2007年06月の一覧
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2007年06月04日
話しても良い&ままごと(友子さん)(1/2)
友子です。
何日か前の夜のことです。ここにくるまで私は生まれてこの方自分のことばを誰かにきちんと聞き止めてもらったことはなかったなぁーという思いが湧いてきました。
このさいとうミーティングで今までに3回続けてシェアーをさせて頂きました。
2回目のとき、なぜ5分なのかという話がありました。この5分というのは導入みたいなもので大事なのはそのあとの会話のやりとりなのだ、ということでした。
その話には私はあせりました。私は何がにがてといって「会話」というものが一番にがてです。先生は「会話の自由なリズムとかそのフローティングを楽しむことが大事」とおっしゃいました。
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私にはこのさいとうミーティングのハードルが再び急に高くなりました。私にはそんなことはとても無理と思いました。でも今、目の前にあることで出来ることを一つ一つやっていくしかないので、話すことのつらさやのどの苦しさをおしてまた3回目のシェアーに取り組みました。
この夜、これらの出来事が思い出され自然に涙が出てきました。静かで自然な涙でただハラハラと流れました。そして感慨深く感じたことは、「私がここに来てしゃべったのはまだ3回だけだけれど、私のことでもここではちゃんと聞いてもらえるんだ、」ということです。
また逆に、ここに来るまで私の話は誰にも聞いてもらえなかったんだなぁ、ということです。
私はこれまで一体何人位の人々と出会ってきたのかわからないけれど、これまで私の話を聞いてくれる人は誰一人いなかった、ということです。
4〜5才の頃の話にもどります。私がこの世に生まれて来て始めての記憶は、それは「母に近づいたら殺される」というものでした。
「この人の半径5メートル以内に近づいたら私の命が危険にさらされる」という体験でした。
そして、子供ながらに、こんな思いはとても不謹慎な思いであり、その思いはたとえ誰かに話したとしてもだれにもわかってもらえるものでもなく、特に大人に話した場合にはかえってこちらがとがめられるのが関の山と思い、こんな考えは決して誰にも話すまい、と思って胸の奥深くにしまいこみました。
それ以来私は母の半径に入らない様に緊張して過ごしました。そして小学校に入った頃からは父から否定されるようになり、さらに緊張して過ごしました。
(続く…)
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2007年06月07日
話しても良い&ままごと(友子さん)(2/2)
この頃より私の頭の中に小さい黒い点のようなシミができた感じがしました。
それはとても小さいシミでしたがまるでブラックホールのように大きな存在感がありました。
その小さなシミは時には大きく広がって私を飲み込んでしまう時がありました。そんな時は空気がとても重く感じられました。いつもより5倍も10倍も空気が重く感じられました。
そのような時は立ち上がったり起きあがったりするのがとても苦しかったです。うなりとも気合いともいえない声を出して全身の力をしぼり出して両腕に力を込めなければ立ち上がることができなかったのです。
その頃近所の子供達4〜5人とままごと遊びをする機会がありました。
お父さん役、お母さん役が決まりその他の役割も決まり、私は子供の役になりました。
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そのままごと遊びが始まってすぐ、子供役の私は父役、母役の近所の子供に我を忘れて甘えてしまいました。
普段、父にも母にも近づいたこともさわったこともさわられたこともない私は、その父役母役の子供達に思わず全身を投げ出して本気で甘えていたのでした。その一瞬、私は日頃のスキンシップ不足の欲求不満を爆発させていました。
その時、フッとあたりの空気がおかしくなったのに気づきました。そのままごとに参加している私以外の全員の子供が唖然としてしまって、その遊びを中断していました。
他の子供達が互いにやや顔を見合わせているような感じでした。その次の瞬間、いっせいに「気持ちワリーィッ!」と言いました。
私はハッとして我に返りました。なにがおこっているか察知しました。恥ずかしいやら、情けないやら、みっともないやら、またそう言う行動を起こしてしまった自分の境遇への哀れさやら、いろんなことが、どっと頭に押し寄せて来ました。
これが私にとって友人達に拒絶されたはじめての体験です。
それ以来、子供同士の遊びの間でさえ私は自分で自分を見張っていなければならないことになり、私が緊張の糸を緩めて過ごせる時間はどんどんなくなって行ってしまいました。
それから今日まで長い年月がたちました。そしてこちらに来てこの一ヶ月間の間にこのさいとうミーティングで3回のシェアーをさせて頂いたことが私にとって予期できなかった感覚を私にもたらしてくれました。
それは「私でも自分を出していいんだ」という感覚です。私が話すことでも聞いてもらえるんだ、聞いてもらえる場所があり、聞いて入れる人がいるという感覚です。私が私であることが許されるのだという感覚です。もの心ついて以来、父や母や友人たちにずっと拒否されてきた私にはこれは初めての感覚です。
そしてこの感覚を感じた瞬間に驚いたことに、私の頭の中に血液が音を立てて流れ込んできたのです。目には涙が流れていました。
いつも圧迫されている後頭部の真ん中のコチコチの所に、生まれてこの方ずっとひでりだったような脳の部分に血液が流れて行くのが感じられました。
ありがとうございました。
