2007年07月の一覧
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2007年07月02日
父の家、母の家(友子さん)(1/2)
我が家に緊張感をもたらした構造や歴史について語りたいと思います。
父方の祖母は前に話した通り全身リュウマチと神経痛で全く動けませんでしたが、若い頃3〜4回の離婚・結婚をくり返したようです。
その中の一人は婿養子でしたが**家に入籍して財産を全部自分名義に書き換えさらに**家の位牌まで自分の物として持ち出して出て行ってしまったそうです。
もとは裕福だったそうですがこの時以来**家は貧乏になったらしいです。
===
祖母が最後に結婚した人が私の祖父にあたりますがこの人が婿養子になってやってきた時には祖母には前の夫との間に出来た娘が何人かいました。
この祖父はこの義理の娘達を次々と侵していったそうです。
別の父親から生まれた娘達は寝る時はこの義理の父におそわれるので自分で自分の両足をなわでグルグル巻きにしばって寝なければならなかったそうです。
この祖父はその後、その中の一人を別の家に住まわせて子供まで産ませたそうです。
さいとうクリニックにきて「ジェノグラム」というプログラムに出ました。
その時に私は昔の資料を調べてみたのですが、この祖父と叔母の間に子供が三人産まれていたことがわかりました。
三人とも1才前後で他界した記録がありました。
父はその祖父の長男として産まれました。子供の頃の父にとってそれは厳しい環境であったろうと思います。
貧乏なのはいくら貧乏でも構わないけれど、こういうことだけは本当に耐え難くて、いやだと母に語った事があるそうです。
この頃の環境の影響だと思いますが、父は私の交友関係を執拗に見張り、管理・支配していました。
中学や高校の頃、学校の男友達から来た手紙などは父が最初に封を切ってしまい私の知らないところで読まれてしまいました。(続く…)
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2007年07月04日
父の家、母の家(友子さん)(2/2)
母のことについて話します。
母の家は老舗旅館で明治天皇が京都から江戸に向かう時に泊まったそうです。
この母方の祖父は明治の時代に男ながら二重瞼にする整形手術をし、祖母は髪結いを毎日自宅に呼んで髪を結わせ、子供達は近所の和菓子屋の菓子を“つけ”で食べ放題であったそうです。
その子供達の一人が私の母で、男の子十人に女の子ひとりでした。下から三番目のたった一人の女の子でした。
===
母は自分の兄からも弟からもとても大切にされたそうです。
母は祖父からも祖母からもかわいがられ祖母は着せ替え人形のようにいつも違う着物を着せ、お花・お琴・和裁・洋裁などを習わせました。
洋裁は自分が着る服を作る為ではなく、洋服を注文する時細部にわたってキチンとした注文を出せる様になるために習わされたそうです。
使用人やじいやとか身の回りの世話をしてくれる人もいました。
私がさいとうクリニックに来てから聞き覚えた言葉に「見捨てられ不安」という言葉がありますが、もし見捨てられ不安を持ったことがない人がいるとしたらこの母のことだろうな、とつくづく思います。
いつも言いたい放題したい放題です。傷つくと言うことがあまりないみたいです。
それに反し私は見捨てられ不安の固まりになっていると思います。
母の生活に対して、父の家は台風が来て屋根が吹き飛んでも屋根を作り直すことも出来ず、母が嫁に来る時に持ってきた着物は片端から売り飛ばし、
売る物がなくなって畳まではがして売ったなどと話しているのをきいたことがあります。
母が嫁に来た時、**家には手も足も動かない寝たきりの姑とまだ若年の父の弟妹、いわゆる小姑が三人。
この小姑達は母の寝具にバケツで水をかけてビショビショにしたり、母の入っている風呂の火を消してしまったり皆でこぞっていじわるをしたらしいです。
最近になって母にいろいろ尋ねてみると母は「婚約した後に加代ちゃん(両親の仲人、父のいとこの嫁で母の幼稚園来の親友)が『貧乏だよー!』といったけれど私にはその頃貧乏なんてなんのことかさっぱりわからなかったし、もう婚約してしまっていた。」と言います。
とにかく母はこの雨宮家と**家とのギャップの腹いせを最も弱者の私にぶつけました。
私に向かって「あんたには私の血は流れていない。上の二人の男の子は私の++家の血が流れているけれどあんたには**家の血しか流れていない。
雄一と正二はわたしの子だけれど友子は私の子じゃない。あんたはお父さんの子だ。あんたには私の血は流れていない」と何度も言いましたし、その言葉に従って行動していました。
母は赤ん坊の私のウンチのにおいが**家の姑の臭いと同じにおいがして臭くてきらいで、あまりおむつもとりかえないでほっておいたと言いました。
泣いても泣いてもほっておいたので、そのうち泣きも笑いもしなくなったのだそうです。
(つづく)
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2007年07月09日
熟睡&勉強するな その1(1/2)(友子さん)
友子です。
**家の方針で私は「勉強なんかするな」といわれました。兄たち二人は勉強しろ勉強しろと言われその環境も与えられました。
しかし、女は勉強しなくてもよいのだそうです。長男はスポーツに熱中し次男は勉強に熱中しました。
私は早くに背が伸び、小学6年では160センチになりました。小4の時に担任の先生と両親の身長を抜きました。
私のするべきことは家業の手伝いでした。小学4年生の時、父が自分の右腕の肘の所の黒くなってしまっているところを私に見せて、腕が腐ってしまって力仕事が出来なくなったので力仕事を手伝ってほしいと言いました。
===
それからは、配達や餅つきや「すあま」の練り、これは蒸気で30分間位蒸らした米粉の固まりに素手で粉砂糖を練り込む仕事で、蒸気からおろしたての湯気のほやほやの所に手を突っ込んで砂糖をまぜる仕事で、砂糖が溶けて80℃か90℃位の湯の様になるのですが、温度が下がるともうバラバラになって混ざり合わなくなるので、ほとんどやけどをするくらい熱いうちに生地の中に手を突っ込んで、のしもち一枚くらいの米粉の固まりを練りあげなければなりませんでした。
正月に食べる様な普通の餅は機械でつくことが出来ましたが、柏餅の生地とか団子の生地とかその他の菓子にする米粉の餅は機械でつく事が出来ません。臼と杵で毎日5杯以上はもちつきをしました。
ちなみに勉強ばかりしている兄があるとき勉強部屋から出てきて手伝おうとしましたが、鉛筆より重たいものを持った事がない兄は、腰がへなへなで力が入らず、ただの一杯の餅もつくことはできませんでした。
配達と餅つきと「すあま」の練りは毎日毎日の仕事でした。当時は月に1回か2回しかお店を休むことはありませんでした。
両親は毎朝2時か3時に起きて働き昼寝は少しするけれど夜は夜中の12時ごろまで働いていました。
そんな大変な両親を見ていたので、仕事を手伝うのは全く苦ではありませんでしたが、でも兄たち二人は手伝いを免除されていました。
そして兄二人は百点をとると百点一枚につき50円の小遣いをもらっていました。
私は家では勉強するな、仕事をしろといわれ、学校でその授業が始まる前の休み時間を使ってその寸前に宿題をしていました。
でも私はいつも兄たち二人よりも百点がいっぱいでした。しかし私には百点を取った時の報奨金はありませんでした。
家は貧乏なので私が百点を取るたびに小遣いを払っていたら家のお金が足りなくなるのだと思って親をうらまないことにしました。(続く…)
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2007年07月13日
熟睡&勉強するな その1(2/2)(友子さん)
私は家の仕事を手伝うのは苦ではありませんでしたが、仕事を手伝っている間中父親と一緒に居なければならず、一緒にいればその間中、
私への理不尽な中傷が止むこともなく続くので、それが私にはたまらない苦痛でした。
毎日、学校から帰るとまず自転車に乗って町中を走り回って配達をこなし、それが終わってから餅つきを5杯以上と「すあま」練り、
それはちょっとは大変なんだけれど、体力抜群の私にはそれほどでもありませんでした。
しかし父のそばで働いている間中、何か私には訳のわからないことで、何時間も叱られ続けるのです。
私にはなんと言ってもこれが最大の苦痛でした。私はなんで叱られるんだろう、何を叱られるんだろう、と考えるのだけれどさっぱりわかりませんでした。
父と一緒にいなければならない理由が家業の手伝いでなかったなら私もその場所から離れることを策したと思います。
===
しかし、そう若くもない父が、働き過ぎで腐りかかっているかのように黒くなっている腕を酷使して、さらに重労働に耐えている事を私は知っていました。そんな父を見捨てることは私には出来ませんでした。
その頃、私はある種の記憶喪失の様なものにかかっていました。
朝、学校に行く前に今日はサクラの葉っぱを50枚ヨモギの葉っぱ一束とか河原に行って採ってくる仕事があり、それから学校へ行ってはおしっこをもらし、帰ってきては(父でも母でも高校の兄でも中学の兄でもなく末っ子で一番の弱者のわたしが)力仕事をし、その間中私を否定する言葉を聞かされ続けるので、夜になって寝床に就く頃には、この父の小言のせいで身も心もボロボロになってしまっていました。
何も考える事もなく、横になって倒れた瞬間に眠りに就きました。
すると次の朝、目が覚めた時には昨日までのことは一切合切何もかもきれいさっぱり忘れてしまっていました。
昨日までに一体なにがあったのか思い出すことができませんでした。
まず目を覚まします。この時は「目が覚めた」という自覚もないのですが。
夜、ものすごくふかく眠るので目が覚めた時はただもううっとりとして気持ちが良くて一体ここはどこなのだろう、というかんじです。
もうα波もθ波も通り越したような感じです。それでなんとか一生懸命に思い出そうとします。エーっとここはどこなんだろう。
ここは宇宙と言うところだ。そして今は宇宙の中の銀河系の中の地球という星の中の日本という国にいるらしい。
この家の女の子として人間に生まれていて名前が付けられていて、・・・そうだ、だんだん思い出してきた。
私にはともこという名前が付けられているんだ。と、ここまでくるとやっと現実の自分になります。
そしてまた朝から「学校行く前にヨモギとサクラの葉っぱ採ってきて」とか言われ、それから学校に行ってオシッコをもらし、
帰ってきて配達ともちつきをし、父の小言を聞く。
夜になって熟睡し翌朝目が覚めた時には、今、自分がどこにいるのか自分がだれなのかすっかり忘れてしまう。
そしてここはどこ? わたしはだれ? を毎日くり返す。そうしているうちに、自分は何て馬鹿なのだろう、なんで毎日すべてを忘れるんだろう。
毎日あったことを毎日全部忘れるから毎日同じ小言を言われるのに違いないと考えました。
そして全部忘れるのは、あんまり熟睡をするからだ、と考えました。そしてその時からは熟睡をしない決心、昨日の事を忘れない決心をしました。
(あとで考えるとどうもこの考え違いが命取りの始まりだった様に思います。)
(つづく)
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2007年07月17日
熟睡&勉強するな その2(友子さん)(1/2)
それから次の日からは昨日あったことを忘れないで目をさめる様になりましたが、それでもやっぱり父の小言は続いていました。
こんどはよく考えてみると、どうも私が何か表現したことがきっかけで小言が始まる様な気がしました。
例えば私は「うつ」状態で体育が苦手の為、体育は2でした。
ある時「明日はマラソン大会だから、マラソンなんか運動神経がなくてもただがむしゃらに走れば上位に入れるんだからがんばろうっと」と独り言のようなつぶやきの様な言葉を発しました。
すると、とたんに
「マラソンなんかでがんばるのは馬鹿のすることだ。そんなところに力を使って何になるんだ。」
と言う様な言葉から始まってそのネタで2時間以上くどくどとずーっとけなされ続けました。
===
でも他のどんな事を言っても毎日、くどくどとけなされ続けます。そしてとうとう小学校3年生のある日、腹の底のそこからある決心をしてしまったのです。
「私はもう今後は一切自分の言いたいことを言ったりしたいことをしたりするのはやめよう、絶対に自分を表さないことにしよう。どんなことがあっても自分を隠そう。自分を出せば出しただけ全部つぶされるなら自分を出さない方がましに決まっている。真実をだしてつぶされるより、どうせつぶされるなら嘘を出してつぶされた方が自分を助けることが出来るのだ。」
小学校からの帰り道の途中にある大きな銀杏の木の下に思わず立ち止まってものすごい集中力でそういう決心したことは、今でも脳裏に鮮やかです。
それ以来、私はすべてにおいて自分を隠し、あらわす時には正直でない自分をあらわすようになった、つまり嘘つきになったのです。
全く嘘をつく必要のないところでさえとにかく意味なくただいたずらにうそだらけの毎日を送る様になりました。
そして、そうなっていってしまってからこの日の決心をしたことは永い間忘れ去っていたのです。
忘れたままあらゆる機会に、大切な時に、ここでは絶対正直に本当のことを言わなくてはいけないと言う時に絶対に嘘をつくようになっていたのです。
ここに来るまで、ここさいとうクリニックにくるまでこの時の決心は有効に作用していました。(続く…)
斎藤学の講座・ワークショップ
| 講座名 | 日程 | 時間 | 料金 | 対象 | 会場 |
| 斎藤学ワークショップ | 9/15、16 | 14:00〜20:00 10:00〜18:00 | 31,500円 | 一般 | 東京麻布 |
| 斎藤学オープンカウンセリング | 火 | 18:30〜20:30 | 3,000円 5,000円 | 一般 | 東京麻布 |
| 親のための家族相談 | 火 | 18:30〜20:30 | 3,000円 5,000円 | 一般 | 東京麻布 |
※開催日については必ず各講座の詳細ページでご確認下さい
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2007年07月20日
熟睡&勉強するな その2(友子さん)(2/2)
ですからなにをどんなに努力してもどんなに一生懸命どんなにがんばってもただヘトヘトになるばかりででもその理由はわからず、もう精も根も尽き果ててしまいました。
10年間がんばって蓄積したものでも20年がんばって蓄積したものでも、その大事な場面でのたったひとことの、根拠もなにもないただ自分を隠す為だけの言葉で、すべてが水泡に帰すと言う様なことを際限なくくり返していました。
それにやっとやっと気づいたのです。まだ生きている間に気づけてよかったです。これからは正直な自分を語ります。
私はうその人はやめて自分に正直な人になります。
===
あらゆる場面、あらゆる次元で自分をかくすのはやめます。これからは自分を表現する人生を送ります。
表現することを通して自分で自分の人生を造っていくことにします。
のどに何かをつかえさせておくのはもうやめます。
人からつぶされるようなことを言われても受け取り方を工夫して、傷つくことは選ばない様にします。
真実を語ることを通して自分を守り自分を大切にしていきます。もう他人の奴隷でいることはやめます。
自分の考えを自分で踏みつぶす様なことはやめます。
できるかできないかはやってみなければわかりませんが、ここでこう宣言して、小学生の時にした「もう自分を表現しないぞ」という決心をくつがえす第一歩としたいと思い、言葉にあらわしました。
斎藤先生は以前、父親の悪意を吸い込んじゃったからのどがつまって話せなくなってしまたんだよね、とおっしゃいました。
本当にその通りだと思います。
うつとは自分で自分を否定した時になるもので他人からどんなに否定されても自分がそれを取り入れなかったらうつにはならないと思います。
(つづく)
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2007年07月23日
うっとり波(友子さん)
私はネグレクトに会っているにもかかわらず、特に“うっとり”とする性質のある子供でした。
でも父にとっては私のこの“うっとり”とする性質が罪悪らしかったです。
まだ幼稚園に行っていたころだったと思います。
その日は皆で食事に集中し、私も食事に集中していました。何を食べていたかは覚えていませんが、その時食べていたものがおいしくて、おいしくて、全身全霊でその食事を味わい、つい顔にその表情がでてしまい、うっとりしながら食べてしまいました。
もうまわりの何もかも忘れてつい食事に集中してしまったのです。
===
でも同じく集中して食事をしていたはずの父が、私のその空気に気づいてパッとこちらを見ました。
それから、また延々と小言が始まりました。
「ゆっくり食べるな! 飲み込め! うちは商売をしているから、かつかつと短時間に食べて次に備えなければいけない。味わっているヒマはないんだ!」から始まって食事が終わっても延々とその小言は続きました。
それ以来、食事は味わうことなくかきこみ、のみこみで食べる様になりました。
私は、「うっとりしていたのがいけなかったんだ。」と思いました。
一人で裏庭であそんでいるときでも、空から突然にビームがのびてきて、私の後頭部あたりに直撃し、それは「うっとり波」の直撃ビームで、そうすると私はただ訳もなく幸せな気分になり、それに浸りました。
ですから、私は親にはかまってもらいたいとか、何かしてほしいとか、何かがほしいとか思いませんでした。
ただほっておいてくれれば私はひとりでいて充分幸せだったのです。
でも、ほっておいてはくれませんでした。
父に見つからない様に、食事中にうっとりするのはやめたし、いつでもそうしないように注意したけれど、毎日深く深く熟睡してしまい、朝目が覚めると、ただもううっとりして気持ちが良く、その時は自分が人間であると言うことも忘れてしまうくらいでした。
ですので、一日のなりわいが始まって父が何か小言を言い出してもその内容は自分の「うっとり感」とはあまりにほど遠く、最初は父が一体何を言っているのかわからないくらいでした。
でも一日中叱られると、さすがに夜寝る頃には意気消沈して床につくのですが、また深く深く熟睡してしまうので朝になるときのう一日あったことはおろか、何もかも忘れてしまい、朝は毎日自分の名前を思い出してから一日を始める、というようでした。
父にとっては毎日のこの私の幸福感をつぶすのが大変でした。
今考えれば毎日毎日あれだけの時間とエネルギーをかけて私を叱り続けるのは父にとっても相当大変だったに違いありません。
しかし何故かそれが父の仕事でした。毎日飽きることなく同じ事がくり返されました。父には、私がありのままでいることがどうしても許せなかったようです。
この父の、私を押しつぶそうと言う仕事と私の幸福感との戦いは私が小学校4年生になるまで続きました。
小学4年のある日、私はとうとう自分から、自分が自分自身でいるのをやめる決心をしたのです。熟睡はしない。うっとりしない。自分の意見を言わない。
自分から発するあらゆる表現を消す。そうすればこの父の攻撃からいくらかでものがれられるのではないかと考えたのです。
先日大河ドラマ「義経」の最終回でやっていたことですが、義経をかくまっていた藤原家の長男が悩んだ末に自己保身をはかり、
「源頼朝に屈服し頼朝の言う通りにすれば大切な建造物や自分の命は助かるだろう」
と思って、言う通りにしたのですが、結局藤原家が何代もかけて建造した寺社はすべて焼失し、本人も殺されてしまい、何もかも失ってしまうという最後でした。
それを見ていて私も同じだなあと思いました。
私もこの時、自ら自分自身を押し殺す決心をしたのですが、自分への殺人は父の攻撃に対し、何の効果もありませんでした。
それどころか、父の攻撃はなお一層パワーを増していったのです。
それから家を離れるまでの10年間、ずーっと父にやられっぱなしでした。私のこの時の決心は人間として未熟だったと思います。
つぶされようが殺されようが屈服してはいけないのです。何がどうあっても自分で自分を殺してはいけないのです。
長い時間と苦しみを通して私はやっとこのことを学びました。
ずーっと自我を萎縮させてきましたが少しずつ出せる様になっていきたいです。なんとか自我を取り戻したいです。
(つづく)
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2007年07月27日
無呼吸(友子さん)
友子です。
人間には理性と感情の2つがあるといわれます。その2つが、私ほどアンバランスな人間はあまりいないと思います。
私は理性と感情をまっぷたつに分けました。
私は自己評価があまりに低く、それについても考えます。
私は高校を卒業して家から離れる時、それまでの感情生活のすべてをそこに捨てて家を出ました。
中学生の時の担任が日記を書くことを奨励していて私は毎日何十ページという位書いていました。
その日記帳20冊くらいとか写真とかとにかく、その18年間の生活のかけらが漂っている物を片端から消却しました。
===
今思い出して残念なのは、中学校の時のクラスで誰が書き始めたのか、一冊のノートがクラス中を駆けめぐり、そのノートには皆が自由に詩作を綴ったのです。素晴らしいノートでした。2冊ありました。
私はある種の親分だったのでその皆の宝物を私が持っていたのです。でもそれも焼いてしまいました。
私には取捨選択する余力はなかったのです。何もかも焼きました。
そうして私は生まれてから18年間のすべての感情生活を封印したのです。感情は私にとって余分な物でした。
感情さえ捨てればあとは何とかなります。仕事は貿易実務とか保育士とかを交互にやりました。
派遣業に登録した時は○産業とか×物産とかに行きました。
×物産の契約期限が切れた時、派遣会社から、「○×商事の課長職に穴が空いたので行ってほしい。」と言われました。
仕事は自信がありましたが、そこへ行けば骨の髄まで実を粉にして働いてしまうとわかっていましたので、必死で断りました。
ベビーシッターでもどんどんリピーターがきて、あとで「**さんが退職したと聞いて、本当にがっくりした」といった人がいたと聞きました。
自慢話をしたいのではありません。その反対です。
これらの働く日々、私は感情のすべてをほおむり去っていました。しかし、ほおむり去られた感情のほうでは黙っているわけにはいかなかったようです。
その間、魂の奥底では、ただただ死にたいばかりで、他には何も思うことはありませんでした。
けれど、そのことにさえ重いフタをかぶせていたので、自分では忘れていました。
時々我が家に泊まりに来るいろんな友人が居ました。その人達が口々に驚きながら言うことには
「死にたい、死にたいって寝言を言っていたよ」とか「寝ている間、ずっと悲鳴あげたりさけんだりしていたよ」とか何度もいわれました。
毎日全力疾走だから、横になるといつも数秒以内に眠りました。
眠っている間、死にたいと言ったり、叫んだりするだけではなく、ある時には熟睡中に、思い切り舌をかんでいました。
その時は痛みで目が覚めました。くちやあごにぎゅうぎゅうに力がはいっていました。
痛みで目が覚めましたが、まだ舌は切れていず、生き延びました。
また10人以上の色んな友人が異口同音に語るには「あなたが寝ている間、死人の様だったよ。息していないみたいだった。いや、息をしていなかったよ」と。
目覚めた時、三人の友人に心配そうに顔を覗き込まれて見つめられている時がありました。結婚して夫からも言われた事があります。
驚いた顔をしていました。息をしていなかったよと。そう言う時はたいがい、私の感情の苦しさも絶頂のときに重なっているように思います。
私の感覚としては、ふだん生きてはいても自分自身は自分のからだから抜け出していて少し上のところから私を見下ろしていて、一本の細い線で体とつながり自分で自分をおさえこんでいた、という感じです。
とにかくいつも死にたくて死にたくて死にたかったのだけれど、それらの感情はぜーんぶ押さえ込んでいて生きる屍であったけれど、見た目はそれとはうらはらに、実に元気そうに生きていました。
人にちょっとでも何か言われるのがいやで、元気そうにしているしかなかったのです。それは理性の部分だけでコントロールしていました。
でも幸福を感じるのは感情の仕事であって理性のすることではありません。
自己評価をあげるのも感情の仕事であって理性の仕事ではありません。
私の自己評価は抜群の低さです。生きる方法がわかりません。
(つづく)
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2007年07月30日
技術家庭科(友子さん)
小学校1年生の時、先生のお説教に反抗して廊下にたたされましたが、担任が変わった小学校2年生の時も廊下に立たされました。
クラスの仲間はそのまま持ち上がりで同じでしたが担任だけが変わりました。
小1のときの村田先生は私を廊下に立たせた時以外は柔和でやさしくて顔色も良くてニコニコしていましたが、小2のときの野崎先生は普段から笑顔などほとんど見せることもなく土気色のような顔色をしていていつも厳しいことばで生徒たちを指導していました。
ある日、あまりにも厳しかったのでその直後の休み時間に、自然にあちこちに人の固まりができて、厳しくいわれたことの緊張をほぐそうとするような会話が交わされました。
その言葉の中に「1年生のときのM先生の方がよかったね」ということばがあったのです。
そして多分それを誰かが当のN先生に言いつけたらしかったのです。
===
その日だったかその次の日だったか、こんどはそのことに対する追求がはじまりました。
「M先生のほうがよかったね」という話をした人は手を挙げなさい。
何人かが手を挙げました。
先生はそれでもまだ「正直に言いなさい」と言ってそれ以外の人が手を上げるのをじっと待っていたのです。
その事件が起きた休み時間のとき、私はすぐには席を立ちませんでした。
私は自分のいすがおしっこで濡れているし、休み時間は宿題をこなさなければいけないのでいつもあまりすぐには席はたたず、皆が外に飛び出して誰もいなくなった頃とかにやっと立ち上がるとかしてました。
その問題の休み時間のとき、7人から10人くらいの生徒が私の机の周りに集まってきて、私の席の周りで私の席を囲んでその話が話されたのです。
でも私はそこに居ただけでその会話に気持ちが参加していなかったのでN先生がこの問題を取り上げた時、私は何のことをいってるのかわからなかったくらいです。
私は小1の時、M先生に放課後暗くなるまで立たされたことがあったのでM先生がやさしいとも思っていなかったし、2年生のときのN先生は父よりやさしいから厳しいとも思っていなかったので、あいづちさえうたず一言も発せずただ客観的に皆の話を聞いていただけでした。
私にはいつも迷惑だったのですが、私の周りにはいつも人が集まってきていました。
私は同級生より頭一つくらいは背が高く、おちついていて無口だったのでどういう訳か皆に頼られる存在になっていました。
