2005年12月の一覧

« 2005年11月 | ブログメイン | 2006年01月 »

2005年12月01日

病気、摂食障害、一人旅

相談者からの質問

image051201_1.jpg 今26歳です。今日は自分の「一人旅アディクション」についてシェアリングができたらと思って、ここにきました。

 私の一人旅アディクションのきっかけは、一昨年の10月15日の火曜日に、ある事件がありまして、そのときに私はキレて、なぜか「香港に行ってやる」と思ったんです。何で香港なのかはよくわからないんですけど。私はそのとき、デイケアに通っていて、親のすねをかじる暮らしをして、旅行なんかできるはずもないと思っていました。
 それで私は、新聞屋にただでもらった遊園地のチケットと、ただの美術館のチケットを使って、それで香港に行った気になったんです。でも、結局その傷は深くなっていくし、怒りも寂しさも雪だるま状にふくらんでいました。
 ちょうどそのときに、母が私の名義でへそくりをためていたのが、満期になったという通知が私の住んでいるところに転送されてきたんです。私は母が私のために密かにためてくれていたのだと思って「お母さんありがとう」というつもりで電話したんですが、「それはあなたのモノじゃないわ、返して」といきなり言われまして、そこで言い合いになりました。結局、私の名義だということで、私がいただいたんですけど。いまだに「親虐待だ」といってその辺では恨まれているみたいです。(笑)

 そこでお金も入ったことですし、どこに行こうかなと思ったときに、オーストラリアが浮かびました。そのとき映画「シャイン」が評判になっていました。あの映画は父と子の話ですけれど、母と私の関係にとても重なる部分があるんです。シャインのヘルフゴットさんとはレベルは違うけれども、私もピアノをやっていて、母は私がピアノをうまくなることを、表では期待しているけれど、発表会で私が友達やいとこから花束をもらったり、母方の祖母が私のピアノに誇りを持っていたみたいなので、そういうことにすごく嫉妬しているように感じていました。そういうわけでシャインに惹かれ、その舞台であるオーストラリアにいくことにしたんです。

===
image051201_3.jpg
 手続きも自分でしていたのですが、私には「体が病気を作る」という嗜癖があるんですけれど、前から煩っていた「網膜剥離」をちょうどそのころ起こしました。
 私は4年前に目を痛めていました。そのときは右の網膜剥離を作って、左目を飛蚊症にして、そのまま手術をして失明はしなかったのですが、左は蚊が飛んでる状態で、右目だけでモノを見ると、微妙にモノがゆがんで見えるという状態になっていました。
 左目だけでがんばっていたので左だけは網膜剥離にしたくないと思っていたのに、自分で自分の内側から網膜をはがすということをやって、外から自分の体にメスを入れるという選択をわざわざ自分でするわけです。これはリストカットみたいなあからさまな自傷行為ではないけれど、本当にクレージーな自傷行為だと思います。
 そういう自分につくづく嫌気がさしながらも、3月3日からいくつもりだった旅行は、「失明するかもしれませんよ」といわれたので、やめまして、3月14日に入院して3月中に退院しました。

 でも退院してからシドニーにはいきました。父には入院するときから「シドニーになんか行こうとするから網膜剥離になるんだ」とか言われたんですけれど、とにかくいってしまえたらこっちのものだと。

 そこでいってよかったと思ったのは、シドニーの4月はちょうど秋で、空港からユーカリの並木の紅葉が見られたことに感激しました。一昨年の紅葉シーズンは病気を作ってしまって入院中で見られませんでしたし、その次の年は精神状態がぼろぼろで紅葉なんか目に入らなかったので、私はやっと1年半おくれで紅葉がみられたと思って、この旅行は、お医者さんからも反対されていたし、親のへそくりを奪って行った旅行ですけど、「この景色は自分で勝ち取ったものだ」と思って感動しました。

image051201_4.jpg
 そうやって充電して、五月には患者さんたちが作っている「東京腎臓病患者連絡協議会」というところで、日頃自虐的なことをしている反省と勉強のためにボランティアをさせていただいていたのですが、けっきょくそういう甲斐もなく、というか、自分で腎炎を進行させるという選択をしてしまいました。
 3年前から「将来2,3割の確率で人工透析をする」という状態になっていました。2年前から病院で続けていたステロイド治療が、4回目の腎生検の結果で区切りがつくはずということで入院したんですけれど、生検の結果が悪かった。なんだか、自分で腎炎を悪化させているという自覚があったんです。自分の左手で、自分の体内からつかみだした腎臓を握りつぶしているというイメージが頭にずっとあって、その握りつぶした腎臓から血が出ている。

 私は以前から「今回の腎生検の結果が悪かったら死にたい」っていってたんですけれど、それは、嘘ではないけれども正確ではないです。私の場合、元々は健康に恵まれた子どもだったのに、3歳くらいの時から自分でそういう病気を作ってきたので、そんな自虐的なことをしている自分に嫌気がさすから、だから死にたいと思うんです。死にたいというか、誰かに殺してほしかったんですね。こんな私は処刑してほしいというか。罰して殺してほしいと思ってたんです。
 でも誰かに殺してなんて頼んでもその人が殺人犯になってしまうから自分で死ぬしかないと思いました。自殺のバリエーションとか考えていたんです。屋上にはネットが張ってあったので非常用の螺旋階段から飛び降りればいいかなとか思ったり。点滴の液を飲んじゃうとか。

 でも私は入院して赤ちゃん帰りをすることで生き延びてきた人間ですから、入院したらちょっとは頭がまともになりまして、自殺しないで生き延びるにはどうすればいいかとかんがえました。その答えが、旅行に依存するということなんです。
 みんなと一緒に行くとか、ツアーに参加するとかはいやで、そういうのはよけい寂しくなってしまう。

 私は地方の講演会に、旅行をかねて行くということもいやしになっていたりしました。去年も西尾先生のワークショップに参加しようと、博多に行きました。博多は私の生まれた病院のあるところで、私の入院依存症のルーツを探りたいと思って訪ねました。
 そのときわかったのは、「私みたいに健康な女の子はうちの家族には存在してはいけなかったんだな」ということなんです。そういうことを思いながら、自分の生まれたての写真をイメージしたら、その赤ちゃんが顔をこわばらせて手足をばたつかせておびえている動きをとっていました。やっぱりこの赤ちゃんは病院から出たくなかったんだなと思って、だから私は入院を求めてるんだなと見えてきました。

 博多を観光していたときに、アジアや南洋、沖縄を身近に感じました。「沖縄が私を呼んでいる」と勝手におもって、沖縄に行くことに決めました。生検の結果は悪かったのですが、大量のステロイドをのみながら退院はできて、旅行に行くことができました。

image051201_2.jpg 私の叔母で、やはり入院依存症の人がいます。彼女は週に1日病院の外来に行くことでしか外出できない人になっているのですが、彼女に比べれば私は、まわりから「病気のくせに」とか「親の金つかって」とかいわれながらも、旅行するという選択肢があることはありがたいなと思っています。

 沖縄に行ったときにやってみたいことの一つは、豚の腎臓料理を食べることでした。以前、「自分の病んでいる臓器の料理を食べると病気がよくなる」ときいたこともあり、沖縄で豚の腎臓の料理を食べたいなと思ったのです。沖縄の人は、豚は「鳴き声以外は何でも食べる」みたいにガイドブックに書いてあったのに、探し回っても腎臓料理を食べさせてくれる店はみつかりませんでした。
 それで沖縄の市場で豚の腎臓と豚の顔の皮の薫製と沖縄にんじんをかって、実家で本を見ながら料理をしました。それはすごく私にとっては画期的なことでした。

 私はずっと病院の食事やケアに依存していたのに、一昨年の1月7日にイフハウスに入ったときから、そのときから自分で毎日1800キロカロリー、タンパク質40グラム以下、塩分何グラム以下という食事療法をこなさなくてはいけなくなって、それはばりばりの過食をしていた私には拷問に近いようでした。
 自分で食べ物を保存するのは摂食障害者には怖いことです。作っても余るともったいないからたべちゃう。そうなると腎炎に負担をかけてしまう、透析に一歩ずつ近づいてしまう。それでカロリーメイトとかコーンフレークとかバランスアップとかしか食べられなくなってしまい、すっかり料理恐怖症になっていたんです。でもこれを機会に豚の腎臓料理を作ってみて、臓物料理が嫌いな母も気に入って食べてくれましたし、私自身がうれしかったです。

 そういう感じの現在です。

斎藤学からの回答

 しばらくあなたとはお会いできませんでしたが、本当にいろいろ旅行できてよかったね。
 腎臓病になったのは不運だけど、それを「自分が自分の体をこわしてるんだ」と思うのは病気以上につらいでしょうね。「内部から自分を壊していくんだ、そしてその結果外部からメスを入れられるんだ」という発想は、とてもさびしいな。腎臓病だけでも大変な問題なのに。

 私は、若年性腎臓病でダイエットを強いられていて過食になった子をずいぶん見てますので、あの人たちの苦労はわかる。腎臓疾患はたいへんですけれど、時々失敗しながらでもなんとか生き残る。そのうえで、「与えられた命が欲してることをする」ってのは、いちばん、その人にとって「自分に優しくすること」です。
 親のへそくり、そんなものはもらっときなさい。「一人旅のアディクション」というけど、私があなたの立場だったら、やっぱりそうするんじゃないかな。だって紅葉見るにしても「それが最後になるかもしれない」って感じでしょ。そうすると、世界を慈しむみたいな感じであらゆるものに目に移すんでしょうね。
 健康なつもりの我々だって明日いなくなっちゃうかもしれないんですけれど、そういうことは何も考えないで生きてますよね、だから、見るものはちゃんと見えてないし、聞こえるものもちゃんと聞こえていないですごしています。けれどあなたは、私たちが見落とし聞き漏らすようなものが鮮明に目にはいる。それが、あなたに与えられている恩恵ですね。

 アディクションというのは有害なものをいうのであって、私はあなたの一人旅をを有害なモノだとは思いません。
 あなたの腎臓を診ているお医者さんから言えば「なにをやっているんだ!」というところかもしれませんが、いいんじゃないかな。人間、それほど命ながらえるだけのためにはに生きられないですよ。

 私がしっているあなたは、「すごくがんばって人に尽くす」みたいな感じの人でしたけど、ずいぶん変わったのね。勉強ばかりやって、一生懸命、一生懸命生きていたけれど。あなたの変化はいいことだと思います。
 今住んでいらっしゃる東京の町も、その目で見ればいろいろ新しい世界が見えるかもしれませんので、いろいろ歩いたらいいですよ。

※この原稿は「斎藤学オープンカウンセリング」(火曜日18時30分〜20時30分、東京麻布、予約不要)での相談者と斎藤学のやりとりをもとに作成されました。
※斎藤学へのご質問、ご感想を受け付けています。[こちら]にご記入の上、送信して下さい。質問については斎藤学が可能な範囲で記事中でご回答いたします。

斎藤学の講座・ワークショップ

講座名日程時間料金対象会場
斎藤学オープンカウンセリング18:30〜20:303,000円、5,000円一般東京麻布
親のための家族相談18:30〜20:303,000円、5,000円一般東京麻布
斎藤学による木曜ミーティング12:00〜3,000円、5,000円一般東京麻布
危機介入の技法18:00〜20:005,250円、7,350円専門東京麻布

※開催日については必ず各講座の詳細ページでご確認下さい

  

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月02日

共依存と仕事との境界がわかりません(質問)

読者からの質問

◇28才女性
2004年の1月からフロイトラインで電話相談をしてきました。ACです。
 いろいろなことがあったものの、自分なりに試行錯誤しながら今では「とりあえず」大きな山を乗り越えたと感じています。分かり合える努力ができる、と感じられる恋人もでき、電話相談を一度打ち切ろうと決めました。時間を作り、地元でのセルフヘルプグループに顔を出せればと考えています。

image051202.jpg そうした流れの中で気がついたのが、自分の依存症、ワーカーホリックで浪費家(時間や金)であるということです。
 仕事柄、共依存と仕事との境界がどこにあるのかわかりません。家庭的に恵まれない生徒、問題を抱えた生徒とかかわるとき、何と言うか血がうずくような感じがします。そうして、周囲(とくに家庭)に対して「本当はこうあるべきなのに」ということを強く考えてしまいます。
 実際には家庭に踏み込みませんが、「このままでいいのか?」と自分の中で踏ん切りがつかず、いつでも問題をかかえた生徒のことが頭の中でいっぱいになります。そして、生徒理解のためと考え、(それが名目であろうと自分でも気がついているのですが)つい書籍を買あさってしまいます。部屋は散乱しているのに本棚にはそのような仕事に関する資料が詰まっています。