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2007年06月25日
跳び箱大会(友子さん)(1/2)
以前、このミーティングで小学校低学年の時に行われた無慈悲な体力測定の話を聞きました。
私のいたマンモス小学校では無慈悲な跳び箱大会というのがありました。
小学校三年生の時です。その時、その小学校に三年生だけで300人位いました。その300人全員の跳び箱大会が行われたのです。
校庭に跳び箱が8列並べられました。1段だけ、次は2段の列、3,4,5,6,7と8段までの8列です。
それをこの300人全員が1段から始めて1段が跳べた人は2段の列に並び、2段が跳べた人は3段に並ぶという方法でした。
1組の人から始めてその1段目を全員が跳び終わるにはそんなに時間はかかりませんでした。
やがてほぼ全員のそれぞれが自分の跳び越えられない跳び箱の前に並び、その跳べない跳び箱にむかって何回も何回も時間がくるまでその跳び箱に挑戦し続けることになりました。
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私は小さい頃は背が高く、幼稚園のとき本当は近くの映画館にただで入れるのにあんたは小学生だからといって絶対に入らせてもらえなかったり汽車やバスも幼稚園はただのところをただでは改札を通してもらえなかったりしたのですが、この時も学年で2番目くらいに背が高くてたった1段だけの跳び箱などほんのひとっ飛びで跳べそうな身長だったのに、私ともう一人、身長がまだ幼稚園児と言うくらいの学年で一番背が低い子とこの二人だけが、たったの1段が跳べずにそこに取り残されました。
他のみんなが次から次へと高い段に挑戦していく中、私とその子はたった二人なので皆が他の段に挑戦している間中ずーっと跳べない跳び箱にむかってむなしく走り続けなければなりませんでした。その間3時間くらいあったような気がします。
その頃は何故跳べなかったのかわかりませんでしたが今思えばもうその頃には立派な鬱状態で頭も重く体も重く、また自分の感情や自分の意志を思うように動かす事を禁止されていて朝起きた時に自分の体を持ち上げるのがやっとという状態で生きていました。
それで飛び上がるということがどういうことなのか体が機能せずどうすればいいのかさっぱりわからず、何十回も跳び箱の前までかけていくのですがどんなにがんばってもがんばってもそのたったの一段の跳び箱をとぶどころか、その鞍の上に飛び乗ることさえできませんでした。
当然この二人は何時間も皆の好奇の目にさらされ続け、その無力感、取り残された感じ、跳べない事の恥ずかしさ、みっともなさ、もう一人の子は始めから身長が桁外れに低くて跳べないのはほとんど当然に見えたのに対し、私の場合はほとんどの誰よりも背が大きいのにたったの一段も跳べなくて、さらしものもいいところでした。
そういったことを感じながら、できもしない事を何時間もさせられるのはとてもみじめでした。
この時を境に私は恥ずかしさを感じる感覚をもっていることを捨てました。
あったかなかったかわからないですが、誇りとか自尊心とか、いろんなものを捨てました。(続く…)
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2007年06月28日
跳び箱大会(友子さん)(2/2)
前回、小中学校で毎日おしっこを漏らした話をシェアさせて頂きましたが、おしっこだけでなく、時々うんこももらしました。
おしっこはいつもなんとかごまかすことができたけれどうんこはにおうのでごまかすことはできませんでした。
何回か失敗しましたがそれでもその都度いろんな事をしてなんとかきりぬけましたが、切り抜けられない時もありました。
一番ひどかったのは小学6年の時です。
この時はもうあまりにひどくて策なしでした。
ただただ自分の席にすわったままじっと身動きすることもできず、放課後になって全校生徒が帰るまで待つしかない状態でした。
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でもそうしてじっとしている時間に噂を聞きつけた他のクラスや他の学年の子供達が入れ替わり立ち替わり見物に来ました。
特に小学1年生や2年生の子供達が見に来た時はどうしようもなくて、自分が自分であるという感覚を捨てる事以外その場の苦境を逃れるすべはありませんでした。
そのうち、担任の先生が母親に電話をしたのだろうと思いますが、親が着替えを持って迎えに来ました。
私はその頃図書館のスリラー物のシリーズに熱中していて、先生と親との話し合いでは、「スリラー物の読み過ぎだろう」ということになったと聞きました。
でも先生も親も知らないけれど、実際は私は小2の時より毎日学校でおしっこもうんこももらしていたのです。
近所に兄の同級生の親がやっている歯医者がありました。
その歯医者は入り口をあけると靴置き場があってすぐに畳の部屋になっていて、皆座布団にすわって待つようになっていました。
待つ時間が長くなかなか呼び出されませんでした。
でも次は私か次は私かと待っている内にトイレに行くタイミングを失いとうとう座布団全体がびしょびしょになるほどもらしてしまい本当に次が私という時になって必死で飛び出して逃げてきました。
成り行き上バレエを習っていたのですがバレエの休み時間に漏らしてしまい靴や着替えはレッスン場の奥にあって取りに行けずレオタードのまま町をさまよい、とにかくいろいろとそう言う苦境にたたされたことがありました。
でも跳び箱がとばなくて広い運動場に取り残された時に恥ずかしさを感じる感覚をすててしまったので、もう恥ずかしくもなんともなく、ただいつも抜群の緊張感だけに支配されて子供時代を過ごしました。
(つづく)