一緒にいなければならない理由が家業の手伝いでなかったなら私もその場所から離れることを策したと思います。
===
しかし、そう若くもない父が、働き過ぎで腐りかかっているかのように黒くなっている腕を酷使して、さらに重労働に耐えている事を私は知っていました。そんな父を見捨てることは私には出来ませんでした。
その頃、私はある種の記憶喪失の様なものにかかっていました。
朝、学校に行く前に今日はサクラの葉っぱを50枚ヨモギの葉っぱ一束とか河原に行って採ってくる仕事があり、それから学校へ行ってはおしっこをもらし、帰ってきては(父でも母でも高校の兄でも中学の兄でもなく末っ子で一番の弱者のわたしが)力仕事をし、その間中私を否定する言葉を聞かされ続けるので、夜になって寝床に就く頃には、この父の小言のせいで身も心もボロボロになってしまっていました。
何も考える事もなく、横になって倒れた瞬間に眠りに就きました。
すると次の朝、目が覚めた時には昨日までのことは一切合切何もかもきれいさっぱり忘れてしまっていました。
昨日までに一体なにがあったのか思い出すことができませんでした。
まず目を覚まします。この時は「目が覚めた」という自覚もないのですが。
夜、ものすごくふかく眠るので目が覚めた時はただもううっとりとして気持ちが良くて一体ここはどこなのだろう、というかんじです。
もうα波もθ波も通り越したような感じです。それでなんとか一生懸命に思い出そうとします。エーっとここはどこなんだろう。
ここは宇宙と言うところだ。そして今は宇宙の中の銀河系の中の地球という星の中の日本という国にいるらしい。
この家の女の子として人間に生まれていて名前が付けられていて、・・・そうだ、だんだん思い出してきた。
私にはともこという名前が付けられているんだ。と、ここまでくるとやっと現実の自分になります。
そしてまた朝から「学校行く前にヨモギとサクラの葉っぱ採ってきて」とか言われ、それから学校に行ってオシッコをもらし、
帰ってきて配達ともちつきをし、父の小言を聞く。
夜になって熟睡し翌朝目が覚めた時には、今、自分がどこにいるのか自分がだれなのかすっかり忘れてしまう。
そしてここはどこ? わたしはだれ? を毎日くり返す。そうしているうちに、自分は何て馬鹿なのだろう、なんで毎日すべてを忘れるんだろう。
毎日あったことを毎日全部忘れるから毎日同じ小言を言われるのに違いないと考えました。
そして全部忘れるのは、あんまり熟睡をするからだ、と考えました。そしてその時からは熟睡をしない決心、昨日の事を忘れない決心をしました。
(あとで考えるとどうもこの考え違いが命取りの始まりだった様に思います。)
(つづく)
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2007年07月17日
熟睡&勉強するな その2(友子さん)(1/2)
それから次の日からは昨日あったことを忘れないで目をさめる様になりましたが、それでもやっぱり父の小言は続いていました。
こんどはよく考えてみると、どうも私が何か表現したことがきっかけで小言が始まる様な気がしました。
例えば私は「うつ」状態で体育が苦手の為、体育は2でした。
ある時「明日はマラソン大会だから、マラソンなんか運動神経がなくてもただがむしゃらに走れば上位に入れるんだからがんばろうっと」と独り言のようなつぶやきの様な言葉を発しました。
すると、とたんに
「マラソンなんかでがんばるのは馬鹿のすることだ。そんなところに力を使って何になるんだ。」
と言う様な言葉から始まってそのネタで2時間以上くどくどとずーっとけなされ続けました。
===
でも他のどんな事を言っても毎日、くどくどとけなされ続けます。そしてとうとう小学校3年生のある日、腹の底のそこからある決心をしてしまったのです。
「私はもう今後は一切自分の言いたいことを言ったりしたいことをしたりするのはやめよう、絶対に自分を表さないことにしよう。どんなことがあっても自分を隠そう。自分を出せば出しただけ全部つぶされるなら自分を出さない方がましに決まっている。真実をだしてつぶされるより、どうせつぶされるなら嘘を出してつぶされた方が自分を助けることが出来るのだ。」
小学校からの帰り道の途中にある大きな銀杏の木の下に思わず立ち止まってものすごい集中力でそういう決心したことは、今でも脳裏に鮮やかです。
それ以来、私はすべてにおいて自分を隠し、あらわす時には正直でない自分をあらわすようになった、つまり嘘つきになったのです。
全く嘘をつく必要のないところでさえとにかく意味なくただいたずらにうそだらけの毎日を送る様になりました。
そして、そうなっていってしまってからこの日の決心をしたことは永い間忘れ去っていたのです。
忘れたままあらゆる機会に、大切な時に、ここでは絶対正直に本当のことを言わなくてはいけないと言う時に絶対に嘘をつくようになっていたのです。
ここに来るまで、ここさいとうクリニックにくるまでこの時の決心は有効に作用していました。(続く…)
斎藤学の講座・ワークショップ
| 講座名 | 日程 | 時間 | 料金 | 対象 | 会場 |
| 斎藤学ワークショップ | 9/15、16 | 14:00〜20:00 10:00〜18:00 | 31,500円 | 一般 | 東京麻布 |
| 斎藤学オープンカウンセリング | 火 | 18:30〜20:30 | 3,000円 5,000円 | 一般 | 東京麻布 |
| 親のための家族相談 | 火 | 18:30〜20:30 | 3,000円 5,000円 | 一般 | 東京麻布 |
※開催日については必ず各講座の詳細ページでご確認下さい
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2007年07月20日
熟睡&勉強するな その2(友子さん)(2/2)
ですからなにをどんなに努力してもどんなに一生懸命どんなにがんばってもただヘトヘトになるばかりででもその理由はわからず、もう精も根も尽き果ててしまいました。
10年間がんばって蓄積したものでも20年がんばって蓄積したものでも、その大事な場面でのたったひとことの、根拠もなにもないただ自分を隠す為だけの言葉で、すべてが水泡に帰すと言う様なことを際限なくくり返していました。
それにやっとやっと気づいたのです。まだ生きている間に気づけてよかったです。これからは正直な自分を語ります。
私はうその人はやめて自分に正直な人になります。
===
あらゆる場面、あらゆる次元で自分をかくすのはやめます。これからは自分を表現する人生を送ります。
表現することを通して自分で自分の人生を造っていくことにします。
のどに何かをつかえさせておくのはもうやめます。
人からつぶされるようなことを言われても受け取り方を工夫して、傷つくことは選ばない様にします。
真実を語ることを通して自分を守り自分を大切にしていきます。もう他人の奴隷でいることはやめます。
自分の考えを自分で踏みつぶす様なことはやめます。
できるかできないかはやってみなければわかりませんが、ここでこう宣言して、小学生の時にした「もう自分を表現しないぞ」という決心をくつがえす第一歩としたいと思い、言葉にあらわしました。
斎藤先生は以前、父親の悪意を吸い込んじゃったからのどがつまって話せなくなってしまたんだよね、とおっしゃいました。
本当にその通りだと思います。
うつとは自分で自分を否定した時になるもので他人からどんなに否定されても自分がそれを取り入れなかったらうつにはならないと思います。
(つづく)
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2007年07月23日
うっとり波(友子さん)
私はネグレクトに会っているにもかかわらず、特に“うっとり”とする性質のある子供でした。
でも父にとっては私のこの“うっとり”とする性質が罪悪らしかったです。
まだ幼稚園に行っていたころだったと思います。
その日は皆で食事に集中し、私も食事に集中していました。何を食べていたかは覚えていませんが、その時食べていたものがおいしくて、おいしくて、全身全霊でその食事を味わい、つい顔にその表情がでてしまい、うっとりしながら食べてしまいました。
もうまわりの何もかも忘れてつい食事に集中してしまったのです。
===
でも同じく集中して食事をしていたはずの父が、私のその空気に気づいてパッとこちらを見ました。
それから、また延々と小言が始まりました。
「ゆっくり食べるな! 飲み込め! うちは商売をしているから、かつかつと短時間に食べて次に備えなければいけない。味わっているヒマはないんだ!」から始まって食事が終わっても延々とその小言は続きました。
それ以来、食事は味わうことなくかきこみ、のみこみで食べる様になりました。
私は、「うっとりしていたのがいけなかったんだ。」と思いました。
一人で裏庭であそんでいるときでも、空から突然にビームがのびてきて、私の後頭部あたりに直撃し、それは「うっとり波」の直撃ビームで、そうすると私はただ訳もなく幸せな気分になり、それに浸りました。
ですから、私は親にはかまってもらいたいとか、何かしてほしいとか、何かがほしいとか思いませんでした。
ただほっておいてくれれば私はひとりでいて充分幸せだったのです。
でも、ほっておいてはくれませんでした。
父に見つからない様に、食事中にうっとりするのはやめたし、いつでもそうしないように注意したけれど、毎日深く深く熟睡してしまい、朝目が覚めると、ただもううっとりして気持ちが良く、その時は自分が人間であると言うことも忘れてしまうくらいでした。
ですので、一日のなりわいが始まって父が何か小言を言い出してもその内容は自分の「うっとり感」とはあまりにほど遠く、最初は父が一体何を言っているのかわからないくらいでした。
でも一日中叱られると、さすがに夜寝る頃には意気消沈して床につくのですが、また深く深く熟睡してしまうので朝になるときのう一日あったことはおろか、何もかも忘れてしまい、朝は毎日自分の名前を思い出してから一日を始める、というようでした。
父にとっては毎日のこの私の幸福感をつぶすのが大変でした。
今考えれば毎日毎日あれだけの時間とエネルギーをかけて私を叱り続けるのは父にとっても相当大変だったに違いありません。
しかし何故かそれが父の仕事でした。毎日飽きることなく同じ事がくり返されました。父には、私がありのままでいることがどうしても許せなかったようです。
この父の、私を押しつぶそうと言う仕事と私の幸福感との戦いは私が小学校4年生になるまで続きました。
小学4年のある日、私はとうとう自分から、自分が自分自身でいるのをやめる決心をしたのです。熟睡はしない。うっとりしない。自分の意見を言わない。
自分から発するあらゆる表現を消す。そうすればこの父の攻撃からいくらかでものがれられるのではないかと考えたのです。
先日大河ドラマ「義経」の最終回でやっていたことですが、義経をかくまっていた藤原家の長男が悩んだ末に自己保身をはかり、
「源頼朝に屈服し頼朝の言う通りにすれば大切な建造物や自分の命は助かるだろう」
と思って、言う通りにしたのですが、結局藤原家が何代もかけて建造した寺社はすべて焼失し、本人も殺されてしまい、何もかも失ってしまうという最後でした。
それを見ていて私も同じだなあと思いました。
私もこの時、自ら自分自身を押し殺す決心をしたのですが、自分への殺人は父の攻撃に対し、何の効果もありませんでした。
それどころか、父の攻撃はなお一層パワーを増していったのです。
それから家を離れるまでの10年間、ずーっと父にやられっぱなしでした。私のこの時の決心は人間として未熟だったと思います。
つぶされようが殺されようが屈服してはいけないのです。何がどうあっても自分で自分を殺してはいけないのです。
長い時間と苦しみを通して私はやっとこのことを学びました。
ずーっと自我を萎縮させてきましたが少しずつ出せる様になっていきたいです。なんとか自我を取り戻したいです。
(つづく)
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2007年07月27日
無呼吸(友子さん)
友子です。
人間には理性と感情の2つがあるといわれます。その2つが、私ほどアンバランスな人間はあまりいないと思います。
私は理性と感情をまっぷたつに分けました。
私は自己評価があまりに低く、それについても考えます。
私は高校を卒業して家から離れる時、それまでの感情生活のすべてをそこに捨てて家を出ました。
中学生の時の担任が日記を書くことを奨励していて私は毎日何十ページという位書いていました。
その日記帳20冊くらいとか写真とかとにかく、その18年間の生活のかけらが漂っている物を片端から消却しました。
===
今思い出して残念なのは、中学校の時のクラスで誰が書き始めたのか、一冊のノートがクラス中を駆けめぐり、そのノートには皆が自由に詩作を綴ったのです。素晴らしいノートでした。2冊ありました。
私はある種の親分だったのでその皆の宝物を私が持っていたのです。でもそれも焼いてしまいました。
私には取捨選択する余力はなかったのです。何もかも焼きました。
そうして私は生まれてから18年間のすべての感情生活を封印したのです。感情は私にとって余分な物でした。
感情さえ捨てればあとは何とかなります。仕事は貿易実務とか保育士とかを交互にやりました。
派遣業に登録した時は○産業とか×物産とかに行きました。
×物産の契約期限が切れた時、派遣会社から、「○×商事の課長職に穴が空いたので行ってほしい。」と言われました。
仕事は自信がありましたが、そこへ行けば骨の髄まで実を粉にして働いてしまうとわかっていましたので、必死で断りました。
ベビーシッターでもどんどんリピーターがきて、あとで「**さんが退職したと聞いて、本当にがっくりした」といった人がいたと聞きました。
自慢話をしたいのではありません。その反対です。
これらの働く日々、私は感情のすべてをほおむり去っていました。しかし、ほおむり去られた感情のほうでは黙っているわけにはいかなかったようです。
その間、魂の奥底では、ただただ死にたいばかりで、他には何も思うことはありませんでした。
けれど、そのことにさえ重いフタをかぶせていたので、自分では忘れていました。
時々我が家に泊まりに来るいろんな友人が居ました。その人達が口々に驚きながら言うことには
「死にたい、死にたいって寝言を言っていたよ」とか「寝ている間、ずっと悲鳴あげたりさけんだりしていたよ」とか何度もいわれました。
毎日全力疾走だから、横になるといつも数秒以内に眠りました。
眠っている間、死にたいと言ったり、叫んだりするだけではなく、ある時には熟睡中に、思い切り舌をかんでいました。
その時は痛みで目が覚めました。くちやあごにぎゅうぎゅうに力がはいっていました。
痛みで目が覚めましたが、まだ舌は切れていず、生き延びました。
また10人以上の色んな友人が異口同音に語るには「あなたが寝ている間、死人の様だったよ。息していないみたいだった。いや、息をしていなかったよ」と。
目覚めた時、三人の友人に心配そうに顔を覗き込まれて見つめられている時がありました。結婚して夫からも言われた事があります。
驚いた顔をしていました。息をしていなかったよと。そう言う時はたいがい、私の感情の苦しさも絶頂のときに重なっているように思います。
私の感覚としては、ふだん生きてはいても自分自身は自分のからだから抜け出していて少し上のところから私を見下ろしていて、一本の細い線で体とつながり自分で自分をおさえこんでいた、という感じです。
とにかくいつも死にたくて死にたくて死にたかったのだけれど、それらの感情はぜーんぶ押さえ込んでいて生きる屍であったけれど、見た目はそれとはうらはらに、実に元気そうに生きていました。
人にちょっとでも何か言われるのがいやで、元気そうにしているしかなかったのです。それは理性の部分だけでコントロールしていました。
でも幸福を感じるのは感情の仕事であって理性のすることではありません。
自己評価をあげるのも感情の仕事であって理性の仕事ではありません。
私の自己評価は抜群の低さです。生きる方法がわかりません。
(つづく)
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2007年07月30日
技術家庭科(友子さん)
小学校1年生の時、先生のお説教に反抗して廊下にたたされましたが、担任が変わった小学校2年生の時も廊下に立たされました。
クラスの仲間はそのまま持ち上がりで同じでしたが担任だけが変わりました。
小1のときの村田先生は私を廊下に立たせた時以外は柔和でやさしくて顔色も良くてニコニコしていましたが、小2のときの野崎先生は普段から笑顔などほとんど見せることもなく土気色のような顔色をしていていつも厳しいことばで生徒たちを指導していました。
ある日、あまりにも厳しかったのでその直後の休み時間に、自然にあちこちに人の固まりができて、厳しくいわれたことの緊張をほぐそうとするような会話が交わされました。
その言葉の中に「1年生のときのM先生の方がよかったね」ということばがあったのです。
そして多分それを誰かが当のN先生に言いつけたらしかったのです。
===
その日だったかその次の日だったか、こんどはそのことに対する追求がはじまりました。
「M先生のほうがよかったね」という話をした人は手を挙げなさい。
何人かが手を挙げました。
先生はそれでもまだ「正直に言いなさい」と言ってそれ以外の人が手を上げるのをじっと待っていたのです。
その事件が起きた休み時間のとき、私はすぐには席を立ちませんでした。
私は自分のいすがおしっこで濡れているし、休み時間は宿題をこなさなければいけないのでいつもあまりすぐには席はたたず、皆が外に飛び出して誰もいなくなった頃とかにやっと立ち上がるとかしてました。
その問題の休み時間のとき、7人から10人くらいの生徒が私の机の周りに集まってきて、私の席の周りで私の席を囲んでその話が話されたのです。
でも私はそこに居ただけでその会話に気持ちが参加していなかったのでN先生がこの問題を取り上げた時、私は何のことをいってるのかわからなかったくらいです。
私は小1の時、M先生に放課後暗くなるまで立たされたことがあったのでM先生がやさしいとも思っていなかったし、2年生のときのN先生は父よりやさしいから厳しいとも思っていなかったので、あいづちさえうたず一言も発せずただ客観的に皆の話を聞いていただけでした。
私にはいつも迷惑だったのですが、私の周りにはいつも人が集まってきていました。
私は同級生より頭一つくらいは背が高く、おちついていて無口だったのでどういう訳か皆に頼られる存在になっていました。
それでその時皆は、N先生に厳しく叱られたショックを私のところへきて癒そうとしたのだと思います。
N先生は半眼の冷めた目で「正直に言いなさい」を繰り返し、どうももしかしたらその狙いは私にあったかもしれません。
経過は忘れましたが、私が皆で悪口を言ったことの首謀者でしかも手を挙げなかったために、私は嘘つきを言うことになり、またしても私一人が廊下に立たされ他のクラスの先生や生徒の見せ物になりました。
3年生の時、体操授業終了後の着替え中、友人の怪我が発覚し、しかも保健室の先生が見当たらないというので、友達のことを心配してまだシャツのままなのを忘れて私は学校中を走り回って保健の先生を捜しました。
しかしそれとは別のところで保健の先生はみつかりました。
それをみていた先生が私に冷笑を浴びせかけました。それは子供を見下す目であり、服を着替えないで走り回る子供の事情を理解した上でシャツ姿の私をせせら笑うと言うような目で笑っていました。
私がもし逆の立場だったら、もっと暖かい目で見て「保健の先生もう見つかったからあなたも早く着替えなさい。」と言ってあげられたと思います。
それ以降というものは私はもう大人を重大視していませんでしたし、特に信じてもいませんでした。
どちらかというと大人はどうも子供たちよりつまらないものだと思うようになっていました。
しかし、不覚にも教科書だけは絶対に信じてしまっていたのです。
今は教科書のまちがいをとりあげるテレビ番組があったり、ニュースで教科書問題が取り上げられたりしていますので教科書といえども、あながち正しいものでもない、ということは一般的に知られていますが、当時はそうではありませんでした。
その頃の私は身近に居る大人は信じなくても教科書は信じていたのです。
私のそれまでの教科書はほとんど兄達の使い古しで新品の教科書はあまりありませんでした。
5年生になって家庭科の授業が始まり、男子と女子は別々の教科書になり、うちには女子の家庭科の教科書はなかったので、授業の始まる前の休み時間に私にしてはめずらしい新品の教科書がうれしくてパラパラとめくったりしてみました。
そして表紙をめくって見開きのところの最初の言葉を見て私は凍りつきました。その本には開口一番「家庭とは安らぎの場である。」と書いてあったのです。
頭から冷水を浴びせかけられたようでした。「エッ? まさか? そうだったの?」
家庭がどうかなんて自覚さえなかったけれどまさか「安らぎの場」であるなんて天地がひっくり返るようなショックでした。
なにがどうショックだったのか正確には分析できません。
とにかく息が止まるほどショックで足もとがグラグラし気が遠くなりそうでした。
教科書にそう書いてあるということは一体どういうことなのだろう?と考えました。
しかし次の瞬間ハッとしてあたりをそーっと見回しました。ショックを受けている自分をクラスの友達にみられたくありませんでした。
「家庭とは安らぎの場である」ということばにショックを受けていることを知られたくありませんでした。
幸い、その時私を見ている人は誰もいませんでした。その時私の価値観の天変地異がおきました。
自覚しないときにはなんでもなかったのに、クラスの友人たちとの距離がグーンと遠くなりました。
それまではただ起きている出来事をたんなる事実として受け止めているだけのことだったのに、こんどはその事実を世の中から隠さなくてはならないというような気持ちになってしまったのです。
自分の家のあり方に対する罪悪感が生まれました。
毎日おしっこをもらしてただでさえ不潔。しかも私はお風呂に入るときに使う体力が惜しくて毎日なんとかかんとか言ってお風呂を逃れ、忙しい両親はそれに気づくこともなく、長いときは1ヶ月くらいは風呂に入らないで過ごしており、それも不潔。
それにこの犯罪者感覚が加わったので、自己評価はどんどん低くなり、しかも自分はいつも不潔でいつもあたりにくさい臭いをまきちらしているのだろう、そしてそれをいつ誰かに指摘されるのだろうと思ってびくびくして心はいつもちぢこまっていました。
しかしこれは内面の姿であって、外側ではいつもひとに持ち上げられ委員会とか学級活動では投票されて表舞台に立たなければならず、外面的生活と内面的生活のギャップはいやが上にも大きくなっていったのですが、小学生の私にはそんなことを客観的にとらえる力もないので、私の感情は世の中というものからどんどん遠いところにおしこめられていって、いつも自分は自分の他には誰もいないところたった一人だけのところに生きていました。
(友子さんの連載は今回で終わりです)