2007年04月の一覧
« 2007年03月 | ブログメイン | 2007年05月 »
2007年04月02日
「外傷性記憶を解凍する」その後(2/2)
診察でこの2ヶ月のことを先生と話しているうちにますます回想が進み、母が私の友人数人とカラオケに行った時急に泣き出したことも憶い出しました。母がつき合っていた男の話になり、先生が
「あの男だからホテルに行ったんじゃないですか?」
と聞いた時に急に男の言葉を憶い出し、男のことが急速解凍されたみたいに生々しくよみがえり、診察の帰りあまりの生々しさに吐き気がする程でした。何か憶い出してはいけないようなことを憶い出している気がしました。
===
私は男のことが好きだった訳ではありませんが、そんなに悪く思っていなかったし、母のパートナーとして程度のつき合いはありました。大学時代つき合っていたバタラーの彼と、母の男の住む北海道の家に泊まりに行ったこと、4人できれいな川でバーベキューをしたこと、えりも岬でアザラシがいっぱいいて母がこんぶをくわえていたことも憶い出しました。
事件の話に戻りますが、私は殺すと脅され押しかけられパニック状態になっていたとはいえ、一駅位はなれたホテルまでは、拉致された訳ではなく自分で行きました。
外に出るために服を着たり財布を持ったりタクシーを拾ったりしているので、ホテルに行くことを自分で選択し行動したとしか思えないのですが、その時自分が何を考えていたのかがずっと憶い出せませんでした。
先生の診察の後そのあたりのことも徐々に解け出し、私は何かをリセットしようとした訳ではなく、ただ「好きだから」ホテルに来てほしいと非常に強く求められたので行っただけなのではないかと思い当たりました。ホテルへ行ってまもなくその行動が間違っていたことに気づきました。
手紙を書いていたら改めてなんて自殺行為で危険な行動だったのだろうと思い、15年前のことなのに恐怖でドキドキし圧倒されそうになりました。けれど全ては過去のことで私はなんとか生き残り今生きています。
私はあの時の自分を責めることはできない。15年前の私は今よりももっともっと孤独でさびしくて不安でした。S.S.
[個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ]
2007年04月11日
風に押されて(1/3)
通院中の方からの手紙をご紹介します。
私は、母親からの遺伝で先天性白内障でした。3才頃、手術を受けましたが、視力が出ず、矯正しても右は0.1以下、左は続発性緑内障をおこし失明しました。左眼は痛みや頭痛、吐気がひどく10年ほど前に義眼にしました。
視力がネックになり、幼稚園の入園は断られましたが、小・中・高は普通の学校で過ごしました。盲学校に行ったら、私が甘えた子に育つと父は思い、いずれは一般社会で生きていかなければならないのだからと、学校で私を特別扱いしないように学校サイドに申し出ていました。
家庭では、父の突然の激怒や暴力の中で育ち、時に母も私をたたきました。父は、高校以上の学費は出さないと言い、私はアルバイトをしながら福祉の専門学校を卒業しました。
===
そして、その後リハビリテーションセンターで、私は鍼、灸、マッサージの勉強をしました。私は22歳でした。
そこで、私ははじめて視覚障害のある人たちに囲まれ、自分自身も障害者として扱われました。
食堂ではトレーに乗った食器を時計の時刻で教えてくれます。5時にご飯、味噌汁は7時、おかずは12時、箸は手前ですと、すべて口頭で教えてくれました。
教科書は見たこともない程大きな文字で、先生方も8割が同じ障害をもち、一人ずつ手を取り、鍼の持ち方、打ち方、ツボなどを教えてもらいました。
授業料はタダ、教科書代もタダ、しかも訓練費として月2万5千円くらいもらっていたと思います。
私は2年生の解剖実習をきっかけに過換気の発作を繰り返すようになりました。学校は休みがちでした。私はたぶん自分が障害者として扱われる現実に耐えられなかったと同時に戸惑ったのだと思います。
今まで、こんなに頑張ってきたのにダメじゃん、無駄じゃん、私の今までの苦労は一体何だったのかと、過去に自分がしてきた努力に失望し、どんなに努力してもやっぱり自分は障害者なのだと絶望したのだと思います。
[個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ]
2007年04月12日
風に押されて(2/3)
月曜日にハコミの個人セラピーを受けました。そのときの話しを聞いて下さい。
先生は私の体の中に本来ある力に働きかけますと言い、体をタッチングしはじめました。
腰のあたりにくるまでは、払っても払っても自分の考えや斎藤先生の言葉が頭に浮かんで困ったのですが、突然真青なぬけるような雲一つない秋の空と、一面の麦畑が見えました。
私と2才くらいの女の子がいます。私は娘かと思ったのですが違う気がしました。
風が心地良くて空を見上げていると、とてもいい気分になりました。私は、その子の手を引き、空を見上げながら歩いていて“きれいな空だね”とその子に言いました。
===
“見えないの”とその子はしゃがみ込み泣きはじめました。空がみるみる暗くなり、風も強くなりました。私は“そうかぁ じゃあおんぶしようね”とその子をおんぶして歩き始めました。すると、サァーっとさっきの青空になりました。“風は?風は感じる?”と聞くと、その子は背中でうなずき、私は“気持ちいいね、青空は見えないけど風を感じて歩こうよ”と言いました。
風景は夜になりました。“空には星があるんだって。私もあんまり見えないけど、お月様は見えるよ。これは夜の風、さっきと違うでしょ”と言うと、その子は“うん”とうなずきました。
次に二人が砂浜に座っていると、朝日が海から昇ってきました。
私は“温かいね。これが太陽の光だよ。感じる?”とその子に聞くと、その子は腕をさすりながらニコニコしていました。そこで先生の手が止まりました。
私は、今、イメージしたことを伝え、先生は言葉で繰り返しました。
“風はあなたに何って言っていますか?”と聞かれ、私は“後ろから押されます”暖かい風で“あなたの行きたい所へ行っていいのよ”と聞こえました。
私は“不安だから一緒に来て欲しい”と風に言いました。
先生は“どこへ行きますか?”と私に聞き、私は、急に父に会いたくなり、“お父さんのところ”と答えました。(続く…)
[個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ]
2007年04月13日
風に押されて(3/3)
麦畑に現在の父と私が座っています。父は下を向き顔を上げません。しばらく黙っていたのですが、“お父さんはお前が心配だっただけなんだ”と言いました。“ただお前のことが心配だった”と繰り返しました。
“お前の行きたい所へ行きなさい”と父は言い、私は風に背中を押されました。風は父なのだ。青空の中で私をつつみ、夜はひんやりした風になり、朝日のあたったあの腕の温かい感じ。父はいつも私のそばにいて、私を応援していたかったのだと思いました。
“お前の行く所には、お父さんは風になっていつもいるんだよ”と風は、父は言っていました。
私の中の本当の私は解っているのです。本当に大切なことは見えることではなく感じることなのだと。
青空や星空や太陽は見えなくても皮膚は風の変化や温度の変化で一日を感じられます。太陽は見えなくても温かさは感じられ、太陽の存在を知ることはできるのです。
===
ハコミの帰り道、風を感じている私がいました。父が私のそばにいてくれているようで嬉しかったです。斎藤先生が障害者として生きろ!!と怒っている言葉の意味が少し解ったような気がしました。
先生は、私に五感を使って生きろと言っている。大切なことは、見えることじゃない。「感じろ」とおっしゃっているのだと思いました。
私は、先生が障害者として生きろと言う度に、人の助けにすがって弱々しい私を演じろと聞こえていました。五感のうちの視覚は確かに弱い、だけど全く見えない訳ではない、見える範囲で使う。
おもしろいです。五感のうちの味覚も嗅覚も触覚も「使う」ではなく「感じる」感覚です。聴覚も音の震動を感じて聞き取るので、やはり感じるに入ります。
視覚だけは目で感じるのはピンときません。目は使うものと私は思っています。それは、私の視力が弱いからそう思うのでしょうか?皆さんは目から入ってきた情報を感じているのでしょうか?
私をつつむ風は、斎藤先生かもしれない。私を応援してくれるすべての人のようにも、今朝は少し思えています。
私の中にある「私の辛さなんて誰にもわかるものか、死ね」という怒りは、所沢での絶望感と関係していると思うので、そのことはまた今度シェアさせて頂きたいと思います。
2007.3.7 里恵子
[個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ]
2007年04月23日
再来診1回目(1/3)(友子さん)
私がこちらにこさせてもらうのは今回で3度目です。それぞれ3〜4年間位づつ間があいています。
はじめてここに来た時は私は自分の事はほとんど全く話せない人間でした。また自分が何故ここにきたのか、ここが何をするところなのか、ほとんどわかっていませんでした。
そのころの女性向けの雑誌の中に「日経ウーマン」だったかと思いますが、「働く女性の皆さん、心のケアは大丈夫ですか。」という記事があり、それを見てここにつながりました。
===
私が始めにここに来たばかりの頃(9年くらい前だと思いますが)は、月曜日の朝、その一週間の簡単な目標を発表する「おはグリ(?)」というプログラムがありました。
私は「おはグリ」で前の席にすわると、何か言おうとしてもとたんに涙がいっぱい出てのどがキューッとひきしまってうめきになりことばを出す事ができませんでした。
何回やっても泣き声うめき声になってしまうので齊藤先生より、
「あなたは聞いているだけにしなさい。あなたの場合はここで話をしなくてもよい。ここで聞いているだけにしなさい。あなたの場合は、自分を語る事が自分にやさしいとは言えない。」
と言われました。
それは先生からの思いやりの言葉でしたが、私は内心あせりました。何十年もひとり暮らしで独立して生活していて蓄えもなく「聞いているだけ」というそんなに何年もかけて通える生活の余裕も、助けてくれる人もいないので、厚生年金から傷病手当金をもらえる期間内になんとかしなければならないと思っていました。
ここでの治療の根幹に「話す」ということがある、と齋藤先生より聞いたばかりでしたし、そのころ、図書室の壁に貼られていた新聞の切り抜きに、「感情をことばで表現していくことによって治っていく」というようなことが書いてある記事を読んだばかりだったからです。
回復には時間がかかる、と聞きました。「語る」ことができて、それでも時間がかかる。5年とか10年とかいう単位で。「語る」こともできないで、聞いてばかりいて、それで一体何年かかるのだろう、という考えに捕らわれてしまいました。
「先生は話さないほうが良いと言ったけれど、わたしは無理してでも自分で自分をどついてでもしゃべろう」
というような必死な気持ちになりました。
[個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ]
2007年04月24日
再来診1回目(2/3)(友子さん)
それからは齋藤先生のミーティングではなくスタッフの方達のやっているミーティングに出てそこで無理矢理にでも語る事にしました。
でも、それ以前に齋藤先生のミーティングでも3回位はなんとか話したことがありはしたのですが。
ジェノグラムというプログラムを見つけました。そのときのスタッフの方がとてもやさしくて、私がどんなに泣きわめいたりうめいたりしてもいつもしっかりと受け止めてくれました。
そしてまたそのジェノグラムでの私の話をいつもほとんど必ず聞いてくれる仲間がひとりいて、その仲間も話すのが得意ではない仲間だったのですが同じく話すのが不得意な者として私が親密感を持つことができたひとりでもあり、その仲間が共感して聞いてくれている様子で大変励まされました。
===
そう言う環境の中でそうやってしぼり出すように無理に話しているうちにそのころとしてはとりあえず胸につかえているものをだいたい話してしまった私はどんどんラクになっていきました。
あんなに重かった頭もいつの間にか前のように重たくはなくなり自分でもびっくりしました。
これまであんなに苦しんできたのは一体何だったのだろう? 胸の中に封印していたものを、ただ話しただけなのに、なんでそれでラクになれるのかまるできつねにつままれているようでした。
それから世の中に飛び出していき、いろんな事を体験しました。また新たにいろんな人と巡り会い、その中でさいとうクリニックで学んだ事をいつしか忘れ徐々にほおむりさって行きました。それにつれて自分をかくすようになり、自分を否定し、相手に自分をあわせて迎合していく自分になっていきました。(続く…)
[個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ]
2007年04月25日
再来診1回目(3/3)(友子さん)
話はまたふりだしにもどりますが、はじめてここを訪れた時は、「頭が重たいのをなんとかしてほしい」という問題でやってきました。でも先生はすべての人に「あなたはパートナーとの関係はどうですか?」と聞いていました。私はこれに非常に抵抗を覚えました。
「頭が重たい事が問題でやってきたのに何故パートナーのことをきかれなきゃならないんだろう!」
と不満をもちました。
しかし、だんだんわかってきたことは、つまり、頭が重いとかそういうすべてのことは、人との関係性の中から生じている、ということでした。
そして人と人は船の底につくフジツボのように自然についてくるものである、それがそうでないときはそうとうな阻害効力が働いている、といえるのだということを学びました。
===
その話を聞き、始めてここにたどりついた時より前の私は「阻害効力」ということばがピッタリの状況を何度も何度も繰り返していやになるほど体験してきたということを思い出し、その時先生がおっしゃったことばの意味がとてもよくわかりました。
一生懸命に胸につかえているもののことを話し、それがだんだんとれていくにつれてその阻害効力もだんだんとれたらしく、すぐに候補者が数人あらわれてきました。ほどなく結婚をすることになったのでした。
しかし対人関係に慣れていない私のことです。現実の新たな環境のなかではあっという間に昔の自分にもどってしまいました。そしてまた、いろんなことを胸におしこめ、また環境はそのおしこめたものを忠実に反映し、どんどん苦しくなって行きました。それでもう一度自分自身と向き合わざるを得なくなりました。
現在、のどのところがいつもつまっていて飲み込んだテニスボールがのどのところでひっかかったままになっているようです。なんでこんなにのどが苦しいのか。私は何をのどのところにつっかえさせているのか、と考えました。
以前さいとうクリニックで必死に語ったけれど、回数としてはまだ数えるほどで、今になって気がつけばまだ話してないこと、誰にも話してないこと、誰にも聞いてもらえなかったことが体の中にたくさん残っています。それでいつも体に力を入れていなければならないんです。
今回は前の様に自分に無理をさせたり、どついたりしてしゃべるのではなく静かに落ち着いて話せる様になるのが目標です。前にうめきながら話したことも平気でスラスラと話せる様に少しずつやっていきたいと思います。
よろしくお願いします。
※友子さんのミーティングでの発言は今後も続きます…
[個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ]
2007年04月26日
笑え(1/2)(友子さん)
心因性失語症の友子です。
私は小さい頃、母からは養育放棄、父からは精神的いじめを受けていました。以前は母の事を話しましたが今度は父の事を話したいと思います。
父は若い頃自分の父親から精神的な虐待を受けていました。その厳しさは私がこれから話す私の精神的苦労よりずっと大変だったようにも思いますが、まず私の受けた苦痛の話から始めたいと思います。
父は自分の受けた虐待のせいで精神に少し変調をきたしていたように思います。頭の中がコチコチでした。父はその思いをはじめは母にぶつけました。母はその話を聞きたくないのではねのけてしまいました。
===
次に長男にぶつけましたが、長男もはねのけてしまいました。
次に次男にぶつけました。次男は逃げてしまいました。
次に末っ子の私のところにぶつけてきました。
私は私が逃げたりはねのけたりしたらこんどは父が行くところがなくなって頭が変になるのではないか、とかただ単に父が気の毒の様に思ったりして、私はグッと腹に力を入れて聞いてあげることにしました。しかしそれは生やさしい事ではありませんでした。なので私もやっぱり逃げる事にしました。
しかしそうしようと思った時には時すでに遅し。その時にはもう逃げ出す為に必要な羽はもがれてしまっていたのです。
