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2011年04月27日
女性とアルコール依存症(36)酒害者自身への助言4
(8)『自分をゆるして、可愛がってあげなさい』
同じことは、彼女たちの自己評価についても言える。
100点満点の女、妻、母を幻想し、それに達しない自分をみじめで、取るに足りないもののように感じる。自分の限界を直視しようとしない高望み、これが彼女たちをしらふで生きづらくして、酔いの中で、100点満点の自分を楽しむようにさせ、最後には絶望の淵にまで追いやったのだ。
しかし"大したことのない"平凡な"自分を受け入れ、可愛がってあげられるようになるためには、そうした限界のある自分が他人にも受け入れられることが実感できなければならない。
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彼女たちは"可愛くなければ、抱っこしてあげない"という厳しい他者(母親)の視線を取り込んで100点渇望を培ってきたのだから。
新たな他者(治療者)が、しらふの彼女たちの限界を受け入れ、その受け入れに彼女たちが信頼感を持つようになった時に、ようやく彼女たちは安心して"限界のある自分"をゆるすようになるであろう。
(9)『酔った時の自分に名前をつけなさい。そして、その人の良いところをしらふのあなたに取り込みなさい』
ある女性は酔った自分に「今日子」という名前をつけた。今日一日だけで生きている衝動的な人だから今日子だと言う。
今日子はわがままでだらしなくて甘えん坊で、とてもひとりでは生きて行けない人なのだが、人なつっこくて社交的で、誰もが憎めない人でもある。
一方、今日子に名前を与えた女性は、対人恐怖に悩み、自分の言動が他人に迷惑を及ぼすことを恐れて終日部屋にこもり切っている。
律気でオドオドしたこの女性は、もっと今日子を見習う必要がある。
グルーブ・ミーティングの場では、時々みんなに酔った時の自分になってもらう。
はじめのうち、しらふで酔うのは難しいが、決して不可能ではない。
みんなしてしらふで酔って、大声でふだんはとても言えないようなことを言い合って、またふだんの顔に戻ってミーティング・ルームを出て行く。
先に述べたとおり、"真実"はたまねぎの皮のように、何重にも層を成しているのだ。
(10)『精神療法は出会いと別れで成り立っています』
あらゆる人間関係と同様、精神療法にも出会いと別れがある。
別れは女性酒害者たちにとっても、私にとっても、やはり"喪失"にはちがいない。
ただ彼女たちが今まで経験してきた喪失とちがうのは、私がもともと別れねばならない"限界あるもの"として登場し、それにもかかわらず一定の情緒的体験を彼女たちと共有し得たことである。
この経験を大事にしてくれる限り別れた後にも彼女たちの心に恒常的な治療者イメージは残るはずだ。
事実、ミーティングに参加していた女性たちの多くは、治療終了後も、心の中で私との対話を続けてくれていると言うし、私もまた彼女たちと対話し続けている(この本自体がそうした対話の表現である)のだ。
少なくともこの別れは、今までの「見捨てられ体験」とは異質のものでなければならず、これがうまく行けば、彼女たちは見捨てられる不安を恐れて、他者との真のかかわりを避けようとする窮屈な生き方から解放されることになる。
残念ながら、すべてがこのようにうまく行くわけではない。
失敗は主に治療者が"限界あるもの"として登場することに失敗した場合に起こる。
精神発達の障害が深い場合には、そもそも、治療者(救済者)であることと、限界を持つ者であることとが、対立概念としてとらえられてしまうのである。
こうなると治療者は万能者とみなされ、それこそスーパーマンのように、夜ごと日ごとの悩みのたびに助けの叫びを浴びせられることになる。
こうした状況の中での治療者-患者関係の破綻は、患者にとって幻滅の苦痛にみちたもうひとつの喪失体験にならざるを得ない。
治療者が治療時間を決め、治療の期間を設定し、その枠を守ることは"限界ある者"としての自分を示すための必須の作業なのである。
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