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2006年03月08日
対談「サイコセラピーと日本人」(1/3)
CSPP主催特別講演会(2003年9月7日 東京・すみだリバーサイドホールにて)
対談「サイコセラピーと日本人」(抄録)岸田 秀・斎藤学
岸田 秀(きしだ しゅう)
和光大学教授。1933年香川県生まれ。早稲田大学文学部心理学科卒業。同大学院修士課程修了。
著書に『ものぐさ精神分析』『幻想を語る』『フロイドを読む』『希望の原理』(青土社)、『母親幻想』(新書館)、『性的唯幻論序説』(文春新書)、など。
神と世間——文化背景にみる差異
斎藤 岸田先生はいわゆる臨床家ではありませんが、フランスのストラスブールでずっと精神分析を中心に勉強されて、日本の社会や日本人について精神分析的な解釈を加えるというお仕事をなさってきた方です。
今日は主に岸田先生が日本人をどういうふうに見ているか、あるいは日本におけるサイコセラピーの可能性などを、サイコセラピストというものから少し距離のある立場でお話しいただいて、それに対して私が話していく形にしたいと思います。
岸田 僕は、日本人や日本の歴史の展開などを精神分析の立場から説明するということをやっておりまして、サイコセラピーは受けたこともやったこともないのですが、精神分析はそもそもフロイトが強迫神経症やヒステリーといった問題のカウンセリングから始めたものですから、全然無関係ではないかもしれません。
サイコセラピーとは、個人が精神的な問題で葛藤したり悩んだりしてサイコセラピストを訪ね、いろいろ相談することだと思っています。
なぜ人間はサイコセラピーを必要とするのか。僕は、人間は本能の壊れた動物であるという前提から出発しています。動物なら本能に従って行動すればいいのですが、人間は本能が壊れているから、どう生きていったらいいか、こういう場面でどうすればいいかが基本的にわかっていない動物であると考えています。
それでは困るので、人間は自我を作りあげて——自我というのは幻想ですけれども——その自我に基づいて行動する。自分は男であるか女であるか、医者であるか学生であるかといった自己規定に従って行動を決定して、一応は生きているということです。
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しかし、その自我は作り物でありまして、決して動物の本能のように安定しているものではなく、往々にして乱れてしまう。そしてまた、絶対にこれが正しいという自我の基準もありません。基準のない自我を基準にして、われわれ人間は毎日生きていかなくてはいけない。基本的に不安定ですから、そこでいろいろな葛藤や悩みが生じて、自分だけでは解決できなくなる。
人間は母親との関係や父親との関係の中で形成された自我を持って社会に出ていわけですが、われわれはその中で自我というものをずっと維持していかなくてはならないのです。
家庭はひとつの制度で、これも人間の本能に基づくものではありません。家庭の形態や機能はそれぞれの文化によって違うわけで、日本の家庭と、たとえば欧米の家庭は基本的に異なっていると考えられます。ごく大まかな違いを言いますと、日本の家庭はだいたい母親が中心になっているのではないか。そして母性愛が非常に強調されているように思えます。
ヨーロッパの家庭では父親が中心で、父親が子どもを社会に送り出すという責任を持っていますが、父親の背後には神という存在があって、子どもに対して大きな権威、力を持っている。父親の権威を支えているのは、キリスト教ならキリスト教の神です。唯一絶対の規範である神を背負って父親は家庭に君臨し、子どもをその規範に合うような人間に育てていくということになっています。
精神分析でエディプス・コンプレックスといって、男の子は母親とセックスをしたいから父親をライバルとみなすという説があります。
僕が初めて精神分析というものを知った時、自分にはそういう心あたりがなかったので、何でこんな変な理論があるのかと思ったのですけれども、あれはヨーロッパ人の話だということに気がつきました。
なぜそういう願望を持つかというと、父親が権威で、母親は父親の女であるととらえられるからです。父親をモデルにしてそれを乗り越えていく——父親と同一視し、かつ父親を超えていくのが個人としての成長のプロセスなのです。
日本人と欧米人とでは、ごく大まかに言って、自我の形成過程にそういう違いがあるというのが私の考えです。
人格障害や多重人格などはすべて自我の乱れと考えられます。日本と欧米では自我の形成過程が違いますから、それが乱れた時の乱れ方も違うし、サイコセラピーのあり方も当然違ってくると思います。
フロイトは19世紀中頃に生まれて、19世紀後半に精神分析という技法を創りましたが、人間は昔から自我というものを持っていたわけですから、自我の乱れも昔からあったのです。
ヨーロッパでは、そういう場合は神父さんのところに行って罪を告白して、許しを得ていた。罪悪感というのは神への罪ですね。神の規範に反した、こういう悪いことをしてしまったということが昔のヨーロッパ人の自我の乱れの表れでした。
日本でそういう役割をしていたのは大家さんとか横丁の隠居だと思います。近所の人望のある人が八っぁんや熊さんの相談に乗って、「世間ではこういうものだから」というふうに答えていたのでしょう。
欧米の場合、サイコセラピストはかつて神父さんや牧師さんが果たしていた役割を引き継いでいるし、日本では横丁のご隠居がやっていた役割を引き継いでいる。引き継いだ元が違いますから、それぞれのやり方も違ってきます。
フロイトの時代の臨床例などを見ますと、厳しすぎる超自我とか、父親に対する恐怖から神経症になったり、罪悪感がいろいろと問題になっている。罪悪感を抑圧して、抑圧された罪悪感がヒステリー症状を起こすということで、罪悪感をどうするかが中心問題になっていますが、これはやはり神への罪ということです。
しかしヨーロッパでも、ニーチェが「神は死んだ」と言って以来、キリストへの信仰心はだんだん衰えていくわけです。それでも、何かの絶対的な規範は存在していて、そういう規範との関係での自我の乱れがあって、それを治すという意味で、欧米ではサイコセラピーはひとつの権威を背負っていると思います。
日本の場合、横丁の隠居や大家さんは権威者ではありません。近代になって、日本ではたとえば森田療法ができましたが、あれも権威を背景にしてはいない。
日本人の自我は神との関係ではなくて、世間との関係で形成されていますが、世間とは、言ってみれば他の多くの人々です。
自我の乱れとはその関係の乱れですから、日本人の神経症が対人恐怖症という形で表れたのは、日本文化という背景があったからです。ヨーロッパでは自分の心の中のいろいろな衝動が規範に反するから、そういう衝動を無意識の中に抑圧するわけですが、日本人の場合はそうではないわけです。
対立、葛藤という尖鋭的な形ではなくて、あの人に変に思われているんじゃないか、笑われているのじゃないか、変なにおいを出しているのじゃないかという、他の人々への恐れが日本人の神経症の主な症状でした。森田療法は「人がこわいならこわくてもいいじゃないか」「赤面したっていいんだ」というようなことを言うわけですが、まさに横丁のご隠居さんの助言の系統にあると思います。
しかし、欧米で神との関係が危うくなったのと同じように、日本の「世間」も昔と違ってあまり重視されなくなってきました。結局、現代人の自我は宙ぶらりんになって、欧米でも日本でも皆、自我をどうすればいいのか、どうやるのが正しいのか、どう生きていけばいいのかということが本当にわからなくなってきています。
現代人は、昔の人達よりもはるかに乱れがひどくなり、乱れの形にもいろいろなものが出てきて、まさに混乱の時代になっています。
サイコセラピーはこれから非常に大きな重要性を持つと同時に、いろいろ検討していかなくてはならない問題を抱えているのではないかと思うわけです。
2006年03月08日 11:00:[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ]