カテゴリー「その他」の一覧
2006年03月15日
JUST夏期合宿
3月14日(火曜)晴れ
今日はお知らせです。
JUST(ジャスト:日本トラウマ・サバイバーズ・ユニオン)というものがあるのをご存知ですか?
私が手がけてきた数々の自助的市民グループの統合体(ユニオン)です。これの主催する「JUST夏期合宿」(別称:JUSTサマーキャンプ)を今夏(06年)8月18〜20日、水上温泉で行ないます。皆さまの夏の日程に組み入れてください。
いつもとは違う場所と時間の流れの中で、皆さんの問題を、そして私の問題を分かち合いましょう。この3日間(丸2日間)は私自身が参加するだけでなく、「さいとうクリニック」の診療スタッフや「IFF相談室」(麻布&原宿)のカウンセラーたちも可能な限り参加するよう呼びかけるつもりです。
私はこれを契機にJUSTへの関与を今までより強めるつもりでいます。私の臨床活動に何らかの関心をお持ちの方々の積極的な参加をお待ちしています。
詳細はこちらへ
JUST (Tel&FAX) 03-5574-7311
JUSTホームページ
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2006年03月23日
06年3月22日 晴
3月18日と20日(土曜/日曜)はJUSTの女性限定ワークショップ(「母・娘」)でした。参加20名前後のこじんまりしたミーティングでしたが、それだけに皆さんと深い話ができたと思います。
二日間を通じて、私が伝えたかったことは次の二点でした。
#1 人間は自分の欲望というものがむき出しにならないように常時軽くカギをロック(施錠)しておくものだということ。しかしこれをいつも締め切っていてはダメで必要なときにはアンロック(解錠)出来なければならない。
このことで一番基本的かつわかりやすいのは肛門と大便(ウンチ)の関係で、人間は肛門を常時軽くロックしておくことを早期に「学習」する。こうした学習は「内面化」され、それが当たり前(生まれつき)と思うようになる。しかしこのロックは日に一度ないし数度必要な時に「意志で」アンロックされる。これが健康/健常な排泄欲のありかたです。食欲しかり、性欲しかり。出過ぎ(下痢)は不健康なとき。しかしそれなりに身体が必要としているとき。過食しかり、性欲昂進しかり。
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#2 自己というものを一つと考えてはいけない。自己同一性といった言葉に惑わされないように。
自己には大きく分けて「A:観察自己=自己を観察して叱咤激励する自己」、「B:対象自己=Aの観察対象となる欲望の塊」、「C:AとBとの関係を調停する自己」の三種がある。
AとBは常時葛藤しているのが普通で、Aが優位でBが萎縮している人はロボットのように暮し、なぜ生きているのかわからないと感じている。Bが表面に出てAの規制力の弱い人は幼児的で周囲の人を困らせる。AはBを批判し抑圧しようとするので、Bはこれに反撥する。反撥を受けたAは更に規制力を強めBとの対立と葛藤は次第に苛酷なものになりがちである。Cはこの葛藤を緩和しようとする自己の一部であり、Cの力が充分な人を「大人(おとな)」というが、こういう人は少ない。
始めはCの力が微少なので、これを強化するためにCの代弁者を自分以外の「人物」の力を借りることがある。こうした「人物」をセラピスト(治療者)という。
以上の二つを併せると、Aがロックする力、Bがアンロックの力、Cはこれらのタイミングとバランスをはかる能力ということになります。今回のワークショップの皆さんには、それぞれの人がどのようなC能力を身につけているかを報告して頂きました。
ある女性の場合は中学から始まる性的非行(B)が成人期(30歳代)まで続いていました。そんなことができたのは、その女性がA(自己の一部)を「母親そのもの」と勘違いしていて、この実在の人物に怒りを噴出していたからです。母親への反発は彼女の罪悪感を刺激し、Aの肥大を招きました。それに呼応して増大するBの誇大化を抑止するためにこの女性が選んだのは、過食による肥満でした。肥満は女性を性的存在であることからハズします。男性が肥満女性を回避しがちであるという事実を利用するのです。つまりこの女性の肥満は身体を介したAのメッセージでした。今回のワークショップの会場には、その母親も登場していたので、このカラクリが明瞭になったと思います。
別の女性の場合は、自分に「ある限界を超えて」親しくなる男性に怒りをぶつけてしまう。それがいやだから一定以上に親しくなれないという問題を抱えていました。これは「好きな人=自分の欲望を言葉にしないでもわかってもらいたい」という幼児的欲望(B)に困っているということです。つまりこの女性はA優位な人で、真面目一方で仕事をこなしながら、人生に絶望しています。彼女にはBを言葉にする勇気を持ってもらうことをお勧めしました。それもセラピストという名の他人の前で。セラピストの仕事は彼女の中で育ちきれずにいたCを強化することです。うまく治療が進めば、幼児的BはAの叱責に萎縮することなく、充分に強く大きくなったCに受け入れられるようになるでしょう。
こうしたことを二日間にわたり、それぞれの参加者に即して検討しました。次の機会には、これをお読みになった方々も参加してください。こうしたワークショップはJUST、IFF、その他が主催すると思いますが、最も近い機会は下記です。
1)斎藤学 2day ワークショップ(広島)
日時:06年5月13〜14日
会場:広島市中区富士見町11−6 エソール広島 3階研修室
定員:40名
問い合わせ先:ひろしま家族機能相談所 Tel/Fax 082-249-4121 http://www.hcff.jp
2)斎藤学 ワークショップ(東京)
日時:06年6月17〜18日(土日)
会場:IFF教育センター(東京都港区)
定員:50名
詳細は近日中にIFFホームページの催し物コーナーに掲載致します
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2006年03月24日
06年3月23日 晴(JUST講演会、日本家族と子どもセラピスト学会)
このところ「お知らせ」続きで恐縮です。本日は2件。
その1
以前にも紹介したJUST(日本トラウマサバイバーズユニオン)が「夫たちのこれから:変容する家族と夫役割」というタイトルで講演会/シンポジウムを開きます。
2006年4月16日(日曜日)。
9.30AM開場で、場所は星陵会館(東京都千代田区永田町2−16−2、都立日比谷高校の講堂です)。問い合わせ先はJUST([Tel、Fax]03-5574-7311, [HP])
午前中はDV(ドメスティック・バイオレンス)など夫婦関係をめぐる今日的問題を体験者(夫たち、妻たち)から報告して頂きます。
1:30PMからは信田さよ子氏(カウンセラーで共依存に関する著書や発言の豊富な人)、山田昌弘氏(社会学者で「パラサイトシングル」、「希望格差社会」などの造語を用いた鋭い家族社会学的分析で現在最も注目されている論者)と私との鼎談でタイトルは「夫たちのこれから」ということになっています。
信田氏とは原宿相談室開設時の同僚、山田氏とは家族機能研究所での女性問題研究会に参加して頂いて以来の知人ですが、この3人で人前で話すのは始めてです。このところ私は夫・男について考えるところが多くなっているので、JUSTからフォーラムの企画を依頼されたときに、このお二人に来て頂くことを提案し、実現しました。現在の家族に関する最もホットな議論が期待出来ると思いますので、会場に足を運んでください。
===
その2
日本家族と子どもセラピスト学会(Japanese Association of Family and Child Therapist:JAFACT)が創設され、それに伴って「第1回日本家族と子どもセラピスト学会」が開かれます。
日時:2006年5月5日(金)、6日(土)
会場:新宿住友ビル47階スカイホール(都営大江戸線「都庁前」駅「A6出口」真上)
プログラム概要:
[5月5日]
10:00−20:30(学会員・専門家対象)
理事長挨拶(西尾和美)・基調講演(斎藤学)・一般演題報告(演者は学会員に限る)・懇親会
[5月6日]
10:00−12:00
公開シンポジウム:少子化社会における家族と家族療法〜ナラティブと家族
ミュリエル・ジョリヴェ(上智大学教授)・野口裕二(東京学芸大学教授)
西尾和美(AIU/CSPP日本プログラム教授)・司会 斎藤学
※詳細、お申し込みは[こちら]
JAFACTは児童虐待、配偶者虐待などの家族内暴力/葛藤に対する危機介入(家族介入)の専門家たちに研修と報告の場を提供するための学会(事務局:家族機能研究所)です。
私たちはかねてより暴力を伴う家族内葛藤や虐待などの家族ストレスによるPTSDへの対処に焦点を絞った治療/セラピーを行える専門家の必要を感じてきました。アメリカからAIU/CSPPという大学院レベルの教育プログラムを導入したのもそのためですが、その一期生も3年の履修課程を経て専門家としての臨床活動を始めるようになりました。また、従前から私の同僚として家族療法的介入にあたってくださっているIFF相談室(原宿/麻布)のカウンセラー諸氏の研鑽の場も必要と考えてきました。
こうした状況を考慮して、取りあえず西尾和美氏と私とで各方面の方々に相談し、皆さまのご了解を得て発足するのがこの学会です。いずれそのホームページも立ち上げますが、今年の学術集会をもって諸活動のスタートとします。
学会員としては心理臨床家ないしそれを目指す人々を対象とし、時期(卒後一定期間の研修会参加ないし臨床活動を経てライセンス取得の申請資格が出来るという仕組みになると思いますが、細部はこれからつめます)をみて学会ライセンス(家族と子どもセラピスト)の発行につなげたいと考えています。関心を持たれる方はぜひご参加ください。
理事会の構成(06年3月22日現在)
理事長:西尾和美(AIU/CSPP日本プログラム教授)
理事(順不同):本間玲子(AIU/CSPP日本プログラム、プログラム・ディレクター)
遠藤優子(遠藤嗜癖問題相談室)
平川和子(東京フェミニストセラピィセンター)
斎藤学(精神科医、AIU/CSPP日本プログラム教授)
入会申込み先:日本家族と子どもセラピスト学会事務局(家族機能研究所内):jafact@iff.or.jp
学会参加申込先:(株)IFF事業部(電話:03-5561-9365、kikaku@iff.co.jp)
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2006年04月18日
06年4月18日 晴
先週で手持ちの公開カウンセリング資料は出し切りました。これらについては更に手を加え、編集したものをなるべく近いうちに出版します。出版社としては幾つか名乗り出てくださったところがありますが未定です。初刷部数の多いところが望ましいのは勿論ですが、それと同時にできれば年内発売を目指したい。それによって今後、この種のものの出版がどれだけの可能性を持つものかを計りたいからです。
部数がはける(読者から受け入れられる)ということになれば、こうしたものの続編の刊行を考えようと思っていますので。これを読んでくださっている方々の中にどこかの出版社の編集の方がいて関心をお持ちでしたら声をかけてください。
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今年から医療法人理事長を辞めて、著述・講演業者に転じることにした私ですので、年に数冊の刊行は仕事量の最低基準と思っています。ただし、これがうまく行かなければ、また医業にもクリニック理事長にも戻ります。その辺、自分勝手、我がママ、理不尽(ただし他人にとって)という私流のやり方を変更するつもりはありませんので悪しからず。それが結局他人様のためにもなると、ある時期に悟ってしまったのです。「右顧左眄は世のために非ず」と古人も言っていたではありませんか(嘘です)。
出版について言えば、近々(今年5月10日付)新刊『自分の居場所のみつけかた』(大和書房)が書店に並びます。少々厚く(238頁)なり過ぎたと反省していますが、何げなく現代風俗をスケッチしているかのような出だしを読んでいるうちに、いつの間にやら現代最先端の境界性パーソナリティ論およそその治療論に入りこんでしまうという、結構工夫した作りになっています。
これは我がクリニック10年を利用してくださった皆さまへのオマージュでもあります。書き手の私にも楽しめましたので是非ご一読ください。好まれるにせよ唾棄されるにせよ、私の考え方(精神障害と呼ばれるものの本質とその「治り方」)がよくわかるはずです。
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2006年04月21日
06年4月19日 晴
昨日の続きです。
小学館から発刊を予定していた『男らしさの病』は白紙に戻されました。幾らなんでも発刊予定から3年遅れてまだ脱稿できないというのは無責任すぎました。編集者の人には申し訳なく思っています。
それで、これの既に書けている部分をブログで公開しながら、書いていなかった(書くことがなかったわけではありません)部分を追加して行くことを考えています。まずJUSTのメルマガに小見出し単位のものを出し、こちらは数週で消去し、やがてブログに巻頭部分から再掲してこちらは成書(出版社はもう少し書き進めてから探します)の完成まで掲示しつづける方針です。
今、ブログに掲載中の「オープンカウンセリング:Q&A」も出版後には掲示から削除します。
なお「Q&A」については続編も続けます。ただし現在は会場での採録をしていませんので、質問からして私の創作となるでしょう。こうなるとさすがに掲示回数は減ると思いますが、なんとか続けたいと思っています。
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2006年05月24日
06年5月19日(雨)(1/2)
ご無沙汰しています。「新Q&A」を書き始めてから、自分がこういうことを書きたかったのだということがわかってきました。しばらく続けようと思っています。それで「男らしさの病」は暫く「JUSTメルマガ」のみに収載します。こちらの方も締め切りが体感できるためか、何とか書き進められそうです。

予告した5月5〜6日の「家族と子どもセラピスト学会」や、5月13〜14日の広島市でのワークショップは無事終了しました。5月6日のシンポジウムではパネリストのミュリエル・ジョリベさん(上智大学教授)と野口裕二氏(東京学芸大学教授)の話題提供がスリリングで久しぶりに「話す愉悦」を感じましたが、議論が盛り上がったところで時間切れになりました。
ジョリベさん、野口氏とはその後も昼食をともにできたので、その間の議論も含めて学会誌(発行未定ですが、多分「年報」形式になるでしょう)に収載する予定です。
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広島市でのワークショップの前に福岡市へ行きました。こちらは日本精神神経学会です。
演題は出しておらず、シンポジストや司会を依頼されていたわけでもなかったので、普段なら行かない学会ですが、今年から学会認定の専門医制度というのが始まり、5年間で600ポイントを稼がないと更新されない、学会のしかるべき講演なりシンポなりに出ると点数をくれるというので行ってきたのです。
私はここ2年間自分に休暇を出しているつもりなので今のうちにポイントを稼ごうというわけです。3日間のすべてに出ると330点(?)取れると書いてありましたが、私は土曜日には朝から広島に居なければならなかったので3日目、金曜日には参加せず、270点頂いてきました。
ほぼ10年ぶりの精神神経学会でした。この学会だけでなく家族療法学会、精神分析学会、社会精神医学会などみな辞めてしまったのです。「井の中の蛙」に徹するというか、自分の主宰する学会の運営だけで手一杯という10年でした。去年9月に自分の創設した医療法人から手を引いて、気持ちに多少のゆとりが出たのかも知れません。
学会の方は行けばいったで面白く、久しぶりの人々に会えたのも良かった。
福岡国際会議場の喫茶店に入ると向こうでは髪が真っ白になった北山修君が手をふっている。九州大学で何やらの教授をしているらしいです。こちらでは台湾のフー教授(こちらも髪が真っ白)が握手を求めてくる。テラスに出ようとコーヒーを運んでいると、パリの留学中に知り合った新福尚隆君に肩を叩かれるといった具合です。
新福教授(どこの先生かは忘れました)とはパリで半年ほどのおつき合いでしたが、私が着いたとき既に二年ほどパリにいたので彼の地の様子を教えてもらいました。彼が居なくなった後、パリには日本語を話せる精神科医が私一人になり、領事館から精神障害をかかえた旅行者や学生や商社マンのことでいろいろ依頼されるようになったものです。
その後彼はマニラにあるWHOアジア支局の所長となり、私をWHOの薬物依存問題専門委員会に推薦してくれました。1980年代後半から90年代にかけて私はジュネーヴ、コスタリカ、アンゴラなど世界のあちこちで開かれた会議に日本代表として参加させてもらっていましたが、その発端は彼の推薦でした。(続く)
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2006年05月25日
06年5月19日(雨)(2/2)
(続き)
もちろん福岡はじめ九州各地の精神科医たちにも会いましたが、今回は忙しい彼らの足手まといにならないように気をつけることにして、3泊4日の間なるべく一人でいることにしました。夕刻に終わる学術集会の後、一人で街をぶらついていると、久しぶりに「ロスト・イン・トランスレーション」(というタイトルのアメリカ映画)の世界に入ります。
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グランド・ハイアットに泊まっていたのですが、隣接するカナルシティは女性用の店ばかりですぐ飽きてしまい、結局本屋に入ってDVD(『市民ケーン』『カサブランカ』『オクラホマ魂』など)6本と桐野夏生の『ダーク』、角田光代の『東京ゲストハウス』他数冊を買い、文庫版だけ広島前後の車中で読むことにしてかさばるものはホテルから郵送しました。高い買物です。もっとも『カサブランカ』は深夜、ホテルの自室で見ました。この映画を最初に見たのは10代だったから、ボギーとは半世紀ぶりの再会ということになります。
水曜の夜遅く福岡に着いたので博多での昼食は3回、夕食は2回でしたが、二日の夕食と3日目の昼食はホテル5階の「なだ万」内にしつらえられた『清水』という寿司屋。一人だとやはり寿司屋のカウンターが落ち着きます。いつもは大勢で長浜の魚河岸にある『たつみ』という店に行くのですが、今回はさすがにそこまで出かける元気がなかった。しかし良い寿司屋さんでした。また行こうと思っています。
2回目の夕食はホテル前の川端の屋台のラーメン屋。チャーシューをつまみにビール中瓶2本の後、ラーメン。まずかった。チューブのニンニクをたっぷり入れたら更にすさまじい味になり、半分以上残して退散。口なおしも考えたがまったく食欲がわかず、おまけに胸焼けで酒も飲めなくなったのは年のせいでしょう。
結局、ホテルのバーでペリエとコーヒーを飲みながら『東京ゲストハウス』を半分読み、部屋に帰ってイングリット・バーグマンとハンフリー・ボガードのDVDを観終えたのが午前1時ころ。サイレース1mg服用してから、『ダーク』を読み始めたところで布団に入りたちまち意識混濁。セットしたモーニングコールが鳴る朝7時まで快眠できました。『ダーク』はそのままベッドに置き忘れて、帰京してからアマゾンに発注しました。まだ届いていません。
元来時間にはケチな方なので今書きかけの本のための資料やパソコンを持参していたのですが、そちらの仕事には翌朝になってもまったく気が向かない。それでも折角だからと『家族療法入門−システムズアプローチの理論と実際』(遊佐安一郎、星和書店)という古めかしい本を学会場に持ち込み、講演に飽きると喫茶店で読んでいました。
「今更なぜシステムズアプローチ?」と訊かれそうですが、今書いている本の中で「コミュニケーションとしての嗜癖」という問題をわかりやすく説明してみたくなり、勉強し直していたのです。参考にはなりましたがまだその原稿は書いていません。あれから広島での2泊を含めて数晩経っているわけですが、新聞のコラムやらこのブログやらの雑文ばかり書いていてその原稿から離れています。ウィルコムからW−ZERO3というモバイルが届いて、説明書を読みながらのパソコン接続にくたびれ果てているのも原因のひとつです。今晩あたり書く気になれるといいのですが。
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2006年07月25日
DBT(弁証法的行動療法)ワークショップについて(1/3)
7月8〜9日はお台場で過ごした。「DBT(弁証法的行動療法)」(IFF主催)のワークショップのためである。
講師はシアトルから来たキャサリン・コースランド(Kathryn E.Korslund,Ph.D.、ワシントン大学心理学部ファカルティ)さん。20歳までバレリーナ志望だったという若い(と見えた)女性である。マーシャ・リネハン(Linehan,M.M.)その人や、彼女の基地であるB-Tech(行動療法技法研究所)のマニング所長が推薦してきた講師だけあって、たった二日間での困難な講義を明瞭かつ綿密にこなしてくれた。
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DBTそのものを系統的に説明してもらえたことは勿論あり難かったが、それ以上にBPD(境界性パーソナリティ障害)というものについてのリネハン由来の大胆な仮説設定が面白かった。Otto Kernberg の境界性人格構造から始まって J.G.Gunderson や J.F.Masterson の理論と治療論に触れてからもう30年にはなるだろう。リネハンがもたらしてくれたものは、これらとは別種の理論枠の持つ面白さである。
そもそもリネハンはBPDそのものに関心があってこの仕事を進めた人ではない。元来は社会心理学者で自殺予防について研究しているうちに自殺を繰り返す人々の問題を考えるようになりBPDと出会った。
コースランド講師によると、この問題について超ベテランの精神医学界の権威たちと話したときリネハンはBPDという言葉を知らなかったそうだ。リネハンが一応の説明を終えると聞いていた一人が「それって要するにBPDのことですよね?」と訊いた。リネハンはそれが何かわからないまま、「はい」と答えたそうだ。
