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2006年03月09日
対談「サイコセラピーと日本人」(2/3)
(続き)
「世間」と父性
斎藤 どうもありがとうございました。唯幻論から一気にサイコセラピー=ご隠居論まで行くという、いかにも岸田先生らしいお話だったと思います。
人間は本能の壊れた動物で、自我——私はこれを「エゴ」ではなく「セルフ」と呼んでいますが——は幻想にすぎないというお話にはまったく同感です。
世の中に光はない、いや、光に色はないと言ったらいいのでしょうか。光は七色とというけれど、紫外線や赤外線を見ることができないのは人間の神経系がそうなっているからで、物理的な刺激をどう受けとめるかというところに心があるわけですから、これは幻といえば幻で、私が言う赤と別な人が言う赤が同じものであるかは大いにあやしい。世界そのものも、私が見ているように人が見ていると思うのは、それこそ単なる幻想でしょう。
心とは、刺激とヒトとの間で成立する神経の動きを言うのでしょう。つきつめると、人と人との間に生じるものが心だと言ってもいいかもしれない。その点では、これも確かに幻想だと思います。
ただ私は、日本の父というのは存在しすぎていると思っていまして、有害なものとしても存在しすぎているところがあると思っています。
「世間」というテーマに関連してお勧めしたいのは『武士道と世間』(山本博文著、中公新書)という本ですが、これはずいぶん勉強になりました。
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日本には確かにGODはいませんが、しかし「世間」が相当な迫力で人に迫っている。たとえば、佐賀藩のお殿様が死んだというだけで30人くらいが追い腹を切っているのです。これはみんな「世間」が基準になっているわけです。
特に寵臣と言われた人は、家族にも会わないで早駕籠でお城に戻って切腹して果てている。それから、たとえば鷹狩りの時にお殿様から「鷹をよく訓練した」とほめられて二朱銀をもらっただけの人も切腹している。切腹すると遺族が優遇されるかというと、全然それはない。
日本における「世間」は、侍にわずかなご縁を持っただけで切腹させるものなのです。これは相当すごい圧力で、社会恐怖を導いているのは確かだと思います。今もこれは強力に働いていて、ほとんど日本の人は「世間」で動いている。「世間に都合が悪い」からこのぶらぶら状態を何とかしようとか、「世間」様への言い訳で仕事をしている人も多いでしょう。結婚するのも「世間」のためだったりします。
逆にそれに反した生き方をしようとしても、反世間的というのはすでに世間にとらわれているわけです。こういったことも含めると、日本人にとって本当に「世間」は神だと思います。
そして、これは大いに「父」であると、私は思うのです。男親であっても、ステテコはいてビール飲んでいる「枝豆親父」は父とは言いがたい。父というからには世間様を背負って、「それで成り立つか!」と言うような者でなければいけない。
これは女親でもいいのです。父親的な機能を持って子に臨み、「世間が放っておかない」「世間が許さない」と言っているなら、これは父親でしょう。
それから、対人恐怖が日本固有の病気であるという対人恐怖日本特殊論は、徐々に返上しなくてはいけない問題だと私は思っています。
現在のDSM−IV(精神疾患診断マニュアル)になって、Taijin-kyofushoという日本語そのままの項目が立てられたのですが、そこにはカッコ付きで、日本人や韓国人がかかる病気だと書かれています。
東アジア精神医学研究会で韓国、台湾、日本の精神科医が集まった時に、アメリカ人にも人と会うと顔が真っ赤になってしまう人はいるし、それがいやで外出しない人もいるという話が出ました。
フランス人でも顔が真っ赤になるし、対人恐怖的な人はいくらでもいます。イギリスの文化では、ノーブルな人というのは口ごもりぎみがいいとされています。そういう含羞が東西でそれほど変わるとも思えないのですが。
岸田 対人恐怖が今やアメリカでもみられるというのは、私も知っています。神への信仰は衰えたのですが、やはり欧米人も何かの規範がないと生きられないところがあって、規範のためには何かこわいものが必要なわけです。
僕は対人恐怖をもじって対神恐怖という言葉を作りましたが、神への信仰が強かった時代には対神恐怖が規範の元になって彼らの文化を支えていたと思うのですけれども、その神への信仰が薄れた時、かわりに対人恐怖が出てきました。
フロイトの臨床例などを見ますと、対人恐怖は問題になっていませんが、その後のアメリカのいろいろな社会学理論でも、エーリッヒ・フロムなどは市場型パーソナリティ(神ではなく皆に気に入られようとするパーソナリティ)などということを言い出します。
かつてルース・ベネディクトは「日本の文化は恥の文化で、アメリカ・ヨーロッパの文化は罪の文化だ」と明快に区別して、敗戦に打ちひしがれていたわれわれは「なるほど」と思ったのですが、アメリカも罪の文化からshyness、つまり恥の文化に移ってきたのではないかと私も考えています。
