カテゴリー「対談」の一覧
2005年11月01日
知事対談「子どもは誰が守るのか 〜家族の変容と崩壊をめぐって〜」(1)
◇浅野史郎(宮城県知事)
◆斎藤 学
社会の変化と子どもの変化
◇浅野
今回は、児童虐待や子どもの事件、子どもの問題行動など、子どもを取り巻くさまざまな問題についてお話を伺っていきます。私が子どもだったのは随分昔のことではっきりとは覚えていませんが、今と昔とでは子どもをとりまく環境も違っていますし、子ども自体も変わっているような気がしますが。
◆斎藤
そうですね。まず、都市化の影響がありますね。それから、知事のお生まれになったベビーブーマーの時代には、都市部へ人口が流入して新しい家族がたくさん生まれ、核家族化が進みました。ですから、その時代の前と後では、家族というものがとても違うものになっています。子どもというのは、悲しいことに外部に大きく影響されて育っていきますからね。
しかし、子どもがいろんな事件を起こすというのは、最近急にそうなったのではなく、実際はずっと昔からあって、それが最近、「子どもの事件」として急に騒がれるようになったというだけの話だと思います。要するに、世間の焦点の当て方なんですよ。
◇浅野
それもあるでしょうが、家族の形態の変化が子どもの人格形成や社会性、行動様式などに影響しているということは言えるのではないですか。
◆斎藤
確実に言えるのは、子どもの一番の特徴は大人に比べると衝動の統制力が弱いということです。要するに、バランスがとりにくいということで、怖い人に抑え付けられると萎縮してしまうし、ちょっとほうっておくと無秩序に流れるわけです。このバランスをとっていくというのが教育ですよね。
また、小学校の高学年くらいの子は、自已愛が非常に強いですし、大人に比べると怒りの統制力が弱いですから、自已愛を傷つけられると事件になってしまうことが多いですね。
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◇浅野
犯罪までいかなくても、学校でいうと、授業中に子どもたちが歩き回ったり、学校崩壊といわれるようなことになって、先生が立ち往生するようなことは、3、40年前には考えられなかったような状況だと思いますが、何が問題なのでしょうか。
◆斎藤
問題は二つありまして、一つは、十数年前から病気として注目されるようになった、ADHD(注1)やアスペルガー障害(注2)などの情緒障害の子どもたちの問題。
もう一つは、兄弟の数が減っていますから、昔のように長男がたくさんの兄弟を仕切っているというようなことがなくなって、一つの集団としての子ども世界の中での秩序形成力が落ちているということは確かです。これは現代家族の問題ですね。
◇浅野
それはあるのでしょうね。
◆斎藤
ですから、クラスの中に多動の子がいたりすると、周りの子もそれに乗ってしまうということが起こるんですね。
◇浅野
いじめなども、昔は、いわゆる「ガキ大将」がいて、「いじめるなよ」と止めてみたり。
◆斎藤
そうそう。でも、今はそういったヒーロー的な子どもというのは排除されてしまうので、無秩序の増幅が起こってしまうんですね。
◇浅野
俗説かもしれませんが、テレビやゲーム、携帯電話、インターネットなど、3、40年前にはなかったものが子どもの世界に入り込んできて、それにどっぷりつかって育てられているということの影響というものはあるのでしょうか。
◆斎藤
情報が各方面から入ってくるということは知的発達を促すはずなので、そのためにということは余り考えられないです。しかし、一つ言えることは、ゲームにしろテレビにしろ、そればかりに閉じこもっていると、他者との関係が希薄になりますから、現実性を持った人間関係について学ぶ機会がなくなってしまうということは間違いないでしょうね。
◇浅野
そういったある意味ではちょっとした問題のあるような子どもたちが、社会的プロセスを通じて大人になっていくというのが「育つ」ということだと思いますが、今の社会では、そういうシステムとかメカニズムがしっかりと機能しているのでしょうか。
◆斎藤
大事なことは、多様性をどれだけ認めるかだと思うんです。ひと昔前よりも、一見、選択肢が増えているようにも思えますが、実際には、例えばテレビで伝えられる情報というのは一面的な場合があり、それを見た子どもにとっては、テレビに出てくるような人が偉い人になってしまう。こんなに子どもたちの価値観の画一化が進んでいる時代はないんじゃないでしょうか。これは世界的に共通な事象だと思います。
それから、学校教育に余りに期待し過ぎているところがありますね。子どもがとりあえず学校に行っていればそれでいいというので、家庭や地域の力がなおざりになっているところがありますから。
ただ、子どもたちはどちらかというと、学校というよりも、親の進学とか高学歴化への期待みたいなもので押しつぶされています。日本で士農工商の身分制度がなくなったのはずっと昔のことですが、今は学歴による階層化がそれに代わっているようなところがあるでしょう。これが親たちの学歴圧力という形で子どもたちを傷め付けているんです。
◇浅野
教育が選別の過程になってしまっていて、その中で、親が子どもに手っ取り早く幸せになってもらいたいという思い込みを、子どもに押しつけてしまっているということですかね。
◆斎藤
それは確かに言えると思いますね。
◇浅野
少子化の影響についてはどうでしょうか。
◆斎藤
日本では、富裕層の家庭では、子どもの数が増えるというのはステータスになっていて、しかも、子ども一人ひとりに過大な教育投資をしています。それとは逆に、ごく平均的な所得の家庭では第二子を産むことに躊躇している。経済力とリンクしているんです。
◇浅野
昔は「貧乏人の子だくさん」と言われたものでしたが。
◆斎藤
そういう言葉は死語になってしまいましたよね。これが日本の人口構成の特殊性で、それが今の日本の子どもたちの問題ともつながっています。教育の基本は家族ですからね。
先ほど、子どもは自己愛的だと言いましたが、一人、二人の子どもに過大な教育投資をして育てると、子どもは親の期待を読み取りながら生きていますから、親の言葉や表情から自分で勝手に「私はだめなんだ」と判断して挫折してしまったりします。それから、家の中では「王様」ですから、自己愛を抑制できない、非常に傲慢な子どもになってしまうわけで、当然、学校や社会に適応できないということが起こってしまうのです。(続く…)
注1【ADHD(attention-deficit hyperactivity disorder)】
注意欠陥多動性障害。注意力障害、多動性、衝動性を特徴とする行動の障害で、発達精神障害の一つ。注意や集中力を持続できない、じっとしていられない、話を最後まで聞けないなどの行動の特徴が見られる。
注2【アスペルガー障害】
知的な発達に遅れがないタイプの自閉症。言葉の発達や遅れはないが、言葉の意味の理解やコミュニケーションが苦手で、社会性に困難がある。
(みやぎ政策の風 2005年9月 vol.4 より)
※斎藤学へのご質問、ご感想を受け付けています。[こちら]にご記入の上、送信して下さい。質問については斎藤学が可能な範囲で記事中でご回答いたします。
斎藤学の講座・ワークショップ
| 講座名 | 日程 | 時間 | 料金 | 対象 | 会場 |
| 斎藤学ワークショップ | 12/3、4 | 14:00〜20:00 10:00〜18:00 | 31,500円 | 一般 | 東京新宿 |
| 斎藤学オープンカウンセリング | 火 | 18:30〜20:30 | 3,000円、5,000円 | 一般 | 東京麻布 |
| 親のための家族相談 | 火 | 18:30〜20:30 | 3,000円、5,000円 | 一般 | 東京麻布 |
| 斎藤学による木曜ミーティング | 木 | 12:00〜 | 3,000円、5,000円 | 一般 | 東京麻布 |
| 危機介入の技法 | 土 | 18:00〜20:00 | 5,250円、7,350円 | 専門 | 東京麻布 |
※開催日については必ず各講座の詳細ページでご確認下さい
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2005年11月04日
知事対談「子どもは誰が守るのか 〜家族の変容と崩壊をめぐって〜」(2)
◇浅野史郎(宮城県知事)
◆斎藤 学
子どもの問題は「家族」の問題
◇浅野
斎藤さんはご自身のクリニックで、家族に起因するさまざまな問題を抱える人の診療をなさっていますね。そういった人たちを、改善の方向に導くためには、どのような対処をするのですか。
◆斎藤
私は、多くの20歳以後の精神障害の背景に子ども時代の養育状態、特に児童虐待があるのではないかと見ています。親からの過大な期待に縛られるというのは普通は児童虐待と言いませんが、それらも含めると、幼い頃の養育環境の影響は決定的だと思います。
そういったことを考えていくと、若い人を診る場合、結局、家族療法的に接した方が効果的なんですね。一人の子どもが問題を起こした場合、ほかの子どもたちへの影響が出ている場合が多いですしね。
また、特に思春期の子どもは診療を受けに来ませんが、そういう場合でも、子どもと一回も会わずに親とだけ話していて問題が解決することが多いんです。
◇浅野
子どもの問題に対処するためには、日ごろ一番関わっている家族ぐるみで診る必要があるということですか。
◆斎藤
はい。親の子どもへの接し方を変えてもらうだけで、子どもの問題行動というのは大幅に修正されるわけです。しかし、現実に、虐待を受けて育っ子どもというのはいるわけですね。世間を震憾させた池田小児童殺傷事件や奈良女児誘拐殺人事件の犯人は、子ども時代に虐待を受けていたことがはっきりしています。
こういった犯罪が起きてしまった後で捜査にかける莫大な費用というのがあるのならば、なぜ児童虐待の予防にもう少し意を注がないのかと思います。
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「子どもの虐待防止センター」の取リ組みを通じて
◇浅野
斎藤さんが児童虐待の問題に取り組まれたきっかけはどんなことだったのでしょうか。
◆斎藤
私が最初に児童虐待と関わったのは、大田区あたりで血を流して毎晩さまよい歩いている子どもを見た保健所の職員がいまして、その場で警察に連絡すると保護はしてくれるんですが、だれもその原因を真剣に考えてくれなかったというので、その家を訪問したんです。そしたら、そこにけがをしている8歳児のほかに、体にあざのある1歳児もいたんです。8歳児なら外へ逃げられるけれど、1歳児では無理ですから、これは大変だと。
それで、その子どもの母親に介入、要するに「おせっかい」をした。父親は覚せい剤とアルコール依存ですから来られないので、母親と私との間で接触が始まったわけです。ところが、この母親は、夫が子どもを殴ると、子どもを盾にして逃げてしまうような人で、親としての保護の能力がないんです。
それで、困りまして、児童相談所に介入をお願いした。ところが、今は違いますが、当時の児童相談所は、「ここは親と子どもの仲をよくさせるところだから、親から子どもを取り上げるなんてとんでもない」ということでした。これが1990年前後の話です。
◇浅野
15年ぐらい前の話ですか。それ程昔のことではないですね。
◆斎藤
大昔ではないです。そこで、児童相談所にもっと児童虐待という問題を知ってもらいたいと思いまして、1992年に「子どもの虐待防止センター」という民間団体(注3)を立ち上げました。児童虐待の問題をなんとかするには、民の力で動かないとだめだと思ったんです。
センターを立ちあげた当時、まず手はじめに、新聞記者を集めたりして児童虐待問題についての広報活動を行いました。「児童虐待」という名前がついて、それがみなさんに認識されないと、報道もされないし、問題として確定されないですから。紆余曲折ありましたが、実際に、センターを立ちあげてから十数年の間に、児童虐待の問題については随分環境が変わりましたよ。
◇浅野
「子どもの虐待防止センター」は民間団体として立ちあげれらたので、権限があるわけではないですよね。例えば児童相談所ならば、今は一つの権隈として介入できますが。しかも被害者である子どもは積極的には訴えてきませんから、加害者である親に対してまさに「おせっかい」として介入していくわけですね。
◆斎藤
民から民への介入ですね。
◇浅野
センターの活動をしていくときに、権限がないということで、やりにくさというのはありますよね。
◆斎藤
もちろんありますが、逆に官から民へ介入するときには、違う意味で配慮しなければいけないことも多いでしょう。民から民への方が「おせっかい」としての介入という意味ではしやすい面もあります。
それから、官と民との連携は不可欠です。児童相談所がケースとして取り上げるまでに何度も会議を開いたりして、その間に子どもが死んでしまうということもありますから。センターで関わった事例でも、例えば、子どもが病院に入院した段階で、センターと児童相談所のケースワーカーとで連絡を取り合って、次の事件が起こらないように、病院の医師を通して親に圧力をかけるということが何度もありました。
◇浅野
児童虐待の場合、そういうケースの発見とか見い出しが出発点になりますが、「子どもの虐待防止センター」では、虐待の通報についてネットワ-クとしてシステム化されているんですか。
◆斎藤
センター設立当時、仕事で子どもと接触している人でも、児童福祉法第25条の通報義務の存在を知らなかったということがありましたから、いろんな形で講演会を開いたりしましたが、今になって考えれば、これが着実に成果を上げていたと思います。
やっぱり民の力というのは、すごいですよ。官は民の活動を補完していくしかないんです。
例えば、ドメスティックバイオレンスも家族内の一つの病理ですが、最初はそのような見方はされませんでした。実は、私は、児童虐待問題の前に、アルコール依存の夫から妻への暴力の問題に関わっていまして、夫本人に関わるよりも、その妻を「共依存症」という病気として治していった方がずっと効果的だということを証明してきました。被虐待児は、そういったアルコール依存の夫とその妻の子どもの問題として最初は浮上してきたわけです。
また、アルコール依存の親を持つ子どもは、大人になってからアルコール依存者になったり、その妻になったりすることもわかってきました。別々の問題ではなく、みんな一つの問題なんです。
そして、こういった問題を取り扱うときに、経験上、一番効果的だと思うのは、民間の団体です。「子どもの虐待防止センター」もそうですが、活動を進めていくうちに世の中の流れが少しずつ変わってきて、2000年に児童虐待防止法ができ、2001年には配偶者暴力防止法ができました。民の活動を官が補完していくという形で進んでいます。
注3 平成9年からは社会福祉法人。
(みやぎ政策の風 2005年9月 vol.4 より)
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2005年11月07日
知事対談「子どもは誰が守るのか 〜家族の変容と崩壊をめぐって〜」(3)
◇浅野史郎(宮城県知事)
◆斎藤 学
地域力の低下をどう補うか
◇浅野
斎藤さんがこれまでやってこられた活動の積み重ねの中で、官の側に対して、「こういうことをしたらいいのに…」ということはありますか。
◆斎藤
事件や問題を起こしている家庭に共通して言えることは、まず、家族全体が地域から孤立化しています。家の中に地域の人の出入りがない。
それから、性的虐待は非常に発見しにくいんですが、例えば女の子の場合、学校の成績が急激に下がるとか、中学に入ってから夜尿が復活するなどの問題があれば、当然それを疑うんだという観察眼を学校の先生たちが持たなければいけません。
◇浅野
「気づき」ですね。「おかしいぞ」と思ったならば、それを把握して、対処するなり、しかるべきところに相談、報告するという体制。
◆斎藤
栃木県で親が二人の子どもを橋から川に投げ込んだ事件がありましたが、事件が起こる前からコンビニの店員が子どもの様子をみて危慎していたんですよ。そういう地域の目というのがあって、これは今の日本人が大嫌いな地域のおせっかいですよね。しかし、地域力とは一体何だといったらば、地域のおせっかいやきの力なんですよ。
◇浅野
おせっかいの勧めをしなくてはいけないですね。
◆斎藤
私はそう思っているんですけどね。今みたいに極端に家族単位になってしまっていると、そこの親にちょっと問題がある場合に、地域からの介入がないと非常に間題が進んじゃうわけですよ。
それから、田舎の方が都会よりも地域力があるとは言えないんですよ。田舎は高齢化が進んでいて、住民そのもののケアがまず大きな問題ですからね。そういうことを考えると、地域の若い夫婦の子育ての問題にその地域の人たちが関わっていけるように、行政がなんとか「おぜんだて」できないのかなと思うんですよ。
学校の先生とか保健師などは、本来そのような問題に関わっていく責任のある立場にありますが、現状では、まず人数が圧倒的に不足していますし、トレーニングももっと必要です。
だから、私は市民に立ち上がらせないとだめだと思っているんですよ。子どもの虐待問題に関心を持っている人や何かしたい人はたくさんいますから、行政がNPOなどの市民団体を支援して、講習会なんかをどんどん開いてもらう。そうすれば、そういう人たちに、カウンセリングの技法とか、虐待のリスク要因とか、児童相談所に通報するべきケースとか、そういう基本的なことを教えてあげることができます。
◇浅野
例えば、地域に住んでいる退職した人で、意欲と能力と時間がある人を活用することはできないかと思っているんですが、やはり、最低限のトレーニングというのは必要なんですね。
◆斎藤
そうですね。でも、私は、一番いい援助者になれるのは、自分自身が加害者だったり被害者だったりした人だと思うんですよ。
例えば、かつて妻に暴力をふるっていた男性が改心して、今度は、妻に暴力をふるっている男性の相談に応じる。それから、被虐待女性同士の支援というのは非常に強いですよ。
◇浅野
ピア・カウンセリング(注4)ですね。
◆斎藤
そうです。そういうのを私は血縁や地縁とは違う、「問題縁」といっているんですよ。例えば、「不登校児の親の会」とか「引きこもりの親の会」とかね。
横浜のある造成団地の話ですが、全部で250世帯あって、その中で引きこもりが30数人いる。親は50歳代で、引きこもっているのは30歳前後ぐらいの人です。こういう引きこもりへの対応は、私みたいな専門家だけでは無理ですし、引きこもっているというだけで他に問題を起こさなければ、役所が出て行くわけにもいかないでしょう。
そういうときに、引きこもりの子どもを抱えて悩んでいる親たちが、例えば「引きこもりの親の会」といったような組織体をつくって、私のような専門家などを呼んで、引きこもりの子どもにどう対応したらいいのかということを訊くことはできる。
そういう人たちに行政が力を貸すということをやればすごく効果的だと思います。
◇浅野
そうですね。
◆斎藤
児童虐待でも少年事件でも、個々の事件を詳細に取り上げていくというよりも、こういった全体に流れている構造を見定めて対処していくことが大切だと思うんですよ。そして、それらに通底する構造というのは、家族が地域から分離していたり、あるいは地域の崩壊といったことで、実は都市部よりも、郡部で起こっているんですよ。都市部と田園部との中間地帯で起こっている。
◇浅野
そういったところで孤立すると、もう逃げ場がないというか、孤立感がますます深まりますよね。都市部での孤立というのはよく言われてましたし、ほかに逃げ場がありますからね。
◆斎藤
家族から阻害されても、別のコミュニティーの中へ入っていける。ですから、問題縁でつながった疑似家族みたいなものをつくって、それを一つのコミュニティーとみなして、行政が援助していくのが一番上策だと思いますね。
◇浅野
そうですね。行政の手法にどうやって翻訳するかというとなかなか知恵が要りますが、今日は斎藤さんから答を出すヒントをみたいなものをいただいたような気がします。
どうもありがとうございました。
注4【ピア・カウンセリング(peer counseling)】
悩みや問題を抱える人、かつて抱えていた人が、自らの体験に基づいて、同じ悩みや問題を抱える人の相談に応じ、問題解決を図ろうとすること。
(みやぎ政策の風 2005年9月 vol.4 より)
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2005年12月19日
心の拡大鏡を使って −教師と親へのメッセージ−(1/4)
聞き手 中田康彦(一橋大学社会学部、『人間と教育』編集委員)
学校と家族の性格のちがい
中田 子どもに寄り添いたいと思っている教師に、精神科医のお立場の意見から何か示唆を得られればというのが今日のインタビューの趣旨です。
最初に、子どもに対して家族が持つ機能と、学校が果たす機能の違いを、父性という観点からお聞かせ願えますか。

斎藤 そういう比較が可能かどうか、まず問題になるかもしれませんね。家族が持っている多様性に比べ、学校は存在そのものがあまりにも一般化していて、学校に行くのがいやな子がいたりするとびっくりしてしまうみたいなことがありますけど、そんなにみんなが行きたがるところではないと思うんです。
どんな組織も、利用する人より組織にいる人に便利なようにつくられてしまうでしょう。流れゆく者より宿主として居座っている方々に都合のいいようにつくられていきます。そういうところで家族が持つ母親とか父親の役割という話をもちだすと危険なことになりかねないですね。
だからルールとか人間関係の基礎的なことを取り扱っていくというふうに考える。それは家族にも学校にもある役割です。ただ、今の教員養成がそういうことをどれだけ重視しているかという問題もありますね。同じ年齢の子を一つにしておけばいいのかという問題もあります。それに小学校は六年間ですが、六年という数にどれだけ妥当性があるのか。私が見るところ、10歳までと11歳以後でだいぶ違います。
===
子どもに選択肢はないので、コミュニケーションを家族だけに委ねていてはだめです。家ではみそっかすだが学校では生き生きするとか、その逆とかもあっていい。コミュニケーションの場としての学校は何らかの形で必要です。
それに、子どもを24時間コンテイン(包摂)できる能力を今の親は持っていません。夏休みに「じゃまだから学校へ行っていてよ」みたいな悲鳴を親があげることがあります。学校はいろいろと頼りにされているわけですが、父性機能を学校に負わせすぎるのは親の怠慢ではないかと思います。
それに父性機能を担うのは学校だと言いたくないところがあるんです。社会学的父という意味での指導する者のモデルは人間の心そのものが求めています。学童期とはエリクソン流に言えば、仲間内で競合して権威者にひれ伏す時期です。あの年代の子は放っておいても権威をつくります。父性というと最初から存在しているみたいに聞こえるけど、子どもたちがそういうものをつくり出すというところもありますね。麻原彰晃の事件でもヨガの先生みたいなのをだんだん神様にしていったように、若者は帰依対象を自分でつくってしまうところがあります。
学童集団は、カリスマにならないし、なりようもない人たちに率いられるものとしてこれからも存在し続けるだろうとは思います。
学校がもつ二つの機能

斎藤 そういう意味で学校は家族と違って、学習機能とコミュニケーションの場という二つがはっきり分けられる場と考えてみてはいかがでしょう。家族が持っている父性・母性機能みたいなものは副次的なものということにします。
まず学習機能についてですが、極端にいえば学習そのものは先生方が地域にオフィスを構え、そこに子どもが行ってサインをもらう、履修単位取得が済めば進級する、というかたちでもいいわけでしょう。そうすると先生たちの間で自由競争も始まりますね。どの先生を選ぶかは子どもに任せる。だけど一定の単位を取らなければいけないし、年一回ぐらい検定があって、「あなたはここはマスターしていないね」と言われたらもう一回履修する。また、町の先生たちを統括する専門の先生、スーパーバイザーを設けることだってやろうと思えばできるわけです。
そうすると、子どもたちが出会う場所はどこかということになり、ここで初めて「それは学校しかないでしょう」となる。学年輪切りでなくて、上の学年の大きい子も小さい子もいるようにする。
今、田舎ではなかなか子どもたちが集まれないそうですね。アエラか何かで読んだけど、青森の子が横浜の子より外で遊ぶ時間が少なかったそうです。確かに郡部では家同士が離れているし、子どもの数そのものも急減している。だから子ども集団ができない。
そこにいくと学校は大きな集会所です。朝から晩までミーティングをやってコミュニケーションの発達を助ける。感情とはとにかく話さないとわからないものだとか、だれでも特徴があって尊重されなくてはいけないとか、基本的なルールは学習しなければなりません。それを徹底的にたたき込むことはやはり必要でしょう。教わる態度がなければだめだよとか、一定レベルまで達しなければその先へ行けないよとか。
中田 今言われた進級のしくみのように、システムとしての学校が持つ機能と、教師が人間として伝えるべきことは完全なイコールではないと思うのですが。
斎藤 イコールではないと思う。
中田 そうすると学校という組織のエージェントとしてではなく、教師が人間としてやらねばいけないことはどんなことでしょうか。
斎藤 子どもに選択される状況にさらされるとだいぶはっきりしてくると思います。子どもが来ない先生と来る先生がいると、同じ給料ではまずいから塾に似ていくでしょう。逆に先生に子どもが選別されるということが起こるかもしれません。それでも子どもたちに選択権があるのはすごいことだと思います。小さい子の場合は親の選択でしょうけど、利用者が選択する時代だと思うんですね。
日本では教育はお上からくださるものという感じがいまだにあるので、これを完全に変えてしまう。すでに親が公立学校の進学先を選べるところも出ているでしょう。そうすれば教師集団そのものがばらけるということです。
次に何が起こるか。さっきスーパーバイザーと言いましたが、教師集団を教える教師の役割が重要になってきます。「あなたの学習のさせ方はどうも悪い。学年検定で落ちる人の割合が図抜けて高い。もう一回学習方法を勉強した方がいいんじゃないですか」などと指摘する。
膨大に蓄積されてきた学校ノウハウを分解することによって、そこから別な機能をもつものとして生まれ変わるわけです。例えば老人集会所と併設になれば、個々の老人の持っている知的ないし技能的能力が子どもたちに直接伝わるかもしれないですね。私はその方がメリットは大きいと思うんだが。学制発布は明治五年でしたっけ?
中田 ええ、五年です。
斎藤 あれから中央統制がものすごい勢いで浸透し、学校とはこういうものだと内面化されたものに支配され、発想が硬直している。それらを突き崩しているのは、必要にかられて存在する塾や予備校です。入試に通らなくてはいけないという単純な合目的性によって貫かれているから。(続く…)
【出展】
『人間と教育』48号 特集「教師の子ども理解」
(精神科医・臨床心理士・家裁調査官・スクールSW・元教師らの子どもをとりまく様々な職業に携わる人々の体験から見つめ直すことを試みました)
編集:民主教育研究所 電話03-3261-1931 [HP]
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2005年12月20日
心の拡大鏡を使って −教師と親へのメッセージ−(2/4)
善意の思い込みが生み出すもの

中田 たしかに現在の学校には、戦間期に出てきた合理化システムの延長上に、あたりまえのように存在しているという側面があります。他方で、そうした機能と、上から与えられるのではない教育をやりたいという教師の良心とのせめぎ合いも学校空間の中にはあります。
その中で、学習・コミュニケーション・社会ルールの教え込みのすべてを抱え込むのが良い教師なのだという、ある種の献身的な教師像が、職務の範囲を無限定に自ら広げてしまう。そうすると、本当はこうありたいのにできていないともどかしさを覚える、あるいは子どもとのディスコミニケーションの現実を目の当たりにして、「できない自分」に気づかされる。そういう傾向が日本では強いといわれています。
斎藤 そうでしょうね。先ほどの「教師の街中への分解」は、現在の学校像を議論するための一つのモデルです。そこで期待される教師像は教え方がうまいということに尽きるわけです。そこでいい教師と悪い教師の座標軸が決まる。
===
では生活教育はどうするのか。朝から晩までミーティングをやるのは、子どもたちのグループ・ミーティング、グループ・サイコセラピーですね。
ポジティブ・サイコセラピーというものがあります。ポジティブ・メンタルヘルスとかプラスの精神保健です。こういう考え方に立てば、乳幼児期それぞれの発達レベルに沿ってもサイコセラピーは可能です。セラピューティック・エデュケーション(治療教育)という言葉もあります。ここで要るのはカウンセラーないしセラピストです。
「教師はあまりに大きな領域の中で自分の限界がわからなくなっている」問題ですが、知的技能の伝達者としての役割とセラピストの役割に分解した方がいいと思います。
一番まずいのはパターナリズムです。お前は馬鹿だが私は知っているから保護して育ててあげよう、というアプローチが一番とりやすく、しかも自分自身が満足しやすい。教師の中には、私は善意でやっているのにどうしてわかってくれないんだ、という不満を感じる人もいるでしょう。しかしその欲求不満がいい教師への原動力になるのではないかとも思うんです。あまり自己陶酔している教師だと、善意でどんどん押しつけていって、不登校の子などは一点できてしまった染みとして、どう拭きとろうかという話になる。そうなるとその子どもの人格を否定することにさえなりかねない。
そうではなくて自分はセラピストだと役割を割り切って、みんなおかしいのだと思えばいい。子どもはそれぞれみんなおかしいですよ。それが個性です。
どんな家だってなにか問題があるわけで、子どもはそういうものにすごく敏感に反応し、子どもなりに悩んでいる。言葉でなく動作や遊びを通じて伝えてくるものをちゃんと聞き手として聞き取る訓練が必要なわけです。教師にカウンセラーの勉強をさせたらどうかということですね。

中田 いま学校では、教師にはできないことをスクールカウンセラーに引き取ってもらうというかたちで、職業分化する方向に進んでいます。カウンセリング機能は他の専門家に任せて、教師は教育に専念しようということでしょう。教育の語義はラテン語で「引き出す」という意味ですが、可能性を「引き出す」ことをめざして働きかけるのと、子どもを「あるがまま受けとめる」のとを同じ人間が同時に引き受けるのでは、アンビバレントな感じになると思うのですが…。
斎藤 今はちょっと無理なことをしていると思うんです。スクールカウンセラーにしても制度設計そのものからして、教師の領域の死守みたいなことを感じるんです。
カウンセラーを専門家として尊重しているように見せながら、けっしてそうではない。例えば教員間の人間関係に立ち入らせない。子ども同士の関係や教師と子どもの関係も大事だけど、実は教員同士の間でどんな人間関係が持てるかが一番大事だと思うんです。家族の中で夫婦関係が不和な場合、どんなに金銭的に恵まれていても子どもは不幸なのと同じでしょう。
校長・教頭と教員との仲が悪いというのは、夫婦げんかみたいなものです。先生たちも何派かに分かれているとかありそうですけどね。
中田 あります。
斎藤 そういう違いや対立を前提に、人間関係をどうつむぐか。少なくとも利用者である学童に迷惑をかけないようにするにはどうしたらいいかという発想で、第三者に入ってもらうと相当大きな意味を持つはずです。
ところが学校はそんなことはさせません。スクールカウンセラーには一人二人問題児を生けにえとして出してお茶を濁す。ところが教師が生徒に殴られるような場面になると一斉に先生方は退いてしまい、スクールカウンセラーは校内事情も地域の事情も知らないままにその子と対峙させられる。結局何の効果も上がらないとか、いやけがさして辞めてしまうとかになります。かなりの予算を使っていながら破綻していると思いますよ。
中田 今のあり方は、制度としては破綻しているということですね。
斎藤 ええ。今の学校制度の中で木に竹を接ぐようにセラピー的な要素を持ち込んできたからです。(続く…)
【出展】
『人間と教育』48号 特集「教師の子ども理解」
(精神科医・臨床心理士・家裁調査官・スクールSW・元教師らの子どもをとりまく様々な職業に携わる人々の体験から見つめ直すことを試みました)
編集:民主教育研究所 電話03-3261-1931 [HP]
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2005年12月21日
心の拡大鏡を使って −教師と親へのメッセージ−(3/4)
教師のひたむきさが生む圧迫感
中田 これまで、校長や教頭も含め教師集団内部でいろいろな対立があっても、「子どものために」という点では合意が可能だと考えられてきました。ただこうした教師集団が良かれと思ってすることが、実は子どもに過剰なプレッシャーをかけているとか、子どもは過剰な介入と感じているとかいったことがありうるのではないでしょうか。
斎藤 ほとんどの先生方が善意でやっていると思うんですが、子どもから見ると圧迫的になっているということはおおいにあります。
最近も、担任の先生がいやだからフリースクールで単位を認めてもらいたいという小学生の親の話を聞きました。担任は自分のクラスから不登校など出したくないので、家を訪ねて何が問題かと必死に問いつめる。お母さんとしては、自分が学校に行けば済むのなら何度でも行きたいぐらいの申し訳なさを感じてしまっているわけです。
お母さんの願いは、フリースクール出席を登校に数えてもらいたいということ。また地元の中学には絶対に行かせたくないので私立を受験する際の内申書で差別しないでもらいたい、それだけです。けれどもいろいろ配慮してほしいという気持ちがあるから、よけい話がわからなくなってしまうんです。
こういう親に度量を示してこそ教育者ではないでしょうか。この家の場合はフリースクールには片道一時間半ぐらいかかってもその子は一人で行くそうです。それなら長距離通学を誉めてあげる方がかえってよいと思うんです。比較的若い男性の先生だそうで、冷却期間を置いた方がいい時に必死になってしまう。一所懸命なんでしょうね。
===
さまざまな保護者の間で
もう一つの例は中学二年生です。非行少女というレッテルが貼られてしまった子ですが、深夜帰宅とか外泊とかは、非行少女というレッテル貼りがあった後なんです。
朝四時半に集まってディズニーランドへみんなで行った。それをお母さんが心配して「注意して見守ってくれ」みたいなことを学校の先生に言ったら、一緒に行った生徒の親が過剰に反応して、「うちの子が悪いことをした」と非難されたかのように受けとめた。そして「本当はあの子が誘ったんだよね」という話になってしまった。実際には誰が誘ったわけでもなく、四、五人でわいわい言いながら出かけようという話になったそうですけど。それ以来その生徒には、何時帰宅するかという確認電話が先生からしょっちゅう入るようになり、一年後には完全に非行少女扱い。
何よりも痛いのは、他の父母が噂をして、何か悪いことがあるとみんなその子がそそのかしたみたいな話になってしまうこと。この事例では、気をつけて今後のことを見てくださいという親の言葉を先生が批判と受け取ってしまい、しかも一緒に行った他の子どもの親にいつの間に知れていた。それで親も教師・学校に不信感を持ってしまった。これはお互いにとって不幸なことですね。
この母親は離婚して、タクシーの免許をとって女の子二人を育てています。学校からいろいろな行事の呼び出しがあるのはウイークデーなので、仕事を休んででかければその日の売り上げはなくなるから、生活が逼迫するわけです。確かにしつけその他で行き届かないところがあるかもしれないけど、家族はいろいろな暗闇をかかえているということを前提に 一人ひとりの子どものことを考えるのは、教師に限らず上の世代に求められていることだと思います。
教師には割り当てられる事務量が多すぎますね。その中で40人を担当するなんて無理です。それぞれの家族背景を把握して、因果を考えていくなんて無理だって初めからわかりますよね。本当にやろうと思ったら、自分の家族がまず壊れてしまいます。

中田 40人学級では、家族的背景も含めて子どもを教師が抱えこむのは非常に困難です。それなのに、さらに他の保護者からその子どもや家族に向けられるまなざし、噂、レッテル貼りから守るという役割も担うことになるわけですか。
斎藤 できないと思いますよ。一定の集団力動が父母の間で動くと、その子も親も浮きあがってしまう。毎日タクシーを飛ばしている人はどうしても他の主婦と話がかみ合わなかったりするでしょう。それを教師が補えるかといっても難しいと思うんです。
だから、どちら側にもつかないのが精一杯ではないかしら。というのは、どうしても集団的に優勢な方が、孤立して浮いている親と子どもがひどいという話で圧力をかけてくるからです。その親子も、多数派に「それは困りましたね」なんて教師が応じているうちに、そういう話に仕立てられてしまったのではないでしょうか。
中立はやはり難しいけれど、どちらかに肩入れするぐらいなら、どちらにもつかない方がいいですね。
40人がみなホットなクライシス状態にあったら手をつけられませんけれど、そういうのは一時期に一人かせいぜい二人です。その代わり、何がそこで起きているか徹底的に家族背景まで洗う。一家族ぐらいにはいつもそういう姿勢を持っている、これで十分だと思います。
そうすると、たしかに親の役目をすることが必要になってくることもあります。教師に父親の役割までやるつもりはなくても、その家族は一番求めているものを教師に投影していくでしょう。女性の先生であっても教師という権威が性転換させて、「父性」を見いだそうとするわけです。
こういう役割もあえて引き受けるという覚悟が、教師の職場には必要なのではないですか。別に家庭訪問をひんぱんにしろというわけではない。子どもと家族に強い関心を向けていることがわかればいいんです。
中田 その場合、子どもと向き合うのは担任の教師なのか、複数の教師集団なのか。それともセラピスト的なパラプロフェッショナルがチームとしてあたるのがいいのか。その点はいかがですか。
斎藤 いろいろ議論があり得ると思いますね。担任が一番向いているかどうかわからない。担任はファーストチョイスだけど、それをスーパーバイズする人がいるといい。美術専任の教師のように複数のクラスを見ている立場の人がいいんです。体育や美術の人には、実際に地域でそういう役割をとっている人が多いですし。
教師が救われる道
ある女性美術教師の場合を紹介しましょう。その女性は、教師であることでずいぶん助かっている面もあるんです。子どもの暴力から逃げたりするスリリングな生活をしている中、他の子どもと接することが彼女を孤独から救っていました。本人はこんな生活いやだいやだと言っていますけれど、私が見るところ、熱血教師をやっているじゃないか。それに自分自身の美術作品を年に一、二回公募展に出したりしています。こういうことをバランスよくやっていられるのも教師ならではで、私は彼女がくるたびに「こんな豊かな職業ってないんじゃないですか」と言っているんです。
中田 子どもにはどう見えているのでしょうか。そういう教師は子どもと向き合うことにポジティブな感覚を持っている。その教師にとってはすごくいいことなのでしょうが。
斎藤 どう見えるんですかね。子どもたちが一番見抜くのは偽善というか先送り・棚上げじゃないですかね。
彼女は、同僚の柔道の強い男の先生が生徒に刺された時、自分は何も手を出せなかったという話をしていました。刺された先生はそれまで前面に立つこともなく、わりと先送り型の人だったので、彼女はその先生に批判的だったそうです。でも彼女が危険にさらされたとき、その先生は刺した生徒へ身を寄せていったというのです。
コストとして高すぎるけれども、そういう場面を経て、刺した生徒も変わっていったそうです。暴力はふるうより受ける方が勇気があるのだということを刺された先生は言いたかったのでしょうね。そこまでやれとは言いませんが。(続く…)
【出展】
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2005年12月22日
心の拡大鏡を使って −教師と親へのメッセージ−(4/4)
ぐちを言える場をつくる
中田 今の話のような高いコストを払って初めて同僚のある一面が見えるようになることも案外多いと思います。<同僚性>が大事だと頭でわかっていても、実際には同僚に開こうとせず、それゆえに一人であえいでいるという循環の中で教師が教師として長生きできるというか……。
斎藤 バーンアウトしないということ?
中田 ええ。そういうコツは何だとお考えですか。
斎藤 自分の個性に自信を持つことでしょうね。あとはぐちの言える場所が複数あることでしょう。僕らも難しい患者と出会った時は、患者のことを同僚に語るんです。自分で最善の策を立てているつもりでも、見落としが起きたりします。経験がかえって自分の手足を縛ることもあります。「いつもなら、こうするんじゃないですか」と若い人に言われてハッと気がつくこともあります。とにかく若い人でも誰に対してでも、困っていることは困っていると率直に言います。
学校の先生方にもそれが役立つと思います。若い先生には絶対必要でしょう。スーパーバイザー制をもっと明確に取った方がいいと思います。相手は思春期という一番危険な時期です。行動力がついてきてある程度悪知恵も発達しているのに、衝動性の統御は未発達という、最悪な時期じゃないですか。
成人であれば境界性人格障害と診断されます。普通の人口のなかでは二、三%でしょうが、中学生の数割はそういうタイプの子ではないかしら。人間関係が安定せず、だれかに頼りきったと思うとその人に裏切られたといって今度は衝動的な逸脱行動に走る。一番の親友を一番の敵と考えたり、「空しい、死んでやる」と口走ったりする。こういうタイプを境界性人格というのですが、これはそのまま中学生の特徴を言っているようなものでしょ。人格的にかなり成熟した子を除けば多くの中学生はこんな状態です。
===
こういう子たちを扱って自分だけの胸にしまっておくなどというのは無理です。先ほどの先生も地元のカウンセラーにかかっていて、それ以外に精神科医として私、さらにカイロプラクティックにも診てもらってようやく精神保健を保っているわけです。以前は目がピクピクするとか、胃潰瘍やヒステリー性の難聴がおきたとか、そういうストレスの中にいました。
先生方が自分の金を出してそこまでする必要はないけれど、職員室を、イベントの話し合いや校長からの指示を聞くだけでなく、その何分の一かの時間でいいから、いま自分の教室で何が起こっているかを話す場にできるといいですね。あるいはスーパーバイザー制をとって若い先生の話を年配の人が聞く。年配の人も別の人に話す必要があります。外部からセラピストを導入するのは難しいようですから、自分たちでセルフヘルプ的にやるほかないですね。ミュチュアル(相互)サポートです。
中田 インフォーマルなつぶやきとかぐちを言いあう時間と場を教師集団でつくろうとすれば、セルフヘルプ的なものになるということですね。ただ、スーパーバイザーをフォーマルなシステムとして導入すると、序列的であまり機能しない気もするのですが。
斎藤 私も今しゃべっていて、現状でそんなことをやったら大変だろうなと思いました。とはいえやはり先生たちのメンタルヘルスのために予算措置をとるべきだと思う。教育者としての体験を人に聞いてもらう時間をつくり、今週こういうことがあったと話すだけでいいのです。
それを利用できない人にはもう少し別のアプローチを考える必要がある。学校の外部にいてニュートラルな立場で、しかもある程度は事情を知っている人に、文部科学省や市町村のお金でポストと給料を与えるんです。長い目で見れば、教師の長期休業などが減ってコスト的にもペイすると思うんですがね。
語り合いの三つの原則
中田 専門家を外部から招く場合のポイントみたいなものはわかりましたが、同じ職場に勤める者同士のつぶやき合いの課題はどうでしょうか。同僚であるがゆえの難しさがあるかもしれません。
斎藤 コンフィデンシャリティ(秘密保持)、傾聴、議論しないという三つが非常に大事です。傾聴のルールとは、質問で遮ったり、自分の意見を重ねて言ったりしないことです。言いっぱなし、聞きっぱなしです。
秘密保持、傾聴に誠実というのをつけ加えることがあります。誠実というのは、自分で考えられる範囲で嘘をつかないことです。しゃべりたくないことまでしゃべると、自分に対して誠実でないわけです。この三つを維持した相互支援グループは教師のような職業にこそ必要でしょうね。
私は東麻布にクリニックとは独立した心理相談室を作っています。ここのセラピスト(心理カウンセラー)は一日七人の話を聞くのですが、五日間で三五人なんて無理だと言っていますね。このカウンセラーたちをどう燃え尽きさせないかを考えるのが私の仕事です。自分たちがセラピストでさまざまな人たちの精神保健を扱っているのだけれど、自分の問題になると話上手とは言えない。自分の話をしなさいというととたんに無口になってしまうんです。スーパーバイザーである私は「自分ができないのにグループワークを他人にやるのは問題でしょう」と言って、わだかまっていた問題を集団の中で話させます。そういうところでよくしゃべる人や、すぐアポイントメントをとって話に来る人はつぶれないですね。むっつりして一所懸命やっている人などが突然「辞めさせてください」となります。辞めてハッピーになるならいいけれども、再起するまでに数年かかったりする。
人の心に接する職業というのは、人格を相手との間で取り結ぶわけですね。相手の体験の中に入り込むわけですから、これはすごいことなのです。教師の場合、一人ひとりの子どもの心に影響を与えると同時に、自分の心の中にも複数の子どもを取り込むわけですから、ホントに疲れると思います。その場合、心の拡大鏡をフルに使って「あの子はここの部分がこれだけ変わった。良くなった」とポジティブに考えられる人の方が、教師という厳しい仕事から豊かなものを発見できるでしょう。
もしそれができない人がいたら、「あなたの生徒はこういうところがよくなったじゃないか」と互いに指摘しあえるグループを作ることが望ましいですね。
中田 ともかく話せる場を作り、そこでは否定はしないという取り決めをもった関係を教師あるいは第三者との間で築くということでしょうか。
斎藤 聞きっぱなしというのは意外に難しいですよ。順番が回ってきたら、人の発言に対し私はこう思うと言ってもいいんです。でも隣の人は違う話題になってしまったりしますから、議論にはならない。持ち時間は決めても決めなくてもいいけど、それで一回り、時間があったら二回り、と機械的にやるんです。そうしないと一人だけしゃべって止まらなくなってしまったり、特定の人のプレゼンスが大きくなりすぎたりしますから。
パスをしても構いません。けれど毎回「聞くだけに……」と言っていると、それ自体が圧力になってくるんです。
中田 それは自分に対してですか、それとも相手にですか。
斎藤 自分に対してです。他人から言われたわけでもないのに作ってでも話をしようとする。それでこれは明らかに考えてきたことを言っている、という話しかたになってしまう。他の人々はなんで暗記してきてまでしゃべろうとするんだろう、もっとリラックスしましょうよ、みたいに考えるかも知れない。でもそう言ったら議論になってしまうから、その場では言わない。それでいいのです。相互に語ること自体に意味があるという考え方だから、別に話題がなくても一時間はそれに当てるということでいいんです。
中田 今の教師にはそういう時間を確保するのはなかなか難しいです。
斎藤 本当に時間がなさそうですね。夏休み中もクーラーもない教室に汗だくの先生を集めるようになったそうですが、何か意味があるんですかね。
中田 今日はどうもありがとうございました。
【出展】
『人間と教育』48号 特集「教師の子ども理解」
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2006年02月06日
座談会「大人は怒りを受け止めきれているか」(1/2)
■田中孝彦:競争の先に待っているものを子どもは疑っている
たなか たかひこ・一九四五年生まれ。都留文科大学教授。専門は臨床教育学、教育思想。子どもたちとの対話を重ねている。著書に『生き方を問う子どもたち 教育改革の原点へ』(岩波書店)、『思春期の育ちを支える 新たな地域社会の共同へ』(新科学出版社)など。
■斎藤学:怒りは、相手に自分の必要さを伝える道具でもある
さいとう さとる・一九四一年生まれ。精神科医。九五年九月から家族機能研究所代表。日本子どもの虐待防止学会副会長。現代の病とも言える過食・拒食症、アルコール・薬物・ギャンブルなどの嗜癖(依存症)問題に長年取り組む。
■福田雅章:人間関係が奪われ、子どもの育つ土台が破壊されている
ふくだ まさあき・一九三八年生まれ。一橋大学名誉教授、山梨学院大学法科大学院教授。DCI日本支部代表。専門は犯罪学、刑事政策。安楽死、受刑者問題、死刑、少年法、治安政策、子どもの権利などにくわしい。
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子どもが引き起こす事件は、虐待された子ども自身が表す怒りではないだろうか。だとすれば、大人は子どもの怒りをどう受け止めるのか。家族、学校、社会はどうあるべきなのか。それぞれの専門家が提言する。』
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福田雅章 今の日本社会にはいじめやひきこもり、欝、リストカット、暴力など、子どもの問題が山積しています。また虐待には至らなくても子どもをかわいいと思えない親や無関心な親、子どもを愛しているつもりで支配している親などもいます。なぜ、日本は子どもが育ちにくい社会になってしまったのでしょう。
斎藤学 社会が単一化しすぎたのではないでしょうか。昔は職人技術を覚える徒弟制度などがあって、いろいろな価値観を持ち、バラエティに富んだ大人をモデルにして育つことができましたからね。
福田 それが今は学校しかない?
斎藤 そう。しかも成績で輪切りにされ、早いうちから勝者と敗者が決められて将来が見えてしまう。今の学校の中には、負け組になった子どもの居場所はないですよね。昔は、何十年もモラトリアムをやっても許される余地があった。夏目漱石の小説『それから』(注1)に出てくる代助だって、現代ではひきこもりと言われてしまう人物ですよ。
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親に気兼ねして学校へ
田中孝彦 私は勤め先の大学などで子どもたちの相談に応じていますが、以前なら不登校になったと思われるような子どもが、学校に出て来て保健室や図書室、物置などの空き部屋を居場所にするというケースが増えているように感じています。
そういう子どもに聴いてみると、「学校に行かないと親が心配して、家庭が大変なことになってしまう。それよりは、教室に入れなくても学校に行ったほうがましだ」というようなことを言いますね。
斎藤 学校がないと、家族が崩壊してしまうわけですね。
田中 ええ。今の世の中で多くの親たちは、自分が暮らしている地域で子どもが住み続けて生きていけるとはとても思えない。どんな仕事に就いたら子どもが幸せに生きていけるかも、ほとんどわからない。そこで子どもに対して「どこに住んでも、どんな仕事に就いても通用する『学力』を身につけなさい」としか言えなくなっている。
子どもの方は、そういう抽象的な要求に内発的に応え続けることはなかなか難しいし、「学力競争」の先に何が待っているのか疑いもわいてくる。けれども、それを行動や言葉にはっきりと現してしまうと、親が耐えられないということを直感的に知っている。だから、学校に行く。そんな感じですね。
福田 本来、子どもは自分を偽ったりせず、安心して自由に振る舞える関係があってこそ、共感能力や道徳性、生きる力などを獲得していくのですが、今の日本ではそれが保障されていないのですね。
斎藤 虐待の件数はここ10年ずっと増えている。そして {キレる} とか、10代で殺人にいたるような子どもが増えてきています。
福田 どうしてなのでしょう?
斎藤 最近の生物学的な研究は、原因をかなり解明しています。胎内も含めて30カ月くらいまでに共感能力とか喜びの共有とか、痛い思いをしたときのなぐさめとか……。そういう親から当然受け取れるはずのものがもらえないと、右脳の発達不全が起こり、情緒の調節能力が悪くなることがわかってきた。
福田 つまり、安定した人間関係の中できちんと抱えてもらえていない子どもが増えたために、精神的な発達が歪められていると?
斎藤 ここ30年くらいの大規模調査を見ると、どういう人が暴力的な人間や犯罪者になるかがほとんどわかるんです。150人の殺人犯の調査をした『脳が殺す』(ジョナサン・H・ピンカス著、田口俊樹訳、光文社)を読むと90%が被虐待児。その中に18歳以前に事件を起こした人が14人いるんですが、全員がかなりひどい環境で育っている。
福田 暴力を受けていた?
斎藤 身体的暴力だけではありません。安定した関係の欠如や、一見、親がきちんとケアしているように見える虐待もある。たとえば学力にこだわる親。親が気にするのは成績であって子どもではない。そういう心理的虐待もある。日本の公式統計だと被虐待児の数は1000人あたり1.5人ですが、心理的虐待などを含めると2ケタはいくはずです。
福田 でも、心理的虐待などは、一般的には虐待と思われていない。
斎藤 親が子どもの将来を決めてしまうとか、親の思い込みが強すぎる家庭で育つというのは十分、虐待にあたると思います。
(続く…)
(注1)父の経済的援助のもとで裕福な生活を送る青年、代助が恵まれた生活を捨て、一人の女性と生きる決意をするまでを描く。
※週間金曜日 2005.5.13(556号)より
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2006年02月07日
座談会「大人は怒りを受け止めきれているか」(2/2)
(続き)
怒りが恨みに変わる前に
斎藤 たとえば少年A(注2)の家族は報道によると、沖永良部島(鹿児島県)から神戸の人工的な公団住宅に移った。母親は「日本社会一般の信仰」、わが子に教育投資することで社会階層を一段でも多く上がるという考えに浸かっていたと思います。少年は母親を求めたが、中卒の夫を見限った母親は夫にそっくりな少年には関心を払わず、優秀な弟たちに目を向けた。そういう意味では、少年Aも虐待されていたのではないでしょうか。
福田 私も事件を起こした少年の生い立ちを聞くたび、子どもたちの孤独感や絶望感を感じます。親から無視され、世間からも「ダメな子」と言われてきた少年の {怒り} を感じる。彼らの行なった犯罪というのは、{怒り} が「こんなところまで自分を追い込みやがって」という恨みに変わったものに思えてしようがない。
斎藤 本当は、そうした破壊的な行動に向かわないように {怒り} を表せる人間になることが必要なのだと思います。{怒り} というのは、人間にとって大事な感情です。母親がいなくなると赤ん坊は泣きますが、あれは赤ん坊の {怒り}。{怒り} は他者との関係の維持を求める欲求であり、相手に自分の {必要} さを伝える道具でもあるのです。
田中 私が会って話を聴いている子どもたちの中にも、「なぜ、クラスメイトが自分をこんなにいじめるのか」「自分の中にも怒りがこみあげてどうしようもなくなることがあるが、それはなぜなのか」という問いを持っている子どもがたくさんいます。怒りや攻撃的感情の問題は、今の子どもたち自身が考えたがっている切実な問題ですね。
===
福田 {怒り} が {恨み} や自己破壊に変わる前に、親や教師などまわりの大人にきちんと抱えられることが必要なのです。だからこそ、子どもの権利条約(注3)は {怒り} を意見表明権として認め、子どもが自ら大人と人間関係をつくる力を権利として定めています。
田中 たしかに、日本の子どもたちの不安定さの背後には、親や大人が幼い時期の子どもの情緒や感情の表現を、ていねいに受けとめて意味のある反応を返すというあたりまえのことをやりきれないでいるという社会的事情があると思います。
ただし、情緒や感情の発達が二〜三歳で決まると言ってしまっていいかどうか、それは慎重に考える必要がありますね。あまり単純に言うのは、人間発達の事実にあわないし、母親の役割を過度に強調する議論につながりかねませんから。
斎藤 すべてが二歳までに決まるわけではありません。ただ脳の発達との関係で、そのくらいまでのケアのあり方が情緒の発達に大きな影響を与えるということです。
「日本社会の信仰」の連鎖
斎藤 子どもを「助ける」ということも、広義の教育に入るのではないでしょうか。児童殺傷事件を起こした宅間死刑囚は一七歳のときに「なぜこんなに人を恨むのだろう」と、自らを「おかしいのでは」と思い精神病院を訪ねています。それを詐病と切り捨てることもできますが、私には彼が助けを求めていたように思えてならない。
福田 でも、近年の教育改革の中で、数値目標や校長権限の強化で徹底的に管理された教師が子どもを助けていくのは難しい。最近の日本社会を見ると教育現場だけでなく、あらゆる場所で人間関係が奪われ、子どもが育つための土台が破壊されている。
田中 ここ10年顕著になっていますが、「自己責任」を強調する新自由主義的な風潮の下で、子育てがすべて親や家族の責任にされている。
斎藤 私はいっそシングル化社会になればいいと思っています。婚姻制度もなくして。そうして個人がそれぞれ「孤独死を防ぐ会」や「不登校の会」など、いくつかの会に入って社会的援助を受ければいい。
田中 教師など教育現場で働いている人間には、子育てを親や家族の責任とだけ考えるのではなく、親や家族を不安定にしている社会全体の問題を視野に入れて、援助や教育を考えていくことが求められていると思います。そうしないと、子どもを不安定にしている親を責めて、親をさらに不安定にしてしまうことになりますから。
斎藤 私は生後6カ月くらいになったら、育児のプロが一日の大部分を面倒見てくれるサービスをつくったらいいと思います。離れている時間が多ければ、子どもを殴る母親もいないでしょう。そうすると一人の子どもにかかわる大人は増えるし、プロが世話をすればダメな親が育てるよりも情緒的な発達も守られると思うのですがいかがでしょう。
福田 でもダメな親自身も、やはり「日本社会の信仰」に染まったダメな親に育てられたから、そうなってしまったのでは? 自分を捨てて「経済的に豊かなら人間は幸福」という画一化された価値だけを追求し、生身の人間として子どもと向き合えなくなってしまった親が、子にも同じ信仰を押しつける。その連鎖こそ、最大の問題だと思います。
限界に達した競争化
田中 私はいくつかの地域で、子どもが自分の人生をどうイメージしているか聴き取り調査を重ねているところです。その中で多くの子どもが口にするのは、「競争、競争と言うけれど、その先に何があるの?」という疑問です。
彼らが語るのは「生まれ育った地域でつくってきた身近な人間関係を大事にし、その人たちに少しでも役に立つ仕事をして生きていきたい」という人生と幸福のイメージです。
福田 つまり、「都会に出て出世なんかしなくても、ささやかな幸せがほしい」ということですね。
斎藤 競争化というのは、もう限界に達しているのでしょうね。いくら国家が統制を強めても、自壊作用は始まっていると思います。それよりも {坊ちゃんナショナリズム}(青少年に見られる右翼的言動)みたいな、草の根の、異物排除の動きの方が怖いと思います。
福田 たしかにそうですよね。教育基本法の改正を進めようという人々は、「新しい公共性」というイデオロギーをつくりだして、個の多様性を再び潰そうとする。
斎藤 でも、それは破綻すると思います。楽天的なのかもしれないですが、今まであったものをひっくり返していく新しい価値観というものが出てくると信じたい。
田中 子どもたちは立ちすくんだり、反抗したり、問題を起こしたりしながら生きており、生き方を考えている。そうやって幸せに生きる方法を探している。
福田 今までの価値観では子どもが育たないことは明らかですね。「子どもが育たないとしたら、それは社会の責任だ」と言ったのはJ・S・ミル(一九世紀のイギリスの哲学者)ですが、今こそ真の自由や幸福について考え直すべきです。子どもの {怒り} という意見表明をそのままで受け止められる社会をつくっていかなければならないと思います。
(まとめ/木附千晶)
(注2)一九九七年に当時一四歳だった少年が、数人の女児らを死傷させたり、殺害した小学生男児の頭部を切断して中学校の正門前に置いた事件。
(注3)思いや願いを自由に表現する子どもの権利と、大人の誠実な対応義務を定めることにより子どもの主体的な成長発達を目的とする。
※週間金曜日 2005.5.13(556号)より
新規講座・ワークショップ
| 講座名 | 日程 | 時間 | 料金 | 対象 | 会場 |
| 死別トラウマのための演劇療法 | 3/7〜火8回 | 14:30〜16:30 | 20,000円 | 一般 | 東京港区 |
| 弁証法的行動療法(DBT)ワークショップ | 7/8、9 | 9:30〜17:00 | 42,000円 | 一般 | 東京有明 |
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2006年02月13日
「死にたい心」はなぜ生まれるのか(1/3)
対談:斎藤学(精神科医)×上野圭一(翻訳家)
「死にたい心」はなぜ生まれるのか〜死んで勝とうとする心理
『地球人』No.7,2006[HP]より
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中高年男性の突発的な自殺が激増する一方、「死にたい」と訴え続ける青少年層も拡大している。「負ける自分」を認められない彼らが、自分の力で見つけるスピリチュアル・グロウス(霊的成長)とは。
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・うえの・けいいち1941年生まれ。早稲田大学英文科、東京医療専門学校卒。日本ホリスティック医学協会副会長、代替医療利用者ネットワーク副代表、鍼灸師。著書に『補完代替医療入門』他、訳書にアンドルー・ワイル著『人はなぜ治るのか』『癒す心、治る力』他多数。最新刊は『わたしが治る12の力』。
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負けられない人々
上野 今日は精神科の臨床医である斎藤学さんにお話をうかがいたいと思います。病院を辞めて家族機能研究所をはじめ、摂食障害、不登校、虐待、それからアディクション(嗜癖)などの問題に取り組んでおられますが。
斎藤 アディクションは特にアルコホリックですね。日本ではアルコール中毒と呼んでましたが、まず第一に中毒なんかじゃありません。毒が回ったわけではないんですから。嗜癖の問題だと認識することから、第一歩が始まります。
『地球人』がキーワードとしてあげているスピリチュアリティという言葉は、われわれの治療ではスピリチュアル・グロウス(霊的成長)という言い方で普通に使われています。「医療では救われない」と気づいたアルコホリックの人たちから発生した言葉です。
===
上野 アメリカのAA、アルコホリック・アノニマスですか。
斎藤 そうです。AAには12ステップの回復のためのプログラムというのがあります。第1ステップで「自分はアルコールに対して無力である」と認め、第2ステップで「自分自身よりも偉大な力がわれわれを正気に戻してくれる」と信じるようになり、第3ステップで「われわれの意志と生命をハイヤーパワーにゆだねる」と決心します。この「無力を認めて、ハイヤーパワーを信じて、身を任せる」という三つのステップが回復の入り口です。(表参照)
ここでハイヤーパワーと呼ぶのは、いわゆる神への信仰が問題となるのではなく、スピリチュアル・グロウスが重要だからです。ハイヤーパワーに気づくには、自身のパワーレスに直面することが必要になります。
上野 例えばアルコホリックでは、どん底に落ちきったところで、それを認めざるをえない。
斎藤 そうです。今日のテーマである「死にたい心」というのも、セルフミューティレーション(自傷行為)そのものをアディクションの一つととらえていますので、アルコホリックと同じような教育ステップは通用するだろうと思います。
でもそういう技術論的なことではなくて、死にたい人たちは何が問題かというと、彼らは負けたことがないんですね。摂食障害者にしろ自傷行為にしろ、負けるのがいやだから死にたいんです。
上野 自分で自分の負けを認められないんですね。
斎藤 そう、妙なプライドがあるから、美しい、美しくないという観点をもちだして、痩せる、痩せないという勝ち負けの問題になる。「死にたい」というのも、死というかたちで、競争に勝つ、生身をさらすよりは人々の記憶に残りたいという野心があるんじゃないでしょうか。
でも、自殺や自傷という“ゆらぎ”みたいなものは、比較的安定した社会でしか起こりようがないですね。
上野 それはそうですね。戦時中には起こらなかったわけですからね。
斎藤 じゃあ、何のために生きるのかというと、たぶん答えはないんでしょうね。それに無理に生きる目的を設定してあげるのはよくない。精神科医はそのあたりに慎重なんです。なぜなら彼らはこれまで、「こういう人になりなさい」と言う人に囲まれて生きてきた結果、期待に応えられなかったり、良い子でいられなくなって今の状況になってしまったんです。だから方向を示す救済者みたいな態度はとりにくいですね。
上野 日本の精神科医の中では、斎藤先生のようなアプローチの方法は新しいかたちではないでしょうか。そもそも医学生のころから現状に違和感をおもちだったんでしょうか。
斎藤 もともと私は社会現象に関心があったんです。医局でやるように人の脳を見ても、心はわからないのではないかと思っていました。人と人とのつながりの中にしか「私」はないのだから。人の履歴やヒストリーを聞きとる仕事をしたいと思ったんです。
アルコール依存の人は、ごくそこらにいる人たちなんです。昔はかなり特殊な変な人たちと思われていましたが、調べたら医局にだっていくらでもいるわけですよ。それで僕は、躁鬱病とかの本格的な精神病よりも、なんで飲むのか、飲んではいけないとわかっていてなぜ飲むのかを研究するほうが面白いんじゃないかと思ったんですね。
子ども化する日本
上野 夏に東京ビッグサイトで「おたくフェスティバル」というのがあって、世界中から四五万人集まったと聞きました。おたくと呼ばれる人たちに対して、どう思っていらっしゃいますか。
斎藤 あれは特殊なんですかね。私の周りではあまりにも当たり前です。彼らの置かれている状況は、そんなにわれわれから遠いものでもないと思いますね。
上野 病理ではないということですか。
斎藤 冷たくて、わけがわからないという感じはないですね。ただ一つ感じるのはコミュニケーション能力の欠如です。それを埋めるために彼らはファンタジーを使います。
だいたい人間にそなわっている幻想する能力、デイドリームを見る能力というのは、小学校高学年から中学二年くらいまでがピークです。なぜそれが減衰していくかというと、幻想がだいたい性的なものに収束していくからなんです。それで想像する能力を失っていく。ところが現在は、エロアニメを含めてファンタジーの表現手段を得たものですから、比較的高年まで持続している、そのぶん人間同士のコミュニケーション能力が育っていかない状態だと思います。
上野 日本は学童化社会であるということを以前書かれていましたね。
斎藤 ヨーロッパ人たちはみんなきばっているんじゃないですか。マスキュリニティ(男らしさ)とかアダルトフッドとかを大事にする。でもああいうのはくたびれますから、日本の男たちはそんなことしませんよ。家の中で、お父さんが有能な人で財布全部握って家計をチェックして、掃除がうまくないと文句つけるなんていやでしょう。外にいて、ときどき帰ってきて日曜日はステテコでのんびりしているほうが気楽でいい。それでいいんだということが、世界の人にも伝わるといいんですけれどね。
ドイツ人の女医さんと結婚した東大勤めの人がいまして、アルコール依存症になって私のところに来ました。彼らは結婚するときから大反対されたのですが、しばらくたってドイツに行くことになったとき、シベリア回りで旅をして、着いてそのままディナーの席にひげ面で出た。それが決定的になったらしい。向こうではそういうことに厳しいですからね。離婚したのは十年後でしたが、結婚している間とにかく気が抜けなかったと、言っていました。
私は、きばったり突っ張ったりするというのは、どの文化圏でもいずれはがれていくと思うんです。日本は、明治から一九四〇年くらいまでの五〇年間おかしかった。きばりすぎだったんです。
(続く…)
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2006年02月14日
「死にたい心」はなぜ生まれるのか(2/3)
対談:斎藤学(精神科医)×上野圭一(翻訳家)
「死にたい心」はなぜ生まれるのか〜死んで勝とうとする心理
『地球人』No.7,2006[HP]より
(続き)
共依存はなぜうまれるのか
上野 斎藤さんの本を読むと共依存関係での病理の深さを書いていますね。
斎藤 私は共依存が悪いと言っているのではなくて、片方が幼児だったら構わないんです。でも、同等の力をもった大人同士で片方が依存するのはおかしい。世話を焼かせて、自分が子ども返りするという、女性の共感能力を恣意的に引き出す男がいるんですね。そういう男の面倒をみるのは女性にとってパワーを実感できるんですかね。熱心に面倒をみてよけい相手を悪くしてしまう。ひきこもり性の青少年とその母なども同じですね。彼らが母親のケアを引き出す手段として、「死にたい」と言いますね。「死にたい」と訴えることで自分の力を誇示している。こうした自殺威嚇と本当に「死にたい」のとは違うと思うんです。
上野 一種の母子カプセルから抜け出せない状態ですか。
斎藤 そうですね。自分たちの閉じられたカプセルが絶対的だと思っていますからね。しかし関係というのは開かれていて、他の人との関係に乗り換えられるような危うさをもっていたほうが、お互い大切にできると思うんです。親子関係でも夫婦関係でも。実際には片方が一方的に力を奪われるような関係というのはありえないので、わりを食っているほうも何かを得ているわけです。それは何かというと、生きがいでしょうね。
===
上野 私がいないとダメだという生きがいですね。しかし、私が支えなきゃ、というのは曲者ですね。支えているものが夫とか息子ではなく、その病理のほうを支えていることに
なる。
斎藤 そうです。とくに今のお母さんは子どもが少ないし、夫に絶望している人が多いですから子どもが生きがいになってしまう。新潟の少女監禁事件でつかまった三七歳の男は、一九歳のときに父親を殴って追い出しているんですね。そのとき、お母さんは息子のほうについたんです。そして息子は少女を連れてきて九年後にばれた。その間、お母さんは外で仕事していた。
私は、夫が子どもに殴られたら妻は夫をかばうべきだったと思うんです。追い出されるときは夫婦一緒に出ていく。そうすれば一人で残された子どもは、近所の人や学校や親戚や誰か他の人との間にコミュニケーション能力を身につけていったでしょうし、事件も違う展開になったかもしれません。
自己防衛としての解離
斎藤 自分というのは一人で自分をやっているわけではなくて、複合的なんです。いろんな自分がいる。自分に批判的な自分もいれば、受容的な自分もいる。過去の「自分たち」も無数にいる。
性的虐待の問題を抱えた人は、解離しがちなんです。そうすると多重人格的になったりする。それを見たら、人間の人格的統合性なんていうのは幻想だなと思いましたね。多重人格というのはそんなに珍しいことでもないんです。最初は背筋が寒くなるくらいびっくりしたんですが、慣れてくると、また来たか、くらいのもんですよ。三歳児なんかが出てくるとあやすのが大変です(笑)。でも中にスポークスマン的なホスト人格がいるので、その人に調整してもらうんです。「今日は○○さんだけでやってくれないか」とか。「△△さん、別な人に代わって」とか言って、まるで電話の交換手みたいなものですね(笑)。連絡がつく人とつかない人がいるんですが、統合して全体像が見える人を探してコンタクトします。多重人格というのは一種の防衛なんです。自殺とかの決定的な自己破壊をしないために、少し前の段階でかろうじてまぬがれている。
それに近い例で、アルコール依存者でも本当はそんなに飲んでいないのに、その間のことを忘れてしまったという人がいる。記憶というのは状況依存的なものですから、酔ったという雰囲気と、味や匂いに一種のディソシエーション(解離)を起こしている可能性があるわけです。解離は初めから記憶に取り込まれないというか、変な取り込まれ方をしますから、体は覚えているけれど、「私」が記憶していないということが起こります。
上野 そういう患者さんに対しては、落としどころはどのあたりにあるのでしょうか。
斎藤 私が言いたいのは「いいじゃん、それで。それでいきましょうよ」ということなんです。患者さんは、知らないあいだに高い買い物をしたり、セックスしたり、いろいろやっかいなことをしでかして忘れてしまうわけですから、確かに困っています。それで、跳梁跋扈してホスト人格を困らせるような人格に、ホスト人格を助けてあげてくれないかと交渉するわけです。すると、多少症状が緩和する。「また変なところに行って気がつきました」ということはあっても、高い所から飛び降りようしてハッと気づくとか、いつの間にか手首から大量に血が流れていたというようなことはなくなります。「治してくれ」と私のところに来る人は自分でも大変だと思っていて、なんとかしてもらいたいのです。でも、多重人格はいい防衛法なのかもしれないなあと思いますね。
病気ではなくて、社会現象
斎藤 何が病気で、何が病気でないか。たとえば、摂食障害はなぜこの頃になって急に増えてきたのか。一九七四、五年頃、慶應病院にいたときには、私が一年間に診た摂食障害の患者は二四人でした。ところが今は、そんな人数一週間で来てしまいます。ブリミア・ネルボーザ(過食症)が増えてきたのは、八〇年代にコンビニができた頃ですね。最初は脳の内分泌の問題だと言われて、内科の先生たちが診ていたんですが、私はそんなはずはない、いきなりこんなに増えるわけがない、摂食障害は病気ではなくて社会現象だと言っていたんです。
多重人格という考え方もあやしい。人格が固定したものであるという考え方は二十世紀的ではないでしょうか。一つのアイデンティティということをエリクソンが言いましたが、昔からそうだったわけではない。その場その場で人格を使い分けていて、自分の一貫した記憶をもっているのが自分だ、くらいだったんですよ。
上野 社会の変化は患者さんとどんな関係があるでしょうか。
斎藤 一つ言えるのは、鼻の頭が赤いというような昔いた典型的アルコール中毒者はいなくなりましたね。それよりお母さんに囲われているような三〇歳過ぎた青年たちが多い。大学を出て、写真学校に行って、自分でつくった写真集をもってアメリカに行ったけど、二年くらいで挫折して帰ってきて、「死にたい、死にたい」と言っているような人もいますね。なんだか自分がすごくブルーであるという意識を持っているんですが、いい学校に行っているし、親からもずいぶん投資されている。それが三〇歳過ぎて首をつったり手首を切ったり、世をうらんでいる。
でもよく聞いてみると、なぜ自分は有名になれないのだ、この傑出した才能をどうして認めてもらえないのかと、思っているんです。これはナルシシズムの問題でしょう。どうして普通じゃだめなんでしょう。私は普通ではいやです、というのがはやっているのか。そこが問題ですよね。
上野 タレントなどのモデルがあって、それにアイデンティファイしたいというか、それが強まってきているのでしょうか。
斎藤 それよりも、もっと身近な比較ですね。その人のケースで言えば、妹がいたんです。自分が予備校に通って一生懸命勉強していたときに、妹は隣でクラリネットを吹いていて、勉強もせず、簡単な大学にかろうじて受かったというのに、結局外資系の会社に入ってきちんと仕事をして、結婚して子どももいる。それに比べて私はあんなに努力して、有名な大学に入ったのに、と思うんです。写真を撮っても自分に実力がないというのがわかるんでしょうね。こんな自分では生き恥さらすだけだから死にたいと、こういう論理ですね。その幼稚さに気づいていない。ただし親が面倒見ているからいつまでもそんなことが続くわけです。だから親に、いい加減にしなさい、一銭も出しちゃだめです、と言わなければならないんです。でもこれは、今の日本が豊かだからできることですよね。
上野 そこで「死にたい」というのは、本当に死にたいわけではないんでしょう。ある種のメッセージを出しているということですね。
斎藤 その人の場合はそうですね。ただ本当にエネルギーが枯渇しているような人もいます。そういう人はさびしいんですね。自分を理解してくれる人を欲しがっている。自分で生きるエネルギーが落ちちゃっている。こういう人がなぜ生まれるかというと、社会的に安全を保障されているからなんですね。
上野 社会が物質的な囲い込みをやって保護して、ある種家畜化している感じですね。
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2006年02月15日
「死にたい心」はなぜ生まれるのか(3/3)
対談:斎藤学(精神科医)×上野圭一(翻訳家)
「死にたい心」はなぜ生まれるのか〜死んで勝とうとする心理
『地球人』No.7,2006[HP]より
(続き)
セルフヘルプ・グループの活動を通して
上野 セルフヘルプ・グループの動きをずいぶんサポートしてこられたとうかがっているんですが、最近はどうでしょう。
斎藤 セルフヘルプはもともとプロフェッショナルはだめですよ、というところから始まるんです。私は医療のプロとしてプロの否定をするというパラドクスの中に身を置いているわけですね。治療者無力と呼んでいるんですが、「私には治せないよ」と言う。そうすると彼ら自身の中のものを総動員して何とかしましょうという活動になるんです。
でもそれには場を与えるとか、適切なファシリテータを育てていくとか、一貫した継続的な支えをしていかないと活動が消えちゃうんですよ。なんとか自力で浮上してきたのは摂食障害のグループのナバ(NABA・日本アノレキシア・ブリミア・アソシエーション)ですね。あとはJUST(日本トラウマ・サバイバーズ・ユニオン)というグループがあります。ただほっておくと五年たったら沈んでしまいますね。沈んでしまうようなものだったら沈ませておけばいいというのが本来の私の考えなんですけれど、やっぱり日本はそれを必要としていると思うんです。だから社会認識を変えられるならばと思ってサポートしています。
===
近年ではバタード・ウーマンの話は一般化してきましたし、児童虐待とドメスティック・バイオレンスの防止法もできました。でもまだ被害者の問題だけなんです。殴る親や殴る男をなんとかしなくちゃいけない。そこでバタラーズ・グループという殴る男たちの会を作ったのですが、どうもバタラーでない人もやってくる。ならば断ればいいかというと、その場を必要としている人を排除することはよくないので、今はハズバンズ・グループと名称を変えました。毎週一〇人くらい来ます。基本的にネクタイをしめたサラリーマンですね。最初二年やったくらいで、あとは私は直接は関わっていませんが、ファシリテータが出てきて自分たちでホームページをつくったりしています。
見ていると、バタラー同士で親しくなることがあります。パートナーを殴りかけている人がいたんですが、そのグループのバタラーの中に牧師さんがいた。その人が、とにかくその暴力性を何とかしなくては一緒にはなれないよと話をして、結局その牧師さんのもとで結婚しました。新郎と牧師が殴る男の会で一緒だったなんて、映画みたいですよね(笑)。
こうしたうちとけた関係がグループの中に出てくる。私はこれを問題縁と言っているんです。例えば不登校児の母の会があるとすれば、それは問題縁ですよね。
上野 問題によって絆が生まれるということですね。
斎藤 そうです。そういう問題縁をいくつかもつ。しかし、なるべくインディペンデントがいい。瞬間の関係、せいぜい九〇分の関係がいいと思っています。でも終わってからお茶を飲んだりすることもあるらしいんです。お茶ならいいけど、アルコホリックが集まったときに、そのあと焼鳥屋で一杯なんて困りますからね(笑)。ですからなるべくそれはやらず、会場で会うだけの関係がいいんじゃないの、と私は言ってるんです。でも先ほどの例のように、実際に関係が深まる場合が多いですね。
人々が問題縁をいくつかもって、それがミューチャル・サポート(相互援助)みたいな機能を果たすようにならないと、このコミュニティ崩壊の時代はうまくいかないでしょうね。そこでスピリチュアルの話に戻れば、このグループの中に何が起こっているかというと、少なくともフィジカルなものでも、メンタルなものでもないと思うんです。もっと親密性を中心にした何かが発生していると思いますし、これがつまりスピリチュアルな成長ということではないですかね。宗教のもつ霊性とどう違うのかわからないですけれど、人間にとってとても必要なものであることは間違いないと思います。
病を受け容れる
上野 斎藤さんはコピーライターの才能があると思うんです。わかりやすく的確な命名をなさる。そしてわれわれの言葉を使って表現してくださるので、それによって人々の理解が深まったということがあるんじゃないでしょうか。
斎藤 最初はアメリカで使っていた言葉をそのまま利用したんですが、飽きちゃって(笑)。
上野 もう一つ。一見ネガティブな症状に対して、常に健康なエネルギーを感じさせる表現をなさっていますね。
斎藤 それが大事なんです。鬱病も摂食障害も自傷行為も、致命的可能性があるという意味で方向は悪いのですが、その人は必死に訴えているわけですよ。
上野 そういう方法でも訴えることができるのは、本人にとっては救いということでしょうか。
斎藤 鬱病になるのも一種のサバイバルの方法で、大きな意味がある。苦悩というのは恵みなんです。あなたが生き残るためには、今あなたがあるかたちが、一番あなたの現在にとって都合のいい状態なんだから、治そうと考えなくていいんじゃないか、と私は伝えたいのです。
上野 ほとんど周囲の人は、治せ治せと言うわけでしょう。自分でもそう思っている。そこで、治す治さないよりも、まずはこれでいいのだと認めてくれる場所があるというのはすごく大事だと思うし、それが一つの糸口となって変わっていく可能性がある。そこから始まるわけですね。ところがほとんどの病院では、まず悪を抹殺しなきゃいけないというような処置をとられると思うんですね。
斎藤 その人にとっての最適な防衛方法を否定してしまって、よくなろうとするなんて、矛盾ですよね。それよりも、ややこしい症状なんだから、なるたけ機嫌よく病気をやっていてほしいと私は思うんです(笑)。無気力だというだけでつらいじゃないですか。頭があがらないとか集中力がないとか。これだけだって苦しいのに、そのうえ自分はだめだと思ったらよけいまいっちゃう。
あなたの気分というのはあなただけで支配しているわけではなくて、あなた群というのがある。あなたの中のいろんな気持ちや、経験を通してつかんだ感覚や、体からの声も聞いて、あなた群みんなで考えなくちゃいけないんだ、独裁制をやめてもっと民主化しろ(笑)と言っているんです。
私の研究所でもいろんなミーティングがあるんですから、好きなところへ行けばよい。ただし技法が何かを治すわけではないんです。今の自分の状態が最適だと思えば、いろんなことが見えてくるんですね。
特に言いたいのは、限界を知るということですね。これが難しいんです。今、分相応とか分際とかすごくいやがるでしょう。でもどう考えても無理なものは無理なんですよ。世間でもてはやされるとか、そんなことはどうでもいいじゃないですか。どうしてあんなに成功したがるんでしょうかね。「そんなこと言ってたらきりがないんだよ」ということを、説教ではなく伝えたいんです。なかなか難しいのですが、それぞれの人と波長合わせみたいなことをきちんとやれば、少なくともこちらが一生懸命伝えようとしている、とわかってもらえます。
私の一つの特徴はユーモアですかね。笑えるようなものでないとみんな聞きません。その時間を楽しみに集まるという人たちで成り立つ空間のほうがいいんです。まあ、みんな奇怪なこと言いますよ。現代人が抱えているあらゆる愚かしさとか、奇怪さとかが出ますね。それがまたすばらしさでもあるんですが。嫉妬、あがき、顕示欲、うらみ、何でもあります。とくに親に対する怨念というか、葛藤が出てきます。三〇歳を過ぎて、「いい年して母が、母がと言ってるんじゃない」と、私は言うんですよ。そんなこと言ったらかわいそうだとは思わないんです。彼女たちは、結局私みたいなことを言ってくれる人がいないみたいです。
上野 そうでしょうね。言ってほしいんでしょうね。
斎藤 私はあまり洞察促進的なことはやらない。あくまでもトークを楽しむことに徹しています。個別の面接も常時やっていますが、基本的にはピア(仲間)が織りなす相互交流にはかなわない。相互交流的な集団療法が私の治療論の根底にありますね。そこではハプニングが起こります。人間だからこそ起こる涙も感動も、こっけいさも、猥雑さも、ひっくるめて人間て面白いなというのが伝われば、それが力になるんですよね。こんな面白いことをやっているのが人なら、その人の間に生きていてもいいなあという考え方に近いですね。
上野 それは幸せですね。
斎藤 一番幸せなのは私かもしれませんがね(笑)。
家族、社会を考える
上野 他にこれから力を入れていきたいと思われることはありますか。
斎藤 今リサーチしていることがあるんですが、性的外傷体験をもっている人たちは海馬萎縮が起こるんです。サリンの被害者でもMRI画像検査で脳に損傷が見られます。いまだに日本では児童虐待・性的虐待そのものがないと言っている人がいますが、そこらじゅうにありますよ。彼らがメンタルな部分だけではなくて、脳にも痕跡を残しているのだと示したいんです。とにかく目ではっきりわかるようなかたちで突きつけないといけないと思っています。
あとは臨床記述的なものをまとめたい。多重人格のような症例というのは、あちこち転々として私のところに来るんですね。そういう人たちの症例がたまっていますので。
もう一つは男性のことです。自殺は五〇代の男性がとくに多い。ただし憂鬱なことを表現する人は死なないんです。自殺者数が失業率と連動しているのは男性だけで女性は連動していません。鬱病の発症率は女性のほうが二倍から三倍高くて、自殺は男性のほうが高い。この差が結局「男らしさの病」の中核だと思うんです。鬱病みたいなかたちで無気力、抑鬱、悲哀、自己評価の低下などが表現できないで、そのぶん男性は怒りに走る。女房をひっぱたくか、部下を怒鳴るか。怒鳴っても大丈夫な人を怒鳴る。または仕事で業績を上げて見返すというかたちを取ります。これも一種の攻撃です。そしてこれが負け戦だとわかると、あるいは勝手に自分でそう考えてしまうと、もうダメです。何の兆候もなく、誰にも相談せずにいきなり自殺をはかるんですね。
若い人の場合ですと、目的が見えなくて、どうせ死ぬなら派手な流行の死に方で死にたい。最近の例では練炭と青いシートの車のネット心中ですが、あれは明らかに功名手柄の世界なんですよ。こんなどうでもいい生は生きるに値しないという、すごい傲慢さの中で死んでいくんですね。何もなく終わった一日がどんなにスリリングなものかというのがわかるには、ある程度年数が必要でしょうね。今の日本の若者のように親や先生の保護のもとで暮らしている生活ではね。
上野 それが一番よくないですね。社会の過保護。天変地異とか戦争が起こったら、あっという間にそういう人は姿を消してしまう。
斎藤 いなくなりますね。やはり今、家族、社会というもののあり方を考えなければならないと思います。それから地縁、血縁だけではない問題縁というリレーションをつくるということ。それがこれからどんどん大切になると思いますね。
AAの12ステップ
1われわれはアルコールに対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた。
2自分自身よりも偉大な力が、われわれを正気に戻してくれると信じられるようになった。
3われわれの意志と生命を、自分で理解している神、ハイヤーパワーの配慮にゆだねる決心をした。
4探し求め、恐れることなく、生きて来たことの棚卸表を作った。
5神に対し、自分自身に対し、もうひとりの人間に対し、自分の誤りの正確な本質を認めた。
6これらの性格上の欠点をすべて取り除くことを、神にゆだねる心の準備が完全にできた。
7自分の短所を変えて下さい、と謙虚に神に求めた。
8われわれが傷つけたすべての人の表を作り、そのすべての人たちに埋め合わせをする気持ちになった。
9その人たち、また他の人びとを傷つけない限り、できるだけ直接埋め合わせをした。
10自分の生き方の棚卸を実行し続け、誤った時は直ちに認めた。
11自分で理解している神との意志的触れ合いを深めるために、神の意志を知り、それだけを行っていく力を、祈りと瞑想によって求めた。
12これらのステップを経た結果、霊的に目覚め、この話をアルコール中毒者に伝え、また自分のあらゆることに、この原理を実践するように努力した。
〔AA文書委員会訳、AA日本ゼネラルサービス・オフィス〕
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2006年03月06日
出逢いが足りない私たち(1/2)
「出逢いが足りない私たち」(祥伝社コミック文庫)より
あとがきにかえて
内田春菊×斎藤学
斎藤学先生は、依存症や家族の機能不全に関する研究の第一人者として活躍している精神科医です。今回、かねてより斎藤先生の本の読者である内田さんからのラブコールで、この対談が実現しました! ホルモンの話から家族の話まで、興味深い話題の数々をお楽しみください!
斎藤先生、フリーランスになる!
斎藤 この本に出てくる子は仕事、仕事って、なかなかカタカナ仕事も大変ですね。内田さんは心配ってないの? フリーでやってきて。
内田 私の場合、幸運にも仕事はないのが心配じゃなくて、きすぎるのとトラブルをどうするかっていう悩みが多かったですね。私セックス描くの平気だったから、それだけで若い頃は一挙に仕事がきて。
斎藤 男より女のほうが度胸がいいのかな。私、今度初めてフリーランスになるんですよ。もっと本を書いたりしたくてね。
内田 わ! それはすごく楽しみ!
斎藤 前にチャンスがあったときは自信がなくて開業しちゃったんだけど。
内田 自信がなくて開業! こんな話初めてききましたよ私(笑)!
斎藤 開業すれば人がくるのは当たり前でさ。私の感覚だとまず自分の名前が知られることがイヤなんだよ。その点、内田さんや中村うさぎさんはえらいよ。私、開業のときなんて「下半身裸で群衆の中にいる夢」を見ましたもの。これは定型夢のひとつで、恥に関する夢でね。なまじ夢判断の本とか読んでるから「見ちゃった」って思ってね。
内田 自分ですぐわかっちゃう(笑)。先生ご本名ですしね。私は本名じゃないから。
斎藤 タヌキとかにしておけばよかったかな。うさぎなんて可愛いものじゃなく(笑)。
===
精神の病と、精神科医という職業
内田 斎藤先生もそうですが、精神科医って命がけの職業っていうか…。
斎藤 私は電車に乗らないんですよ。この10年はずっとそう。医者やめる理由のひとつは、そういうのがイヤになったっていうのもある。あと「エロトマニア」っていう被愛妄想を抱く人たちがいてね。これは振り切るのが大変なんですよ。精神科医はみんな経験あると思うけど、色々自衛してますね。
内田 私が香山リカさんから聞いた話では、ネットでHP作っているだけで香山さんに「僕のこと知ってますよね」って話しかけて、香山さんが「知らない」って言うとすごくがっかりする人がいるって。そこから始まっちゃうと大変だなって。
斎藤 やっぱりファンタジーは誰にでもある。人間はファンタジーで生きていますからね。だから自分のファンタジーが問題なく作れて、リアリティがあまりない世界で生きていけるとなると、みんなそこに入っていっちゃう。この作品もちょっとそういうとこ描かれているね。例えるなら部屋の中にコタツがあって、そこに寝転がって手の届くところに何でもある状態で。蛸足だね。
内田 蛸足(笑)。何でも手が届く世界ですね。
斎藤 そう。それってまさしく子宮なんですよね、コードでつながっててね。
この作品とインターネット
斎藤 描けない人間からみると、こういう作品が描けるってすごいことだよね。この漫画は最後は崩壊していくけど、ここでパサッと切っちゃったっていうのは意味があるの?
内田 これは結局、誰にも起こるかもしれないっていうようなところに話を落とした、っていうことかな。タレントの女の子とイラストレーターの卵の女の子っていうのは関係はないのに、あまりにもその人に関心を持ちすぎてこういうことに。ネットの電波を通じて混じったり吸収されたり、っていうようなお化け漫画ですね。
斎藤 すごくクールというかシュールだよね。なんて言うか、ベタでいく人には難しいよね、この怖さを楽しむのって。わかる人にはいいんだけど。私が読んだ限りでは内田さんの今までの作品とはちょっと系統が違うような気がしたな。
内田 私本当はあまりインターネットのこと知らないんですよ。でも悪口がいっぱい書いてあるようなところをちょっと見たときに、「このエネルギーは発電とかに使えないのか!?」っていうくらい何だかすごいものが渦巻いていて。
斎藤 インターネットって、私たちのコミュニケーション手段としてね、人間の精神に何かを付け加えてくれるものなのか、あるいは崩壊のプロセスに招き入れてしまうものなのか、知りたいとこでしょ、みんなね。
内田さんはドーパミン系の人!?
内田 先生、ちょっとホルモンのお話を聞きたいのですが、竹内久美子さんの本ではテストステロン値が一番高いのって役者だって。スポーツ選手より高いんですよね?
斎藤 そうですね。テストステロンっていうのは大きく分ければドーパミン系のホルモンなんです
よ。睾丸から一番多く出て、女性の場合は卵巣からも出ますね。で女性の性欲を決定してるのはこのテストステロンなんですよ。エストロゲンじゃなくてね。
内田 じゃあ私はドーパミン系が強い方なんですね。
斎藤 うん、あなたはドーパミン系の人なのかな。ドパミナジック・パーソナリティ。
内田 そんな言葉があるんですか?
斎藤 ないけど私が作った(笑)。
内田 やめてー(笑)!
斎藤 性欲を強くする方法は、…ってさらに強くする必要ないですけどね。
内田 はい、強くする方法教えてください(笑)。
斎藤 ドーパミンと同じ物質っていうのは外部にあって、それは「シャブ(覚醒剤)」なんですよ。
内田 シャブ! 私、自分で意識したところなんですけど40歳前から、怒りが性欲につながることが多くなって。
斎藤 それって私がよく聞く、シャブ中の女の人によく似てるね。
内田 Y(担当編集)、なぜメモする! しないでよ(笑)! 私やってないですよ。
斎藤 やってないと思いますよ。もとから強いから必要ない。
内田 必要ない! そっちのほうがショックー(笑)!
斎藤 男は生まれつきのドパミナジック・パーソナリティ。達成感がないと段々憂鬱になっていくのね。
(続く…)
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2006年03月07日
出逢いが足りない私たち(2/2)
(続き)
姉妹葛藤・兄弟葛藤
斎藤 あとこの本の面白いところは比較的早い段階で姉妹葛藤の深刻さが描いてあることだね。これね、我々から見るとすごく面白いテーマで。お母さんが長女飛び越して次女とくっついちゃっててね。
内田 あ、うちがそうだったので。
斎藤 ああ、実体験か。
内田 多少ね。母は妹がすごく可愛かったみたいです。私はこの作品のお姉さんと違って稼ぎ手になったので、実際はちょっと違うんですけどね。母は私にお金はくれって。
斎藤 葛藤する者ってよく似ている同士だとライバルになる。で同じ共通の目標があると3角形になるんだよね。あと兄弟といえば今の若貴騒動なんだけど、まず私が思ったのは『カラマーゾフの兄弟』。あれって父を殺すんだよ。父イコール神で、ようするに神殺しの話。若貴の場合、神様っていうのは相撲道のことで、弟はその道の狂信者。そしてお兄さんは神を捨てちゃった背教者。すごくカラマーゾフ的なんだよ。
内田 先生はなぜカラマーゾフを?
斎藤 息子と父の関係っていうのに興味があって。男はヘンじゃないかって思ってね。で今読み直してるんですよ。ああいう兄弟葛藤っていうのは実はずっと昔から繰り返されてるのね。でも若貴については「モデル家族の崩壊」とか「時代が変わった」とか、そういう社会心理学的な分析が多いでしょう。時代のせいにしちゃうと話は面白くなくなるんだよ。私は生物学的にとか、人でいることの宿命というか、時代や民族や国家や文化に関係なく通用する論理が好きでね。
内田 私のお友だちの演出家の木野花さんもカラマーゾフに入れ込んでて、お芝居にしてるんですよ。先生もしよろしければ今度ぜひ木野さんと対談いかがでしょう?