父のやり方はこうです。まず何でもいいから、私のあり方にケチをつけます。たとえば私がため息をついた事とか。そのこと1つで2〜3時間ケチをつけます。
たとえば「私、今日マラソンがんばって走ったから5位以内に入った」などと言えば「マラソンなんかでがんばるのは馬鹿だ」と言ってそれがいかにバカなことかという話で2〜3時間文句を言い続けます。
そのうちもう私には何だか訳がわからないようなありとあらゆることがネタになって私にケチをつけて延々と文句を言い続けるのです。
身に覚えのないその言われように当然私は不満を隠せないのでした。しかし何も言い返すことはできずただただ黙って聞くばかりでした。(続く…)
[個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ]
2007年04月27日
笑え(2/2)(友子さん)
そのうちなんとかその場から逃げのがれようと考えて少しずつジリジリと足を後ろにずらしはじめます。すると父はするどくきつい声で「逃げるな!」と言います。
その一言で私は縮み上がり、もう身動きがとれません。あとはヘビに睨まれたカエル状態です。ほとんど息を吸う事も出来なくなる位です。その場に凝固してしまいます。
そしてその場を釈放されるまで全身を緊張させてただじっと立っていることしかできなくなります。体はその場に釘付けになりますが目には「聞きたくない」という、聞くのをいやがっているという表情がでてしまいます。
===
こんどはその表情が父の説教の対象になります。オレの話を喜んで聞け、と言う様になってきます。笑顔で聞け。そんないやそうな顔をして聞くな。心から聞け。もっといい顔をして聞け。うれしそうな顔しろ。ほんとうにその通りですと言う顔をしろ。ニッコリしろ。何故できないんだ。全くお前は素直じゃない。頑固だ。と言う様なことを延々と言い続けます。
これは本当につらかったです。まるで拷問です。そして父のこれらのことばは心にささって、その後の何十年にもわたって様々な威力を発揮するのでした。
だいたいもともとの話は「おまえは間違っている。」と言う様な話から始まっているのです。「おまえは馬鹿だ、チョンだ、生き方考え方すべて間違っている。」と言う様な話です。ニッコリしてうれしそうに聞けるわけなどありません。
すでに泣く事はとうの昔に禁止されていました。私はその場からひたすら逃げたいという思いで一杯でした。
威圧されて硬直してしまっている事、自分そのものが頭ごなしに無条件に否定されている事、自分の想うことなどひと言も言う事が出来ない事、そう言う考え方ややり方をする父のこと、その時の自分がそう言う目においこまれていること、愛する父からそこまでの苦しい状況に追いつめられてしまっていることなどからもう悲しくて悲しくて、私にとっては悲しみの絶頂という位悲しかったです。
でもそんなに悲しい時にこころからニッコリしていい顔をして笑えとこの世で唯一頼りにしている父からつめよられているのです。私は何をどう考えてどうすればいいのか全くわからなくなっていってしまいました。
その時わかっていることはただひとつ。言われている通りのことをすれば話題を変えてもらえるかこの場を立ち去ることが出来るかも知れないということです。
・ ・・私は全身全霊の力を振りしぼってニッコリと笑って見せました。もうそのあとのことは覚えていません。多分釈放されたのだと想います。
この様にして私の思いと私の行動や表現がかけ離れてしまっていったのでした。そう言う矛盾だらけの自分がつくられていったのでした。この世で最も悲しい時でさえめいっぱいうれしそうな顔をして笑っていられる私ができあがっていってしまったのでした。
※友子さんのミーティングでの発言は今後も続きます…
斎藤学の講座・ワークショップ
| 講座名 | 日程 | 時間 | 料金 | 対象 | 会場 |
| 斎藤学ワークショップ | 6/16、17 | 14:00〜20:00 10:00〜18:00 | 31,500円 | 一般 | 東京麻布 |
| 斎藤学オープンカウンセリング | 火 | 18:30〜20:30 | 3,000円 5,000円 | 一般 | 東京麻布 |
| 親のための家族相談 | 火 | 18:30〜20:30 | 3,000円 5,000円 | 一般 | 東京麻布 |
※開催日については必ず各講座の詳細ページでご確認下さい