斎藤 対人恐怖はむしろナルシシズムの問題としてとらえ直す必要があると思うんですね。それまでナルシシズムの問題は精神療法一般の中で中心課題にはならなかったのが、1980年代終わり頃から90年代にかけて、今おっしゃったshynessの問題が非常に大事な問題となってくる。
そうすると結局、自分というものの価値をどういうふうに持つか、人と比較されてけなされた時の恐怖にどう耐えるかが問題になる。結局、引きこもり問題から、妻を殴る人の問題から、自分の子しか殴れないという児童虐待の問題から全部つながってくるわけで、このナルシシズムの問題こそ現在のサイコセラピーが一番基本的に取り扱わなくてはいけない問題だと思うのです。
そういう意味では、確かに岸田先生のおっしゃるように、森田療法には大家さん的な面もないではないですね。ガミガミ親父というのかしら。「とにかく掃除しろ」「飯炊け」「炊いてるうちに治るよ」と言う。
対人恐怖はどこの国にもあるものです。リサーチもどんどん進んできて、一方に傍若無人な形のナルシシズムがあって——いわゆるわかりやすいナルシシズムですが——もう一方の端に対人関係に過敏で引きこもってしまう人達がいるという1つのスペクトラムを考えた方がいいだろうということになっています。いずれにしても、この問題はこれから大事だと思います。
それからもう1つ、ニーチェの言う「神は死んだ」時代とそれに前後するフロイトなどとの関係は正確に把握しておいた方がいいように思います。
このことを考える時、参考になる本は『ニーチェが泣くとき』(西村書店刊)です。これは小説ですが、著者はコロンビア大学の教授で有名な集団療法の研究をしている精神科医です。
女性にふられたニーチェがノイローゼになってブロイヤーの治療を受けたという話で、フリードリヒ・ニーチェをエッカート・ミューラーという名前にして、その人の診療録を見つけたという設定になっています。実際にブロイヤーがエッカート・ミューラーという人を診た記録は残っているんですよ。それがニーチェだったというまったくの推測の下に書かれたフィクションです。
その本では、治療を終えた主人公が、ブロイヤーに学費を出してもらっている頃のまだ若いフロイトと会い、ローマに移り住んで『ツァラトウストラはこう言った』を書いたというストーリーになっています。「神が死んだ」時とサイコセラピー誕生の時間的な交錯を見るという点で、意味のある本だと思います。
確かに、ヨーロッパ人が神を中心にして個人の生活の安定をはかってきたように、人間は皆何か重石を持っていないとバランスを保っていられないのでしょう。
船に錘がなかったら、水の上を浮遊するだけで一定の方向に進むことはできません。私達の人生も、何かアンカー(錨)があるから飛んでいかなくてすむわけです。綱の切れた風船やもやいの取れた船みたいになったりすると、ただ風のまにま波の間に流されてしまうだけですね。
そういう意味で、神や世間は、洋の東西を問わずどんな人間にも必要で、それが文化によってある程度変わってくるのだろうと思います。
春秋戦国時代の中国の小説を私はよく読んでいるのですが、実に皆さん、倫理的にストイックに生きています。その中心にあるのは主君への忠誠で、六芸を身につけなくてはいけない。御(馬術)、楽(音楽)、書を含めて、士たる者が会得しなければならない技が6つあったのです。その中で一番大事にされていたのは「礼」で、その基本にあるのは人との調和でした。今とあまり変わりませんね。
その六芸を教える教師達が活躍するわけで、その大物の1人が孔子です。孔子が礼を作ったのではなくて、孔子の師事する人がたくさんいて、その集大成として話したものを弟子がまとめたのが「子曰く」で始まる一連のものでしょう。
その人達はいわゆるサイコセラピストです。六芸を修めることで得られる利益は何かというと、世間でうまくやっていく、バランスを知る、そしてわれわれにとっての重石の所在の確認ではなかったかと思うのです。たとえば、職場や家族といった重石ですね。
そういうものを取ってしまって、自己愛の奔流のままに自由に生きなさい、「御」つまりコントロールなしで何でもやりなさいとなると、大変なことになってしまいます。その恐怖におののいているのが、私を含めた現代人ではないかと思っています。
岸田 「世間」が結構厳しいというのはまさにそのとおりですね。旧約聖書などを読むとユダヤ教の神はまさに復讐と処罰の神です。それに比べて「世間」はそれほど厳しくなさそうな印象があるのですが、しかしそうではなくて、厳しさの点では、罪の文化とあまり変わらない
一神教の世界は規範が普遍的ですから、その宗教の信者であるかぎり守るべき規範は、たとえばイスラム教であれば「豚を食べてはいけない」とか一定している。「世間」の方はそれぞれの集団の中でのものであって、日本全国、皆同じ規範を持っているわけではなく、一神教の世界よりは多少融通がきくという違いがあると思います。
2006年03月09日 10:59:[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ]