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2006年09月05日
刊行に寄せて:S『タイトル未定』(文芸社)
2年前の1月の夕刻、ある女性の来訪を受けました。そして彼女の苛酷な生活史を聞かせて頂きました。その内容はこの本に綴られているとおりです。そのストーリーが連綿と語られるのを聞きながら私は、まるでゾラやディケンズの小説を読んでいるようだと思いました。
聞き終えた私が「良く生き残ってこられたね」と言ったのも、この本に書かれているとおりです。しかし私が「生き残り」という言葉を使ったについては少し説明が必要でしょう。私はこの言葉を単にこの女性が生き延び、私の眼前に居るという意味で使ったのではありません。母親から「死んでおくれ」と言われるほどに苛酷な仕打ちを受けながらも、そして虐待する母や姉からの救い主のはずであった夫からの理不尽な暴力の嵐に翻弄されながらも失われていない、この女性の活力と可憐さについて「生き残り」といったのです。
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幼児や児童が親から理由もなく暴力をふるわれたり、ネグレクト(無視)されたりすると心が破壊されてしまうものです。例え命の尽きることがなくても、壊れた心は細くて小さい骨格として表現されたり、生まれつきのような病弱(病気に対する抵抗力のなさ)という結果を招いたり、人間不信やひねくれという情緒行動上の特徴として現れるものです。つまり児童虐待は子どもの魂にひび割れを起します。彼らはしきりに寂しがり、その寂しさを埋めようとして薬物やアルコールや食物を取り込むことに耽ります。あるいは自分にも他人にも攻撃的になって、それを衝動的に自己破壊的に表現します。自傷癖や、繰り返される自殺未遂をきっかけに、精神科医である私に出会うことが多いのです。
しかし、この女性にはそうしたところが見られない。彼女の魂には虐待によるひび割れが入っていない。それを不思議に思ったから「良く生き残ったね」といったのです。彼女がどこからこのようなしなやかさや強さを獲得したのか、わかりません。つまり私にとっては「奇跡」なのです。
この女性は現在に至るまで、自らに酷薄であった母からの愛の備給をあきらめていないようです。何という強さでしょう。あれほどの暴力に悩まされた夫とも、まだ切れていないどころか、彼の「良いところ」を探すのに熱心です。何というしなやかさでしょう。こうした人として生きられたことが、彼女の子どもたちを優しい大人にしたのだと思います。この可憐な本は、まるで著者自身のようです。かわいいが内容は豊か。そして愛に満ちています。(斎藤 学)
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