2007年05月の一覧
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2007年05月15日
小1の廊下立ち(友子さん)(1/2)
身体性表現疾患の友子です。
私が小学校1年生のころの学校でのできごとです。私は小さい頃からわりと意識とでも言う様な物がハッキリっとしていました。それはどんなことかと言いますと、ある日の1年生の教室で起こった出来事です。
クラスの中で何か事件があって先生はそのことで生徒全員にお説教を始めました。
そのお説教の内容は「どんな時でも絶対に決して嘘はついてはいけない」と言う様な話でした。
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先生は時間をかけてこんこんとそのお説教をしました。子供達はみんな首を落としうなだれてただ黙ってうつむいてその話を聞いていました。でもその中でひとり私は首をまっすぐに持ち上げて先生の目をじっと見つめながらその話を聞いていました。そして思ったのです。
「この先生はちょっと嘘をついている。絶対に嘘をつくなと言っているが、ちょっとくらいは自分だって嘘をついたことがあるに違いない。便宜上の嘘ということだってあるかもしれないし」
とそんな様なことがはっきりと頭に浮かんでとても首をうなだれて聞く気になれませんでした。
他のみんなが神妙にして先生の話を聞いているのに私の目には反抗心がありありと浮かんでいました。そして壁に貼ってある絵をみたり、外の景色や空の様子などを見たりして態度でも反抗心を隠しませんでした。
私の反抗心に腹を立てた先生は私に廊下に立っている様に命令しました。全校生徒3000人以上のそのマンモス小学校の1年生の校舎はただっぴろい学校の敷地の中の最も辺ぴなところにありました。
放課後になって誰一人いなくなっても私はずーっとひとりでたたされ、ひとっこひとりいなくなった薄暗い校舎に一人取り残されたままでした。小学校一年生のちびの女の子なのに。
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2007年05月21日
小1の廊下立ち(友子さん)(2/2)
同じその小学校一年の頃、家ではさっき説明したような父の説教が毎日始まりました。
父の説教はいろいろありましたが、どれを聞いても私は何一つ納得することはできませんでした。私は父とは考え方が違うのだと、ハッキリと思いました。
その頃「思想」ということばは知りませんでしたが、今思えばその時考えていた内容は父と私とは「思想」というか思考内容が違うと言う様なことでした。同じくそのことばは知しりませんでしたが、いわば父は「性悪説」で私は「性善説」なんだと思いました。そう言う様な感覚の内容を私は感じていました。
父は私を性悪説者にしたかったのです。でもそれは私にはどうしても不自然に思えました。だからいくら父の説教を聞いても聞いても私の考え方が父の考え方に染まることはできなかったのです。父にはそれがどうしても許せなかったのでした。
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だから父は小学校の先生の様に「廊下に立っていなさい」と言う変わりに「オレの話を聞いたら心から『はい』と言え! そしてその印に聞くのがうれしいという表情をして話を聞け」と命令したのです。そしてそれは毎日毎日2〜3時間。
その頃にもし私の考え方がこんなにハッキリしていなかったら、意識がこんなにハッキリしていなかったら、この頃をやり過ごすのはもう少しラクであったかもしれない、とただの気休めに考えたりすることがあります。
自分というものをこんなにハッキリ持っていなければ父の考え方をただ受け入れるだけで済んだかもしれないと思ったりします。憲法では思想信条の自由は守られていますが家庭内の、特に権力者としての親と無力な子供の関係性の間では無力なものの思想・信条が守られることは難しいことだと思います。
私は持って生まれたありのままの私をとうてい守りきることができず毎日毎日、しかも一日につき2〜3時間という長時間自分自身を精神の危機にさらさなければなりませんでした。
父の話を聞くたびに、そしてその話を聞いて笑顔を作るたびに自分が壊されて行く様でした。
自分の置かれている立場を把握する様になった私は小学2年生になって家出を真剣に考える様になりました。この家には私の生きていける場所はないと思いました。三日三晩ほとんど寝ることもできずに、考えました。
今ここで家出をしても捜査願いが出れば見つけられてしまうのは時間の問題だろうと思いました。
小学校二年の女の子がひとりでふらふらとしていれば見つからないでいることはむずかしいだろう思いました。かといって人の住んでいない山の中に隠れても生きていくことは出来ない様に思われました。家は太平洋の近くにあり、人のいない山にたどり着くまでには誰かに見つかってつかまってしまう様に思えました。また、もし見つかってしまったとしてそれから家につれもどされてしまったら、それからは家出を企む前よりももっと厳しい状況になるに違いないと思えました。
いくら考えてもたとえ家出をしたとしてもその先に私の生きていける道があるとは思えませんでした。考えあぐねた揚げ句に私は家出をあきらめ合法的に家を出られる日が来るのを待つ、という選択をとらざるを得ませんでした。
それからまた永い永い緊張と苦渋の日々が始まりました。
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2007年05月25日
服従とおしっこ(友子さん)(1/2)
友子です。(私の両親の物語について話します。)
私の家には、全身関節リュウマチと全身神経痛で立って歩くことはおろか、曲がったままの足を伸ばすことも曲がった手や指を伸ばすことも、体をよじって寝返りを打つことさえもできない寝たきりのおばあさんがいました。