それでその時皆は、N先生に厳しく叱られたショックを私のところへきて癒そうとしたのだと思います。
N先生は半眼の冷めた目で「正直に言いなさい」を繰り返し、どうももしかしたらその狙いは私にあったかもしれません。
経過は忘れましたが、私が皆で悪口を言ったことの首謀者でしかも手を挙げなかったために、私は嘘つきを言うことになり、またしても私一人が廊下に立たされ他のクラスの先生や生徒の見せ物になりました。
3年生の時、体操授業終了後の着替え中、友人の怪我が発覚し、しかも保健室の先生が見当たらないというので、友達のことを心配してまだシャツのままなのを忘れて私は学校中を走り回って保健の先生を捜しました。
しかしそれとは別のところで保健の先生はみつかりました。
それをみていた先生が私に冷笑を浴びせかけました。それは子供を見下す目であり、服を着替えないで走り回る子供の事情を理解した上でシャツ姿の私をせせら笑うと言うような目で笑っていました。
私がもし逆の立場だったら、もっと暖かい目で見て「保健の先生もう見つかったからあなたも早く着替えなさい。」と言ってあげられたと思います。
それ以降というものは私はもう大人を重大視していませんでしたし、特に信じてもいませんでした。
どちらかというと大人はどうも子供たちよりつまらないものだと思うようになっていました。
しかし、不覚にも教科書だけは絶対に信じてしまっていたのです。
今は教科書のまちがいをとりあげるテレビ番組があったり、ニュースで教科書問題が取り上げられたりしていますので教科書といえども、あながち正しいものでもない、ということは一般的に知られていますが、当時はそうではありませんでした。
その頃の私は身近に居る大人は信じなくても教科書は信じていたのです。
私のそれまでの教科書はほとんど兄達の使い古しで新品の教科書はあまりありませんでした。
5年生になって家庭科の授業が始まり、男子と女子は別々の教科書になり、うちには女子の家庭科の教科書はなかったので、授業の始まる前の休み時間に私にしてはめずらしい新品の教科書がうれしくてパラパラとめくったりしてみました。
そして表紙をめくって見開きのところの最初の言葉を見て私は凍りつきました。その本には開口一番「家庭とは安らぎの場である。」と書いてあったのです。
頭から冷水を浴びせかけられたようでした。「エッ? まさか? そうだったの?」
家庭がどうかなんて自覚さえなかったけれどまさか「安らぎの場」であるなんて天地がひっくり返るようなショックでした。
なにがどうショックだったのか正確には分析できません。
とにかく息が止まるほどショックで足もとがグラグラし気が遠くなりそうでした。
教科書にそう書いてあるということは一体どういうことなのだろう?と考えました。
しかし次の瞬間ハッとしてあたりをそーっと見回しました。ショックを受けている自分をクラスの友達にみられたくありませんでした。
「家庭とは安らぎの場である」ということばにショックを受けていることを知られたくありませんでした。
幸い、その時私を見ている人は誰もいませんでした。その時私の価値観の天変地異がおきました。
自覚しないときにはなんでもなかったのに、クラスの友人たちとの距離がグーンと遠くなりました。
それまではただ起きている出来事をたんなる事実として受け止めているだけのことだったのに、こんどはその事実を世の中から隠さなくてはならないというような気持ちになってしまったのです。
自分の家のあり方に対する罪悪感が生まれました。
毎日おしっこをもらしてただでさえ不潔。しかも私はお風呂に入るときに使う体力が惜しくて毎日なんとかかんとか言ってお風呂を逃れ、忙しい両親はそれに気づくこともなく、長いときは1ヶ月くらいは風呂に入らないで過ごしており、それも不潔。
それにこの犯罪者感覚が加わったので、自己評価はどんどん低くなり、しかも自分はいつも不潔でいつもあたりにくさい臭いをまきちらしているのだろう、そしてそれをいつ誰かに指摘されるのだろうと思ってびくびくして心はいつもちぢこまっていました。
しかしこれは内面の姿であって、外側ではいつもひとに持ち上げられ委員会とか学級活動では投票されて表舞台に立たなければならず、外面的生活と内面的生活のギャップはいやが上にも大きくなっていったのですが、小学生の私にはそんなことを客観的にとらえる力もないので、私の感情は世の中というものからどんどん遠いところにおしこめられていって、いつも自分は自分の他には誰もいないところたった一人だけのところに生きていました。
(友子さんの連載は今回で終わりです)