2006年07月の一覧
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2006年07月03日
ヒステリー概念の解体(3/3)
(続き)
こうした領域は精神医学の中の薄暗がりとも言える場所になっているのですが、もう一度しっかり照明を当てるべきだと思っています。特に最近、麻原彰晃と呼ばれた男性に接見したり、秋田県の団地で生じた男児殺害事件の犯人女性をテレビで見たりということが続いたのでそう感じるのかも知れません。
(Q)でも、最近の事件で秋田の団地住宅で近隣の子を殺したということで取り調べを受けている女性がいますよね?
あの人の場合、新聞などの報道でみると昔流に言えば「ヒステリー」みたいですよね。取り調べ中にめまいがしたり、すぐ横になったりするというし、泣き叫ぶというし。
===
(S)ヒステリーと犯罪との絡みは実は大きいと思いますよ。特にこの秋田の女性のように「虚偽性障害」が疑われる場合には。
虚偽性障害というのは腹痛や突発的な高熱や下血・吐血などの出血、それに四肢の壊死などを訴えて救急車で来院して、それが自分で仕組んだ病徴であったことが後でわかったというものを言います。
もっとも、本当のことがわかるのは幾つかの病院を経巡り歩いた後のことで、それまでは担当の医師などが振り回されます。症状を説明する病因が見つからないから医師たちは困るわけですが、そのうちこうした患者はスタッフとの間にもめ事を起こすのが普通です。
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2006年07月04日
アディクションの後に(1/3)
(Q)買い物依存の○○です。4桁の借金のことで前々からここに載せていただいていました。
あの借金のことですが、実は一挙に片づいてしまったのです。といっても別居中の父に相談して(これができなくて、先生に勧められておそるおそる告白したのですが)みたら、父は前々から何かあると察していたらしく、心配するな俺にまかせろと言ってくれました。
実は前々から給料はまるまる借金返済にあてていて、生活費を父からもらっていたのです。
===
父はその日のうちに母(私と同居)にも何年かぶりに連絡をとり、弁護士に相談して借金を圧縮したうえで全額支払ってくれました。私はただ呆然としていただけです。
すべてが終わったあと、父と母と私は25年ぶりに一緒に食事をしました。あぁ、私、これがしたかったんだなって思いました。
借金がすべて片づいたことには実感がなくて、それよりこのことが嬉しくて、あれから暫く涙腺が止まらなくなって困りました。父は「それよりお前、子どもをしっかり育てろよ」と言ってくれました。私、本当は好きだったんです、お父さんのこと。母のことも。
母の財布からはたびたび現金を無断拝借して申しわけないことをしていましたが。
(S)よかったですね。でも、そんなふうに親の世話で借金が片づくと、すぐまた借金の山になるのが普通だから、気をつけてくださいね。
それに買い物アディクションもそうですが、ひとつのアディクションを止めるとその後に呆然自失というか、空虚というか、何とも言えない無力感と憂うつ感に襲われませんでしたか?
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2006年07月05日
アディクションの後に(2/3)
(続き)
(Q)今日ご相談したかったのはそのことなんです。あれから数週たって今はまた別の問題を自覚しています。借金喪失のウツとでもいうか。
地獄を抱えて生きてきた時間が長かったので、平和で平凡で心配事のない毎日がやるせない。返済がないので「オシッ はらえた!」という達成感もない・・・背後からうっすらとウツがしのびよる気配がする・・・と感じ、この1週間「何も考えないために走れ!!」と毎日毎日走っていました。自助グループのない日はプールにも行きました。空虚がやるせない、さらにウツになるのが怖くて走りまくっていたのです。
===
金曜日出勤したら同僚に「○○さん、オラウータンみたいな歩き方してるよ。腰悪くしてんじゃねえ?」と言われました。「運動はじめた? 毎日3kmも? やりすぎだよ」と。
この半年に私が手放したもの。
買い物癖、嘘、秘密の暴露の恐怖、親への恨み、罪悪感、自己レンビン、泥棒癖(母の財布から)、金銭的不安、4桁の借金・・・逆に言えば、これだけ抱えてウツにもならずにいたことこそ「狂気」だったと思えます。
オラウータンになって吹っ切れました。
ウツになるならウツになれ。心をコントロールしようとがんばるな。
ウツになるには「ウツになる訳」がいつだってある。ウツになったっていい!!と。
またミーティングで「ウツです」と話せばいいんだから。そうやって私は今年1月、2月のウツから回復したし、親のこと、借金のこと、解決不能に思えた問題を手放せてきたんだから。
この先、心がどう揺れ動くのか、あらがわないで身をまかせてみようと思います。回復の大きい流れに身をまかせます。(続く)
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2006年07月06日
アディクションの後に(3/3)
(続き)
(S)アディクションを手放すのは比較的簡単なんです。それを手放したことにスリルを感じ続けることが難しい。
アルコール依存症者というのは、「何度も断酒してみた人」のことでしょう。タバコ依存症者については「禁煙?そんなの簡単だよ。ボクなんて一日一度はやってるもの」という冗談があるくらいです。
===
多分、アディクションによる興奮を手放した後の喪失感にどう対処するかが決め手なんですね。あなたのなさっている運動というのもいいがそれだけじゃ無理でしょう。
お気づきのように「ミーティングで話す」というのは必須です。それと、「アディクションの後のウツ」は辛いものだという認識を早いうちに持っておくことですね。頭でシミュレーションしておくことで、アディクションへの後戻りを防ぐのです。
買い物しようとしたとき、「ミーティングの仲間に会わせる顔がない」と思えるようになれば抑止効果が出てきます。そうなれるというのも結局、「人とかかわる能力」に関連してきますね。○○さんはその能力が比較的高いのですよ。この能力は自尊心(自己評価の高さ)に正比例し、自尊心は「自分が自分に寛容である能力」に正比例しますから、煎じつめれば「自分をゆるせる力」をつけることがアディクションからの離脱を助けます。
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2006年07月07日
外傷性記憶を解凍する(1/6)
以下に述べる症例「A」にはモデルがいるが、記述は事実そのままではない。プライバシーに配慮して時間の経過や場所、家族関係などについては可能な範囲内で粉飾を施したし、「A」さんが「事件」の全容を語り出す経緯などはフィクションである。ただし生じた「事件」の骨組みそのものについては加工していない。
こうした形で記録を公開するについては今なお躊躇するところが多い。しかし外傷体験に伴うフラッシュバックや身体表現性障害の治療についての具体的な記述が乏しい現状では、この記載は貴重と考えた。
===
この症例を介して読者に伝えたいことは、強迫行為や心因性(と想われる)身体不調を訴えながら精神科を訪れてくる患者の中には、受診後かなりの年月を経て外傷体験(トラウマ)を語るようになる人々がいるということである。
この場合、時間が無駄に費やされたと考えるべきではないと私は思う。それを語るには時が必要だったのだ。
この「A」さんは、自分の性被害体験を語るのに5年の準備を要したが、それで良かったのだと思う。この種の微妙な問題を早急に語らせようとすると副作用の害の方が多くなってしまうということも起こるからだ。
伝えたいことのもうひとつは、この種の体験をグループの中で語って頂くことの治療的意味である。
グループの中で外傷体験について語るというのも、実は「もうひとつの外傷体験」なのだ。そしてこの直近の外傷体験の記憶が過去の外傷性記憶を上塗りすることによって記憶(というより「事件の記憶」にまつわる感情)が修正される。これらのことがうまく伝えられていると良いのだが。
(続く…)
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2006年07月11日
外傷性記憶を解凍する(2/6)
X年 Y月 Z日の対話(個別面接で)
(Q)○○相談室へ通い始めて5年になりますが、斎藤先生にはお会いしないできました。
31歳で独身ですが、最近まで彼と同棲していました。今は公的機関の研究所で雑用をしています。
□□カウンセラーからは先生の診察を受けた方がいいと言われてきたのですが、何となく怖くて。相談室にきたきっかけは同棲中の男性からの暴力で、あの頃はパニック障害や失声(しわがれ声しか出なくなった)もありました。
===
そちらの方は良くなったので、このまま斎藤先生にお会いしないでここを去るのかな、と思っていたのですが、最近、実家に帰ってから不安感が高まり、フイに橙色(だいだいいろ)の光を見るというフラッシュバックかなというような体験が出てくるようになったので、決心してお会いすることにしました。
実家では何か特別なことがあったわけではありません。ただ相変わらず無神経な母親と、無口な父親(商店主)に会ってきただけです。弟の結婚が決まったということで顔を出すように言われたもので、もう結婚している妹と一緒に行ったのです。
大学を出て就職してすぐ実家は離れましたし、7年前に同棲を始めたとき親から咎められたのをきっかけに両親とは殆ど会わなくなっていました。どうも実家の雰囲気とか、子ども時代から変わっていない街の佇まいなどが「橙色の光」のイメージを呼び起したようなのですが。(続く)
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2006年07月12日
外傷性記憶を解凍する(3/6)
(続き)
(S)光の映像だけじゃないんでしょ? そう、不快感や不安や恐怖も一緒だったのですね。鳥肌は? あぁ、ありましたか。心臓もドキドキしてた。それならフラッシュバックだった可能性が高いですね。「橙色の光」で憶い出すことはないのですか?
(Q)何かありそうで、でも出て来ないのです。本当は記憶として浮かぶこともあるのですが、あぁやっぱり今は話せません。喉がつまる感じがします。久しぶりです。
(S)無理に話さなくてもいいのですよ。ただ、あなたなんだか現実感がないようなボウーッとした感じですね。
===
(Q)やっぱりそう見えますか? これでも良くなってきたんです。
最近まで現実感が鈍いことに気づかなかったのですが、最近いろいろな感情が出てくるようになって、以前は今よりずっとボウーッとしてたなと思うようになりました。
何しろ小学校高学年の頃から彼と出会って同棲するようになった23歳頃までの記憶がバラバラで、ところどころしか思いだせないんです。
(S)12歳のときに何かあったのですか?
(Q)父の家業が傾いて、今の場所に引っ越したのが12歳でした。そのとき母親は父と別れて別の男性と一緒に暮していた時期が何年かありました。弟と妹はしばらく母と一緒にいて、私だけが父のところに残りました。
(S)それじや、あなたはお父さんのお気に入りだったんですね?
(Q)いえ、それが私、両親が怖くて奴隷のようになってしまっていて、親たちの言うなりだったのです。それで父が残れというのでフラフラと・・・・・
(S)ご両親はずっと怖かったんですか?
(Q)殴る蹴るでした。何をしても叱られたので何もしないでいることが身についたくらい。
それに母は時々荒れるのです。荒れると皿を割る、家具を壊す、服を引き裂く。そうなると子どもたちは外へ逃げるんです。
でも、こういうことが怖かったというより母の関心がまったくこちらに向いてなかったというのがつらかった・・・・・ 。父親も冷酷というか決して優しい人ではなかった。
もともと二人とも子どもに関心がなかったんじゃないかと思うんです。結婚したのも子どもを産んだののも世間体のためだったんじゃないでしょうか。
自分たち自身はまともな親をやってきたつもりでいるから不思議なんですよね。この前、実家に帰ったとき小さかった頃の恐怖の話をしたら、二人ともキョトンとしてるんですよ・・・母なんか、「あの頃はお父さんのことで頭が一杯だったから、あなたたちのことが良く見えてなかったかもね」なんて言うんです。(続く)
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2006年07月13日
外傷性記憶を解凍する(4/6)
(続き)
(S)12歳以前の小学校の記憶ならあるんですか?
(Q)ええ、叱られていた記憶ばかりだから愉快じゃないですが・・・それが12歳で引っ越したあとすぐ「あの事件」があったから・・・それからは友人らしい友人もいなかったし、以前の地域の友人たちに会うことも避けるようになってしまいました。
引っ越してからは毎日が余震続きのようで、中学生とか高校生とか必死でこなしているようなものだったから、まとまった記憶になってないんです。
これって普通じゃないんでしょ?
===
(S)ある事件を憶い出すきっかけになるような出来事がすべて回避されてしまっているのだと思いますよ。
10年以上も前の体験が生々しく感じられて、そのときの恐怖が怖くて、事件そのものを想いだすこともできないとしたら、それは「外傷性(トラウマ性)記憶」です。
これが治療対象になるのは、この体験の前後のことがぼやけてしまうからではありません。過去の記憶がぼやけたって現在の生活に支障がなければ放っておいてもいいのです。
困るのは、そうした体験を持った人の場合、生きる喜びや意欲が失われがちで、ときには生を放棄する(死を願望する)といった気分までみられることです。つまり、「過去」の事件が「現在」の生活を支配する(影響する)のです。
そうした人が決意して精神科医のもとを訪れても「うつ病」などの気分障害圏の診断が付けられて抗うつ剤を与えられるだけになりがちですが、この問題は薬物療法だけでは改善しません。被害者(患者)もそれを感じるらしくさまざまな精神療法を受けたりワークショップに出たりする人もいるのですが、核心となる体験について話せるようにならないと本当の変化が起こらないのです。
とりあえず今日はこれだけにしておきませんか? 今日の会話だけでずいぶん溶けてきたはずですよ。
(Q)溶けるって、何が?
(S)凍りついた記憶がですよ。トラウマ性の記憶は凍った記憶です(参考『封印された叫び−心的外傷と記憶』斎藤学、講談社)。
これを溶かして当時の生々しい感情、つまり悲嘆や恐怖を感じるのは怖いと思われるのは当たり前ですが、今のあなたはそれに耐えられるのですよ。逆に言えば、耐えられるところまで力が付いたから今、憶い出すという冒険に乗り出す覚悟をなさったのです。
どんなに怖い記憶であれ、しょせん過去のことです。過去に現在を支配させてはいけません。(続く)
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2006年07月14日
外傷性記憶を解凍する(5/6)
X年 Y月 Z+10日 の対話(個別面接で)
(Q)あのあと母から電話がありました。何にもなかった普通の母と娘のように。現在の生活の愚痴を勝手にしゃべって、勝手に切りました。
あの人はいつもそうなんです。妹や弟は親たちと連絡を取っていて、こだわっているのは私だけみたいです。
私は母の前では「蛇ににらまれた蛙」状態になってしまうので大学生のときに出会った彼と同棲するようになってからは母との関係を遮断してきました。「人生をリセット」と考えたのです。
この点はうまく行っていたと思っていたのに、心身ともに調子悪くなってこちらの相談室に来ました。
母からの電話の後、父からも電話がありました。この前実家で大声あげてきたもので、あの人たちなりに気にかけているのでしょう。いまさら迷惑ですが。
でも、父や母の声を聞いているうちに、というか先週ここで先生とお話してから、記憶の断片がだんだんつながってきたのを感じるのです。それで不安定になっていることもあるのでしょうが、このところ何だか不安で怖いです。
===
(S)何かをここで話したくなっているのではないですか?
(Q)引っ越しの前後に母が父を捨てて出て行ったことです。実はただの別居とか離婚とかじゃなかったのです。父の店の倒産のとき、父の知り合いとかいう金融業のおじさんが家に入りこんできて、どういういきさつか知りませんが、母はその人のもとへ走ったということだったのです。まぁ、不倫ですね。
ところが、そのおじさんの愛人という人が、この人ももともと知り合いだったらしいのですが、父のところへ入りこんできて、不倫みたいになった。もう無茶苦茶です。
(S)ちょっと待ってくださいね。頭がこんぐらかってきた。
(Q)そうでしょう? 私、この話するの恥ずかしくて・・・要するにスワッピングみたいなものなんですよ。しかも遊びじゃなくて、双方の子どもたちまで巻き込んで・・・でも私には何が起こっているかわからなかった。数ヶ月以内にバタバタ起こったことだったので。
そのうち「あの事件」が起こったのです。父親と一緒に住むようになった女性には高校生の息子がいて、この人とは最初のうちふつうに話をしていたんですが、そのうち私にさわるようになった。
私、あの頃親たちの間柄がどうなっているのかわかっていなかったんですが、何となく自分の父親がその高校生の父親の世話になっている、だから彼はこんなことをするんだし、私は我慢しなければならないんだと思いこんでいたのです。
この前、弟の結婚式の話のときに思い切ってこのことを聞いたら、父は怒ってあいつ(その知人)に借金はない。ずいぶん無理をして借りた金は返した。それどころか、前の店を売るときのことでその不動産屋には儲けさせたはずだといい、その場で電話をとって会いに行く約束を取り付けました。多分、父の言っていることは本当だと思います。でも12歳の私にこんなことを考えさせた父親が憎いです。
こんな変な生活が続いているうちにこの高校生から脅しの電話が入るようになりました。お前の母親がウチの家族をメチャメチャにした。母親の責任は娘の責任、お前がどうにかしろって言うんです。それで俺の部屋に来い、と。
この高校生は自分の父親のやっている不動産屋の事務所があるビルの一室に勉強部屋というのか狭い1DKを与えられていて、私をそこへ呼び出すようになりました。そこには橙色のカーテンがかかっていて、午後、私が行く頃には西日が射しこんでフローリングの床が橙色に光っていました。
最初はトイレでした。学校に電話がかかってきて呼び出され、「来なければどうなるかわかってるんだろうな」って言われて絶対に行かなければならないと思ってしまったのです。
初めての場所で、その小さなビルを見つけるだけで私のエネルギーは切れてしまったんだと思います。ようやく部屋が見つかり、その高校生の顔を見たら何だかホッとして、とたんに尿意を感じました。それでトイレを借りようとしたとき、彼が一緒に入ってきてしまって、自分に見せながら排尿しろと言われました・・・ で、そこが最初です。
それから殆ど毎日のように呼び出されて、塾も辞めさせられて・・・学校へ行くと、こんなことしてる子はわたしだけだなと思って友だちの顔もまともに見られなくなって。そのうち初潮がきました。中学生になる寸前です。私は何も考えないことにしました。
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2006年07月18日
外傷性記憶を解凍する(6/6)
(続き)
(S)同居していたお父さんも知らなかったとすると、お母さんも知らなかったわけですね? お母さんは今お父さんと一緒にいるようだけど、どうなっちゃっているの?
(Q)随分長かったように思っていたのですが、この前先生と話してから良く考えてみると、父と母が別れていたのはたった3年たらずだったようです。離婚はしてなかったらしくて、ウヤムヤのまま、私が中学を出る頃にはそれ以前のように母と弟妹が戻ってきていました。
でもこうしたアレコレについて何の説明もなかったし、子どもたちも私をはじめ何も言いませんでしたから、家ではあの数年は無かったことになってます。何も話されなかったことで私は助かったと思っていました、つい先日まで。あそこまでされたことは、まだ父親にも言ってません。
その高校生は1年後、東京近県の大学に受かったのを機会に私の家族には寄りつかなくなりました。彼なりに危ないと思ったんじゃないでしょうか。私としてはこの機会にあのとき彼がしたことを彼に憶い出させてやろうと思っています。父とその不動産屋とは今でも付き合いがあるようですから、調べればどこにいるかわかるはずです。
こういうの止めた方がいいのですか?
===
(S)記憶の中のあなたを救う仕事ですよね。救いかたはいろいろあると思いますが基本は忘却の霧をはらってあげて、その頃のあなたをあなたの人生の中に織り込むことです。
今、あなたはそれをなさっているのだから、その「仕事を続ける」ことを先にした方が良い。その上で、どうしても憶い出せない細部があったりして気持ちが悪いということであれば、その元高校生と会うのもいいでしょう。
もし復讐で会うというのなら、その悪意であなたも傷つくことは覚悟しなければなりません。言っておきますが、復讐に成功することと体調が改善することとの間には関連がありません。
いま、「仕事を続ける」と言いましたが、ここで記憶を語られたことをそのままにしておかない方がいいのですよ。このことをミーティング(グループ療法)の場で話してみるのです。ミーティングで話すのと、この部屋で話すのとではずいぶん違います。
この部屋では私以外に聞いている人は居ませんが、ミーティングで話すとなればその場にいる沢山の人々の誠意と傾聴を信じなければならない。
緊張します。その緊張があなたの記憶に刻印されます。つまり、ミーティング場でトラウマ記憶を語ったという記憶がこのトラウマ記憶そのものに「上塗り」されるのです。それを繰り返すと、トラウマ記憶が不意に襲ってくる、いわゆる「フラッシュバック」が減ります。何故なら、トラウマ記憶に変化が訪れます。なぜならその記憶が浮かぶたびに、聴衆の皆さんを信じ、思い切って話した「ミーティングの場の記憶」が一緒に出てきて古いトラウマ記憶の生々しさが、近い過去の記憶の生々しさに取って替わられるからです。
やがて、トラウマ記憶はあなたの沢山の記憶の一つに過ぎなくなる。そうなったら、その記憶は「普通の記憶」として記憶の陳列棚のひとつに並ぶでしょう。それなりのタイトルが付けられて、整理されて。あなたは必要なときにその「記憶ファイル」を取り出すことができるが、普段はそのことの影響を受けなくなる。
こうして整理されない記憶がトラウマ記憶と呼んでもいいですね。どこかの棚に乱雑に載せたり、床に投げ捨てたりしている記憶は、ときどきあなたの頭の上に落ちてきて瘤を作ったり、脚をつまずかせて捻挫させたりします。それがフラッシュバックやパニック発作です。
そうしたゴミのように散らかった記憶の断片が室内に漂っている状態があなたの無気力や抑うつを生み出します。
Sのコメント
この後、「A」さんは○○相談室のミーティング(オープン・カウンセリング)の場で自分の外傷体験を何回かに分けて聴衆(クリニックの受診者たち)に話した。その結果について「A」さんは私への手紙の中で次のように述べている。
「先日、先生に向かって『橙色の光』の憶い出を話しているとき、不思議な感じがしました。なぜならこのことを私はいっときも忘れていなかったからです。忘れていないことが何故憶い出せなかったのでしょう。不思議です。
それはともかく、怖いと抑制してきた記憶を先生に話すうちに、あの屈辱の場面の記憶に奥行と幅が出来て、そうなるともっと細かな点での疑問がいろいろ出てきたり気づいたりするようになりました。
それでミーティングでの話が先生に話したものと幾分違ったのです。話しているときには怯えで手がふるえましたが、その場にいて聴いてくれているメンバーの人たちの気配を感じて恐怖が少しやわらぎました。
あそこで話せるようになるまで5年かかりました。この間いくらかは良くなっていたのですが、心の奥の不安と怯えは取れないままでした。「あの事件」は私にとって巨大でグロテスクなかさぶたのようなものでしたが、シェア(ミーティングで体験を話し分かち合うこと)をしたら急速に重量感を失いパラリとはがれ落ちました。胸の痛みが楽になりました。あの一連のシェアで私が得たものは、それまで切り捨てていた過去の自分とのつながりでした。」
最後にひとつ指摘しておきたいことがある。「あの事件」に遭遇する以前に「A」さんは「母の気分に操作される傷ついた子ども」だったことである。彼女のレジリエンス(ストレスを吸収する弾力性)があれほどに脆くなかったら、「あの事件」は起こらなかったかも知れないし、起こったとしても、その後の経過は随分と違ったものになっていただろう。
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斎藤学の講座・ワークショップ
| 講座名 | 日程 | 時間 | 料金 | 対象 | 会場 |
| 斎藤学オープンカウンセリング | 火 | 18:30〜20:30 | 3,000円 5,000円 | 一般 | 東京麻布 |
| 親のための家族相談 | 火 | 18:30〜20:30 | 3,000円 5,000円 | 一般 | 東京麻布 |
※開催日については必ず各講座の詳細ページでご確認下さい
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2006年07月19日
子どもを可愛がれない(1/3)
(Q)何故でしょう? 子ども(2歳女児)が可愛がれないんです。いえ、可愛いと思うときもあるんですよ。でも、ときどきどうして私がママなんだろうなんて考えてしまうんです。
実家の隣に家を建ててもらってるんですが、そこにいるときが本当の私と思ってしまいます。このごろは夫の姓の□□を名乗っていることさえいやで、私は実家の○○ノリコだと思ってしまいます。だんだん夫の□□ヨシオまできらいになりそうです。
(S)姉さんと一緒に摂食障害(ブリミア)で治療に来ていたかたですね? 先週、姉さんがお見えになってましたよ。また拒食に入ったということで痩せて。相変わらず姉妹で同じようなことをしてますね。
===
(Q)姉には悪いことをしているような気がするんです。姉は遠くに嫁いでいるので私みたいにすぐに実家に行くわけにはいかないし。
姉が飼っていたキャンディ(ペット犬)も私のもののようになっているし。今の仕事だって姉に紹介してもらったわけだし・・・
(S)確かに姉さんは割り切れない思いをしているようですね。もともと実家思いの人でしたから。
でも姉さん実家には長くいられないそうですよ。お父さまの顔色が気になるといって。
(Q)それは私もなんです。父は仕事だけの人で家にはあまり居なかったし、いてもいつもイライラしてました。
今は子会社に出てますが、そこも来年には停年で、以前ほど忙しくないんです。でも今でも家ではギャンディを散歩に連れて行くくらいで他のことはしません。(続く…)
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2006年07月20日
子どもを可愛がれない(2/3)
(続き)
(S)あなた自身は姉さんにはわだかまりがないんですね?
(Q)姉をうとましいなんてこと思ったこともありません。小さいときから姉の後をおっかけてましたし、すべて姉の真似でした。
ただ姉のように頭が良くなかったので姉の合格した大学へ進むことははじめから考えていませんでしたが。
病気になったって姉は長いことそれを家族に秘密にしてきましたし、姉が自殺未遂で入院するまで姉こそ私の偶像だったのです。今でもそれは変わりません。
===
(S)確かにお姉さまはしっかりしてらっしゃった。しっかりし過ぎてましたね。
お父さまの会社が労働争議で荒れたとき労組の人々が大勢で自宅へ押し寄せてきた。そのときお父さまはお留守で、呆然としているお母さまを押しのけるようにして会社の人々の前に立ったのは高校生のときのお姉さまだったと聞いています。
毅然と対応する女子高生を見て押しかけてきた人々は大人しく帰ったそうですね。ヒヨヒヨしているようでいて芯が強いんでしょう。しかし強いようで弱い。まとわりついてくる3歳年下の妹を押しのけられず、母親にも甘えきれない。母に甘えられず、反抗もできないのは、多分、お母さまが「不幸」に見えたからです。
お父さまがお仕事ばかりで、しかも気苦労の多い仕事で家庭にエネルギーが割けなかった。お母さまは寂しさに耐えていた。それが不幸に見えたのだと思います。
「不幸な母」は娘を引きつけて母・娘カプセルを作りやすいのですが、お姉さまの場合、いつもくっついている妹もいるのでカプセル化も充分でなかった。
彼女はお母さまを支えることは出来るのに、甘えることが出来ないから病気になったのです。大人になって有名企業に入社してから自分が取り落としてきたものに気づきだした。でも、それを訴えることができずにいるうちに心を病むという抜け道を見つけたのです。しかし引きこもりを続けるほどの図々しさもなかったので、結局妥協して元の「よい子」に戻ってしまった。(続く…)
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2006年07月21日
子どもを可愛がれない(3/3)
(続き)
「○○家の娘」にこだわっているのは、あなただけではありませんよ。むしろお姉さんの方が強くて、まだ婚家先の△△家の嫁とは思っていませんし、自分の姓が△△になってしまったのを悔やんでいらっしゃる。
彼女が子どもを欲しがらないのは自分自身がまだ赤ちゃん返りの野心から自由でないからです。そうこうしているうちに妹が出産して、肝心のお母さまの関心が妹の子の方へ行ってしまった。今、お姉さまがウツっぽくなっているのはこのことと無関係ではないと思います。
(Q)そういうこと私にはわかるんです。でも、だからと言って、実家のことについて姉に譲歩する気にはなれません。
===
(S)そうそう。そういうふうに、あなたたち仲良し姉妹は実は葛藤関係にある。だからあなたもオチオチ□□家の嫁をやってられないんです。
むしろ姉に対抗して実家を死守したいというのがあなたの本音でしょう。それがまた姉の真似っこをしてきたあなたにとっての究極の「真似」ですよ。でもそのままではあなたはいつまでも母親になれない。何とかしなければならない。
(Q)どうすればいいのですか?
(S)だいたいあなた方姉妹は今言ったようなことを言葉に出して語り合ったことがありますか?
そうでしょ。ないでしょ。まず、そこから始めることですね。二人で会ってもどうせこのことは話せないで終わりますから、私が同席した方が良いと思います。
(Q)こんな私でも母でいていいんでしょうか?
(S)人の母性というのは生まれつきプログムラされたものじゃないんですよ。母子の相互作用の中で育ってくるものなんです。
実家や姉さんに対するあなたの執着が薄まるにつれ、子どもの変化が魅力的になりますよ。それが子どもにもわかってあなたにもっと近寄るようになります。それであなたはいっそう子どもに夢中になる、という具合にあなたたちの関係は良くなるに決まっています。(終わり)
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2006年07月25日
DBT(弁証法的行動療法)ワークショップについて(1/3)
7月8〜9日はお台場で過ごした。「DBT(弁証法的行動療法)」(IFF主催)のワークショップのためである。
講師はシアトルから来たキャサリン・コースランド(Kathryn E.Korslund,Ph.D.、ワシントン大学心理学部ファカルティ)さん。20歳までバレリーナ志望だったという若い(と見えた)女性である。マーシャ・リネハン(Linehan,M.M.)その人や、彼女の基地であるB-Tech(行動療法技法研究所)のマニング所長が推薦してきた講師だけあって、たった二日間での困難な講義を明瞭かつ綿密にこなしてくれた。
===
DBTそのものを系統的に説明してもらえたことは勿論あり難かったが、それ以上にBPD(境界性パーソナリティ障害)というものについてのリネハン由来の大胆な仮説設定が面白かった。Otto Kernberg の境界性人格構造から始まって J.G.Gunderson や J.F.Masterson の理論と治療論に触れてからもう30年にはなるだろう。リネハンがもたらしてくれたものは、これらとは別種の理論枠の持つ面白さである。
そもそもリネハンはBPDそのものに関心があってこの仕事を進めた人ではない。元来は社会心理学者で自殺予防について研究しているうちに自殺を繰り返す人々の問題を考えるようになりBPDと出会った。
コースランド講師によると、この問題について超ベテランの精神医学界の権威たちと話したときリネハンはBPDという言葉を知らなかったそうだ。リネハンが一応の説明を終えると聞いていた一人が「それって要するにBPDのことですよね?」と訊いた。リネハンはそれが何かわからないまま、「はい」と答えたそうだ。
要するに彼女はBPDと精神科医に呼ばれているような人の自己破壊行動を止めたかったのだ。しかしそのための方法を系統立てるには問題の質を明確にしなければならない。

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2006年07月26日
DBT(弁証法的行動療法)ワークショップについて(2/3)
(続き)
まずリネハンがやったことはDSM-4のBPD診断基準で9項目に分類されていた諸徴候を5つの関連枠に整理し直してそこに共通する問題を見つけることだった。「激しく揺れ動く対人関係」という徴候からはじまる9項目は結局次の5領域のディスレギュレーショ(調節不全)として再編成された。
その5領域とは1)情緒、2)対人関係、3)自己概念、4)行動、5)認知のことで、言われてみれば確かにBPDとはこれらそれぞれの領域でバランスの取れない人のことだ。
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一番わかりやすい「行動」について言えば、食物を食べ過ぎる(過食)のを止めると食べないこと(拒食)になってしまって、「中庸」(これを middle path と言っていた)がない。「良く生きられない」となると「生きるのを断念する(死ぬ)」ことになってしまうのも極端だ。
どちらか一方の極に貼り付いてしまうということは要するにいつも「正」と「反」との矛盾と緊張の中にいることで、これは別にBPDの人でなくても誰でもそうだと思うが、この緊張に耐えることが極端に弱いのがBPDの人という理屈なのだろう。
この「正」と「反」の宙吊りを解消させるのは難しくて、むしろこれらに悩むことを当たり前として認めさせてやればいい。つまり自分の中には正も反もあるが、それはそれとして別の次元に身を置いてみようということになると、正と反の「統合」ということが見えてくる。それを指向するから「弁証法的 dialectic」ということになるのだが、
これについては講師のコースランドさんが面白い説明をしていた。「上があれば下がある。右があるから左がある。ところで皆さん黒の反対が白だとして、その弁証法的統合って何ですか?」。
暫く時間を置いて応答がないのを確認してからコースランドさんが言った。「灰色じゃないですよ。灰色はグラデーションを伴うとはいえ、それ自体がひとつの『質』になってしまいますから。弁証法的統合というのに近いのは、白と黒のストライプや格子縞だと思います。これだとひとつの表現の中に白も黒もそのまま含まれていて、模様とか柄とかいう次元の違う特徴も備えているわけですから」。
患者としては白い部分があっても黒い部分があってもいい。それがひとつの人格の中で独自の模様を作っていることを納得できるようになればいいわけだ。(続く…)
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2006年07月27日
DBT(弁証法的行動療法)ワークショップについて(3/3)
BPDの人が極端に寄りすぎるのは、過敏だからということもあるのだろうが、それ以上に緊張に耐えられずに表現(行動)してしまう衝動性のためだろう。この点では「我慢してもらう」「耐えてもらう」ということが必要になり、その能力を患者と合意しながら伸ばしてもらう他ない。
精神療法家も精神科医も、患者に「我慢」を要求することを嫌う。あるいは怖れている。DVDでは最初の治療合意のときから自殺企図を初めとする行動化を治療妨害行為として禁じている。これをした後のセッションでは事務的になるし、我慢できたときには優しい応対が帰ってくるといったメリハリをつけることをためらわない。しかし同時に我慢できるようになるためのスキル、不快や不安や孤独に耐えるためのスキルを極めて積極的に教えている。
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こうした感情耐性を増すための訓練には治療担当者とは別な人が当たり、それとは別にグループ療法の担当者もいるので一人の患者は最低3人の治療者に対応されていることになる。
患者は自殺や孤独を初めとする感情危機の際には24時間、365日のいつでも治療担当者に電話をかけてよい。しかし一方では「我慢の訓練」もされているわけだから、深夜のクライシスコールはそれほど頻繁なものではないらしい。かかってきた電話にも5分以上は対応しない。
因みにコースランド先生は午前3時にかかってくる「寂しい人」の電話には、24時間開いているA.A.ミーティングへの出席を勧めるそうだ。ランチのとき、24時間365日開いているA.A.なんてこの街にはない、と言ったら、「え? 東京にないって、それホントですか?」とびっくりしていた。私たちは別の方法を考えなければならないだろう。
DBTについては私自身、これから消化して行かなければいけない部分が多いので、これ以上の説明は避けた方がいいだろう。しかし2日間のワークショップ過程で、「なるほどこれなら効果があるだろうな」と納得できたことは伝えておくべきだろう。
今回の参加者は102名、IFFのスタッフも入れると140名前後の人々と二日間ほぼ一緒に過ごしたことになる。主催者側の立場から言うのも変だが、コンパクトで良く組織された親切なワークショップだったと思う。参加者の質は高く、事務局の話では心理臨床家というより精神科医の割合が高かったようだ。参加者たちは演習や質問に極めて積極的で講師は喜んでいたし感心もしていた。彼らから、内容の濃いプログラムだったと評価されてホッとした。
2日間、お台場は雨もようだったが、コースランドさんはシアトル(彼女はそこにあるワシントン大学のファカルティ)の天候もこんなものですと言っていた。彼女はこの来日に備えて日本語クラスを受講したりして随分準備してきたようだ。美人のお母さんが一緒に来られていて、仕事の後の一日、二人で都内をハトバス観光してから帰りますと言っておられた。
来春にこのワークショップ参加者を主な対象としたアドバンスド・コースの設定が検討されている。その際にはこれを読んでいる人々にも参加して頂きたい。
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斎藤学の講座・ワークショップ
| 講座名 | 日程 | 時間 | 料金 | 対象 | 会場 |
| 斎藤学ワークショップ | 10/07 08 | 14:00〜20:00 10:00〜18:00 | 31,500円 | 一般 | 東京麻布 |
| 斎藤学オープンカウンセリング | 火 | 18:30〜20:30 | 3,000円 5,000円 | 一般 | 東京麻布 |
| 親のための家族相談 | 火 | 18:30〜20:30 | 3,000円 5,000円 | 一般 | 東京麻布 |
※開催日については必ず各講座の詳細ページでご確認下さい
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2006年07月28日
「外傷性記憶を解凍する」を読んで
◇28才 女性
はじめまして。
感想というよりかは自分のことになってしまいますが、ごめんなさい。
私は2年前に辛い出来事が重なって、記憶を無くしました。
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でも、そのことがまわりにうまく伝わらなくて、誰もわかってくれないからそれを当たり前だと思わないといけないのかとだんだん思い始めて、あれから何か自分が自分じゃないみたいなのに、うまくものを感じたり出来ないのに、どうしようも出来なくて、人に相談も出来なくて、心療内科にいってるのに出来なくて、諦めかけてました。
でも、外傷ストレスの解答、を読んで、やっぱり自分を信じたいと思いました。
上手く話せないのでこのくらいしか書けないけど、ありがとうございました。
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2006年07月31日
広島で(1/2)
隔月(今のところ奇数月)に週末1回を広島で過ごすことになった。前回は5月で、このブログでも触れた記憶がある。その時はワークショップだったので、30名前後の人々と一日半を一緒に過ごした。
今回は個別面接と症例検討が土曜日、講演と公開カウンセリングが日曜日と盛りだくさんで疲れたが大勢の広島の人々と出会うことができた。
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個別面接はそれぞれ50分づつ3人。エソール広島の「広島家族機能相談室」で。症例検討は2例で2時間。病院のソシアルワーカーや保健士さん、それに少年鑑別所の人など。総勢15名たらずだったが熱心な方々だ。こんな形で地域の危機介入やセラピー・スーパーヴィジョンが続けられたら素晴らしい。
東京でも、やらなければと思いながらここ10年続けられてこなかったわけだから。
日曜日午前中の講演(2時間)の聴衆は150名ほど。前夜の二つの症例のことが記憶にあったためか、話はいつのまにか「危機介入ということ」と「家族問題の聞きかた(カウンセリングの進めかた)」というテーマに沿って進んで行った。
私の話は大抵の場合、事前に決めていない。講演の前後にあったことを素材に、その場にいる聴衆の要望と思われるものを汲んで進められるので、自分でもどの方向に向かうか事前にはわからない。危険と言えば危険だが、その方がスリリングで面白いのでそうしている。逆に言うと学会などの招待講演でパワーポイントを用意していったときなどは、いつも「つまらなかった」と思うし、呼んでくれた人々に「申し訳なかった」と感じる。(続く…)