父はこの自分の母をとても大切にしていました。家の中で一番大事な存在でした。苦しい家計の切り盛りとこの動けない祖母の世話とで実際両親はもうぎりぎりの生活ですでに男の子を二人授かっていた両親はもう子供はほしくなかったのですが、私ができてしまいました。父も母も私を堕したかったのですが
お金がなくておろす手術ができなかったために私が生まれてしまいました。うまれてきたらほしくない女だったしうちでは曰く付きの芳子おばさんにそっくりで、私は母にとって嫌いなうちの象徴となりました。
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今と違ってその頃は介護用品や社会的ケアもなく動かない祖母を風呂に入れること一つ大仕事でした。家族全員の力仕事でした。(冷静に考えれば上のふたりの兄たちが手伝っているのを見たことがない。私はいつも手伝っていた。)母はこの祖母の下の世話をするのがその臭いがくさくていやだったそうです。そしてわたしのおむつを変える時も祖母の時と同じにおいがするので、おむつを替えるのがいやで赤ん坊のわたしがどんなに泣いてもおむつを取り替えずにほっておいたそうです。
また、やぎを飼っていて、乳が出ましたがその乳は全部祖母にやらなければならないという沈黙のルールがあり(特に小姑が見張っていて赤ん坊に与えることは許されなかった。)貧乏でミルクも買えないので私のミルクはなく私はどんどんやせ細り、そのうち泣きも笑いもしないでただころがっているだけの赤ん坊になってしまったそうです。
いよいよ私が動かなくなった時に母は実家からミルク代を都合してもらい、その時はそれで私は餓死せずに済んだと言うことです。
私が3才の頃まで信州の山の中で木こり、炭焼きの仕事をしていた父が、田畑を売って明るい海のほうへ引っ越すことになりました。そのときも兄二人と祖母の世話が精一杯で私のことは山の中に捨てていこうかと思ったがあの時は捨てられないでよかったなぁ、と父が私に語ったことがあります。
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2007年05月28日
服従とおしっこ(友子さん)(2/2)
母は私をストレスのはけ口にしていたと思います。
父と母は毎日口喧嘩をしていましたが、特に大きな喧嘩をした時はそのイライラを私に向けました。上の男の子二人には木下のわたしの血が(母の実家は木下といいます。)流れているがあんたには私の血は流れていない。あんたはお父さんの子であんたに流れている血は**家の血だけだとそのたびに言いました。いつもずーっと同じことを言い続けました。
何かにつけてそう言いましたがまたある時には「お嫁に行く時は私を一緒に連れて行ってね。」とも言いました。私はそう言う母を気の毒に思いその時は絶対に連れて行ってあげようと思っていました。
私は赤ん坊の頃からほっておかれたので物心ついたときはもうACになっていたと思います。
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母からの拒絶を幼少より直感で感じ取り私は父親っ子になりました。でもその父親より強要されて、どんなに悲しい時でも父の前でニッコリと目の奥の奥まで全身全霊で笑顔でいなければならなくなりました。
私は夜尿症ではなく、幼稚園の時もそれ以降も夜寝ていて「おねしょ」をしたことはありません。
しかしこうして父に服従するようになってから学校で毎日おしっこをもらすようになりました。家で漏らしたことはありません。学校で休み時間私は自分から友達を求めて行ったことはありません。
いつも私の周りには人が集まって来ました。その集まってきている人たちに対応している間に(父より自己滅却して目の前の人のことに集中するように訓練された。)トイレに行くタイミングを失い授業開始のベルがなってしまい、先生にトイレに行かせて下さいとも言えず、授業中の間ずっと必死で我慢していて結局いくらかおしっこを漏らしてその次の休み時間に終了のベルとともにトイレに飛んでいくというパターンを毎日くり返していました。
当時の小学校は校舎も机も椅子も床も木で出来ていました。だから私の椅子やその下の床はいつもしめっていました。だから私はみんなに私の周りに集まって来てもらうのは困るのですが何故かいつも私の周りには人が集まってきました。
自分で考えると私は泣きたいとかため息をつきたいとか自分の想う通りに動きたいとかしゃべりたいとかふっと浮かんでくる自分の内的心理的生理的衝動をまず反射的に止めてしまうクセがついていました。いつも緊張していました。だからトイレに行きたいと言う衝動はまず一瞬止められその時周りにいる誰かに話しかけられたり話している途中だったらそれを全部聞かなければ次の行動に移ることが出来ずいつもそうしてもじもじしている間に始業のベルが鳴ってしまうのでした。そしてその事をどうしてよいかわからないままどんどん年月が過ぎていきました。
小学校2年生の頃から始まって小学校6年になってもまだ毎日一回は必ず学校でおしっこをもらしていました。私はこのことが誰にも見つからない様にすることに毎日全力を費やしていました。父にも母にも先生にも友達にも見つからない様に、毎日毎日ひとりで戦っていました。
どうしたらこんな目にあわないですむのかもわからず毎日毎日おしっこを漏らさない日はなく毎日毎日それを隠したりごまかしたりすることでせいいっぱいでした。涙なんかもうどっかにすっ飛んでいました。学校から帰る道のりの10分間だけに限りたまに自分では気がつかない時に目から水が出ていることがありましたがそれはただの水で何か目の病気と思いました。
そのおしっこ壁は中学生になっても止まりませんでした。中学生になってからはちょっとだけ回数が減った様に思いますが二日に一回か三日に一回くらいになったと思います。
高校生になってもまだ完全には止まりませんでした。でも高校生になってまもなくのある一週間を境に私の精神のある場所がものすごく変わりそれ以来二度とそういうことはなくなりました。
私の小中学時代は毎日緊張して緊張してとても大変でした。