斎藤 ええ、ぜひ今度!
===
目を逸らすお義父さん
斎藤 女性は道義とかはあんまり気にしないよね。でも男はそういうものがないと駄目。一番の道義は「女房子供を食わせる」っていうもので、男は「妻子は自分に頼ってる」っていう幻想の中にいないと不安定で不安定で、「自分なんて生きてなくていい」になっちゃう。
内田 まさしく、お義父さん…。私、今一番夫のお父さんのことで大変なんです。
斎藤 老後の問題で?
内田 いやピンピンしてます。非常に支配的で…(以下、お義父さんの具体的な言動の話が続く。詳しくは小社刊『ほんとに建つのかな』をご参考のこと!)。
斎藤 お舅さん、おいくつくらい?
内田 60半ばくらいです。
斎藤 僕と同じだ。まだ男が男をやっていた時代の影響が強いんですよ。下の世代になるとキャパシティが上がるんだけどね。
内田 私と話するときに、私のほう見ないんですよ。目線をくれて話さない。見たら負けって思ってる。
斎藤 お舅さん、本当に追い込まれているんだね。
内田 お義父さんは「オレがえらい」って物語に何度も何度も書き換えようとするんですよ…。
斎藤 それは偉いよ、その執念が。負けてない。おめでたい話ですよ、一言で言えば。
内田 ところが私そのせいで、ここんとこ妊娠にしくいんですよ。そのせいでって私は思ってるんです。
斎藤 アグレッシブになると妊娠しにくくなるね。攻撃性が出てきちゃうとね。
内田 ……!! やっぱりそうなんだ…。私もっと安らかな気持ちで暮らしたいんですよ! できるならもう1人産みたいと思ってる。でもお父さんのこと考えると夜中に心臓がバクバクしたり、銀行にいても冷や汗が出たり…。
斎藤 簡単に言えば、いい人の振りやめればいいんですよ。
内田 いやもうとっくにやめてますよ!? 散々描いてますから!夫が気にしてるのはわかってますけど、私は「あんな図々しいハゲおやじがついてくるってわかってたら、私あなたとは結婚しなかったわ」ってことまで秋に出る単行本に84ページも描いてるんですよ!
斎藤 はははは! それで打ち止めだな(笑)。
内田 私が何度お願いしてもまた同じことをする。言っても聞こえてないんだなって消耗してきました…。
斎藤 聞こえてないっていうか、それで行動を修正すると自分が全部駄目になっちゃうんですよ。「修正したら負け」という意識があるから。
内田 じゃあ細かい修正はできないってことですか?
斎藤 出来ない。私はこれでやるんだから、こらえろって。小さい世界でパワーを保持するって、男は無限にやってるんですよ。オス犬の小便みたいに。やだねー、男って。こうやって話聞くと困ったもんだなって(笑)。
内田 私の生い立ちも関係あるんですけど、子供が大きい家を建てたら、どうして喜ぶって方向に行かないのかな…。「そっちには絶対行かないの? そんなにもオレの支配下じゃないとだめなの?」って、私はそれを知りたいんですよ。それで自分の親とも駄目になったから。
斎藤 うーん。それはお舅さんにとってはキャパシティを一段階拡張することでしょう。それってすごい大変なことでね。不可能とは思わないけど、人間観が変わるのって、それこそ死に直面したり、足1本なくしたりしないとね。
縦の関係・横の関係
斎藤 そういう話聞くと、自分はそういうふうなことしちゃわないようにしなきゃって思うね。私はたまたま男の子いないから、力のある嫁とぶつかるなんて経験ないけど。
内田 「力のある嫁」って言わないでください〜(笑)! 別に力があるとか思ってないんです〜! 「子供が一番気持ちいいかたちを」って考えてたらこうなったわけで。
斎藤 どうしてそんなに力ってイヤがるの? いいじゃない。
内田 私、誰とも仲良くしたいんですよ。勝った負けたとかイヤなんです。
斎藤 勝ち負けにしないっていうのは、それこそ力の究極の段階。そういう水平関係が維持できてるっていうのは能力ですよ。たいがいの人は縦関係のほうが楽だから。「力のある女性」なんていうと力コブのある女性のようなイメージがわくらしくて女性はイヤがるんだけどね。
内田 イヤですよ。
斎藤 ははははは(笑)。内田さんは人と関係する能力があるっていうことだよ、それも力。こういう作品描く時だって、結局読者の視点に共感できなきゃ面白いもの描けないもの。読者と横関係ってことですよ。
内田 お義父さんは縦関係の人です。
斎藤 「でも私は横関係でいくの」って思っていれば、どこかでズレが起こっても衝突はしない。どちらかが上とかって関係になると敵対しちゃうけど。大丈夫ですよ、あなたは横でいける人だから。
内田 人をみるときに腕時計だの車だの見る人いますよね。例えば、こういうお店(対談場所の和食店)のご飯って美味しいけど、塩むすびだって美味しい。そういう喜びって貧乏でもあるじゃないですか。私が育った家は無茶苦茶な親だったけど、でもそういう喜びはあったと思うんですよ。
だからお金のあるなしとか、上下って…。
斎藤 そういうところに喜びを見つけだせる能力っていうのも、関係する能力と関係あると思うんですよ。ものはいらないですよね、関係さえあれば。でもあまりにも純粋にやると、ローマ・カトリックから列聖されちゃったりするけど(笑)。マリア・テレサになっちゃうから、そっちに行きすぎないように。
内田 気をつけよう(笑)。今日は長くなっちゃってすみません!
斎藤 いえ、こちらこそ大変楽しい時間をありがとう。
「出逢いが足りない私たち」(祥伝社コミック文庫)より
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2006年03月08日
対談「サイコセラピーと日本人」(1/3)
CSPP主催特別講演会(2003年9月7日 東京・すみだリバーサイドホールにて)
対談「サイコセラピーと日本人」(抄録)岸田 秀・斎藤学
岸田 秀(きしだ しゅう)
和光大学教授。1933年香川県生まれ。早稲田大学文学部心理学科卒業。同大学院修士課程修了。
著書に『ものぐさ精神分析』『幻想を語る』『フロイドを読む』『希望の原理』(青土社)、『母親幻想』(新書館)、『性的唯幻論序説』(文春新書)、など。
神と世間——文化背景にみる差異
斎藤 岸田先生はいわゆる臨床家ではありませんが、フランスのストラスブールでずっと精神分析を中心に勉強されて、日本の社会や日本人について精神分析的な解釈を加えるというお仕事をなさってきた方です。
今日は主に岸田先生が日本人をどういうふうに見ているか、あるいは日本におけるサイコセラピーの可能性などを、サイコセラピストというものから少し距離のある立場でお話しいただいて、それに対して私が話していく形にしたいと思います。
岸田 僕は、日本人や日本の歴史の展開などを精神分析の立場から説明するということをやっておりまして、サイコセラピーは受けたこともやったこともないのですが、精神分析はそもそもフロイトが強迫神経症やヒステリーといった問題のカウンセリングから始めたものですから、全然無関係ではないかもしれません。
サイコセラピーとは、個人が精神的な問題で葛藤したり悩んだりしてサイコセラピストを訪ね、いろいろ相談することだと思っています。
なぜ人間はサイコセラピーを必要とするのか。僕は、人間は本能の壊れた動物であるという前提から出発しています。動物なら本能に従って行動すればいいのですが、人間は本能が壊れているから、どう生きていったらいいか、こういう場面でどうすればいいかが基本的にわかっていない動物であると考えています。
それでは困るので、人間は自我を作りあげて——自我というのは幻想ですけれども——その自我に基づいて行動する。自分は男であるか女であるか、医者であるか学生であるかといった自己規定に従って行動を決定して、一応は生きているということです。
===

しかし、その自我は作り物でありまして、決して動物の本能のように安定しているものではなく、往々にして乱れてしまう。そしてまた、絶対にこれが正しいという自我の基準もありません。基準のない自我を基準にして、われわれ人間は毎日生きていかなくてはいけない。基本的に不安定ですから、そこでいろいろな葛藤や悩みが生じて、自分だけでは解決できなくなる。
人間は母親との関係や父親との関係の中で形成された自我を持って社会に出ていわけですが、われわれはその中で自我というものをずっと維持していかなくてはならないのです。
家庭はひとつの制度で、これも人間の本能に基づくものではありません。家庭の形態や機能はそれぞれの文化によって違うわけで、日本の家庭と、たとえば欧米の家庭は基本的に異なっていると考えられます。ごく大まかな違いを言いますと、日本の家庭はだいたい母親が中心になっているのではないか。そして母性愛が非常に強調されているように思えます。
ヨーロッパの家庭では父親が中心で、父親が子どもを社会に送り出すという責任を持っていますが、父親の背後には神という存在があって、子どもに対して大きな権威、力を持っている。父親の権威を支えているのは、キリスト教ならキリスト教の神です。唯一絶対の規範である神を背負って父親は家庭に君臨し、子どもをその規範に合うような人間に育てていくということになっています。
精神分析でエディプス・コンプレックスといって、男の子は母親とセックスをしたいから父親をライバルとみなすという説があります。
僕が初めて精神分析というものを知った時、自分にはそういう心あたりがなかったので、何でこんな変な理論があるのかと思ったのですけれども、あれはヨーロッパ人の話だということに気がつきました。
なぜそういう願望を持つかというと、父親が権威で、母親は父親の女であるととらえられるからです。父親をモデルにしてそれを乗り越えていく——父親と同一視し、かつ父親を超えていくのが個人としての成長のプロセスなのです。
日本人と欧米人とでは、ごく大まかに言って、自我の形成過程にそういう違いがあるというのが私の考えです。
人格障害や多重人格などはすべて自我の乱れと考えられます。日本と欧米では自我の形成過程が違いますから、それが乱れた時の乱れ方も違うし、サイコセラピーのあり方も当然違ってくると思います。
フロイトは19世紀中頃に生まれて、19世紀後半に精神分析という技法を創りましたが、人間は昔から自我というものを持っていたわけですから、自我の乱れも昔からあったのです。
ヨーロッパでは、そういう場合は神父さんのところに行って罪を告白して、許しを得ていた。罪悪感というのは神への罪ですね。神の規範に反した、こういう悪いことをしてしまったということが昔のヨーロッパ人の自我の乱れの表れでした。
日本でそういう役割をしていたのは大家さんとか横丁の隠居だと思います。近所の人望のある人が八っぁんや熊さんの相談に乗って、「世間ではこういうものだから」というふうに答えていたのでしょう。
欧米の場合、サイコセラピストはかつて神父さんや牧師さんが果たしていた役割を引き継いでいるし、日本では横丁のご隠居がやっていた役割を引き継いでいる。引き継いだ元が違いますから、それぞれのやり方も違ってきます。
フロイトの時代の臨床例などを見ますと、厳しすぎる超自我とか、父親に対する恐怖から神経症になったり、罪悪感がいろいろと問題になっている。罪悪感を抑圧して、抑圧された罪悪感がヒステリー症状を起こすということで、罪悪感をどうするかが中心問題になっていますが、これはやはり神への罪ということです。
しかしヨーロッパでも、ニーチェが「神は死んだ」と言って以来、キリストへの信仰心はだんだん衰えていくわけです。それでも、何かの絶対的な規範は存在していて、そういう規範との関係での自我の乱れがあって、それを治すという意味で、欧米ではサイコセラピーはひとつの権威を背負っていると思います。
日本の場合、横丁の隠居や大家さんは権威者ではありません。近代になって、日本ではたとえば森田療法ができましたが、あれも権威を背景にしてはいない。
日本人の自我は神との関係ではなくて、世間との関係で形成されていますが、世間とは、言ってみれば他の多くの人々です。
自我の乱れとはその関係の乱れですから、日本人の神経症が対人恐怖症という形で表れたのは、日本文化という背景があったからです。ヨーロッパでは自分の心の中のいろいろな衝動が規範に反するから、そういう衝動を無意識の中に抑圧するわけですが、日本人の場合はそうではないわけです。
対立、葛藤という尖鋭的な形ではなくて、あの人に変に思われているんじゃないか、笑われているのじゃないか、変なにおいを出しているのじゃないかという、他の人々への恐れが日本人の神経症の主な症状でした。森田療法は「人がこわいならこわくてもいいじゃないか」「赤面したっていいんだ」というようなことを言うわけですが、まさに横丁のご隠居さんの助言の系統にあると思います。
しかし、欧米で神との関係が危うくなったのと同じように、日本の「世間」も昔と違ってあまり重視されなくなってきました。結局、現代人の自我は宙ぶらりんになって、欧米でも日本でも皆、自我をどうすればいいのか、どうやるのが正しいのか、どう生きていけばいいのかということが本当にわからなくなってきています。
現代人は、昔の人達よりもはるかに乱れがひどくなり、乱れの形にもいろいろなものが出てきて、まさに混乱の時代になっています。
サイコセラピーはこれから非常に大きな重要性を持つと同時に、いろいろ検討していかなくてはならない問題を抱えているのではないかと思うわけです。
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2006年03月09日
対談「サイコセラピーと日本人」(2/3)
(続き)
「世間」と父性
斎藤 どうもありがとうございました。唯幻論から一気にサイコセラピー=ご隠居論まで行くという、いかにも岸田先生らしいお話だったと思います。
人間は本能の壊れた動物で、自我——私はこれを「エゴ」ではなく「セルフ」と呼んでいますが——は幻想にすぎないというお話にはまったく同感です。
世の中に光はない、いや、光に色はないと言ったらいいのでしょうか。光は七色とというけれど、紫外線や赤外線を見ることができないのは人間の神経系がそうなっているからで、物理的な刺激をどう受けとめるかというところに心があるわけですから、これは幻といえば幻で、私が言う赤と別な人が言う赤が同じものであるかは大いにあやしい。世界そのものも、私が見ているように人が見ていると思うのは、それこそ単なる幻想でしょう。
心とは、刺激とヒトとの間で成立する神経の動きを言うのでしょう。つきつめると、人と人との間に生じるものが心だと言ってもいいかもしれない。その点では、これも確かに幻想だと思います。
ただ私は、日本の父というのは存在しすぎていると思っていまして、有害なものとしても存在しすぎているところがあると思っています。
「世間」というテーマに関連してお勧めしたいのは『武士道と世間』(山本博文著、中公新書)という本ですが、これはずいぶん勉強になりました。
===
日本には確かにGODはいませんが、しかし「世間」が相当な迫力で人に迫っている。たとえば、佐賀藩のお殿様が死んだというだけで30人くらいが追い腹を切っているのです。これはみんな「世間」が基準になっているわけです。
特に寵臣と言われた人は、家族にも会わないで早駕籠でお城に戻って切腹して果てている。それから、たとえば鷹狩りの時にお殿様から「鷹をよく訓練した」とほめられて二朱銀をもらっただけの人も切腹している。切腹すると遺族が優遇されるかというと、全然それはない。
日本における「世間」は、侍にわずかなご縁を持っただけで切腹させるものなのです。これは相当すごい圧力で、社会恐怖を導いているのは確かだと思います。今もこれは強力に働いていて、ほとんど日本の人は「世間」で動いている。「世間に都合が悪い」からこのぶらぶら状態を何とかしようとか、「世間」様への言い訳で仕事をしている人も多いでしょう。結婚するのも「世間」のためだったりします。
逆にそれに反した生き方をしようとしても、反世間的というのはすでに世間にとらわれているわけです。こういったことも含めると、日本人にとって本当に「世間」は神だと思います。
そして、これは大いに「父」であると、私は思うのです。男親であっても、ステテコはいてビール飲んでいる「枝豆親父」は父とは言いがたい。父というからには世間様を背負って、「それで成り立つか!」と言うような者でなければいけない。
これは女親でもいいのです。父親的な機能を持って子に臨み、「世間が放っておかない」「世間が許さない」と言っているなら、これは父親でしょう。
それから、対人恐怖が日本固有の病気であるという対人恐怖日本特殊論は、徐々に返上しなくてはいけない問題だと私は思っています。
現在のDSM−IV(精神疾患診断マニュアル)になって、Taijin-kyofushoという日本語そのままの項目が立てられたのですが、そこにはカッコ付きで、日本人や韓国人がかかる病気だと書かれています。
東アジア精神医学研究会で韓国、台湾、日本の精神科医が集まった時に、アメリカ人にも人と会うと顔が真っ赤になってしまう人はいるし、それがいやで外出しない人もいるという話が出ました。
フランス人でも顔が真っ赤になるし、対人恐怖的な人はいくらでもいます。イギリスの文化では、ノーブルな人というのは口ごもりぎみがいいとされています。そういう含羞が東西でそれほど変わるとも思えないのですが。
岸田 対人恐怖が今やアメリカでもみられるというのは、私も知っています。神への信仰は衰えたのですが、やはり欧米人も何かの規範がないと生きられないところがあって、規範のためには何かこわいものが必要なわけです。
僕は対人恐怖をもじって対神恐怖という言葉を作りましたが、神への信仰が強かった時代には対神恐怖が規範の元になって彼らの文化を支えていたと思うのですけれども、その神への信仰が薄れた時、かわりに対人恐怖が出てきました。
フロイトの臨床例などを見ますと、対人恐怖は問題になっていませんが、その後のアメリカのいろいろな社会学理論でも、エーリッヒ・フロムなどは市場型パーソナリティ(神ではなく皆に気に入られようとするパーソナリティ)などということを言い出します。
かつてルース・ベネディクトは「日本の文化は恥の文化で、アメリカ・ヨーロッパの文化は罪の文化だ」と明快に区別して、敗戦に打ちひしがれていたわれわれは「なるほど」と思ったのですが、アメリカも罪の文化からshyness、つまり恥の文化に移ってきたのではないかと私も考えています。
斎藤 対人恐怖はむしろナルシシズムの問題としてとらえ直す必要があると思うんですね。それまでナルシシズムの問題は精神療法一般の中で中心課題にはならなかったのが、1980年代終わり頃から90年代にかけて、今おっしゃったshynessの問題が非常に大事な問題となってくる。
そうすると結局、自分というものの価値をどういうふうに持つか、人と比較されてけなされた時の恐怖にどう耐えるかが問題になる。結局、引きこもり問題から、妻を殴る人の問題から、自分の子しか殴れないという児童虐待の問題から全部つながってくるわけで、このナルシシズムの問題こそ現在のサイコセラピーが一番基本的に取り扱わなくてはいけない問題だと思うのです。
そういう意味では、確かに岸田先生のおっしゃるように、森田療法には大家さん的な面もないではないですね。ガミガミ親父というのかしら。「とにかく掃除しろ」「飯炊け」「炊いてるうちに治るよ」と言う。
対人恐怖はどこの国にもあるものです。リサーチもどんどん進んできて、一方に傍若無人な形のナルシシズムがあって——いわゆるわかりやすいナルシシズムですが——もう一方の端に対人関係に過敏で引きこもってしまう人達がいるという1つのスペクトラムを考えた方がいいだろうということになっています。いずれにしても、この問題はこれから大事だと思います。
それからもう1つ、ニーチェの言う「神は死んだ」時代とそれに前後するフロイトなどとの関係は正確に把握しておいた方がいいように思います。
このことを考える時、参考になる本は『ニーチェが泣くとき』(西村書店刊)です。これは小説ですが、著者はコロンビア大学の教授で有名な集団療法の研究をしている精神科医です。
女性にふられたニーチェがノイローゼになってブロイヤーの治療を受けたという話で、フリードリヒ・ニーチェをエッカート・ミューラーという名前にして、その人の診療録を見つけたという設定になっています。実際にブロイヤーがエッカート・ミューラーという人を診た記録は残っているんですよ。それがニーチェだったというまったくの推測の下に書かれたフィクションです。
その本では、治療を終えた主人公が、ブロイヤーに学費を出してもらっている頃のまだ若いフロイトと会い、ローマに移り住んで『ツァラトウストラはこう言った』を書いたというストーリーになっています。「神が死んだ」時とサイコセラピー誕生の時間的な交錯を見るという点で、意味のある本だと思います。
確かに、ヨーロッパ人が神を中心にして個人の生活の安定をはかってきたように、人間は皆何か重石を持っていないとバランスを保っていられないのでしょう。
船に錘がなかったら、水の上を浮遊するだけで一定の方向に進むことはできません。私達の人生も、何かアンカー(錨)があるから飛んでいかなくてすむわけです。綱の切れた風船やもやいの取れた船みたいになったりすると、ただ風のまにま波の間に流されてしまうだけですね。
そういう意味で、神や世間は、洋の東西を問わずどんな人間にも必要で、それが文化によってある程度変わってくるのだろうと思います。
春秋戦国時代の中国の小説を私はよく読んでいるのですが、実に皆さん、倫理的にストイックに生きています。その中心にあるのは主君への忠誠で、六芸を身につけなくてはいけない。御(馬術)、楽(音楽)、書を含めて、士たる者が会得しなければならない技が6つあったのです。その中で一番大事にされていたのは「礼」で、その基本にあるのは人との調和でした。今とあまり変わりませんね。
その六芸を教える教師達が活躍するわけで、その大物の1人が孔子です。孔子が礼を作ったのではなくて、孔子の師事する人がたくさんいて、その集大成として話したものを弟子がまとめたのが「子曰く」で始まる一連のものでしょう。
その人達はいわゆるサイコセラピストです。六芸を修めることで得られる利益は何かというと、世間でうまくやっていく、バランスを知る、そしてわれわれにとっての重石の所在の確認ではなかったかと思うのです。たとえば、職場や家族といった重石ですね。
そういうものを取ってしまって、自己愛の奔流のままに自由に生きなさい、「御」つまりコントロールなしで何でもやりなさいとなると、大変なことになってしまいます。その恐怖におののいているのが、私を含めた現代人ではないかと思っています。
岸田 「世間」が結構厳しいというのはまさにそのとおりですね。旧約聖書などを読むとユダヤ教の神はまさに復讐と処罰の神です。それに比べて「世間」はそれほど厳しくなさそうな印象があるのですが、しかしそうではなくて、厳しさの点では、罪の文化とあまり変わらない
一神教の世界は規範が普遍的ですから、その宗教の信者であるかぎり守るべき規範は、たとえばイスラム教であれば「豚を食べてはいけない」とか一定している。「世間」の方はそれぞれの集団の中でのものであって、日本全国、皆同じ規範を持っているわけではなく、一神教の世界よりは多少融通がきくという違いがあると思います。
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2006年03月10日
サイコセラピーと日本人(3/3)
(続き)
精神療法の流れ
斎藤 ニーチェ的な個人の時代を迎えた時に、われわれが精神分析に始まる精神療法というものを必要とすることになったのは間違いない。ではフロイト以前に精神療法的な流れはなかったかというと、先ほど名前を挙げたブロイヤーがそうですし、もっと前にはたとえばメスメリスム(磁気療法)がありました。
メスメル本人は、アメリカを発見したコロンブスにたとえられています。コロンブスが中米のある島にたどり着いて「ここはインドだ」と思ったところからアメリカ大陸の発見につながったわけですね。メスメルは、磁気療法という真理をつかんだと思ってラポール(人間的交流)を発見した。精神療法がメスメルから始まったと考えたら、ニーチェの時代よりも1世紀前にさかのぼるわけです。
いずれにしても、もう1つの流れとしてペストの大流行があります。当時のヨーロッパの大都市ではペストで死んだ人の遺体を焼くために1カ所に集めました。その跡が巨大な穴になって、そこに狂人達を含めた、フランス語で言うアリエネ(疎外された者)を入れた。アリエネの中には罪人も入っています。それから、バガボンド(流れ者)も入っています。どこかにいなくてはいけないのにそこからはずれた人達が、そういう誰も住まなくなったところに放り込まれる。
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フーコーの『狂気の歴史』(新潮社)はこのことを書いた本です。その中には盗賊や売春婦、流れ者、狂人が入っている。力のある人達は出ていってしまうので、そこに残されたのはいわゆる精神病者です。ここから始まるアジエル(精神病者の収容施設)の歴史があって、これが今はメンタル・ホスピタルとして成立している。この2つの流れがはっきりあると思うのですね。
パリの市民の日曜日の楽しみの1つは、動物園と精神病院見学だったそうです。お弁当を持って精神病院に行くと患者さんを見せてくれるという非人間的な状況があった。
これとはまったく別に、人生のコンサルテーションをするサイコセラピーの流れがあります。日本では残念ながら、サイコセラピーをやる人達は精神病院にしか勤務できない状況があって、この2つの流れがごっちゃにされていました。ようやく今、これが独立した技法として成立しつつあるというのが現状ではないかと思います。
江戸でもまったく同じようにそういうものができています。浅草寺の施療院はまさに日本の精神療法発祥の地なのです。今でもお寺の裏手にありまして、私も以前、3回ほど講演に呼ばれたことがある。そこに日記のような記録が残っていて、アルコール依存からうつ病、てんかんといったあらゆる病気が記載されていて、今とあまり変わらない。お寺の坊さんが診ていたというのは、本当にそうです。彼らはセラピストなのです。
もう1つ、日本には寺別人別帳というのがあって、ある人はどこかの地域に固定されていました。そこで畑を耕さなくてはいけない。耕したら租税を領主に納める。そこから離れてしまった人は流浪の人になるわけです。彼らは景気のいい時は野放しにされ、松平某のような緊縮財政の為政者になるとつかまえられて、人足寄せ場に入れられてしまう。そこには時々運の悪い狂人達も入ってきますし、盗賊も入ってくる。
それが明治維新の時に巣鴨の癲狂院として残りまして、その後、都立松沢病院になります。当時の世田谷は森林地帯で、ここなら都の人々にあまり影響ないだろうということで巣鴨から移転したのです。
そういう歴史の面ではヨーロッパも日本もまったく同じです。どこの社会でも「あっちへ行ってちょうだい」みたいな一画を作る。けれど、サイコセラピーの元は下町の一画で相談を受けるということで、坊さんがやっていたのです。
岸田 神が死んだあと社会秩序が問題になってきて、社会を全体的に考え、その秩序を人間がどのように維持するかという視点が出てきた時に、その邪魔になるアリエネのような人たちが浮かび上がってきた。
神に支えられていた秩序が崩れて、どこに秩序の根拠を持ってくるかということで人間に基準を求めたけれど、いろいろな人間を全部認めていたら秩序にならないので、ヨーロッパの場合は理性という——これも幻想だと僕は思うのですけれど——幻想を考え出した。理性を持った人達で社会の秩序を維持するということになると、理性を持っていない人は邪魔だということになり、特定されたというか……。
学校を作ったのと精神病院を作ったのは同じ発想ですが、「子どもの発見」も同じような流れです。「子どもは理性をまだ備えていない、これから学んで理性を備えるのだ」ということから近代教育が出てくるわけです。
そして野蛮人や未開人は理性を持っていないから、われわれヨーロッパ人が世界に出ていって理性を教えてやらなくてはいけないということで、植民地主義が始まる。
日本では、戦国時代が終わって徳川幕府が開かれますが、そこで国の秩序を保つために儒教を持ってくるのですね。儒教を根本にして、武士階級の支配安定をさせようとしたのですが、ご存じのように儒教は男性中心主義の家父長制で、ご先祖様や父親が一番偉いわけです。しかし、斎藤先生とは多少くい違いがあるようですが、日本の秩序の根本は母性が中心になっていたと僕は思っています。
母性を中心とする日本の伝統的秩序と、幕府が政権の正当化と幕藩体制の秩序のために持ってきた日本の儒教とは齟齬があって、そこから来る乱れが徳川時代にはあったと思うのですが、その矛盾が、幕末にアメリカやイギリスやフランスがやってきたところで一挙に露呈してきた。
自我の物語を編み直すために
斎藤 岸田先生は日本の開国に際しての外傷体験ということをおっしゃっているでしょう。ここ100年の日本人について言えば、黒船による開国が外傷体験になって、それが再演されているというお考えですよね。そういう意味で、本能の壊れの部分と外傷体験(トラウマ)との関連についてはどのようにお考えですか。
岸田 皆さん、誰でも自分についての物語を持っていますね。その物語が自我なのですけれども、トラウマとは物語の破綻です。ですから、従来の自分の物語では説明できないとんでもない事件があったら、それを何とか物語の中に組み込まなくてはいけない。うまく組み込めないような、降ってわいた事件がトラウマになります。
斎藤 アメリカにおける9・11問題も、今アメリカ人が自我に組み込めないで、新しい物語を作り出しつつあるというか、作り出しそこなっている問題だと……。
岸田 アメリカという国は自由と民主主義を掲げた国で、正義を守るのが国是である、正義を全世界に普及させるのが使命であると考えていますから。それに抵抗するやつは皆間違った悪いやつであると。アメリカは正しいことを貫いているのだから、どこへ行っても愛され称賛されるという幻想で国家を保っているわけです。
だから本来ならば世界中の人々に感謝されているはずだと思っていたところが、9・11事件が起きて、アメリカはこんなに恨まれているのかとびっくりしたわけです。こんなに憎まれている国というのは従来のアメリカ像、セルフイメージ、物語と絶対に一致できないので、その大きなトラウマをどうやってこれまでの物語に組み込むかということで、今、アメリカは非常に悩んでいる。
そしてあくまで従来の物語を維持しようとして、「アルカイダがいる」「ビンラディンがいる」「そいつらをやっつければいい」ということになる。イラクの人民もフセインに弾圧されているのだから、アメリカは歓迎されると思って行ったところが、そうでもないらしいというので、非常に困っている状況ではないかと思います。
斎藤 個人に置き換えれば、自分の物語が混乱した時にそれを破綻させるような事件がトラウマで、自分についての物語を作り直す時にそれを調節したり、対話によって新しい物語を作る手伝いをするのがセラピストの役割ということになりましょうか。
岸田 ええ、そうですね。だいたいわれわれは、母親に愛され父親に愛されているという物語で自我を作ったわけで、そこで親に虐待されたとかいうことがあると、その自分の物語とどうしても一致しないから、虐待という事実をあくまで否認するわけです。「私を殴ったのは愛のムチである」とか正当化して何とか物語にはめ込もうとするけれど、やはり無理がある。
自分の物語にとって都合が悪い事実、たとえば親に虐待されたという事実を否認しようとしても、現実ですから否認できない。そこで物語に混乱が起こるわけです。
サイコセラピーとはそういう事実を事実として認め、その事実を含んだ上で自分の新しい物語を作り直す、その手助けをするものではないかと考えます。
斎藤 そうですね。どうもありがとうございました。