要するに彼女はBPDと精神科医に呼ばれているような人の自己破壊行動を止めたかったのだ。しかしそのための方法を系統立てるには問題の質を明確にしなければならない。

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2006年07月26日
DBT(弁証法的行動療法)ワークショップについて(2/3)
(続き)
まずリネハンがやったことはDSM-4のBPD診断基準で9項目に分類されていた諸徴候を5つの関連枠に整理し直してそこに共通する問題を見つけることだった。「激しく揺れ動く対人関係」という徴候からはじまる9項目は結局次の5領域のディスレギュレーショ(調節不全)として再編成された。
その5領域とは1)情緒、2)対人関係、3)自己概念、4)行動、5)認知のことで、言われてみれば確かにBPDとはこれらそれぞれの領域でバランスの取れない人のことだ。
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一番わかりやすい「行動」について言えば、食物を食べ過ぎる(過食)のを止めると食べないこと(拒食)になってしまって、「中庸」(これを middle path と言っていた)がない。「良く生きられない」となると「生きるのを断念する(死ぬ)」ことになってしまうのも極端だ。
どちらか一方の極に貼り付いてしまうということは要するにいつも「正」と「反」との矛盾と緊張の中にいることで、これは別にBPDの人でなくても誰でもそうだと思うが、この緊張に耐えることが極端に弱いのがBPDの人という理屈なのだろう。
この「正」と「反」の宙吊りを解消させるのは難しくて、むしろこれらに悩むことを当たり前として認めさせてやればいい。つまり自分の中には正も反もあるが、それはそれとして別の次元に身を置いてみようということになると、正と反の「統合」ということが見えてくる。それを指向するから「弁証法的 dialectic」ということになるのだが、
これについては講師のコースランドさんが面白い説明をしていた。「上があれば下がある。右があるから左がある。ところで皆さん黒の反対が白だとして、その弁証法的統合って何ですか?」。
暫く時間を置いて応答がないのを確認してからコースランドさんが言った。「灰色じゃないですよ。灰色はグラデーションを伴うとはいえ、それ自体がひとつの『質』になってしまいますから。弁証法的統合というのに近いのは、白と黒のストライプや格子縞だと思います。これだとひとつの表現の中に白も黒もそのまま含まれていて、模様とか柄とかいう次元の違う特徴も備えているわけですから」。
患者としては白い部分があっても黒い部分があってもいい。それがひとつの人格の中で独自の模様を作っていることを納得できるようになればいいわけだ。(続く…)
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2006年07月27日
DBT(弁証法的行動療法)ワークショップについて(3/3)
BPDの人が極端に寄りすぎるのは、過敏だからということもあるのだろうが、それ以上に緊張に耐えられずに表現(行動)してしまう衝動性のためだろう。この点では「我慢してもらう」「耐えてもらう」ということが必要になり、その能力を患者と合意しながら伸ばしてもらう他ない。
精神療法家も精神科医も、患者に「我慢」を要求することを嫌う。あるいは怖れている。DVDでは最初の治療合意のときから自殺企図を初めとする行動化を治療妨害行為として禁じている。これをした後のセッションでは事務的になるし、我慢できたときには優しい応対が帰ってくるといったメリハリをつけることをためらわない。しかし同時に我慢できるようになるためのスキル、不快や不安や孤独に耐えるためのスキルを極めて積極的に教えている。
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こうした感情耐性を増すための訓練には治療担当者とは別な人が当たり、それとは別にグループ療法の担当者もいるので一人の患者は最低3人の治療者に対応されていることになる。
患者は自殺や孤独を初めとする感情危機の際には24時間、365日のいつでも治療担当者に電話をかけてよい。しかし一方では「我慢の訓練」もされているわけだから、深夜のクライシスコールはそれほど頻繁なものではないらしい。かかってきた電話にも5分以上は対応しない。
因みにコースランド先生は午前3時にかかってくる「寂しい人」の電話には、24時間開いているA.A.ミーティングへの出席を勧めるそうだ。ランチのとき、24時間365日開いているA.A.なんてこの街にはない、と言ったら、「え? 東京にないって、それホントですか?」とびっくりしていた。私たちは別の方法を考えなければならないだろう。
DBTについては私自身、これから消化して行かなければいけない部分が多いので、これ以上の説明は避けた方がいいだろう。しかし2日間のワークショップ過程で、「なるほどこれなら効果があるだろうな」と納得できたことは伝えておくべきだろう。
今回の参加者は102名、IFFのスタッフも入れると140名前後の人々と二日間ほぼ一緒に過ごしたことになる。主催者側の立場から言うのも変だが、コンパクトで良く組織された親切なワークショップだったと思う。参加者の質は高く、事務局の話では心理臨床家というより精神科医の割合が高かったようだ。参加者たちは演習や質問に極めて積極的で講師は喜んでいたし感心もしていた。彼らから、内容の濃いプログラムだったと評価されてホッとした。
2日間、お台場は雨もようだったが、コースランドさんはシアトル(彼女はそこにあるワシントン大学のファカルティ)の天候もこんなものですと言っていた。彼女はこの来日に備えて日本語クラスを受講したりして随分準備してきたようだ。美人のお母さんが一緒に来られていて、仕事の後の一日、二人で都内をハトバス観光してから帰りますと言っておられた。
来春にこのワークショップ参加者を主な対象としたアドバンスド・コースの設定が検討されている。その際にはこれを読んでいる人々にも参加して頂きたい。
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斎藤学の講座・ワークショップ
| 講座名 | 日程 | 時間 | 料金 | 対象 | 会場 |
| 斎藤学ワークショップ | 10/07 08 | 14:00〜20:00 10:00〜18:00 | 31,500円 | 一般 | 東京麻布 |
| 斎藤学オープンカウンセリング | 火 | 18:30〜20:30 | 3,000円 5,000円 | 一般 | 東京麻布 |
| 親のための家族相談 | 火 | 18:30〜20:30 | 3,000円 5,000円 | 一般 | 東京麻布 |
※開催日については必ず各講座の詳細ページでご確認下さい
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2006年08月29日
書評:岸田秀・原田純『親の毒、親の呪縛』(大和書房)
このところ書評など、他人の文章を読まなければならない仕事が集中して、ブログの書き込みができなかった。頼まれた書評のひとつは岸田秀・原田純の対談『親の毒、親の呪縛』(大和書房)で週刊ポストからの依頼、もう一冊は村瀬学『自閉症−これまでの見解に異議あり!』(ちくま新書)で、これは東京新聞文化部から依頼を受けたものだった。それらを引き受けているうちに、かつてクリニックの来談者でもあったSという、児童虐待の犠牲者体験があり長じてはバタードウーマンとして苛酷な人生を送った女性が書いた文章のゲラ(この本のタイトルはまだ決定していないそうだ)が文芸社という出版社(自費出版的な自伝などを良く手がけているように思う)から届いて、「刊行に寄せて」といった文末の文章が欲しいと言ってきた。我がクリニックの利用者であった人のことだからと断れまいと思ったので、結局、毛色の違う三冊の本を1〜2日に一冊という高速ペースで読むことになった。人の文章を読んでいると自分のものが書けなくなる。
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おまけに書評は極く限られた字数の中に言いたいことを盛るという作業で、結構頭のエネルギーを使う。書評ではなるべく自分の論理を出さないようにしている。その代り、書評を読んだ人がその本を買って読んでみたいと思うように書く。私もそのような書評を書いてもらいたいからだ。以下にそれらを並べ、ご無沙汰のお詫びとする。
(1)書評:岸田秀・原田純『親の毒、親の呪縛』(大和書房)
親からの虐待や呪縛を聞き続けることを仕事にして思うことは、親のむごい仕打ちを訴える人々の抱く親への愛の深さである。愛したいからこそ、親の仕打ちがこたえる。だから彼らは「加害者である親」について語り続けるのであって、理想的な親についての憧れがそれをさせるのではない。そこには「親に愛されなかった自分」の存在を、他者に承認させなければならないと考える強迫がある。人は他者の承認(生きていることの意味の付与)なしには生きられないし、まず出会う他者とは自己自身に他ならないから自問自答の空回りに入るのである。虐待する親は子どもに難解な謎を与え、この謎解きは時に「治療的作品」を生む。ヴァージニア・ウルフは『灯台へ』を書くことで、幼いときに死んだ(自分を捨てた)母への想いを断ったと未完に終わった自伝『過去のスケッチ』の中で述べている。それをヴァージニアは「自己流の精神分析」と呼んだ。
原田純の『ねじれた家、かえりたくない家』(講談社)は日本語で書かれたその種の精神療法的著作のうち最もすぐれたものだ。あれは極めてスリリングに綴られた実父へラブレターに他ならないと私は思う。その出色の「父親物語」を前提にした岸田秀氏との対談が本書である。率直に言うと、岸田氏による物語の相対化は私には退屈だった。私と岸田氏の関心(専門?)の領域が重複していて岸田氏の言葉に既視感を抱いてしまうからだろう。むしろ私にとって収穫だったのは原田氏のその後を教えてもらえたことである。彼女はその後結婚し離婚し、母親として「世間並み」に子苛めをし、それにもかかわらず我が娘から抱擁を求められて慌てたという。興味深い。ゆっくりでいいから、これらのことについての「物語」を書いて欲しい。その際、柳美里に言及して語られているような「小説としての完成度」など求めないでいい。虚構作りのスキルアップなど要らない。そんなものは他の書き手に任せればいい。原田純という希有な(だからこそ普遍的な)人物の「それから」が是非読みたい。(斎藤 学)
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2006年08月30日
村瀬学『自閉症−これまでの見解に異議あり!』(ちくま新書)
映画『レインマン』は、施設にいる「自閉症者」の兄レイモンド(ダスティ・ホフマン)を、ある事情で弟(トム・クルーズ)が連れ出しに来るところから始まる。
「自閉症者」にとっての「他者」である弟は、兄を奇怪に思う。兄の本棚に並んだ本に触っただけでパニックを起こされたりする。レイモンドは本の並び(順序、秩序、規則)が乱されるのを怖れたのだ。
映画は「変化」への予期不安に怯えて飛行機に乗れない兄を弟が車に乗せて旅するという「他者=普通の人」の苦難を描く。
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ストーリーを豊かにしているのは、この種の人々に見られる「イディオ・サヴァン(天才バカ)」的な行動だ。レイモンドはレストランでウェイトレスの胸の名札から彼女の電話番号を言い当てる。引いたトランプ・カードを見て、残ったカードの種類と数を当てる。なぜそれが出来るのか。それはこの本を読めばわかる。
かつて心身障害児施設の職員を務め、子どものこころについての積極的な発言で知られる村瀬学(同志社女子大学教授)が書いたこの本は、「自閉症」についての啓蒙書ではない。むしろ「自閉症」という用語に対する批判の書である。
レイモンドのような行動は「他者」から「症状」と見られてしまう。そして医療や教育トレイニングの対象にされる。しかしその気にさえなれば、自閉症的にふるまう人の考えかたが「普通の人」と地続きであることが見えてくる。
例えばカレンダーや地図などの「目印」の規則性へのこだわりは人類に共有されてきたものだ。
人とは、こうした規則性を発見し、その秩序を維持することによって不安を統制しながら生きるものたちなのだ。それを村瀬は丁寧に説明する。
これら「関係発達の遅れ」を持つ人に対して「普通の人」が自閉するとき、そこに自閉症が発する。だから「普通の人」とレイモンドたちとの関係は開かれなければならないと著者は説く。
教えら考えさせられ、しかも読みやすい本である。(斎藤 学)
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2006年09月05日
刊行に寄せて:S『タイトル未定』(文芸社)
2年前の1月の夕刻、ある女性の来訪を受けました。そして彼女の苛酷な生活史を聞かせて頂きました。その内容はこの本に綴られているとおりです。そのストーリーが連綿と語られるのを聞きながら私は、まるでゾラやディケンズの小説を読んでいるようだと思いました。
聞き終えた私が「良く生き残ってこられたね」と言ったのも、この本に書かれているとおりです。しかし私が「生き残り」という言葉を使ったについては少し説明が必要でしょう。私はこの言葉を単にこの女性が生き延び、私の眼前に居るという意味で使ったのではありません。母親から「死んでおくれ」と言われるほどに苛酷な仕打ちを受けながらも、そして虐待する母や姉からの救い主のはずであった夫からの理不尽な暴力の嵐に翻弄されながらも失われていない、この女性の活力と可憐さについて「生き残り」といったのです。
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幼児や児童が親から理由もなく暴力をふるわれたり、ネグレクト(無視)されたりすると心が破壊されてしまうものです。例え命の尽きることがなくても、壊れた心は細くて小さい骨格として表現されたり、生まれつきのような病弱(病気に対する抵抗力のなさ)という結果を招いたり、人間不信やひねくれという情緒行動上の特徴として現れるものです。つまり児童虐待は子どもの魂にひび割れを起します。彼らはしきりに寂しがり、その寂しさを埋めようとして薬物やアルコールや食物を取り込むことに耽ります。あるいは自分にも他人にも攻撃的になって、それを衝動的に自己破壊的に表現します。自傷癖や、繰り返される自殺未遂をきっかけに、精神科医である私に出会うことが多いのです。
しかし、この女性にはそうしたところが見られない。彼女の魂には虐待によるひび割れが入っていない。それを不思議に思ったから「良く生き残ったね」といったのです。彼女がどこからこのようなしなやかさや強さを獲得したのか、わかりません。つまり私にとっては「奇跡」なのです。
この女性は現在に至るまで、自らに酷薄であった母からの愛の備給をあきらめていないようです。何という強さでしょう。あれほどの暴力に悩まされた夫とも、まだ切れていないどころか、彼の「良いところ」を探すのに熱心です。何というしなやかさでしょう。こうした人として生きられたことが、彼女の子どもたちを優しい大人にしたのだと思います。この可憐な本は、まるで著者自身のようです。かわいいが内容は豊か。そして愛に満ちています。(斎藤 学)
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2006年10月19日
Nさんからの手紙
締め切り原稿に追われてご無沙汰していました。この年になってこんなに忙しいのは変だというくらいに時間がなくなっていて、我ながら「これはまずい」と思っています。
渋谷(外苑神経科)での臨床が入ってきたのも一因ですが、広島(ワークショップ)、仙台(シンポジウム)、大阪(市民局講演)と続いて、麻布・讃岐会館でのワークショップ(これは地元)になだれこんだのがきつかった。加えて家族病理学・通年講座(IFF主催)とAIU/CSPP日本修士プログラム(社会病理学、秋期講座)が始まり、それなりの準備もしなければなりませんでした。
以前なら楽々こなしていた日程なのですが、最近は家にたどり着くとひっくりかえっていることが多くなっています。
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あいかわらずクリニックの皆さんの言動は面白いし、火曜の夕方(「オープンカウンセリング」と「親のための相談」)の活き活きした会話も楽しんでいますが、それらを書き留める時間が減っています。ただ書き留めるのなら簡単ですが、ここに事実そのままを載せるわけにはいかないので、大幅に脚色する。それについては結構時間をつかうのです。
とはいえせっかく始めたこの欄を空け続けるわけにもいかないので、皆さんからの手紙の紹介から再スタートします。
その後で最近書いた原稿のいくつかを紹介することになるでしょう。
Nさん(30歳代、女性)からの手紙 2006年9月7日
斎藤先生、こんにちは。先日もお手紙に書かせて頂いたのですが、JUST通信に私が書いた文章を載せて頂きました。文章の内容は、2004年5月に講演プログラムの中で「私の悩み」という題で話させていただいたのと同じものです。
2年前に、「私の悩み」講演をさせていただいた後、ずっと私はこの文章についての感想が出て来ませんでした。感想が出て来なかった理由は、心の形にこの文章がピタリとはまってしまい、「すきま」がなかったからではないかと推測しております。
でも、2年が経ち、今回JUST通信に載った自分の文章を改めて読んでみて、ようやく感想を感じるすきまが出来た様に思いました。上手く言葉にするのが難しいのですが、感想は「これは私にとってノンフィクションの話だけれど、同時に今はフィクションでもあるな」です。斎藤先生は、「記憶は創作でもある」という様な話をされることがありますが、その言葉の意味がうっすらとわかった様にも感じました。
さて、「すきま」というと、少し前に先生がIFFのブログに書かれていた、心の「空隙(くうげき)」や「重石」の話を思い出します。それで、「空隙」や「重石」という言葉から連想した事を書かせてください。
2年位前、ヨーロッパやアジアでの生活が長かったUさんという女性が「独身の頃、インドのメコン川の辺りを旅している時、心にぽっかり穴が空いた様で悲しかった。」という様な話をなさっていました。先生はUさんに「皆、心にいくつか穴が空いている.そして、その穴には、ハトとかカメムシとかが住んでいる」という様なコメントをされました。ハトはともかくカメムシというのがおもしろく大変印象深いお話でした。
以来、「私の心に穴が空いているとしたら何が住んでいるかしら?」と考えていました。私は、布団嗜癖者なので、ベタな考えでいくと、ナマケモノという動物が住んでいるかもと思いました。また、化粧好きで、化けているつもりなので、タヌキなども住んでいる様に思います.そして、他者にとっては臭いであろう、自己憐憫を時々やるので、カメムシも住んでいるのではないかと考えています。
さて、この程「昔、自分が書いた文章への感想」という形で、新しい穴というか、「すきま」が出来た様に感じているわけですが、このすきまには何か「自分を大切にし、同時に他者も大切に出来る」ような生き物が住んでくれたらいいなと感じています。・・・そうは、上手く行かないだろうとも感じているのですが。読んで頂きましてありがとうございました。では、また。
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2007年03月13日
長いことお休みしてしまいました
長いことお休みしてしまいました。
こういうときというのはいつも一つの原稿に追いまくられているときで、つくづく不器用だな、と思います。
もっともその間も東京新聞(毎週水曜日)と毎日新聞電子版(毎日インタラクティヴ、毎月末)のコラムは続けているので、ブログへのコメントにはそれほど「強制力」を感じていなかったということでしょう。
最近、
「ごめんなさい、私の心ない書き込みが先生を怒らせてしまってブログをお書きにならなくなったと思います」
という趣旨のメールを頂いてビックリしました。
もちろんそんなことはありません。皆さんからの反応も時間があれば読ませてもらっていますが、楽しんではいても、それで怒るとかイヤになるとかいうことはありません。
もっとも、これを読む人の中に時々自意識過剰というか、私と「超自然的」な交流をしていると感じている人々がいるのは知っています。
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はっきりさせておきたいことは、私はこのブログで皆さんと対話しようとは思っていないことです。私は書きたいときに勝手に書きますので、皆さんは読みたいときに読んでください。
このブログには「質問」という欄があるようですが、実際には質問に答えるということをしていません。「質問」は誤解を招くと思いますので、「意見」なり「連絡」なりに変えるつもりです。
要するに私はここで読者と対話したり、その問答を掲載したりするつもりはありません。
私と対話したい人は保険証を持って私のクリニックへ来るか、お金を払ってワークショップに参加するかしてください。
いずれにせよ、最近これを書かないでいたのは、年明け以来IFFのホームページを見ていなかった(年末までに書いたものを、これを編集してくれている人に渡してありました)ために、2月2日で更新が途切れていたのを知らずにいたからです。
その頃から私の頭を占領してしていたのは「境界性パーソナリティ障害(BPD)」と「複雑性PTSD」との相違ないし鑑別という問題で、最近ではこの二つに本質的な差はないのではないかという考え方にたどり着きそうになっています。
その経緯について書くとまた長いことになりますので、この件について興味をお持ちの向きは近刊の雑誌「アディクションと家族」の特集(「自傷と自死」)中の論文「境界性パーソナリティ障害と自殺」を読んでみてください。
先週ようやく編集を了えたところなので、しばらくはブログの更新を忘れないでいられそうです。
このブログにエネルギーを使い過ぎない、そのかわり毎日更新できるようにするという線を目指そうと思います。
そのためには私の周囲にいる人々、特にクリニックの患者さんたちのご協力を頂くのがいいと思いました。他人(ひと)の褌で相撲を取ろうというわけです。私の書き下ろしより面白いと思います。もともと私は他人様の話をここに載せてきたわけですから。
さっそく、その第1号、富美さんです。(続く…)