===
 恋人との関係では極度な依存関係ではないと思っています。
 父はまるでアル中でのようでした。食道がんで死にました。母は看護婦でしたががんで死にました。今思うと「共依存とはこのような関係のことなのだろう」と思います。2人の死に際やその際の出来事は今でもはっきりと思い出せますが、現実味はありません。法事には行きますし実家に行けば仏壇に手を合わせますが、お盆やお彼岸には実家に寄り付きたくありませんしお墓参りもしていません。

 話が広がりましたが父母の関係では、共依存で両方とも嗜癖があったと感じます。父はアルコール、ニコチン、それとギャンブル(生活に支障の無い程度)母はワーカーホリック。それと同居の家族である祖母とおばもまた共依存関係の母娘であると思います(現在も)。
 めどはつきそうなのですが、弟が知的に低いほうで、社会に出てからさまざまなトラブルに巻き込まれるので、その原因を考え、改善方法を探る、親代わりになって手助けする、という作業を姉と協力して取り組んでいます。それは姉が母的、私が父的な役割を果たしていたといえるかもしれません。

 そのような環境で育ったせいか、健全な他者との関係のとり方がよくわからないのかもしれません。困っている人を助ける・・・どこまで手助けするのか?仕事をきちんとやる・・・どこまでがきちんとか?自分を大切にする・・・そんな時間は無いのではないか?などなど、自分で線引きをすることができないのかもしれません。どうしたらいいのか不安があります。(身近なモデルが消えてしまったので当然といえば当然なのかもしれませんが)。
 友人に話してもなかなかうまく伝わらないので、これからの人生で何を頼っていけばいいのか心配です。ついインターネットや仕事などにのめりこんでしまい、時間がすぎていきます。自分の人生なのに楽しめません。いつも何かに支配というかコントロールされているような気がします。

 どのようにすれば、自分らしく生きられるのでしょうか。また、生徒のことで頭がいっぱいにならずに済むのでしょうか。やはり仕事をやめるしかないでしょうか。健全な精神状態を保つ秘訣がありましたら教えてください。

斎藤学からの回答

 生徒のことで頭を悩ますのは疲れるでしょうが、充実していませんか。もしそうであるのなら、それを捨てるのは勿体ない。
 あらゆる習慣は、有害な時にだけ「依存症」と呼ばれるのです。共依存“症”など気にされずに生徒の家庭の問題を考えて下さい。それをするために読む本はあなたの身につくでしょう。お仕事を辞めても良いことはないと思います。
斎藤学

 

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月05日

摂食障害─どん底じゃないけど苦しい

相談者からの質問

 私は摂食障害を抱えています。

 子どもの頃、父がアルコール依存で、家の中はケンカが絶えませんでした。兄弟は3人なのですが、なぜか私だけが、「このうちを守らなきゃ」なんて気負ってしまって、始終不安を抱えていたり、小学生の時は夜通し隠れて泣いたりしていました。
 中学に入ってからも、人中にはいると「おならしちゃいけない」と緊張してしまったり、合唱コンクールの時など「後一曲終わるまで倒れちゃいけない」って思いながら、目の前がすーっと白くなって、必死にこらえる、といったようなことばかりでした。

image051205_1.jpg そして、大学に進学して親元を離れてから、摂食障害になりました。やせているときと太っているときの落差が40キロくらいありました。やせているときは男の子とつきあって太っているときは人目を避けるという暮らしです。
 太っているときは外に出たくないのですが、それでも学校をさぼるなんてことは思いもつかなくて、隠れて人に会わないようにしながら通っていました。就職活動もがんばってしまい、うまく決まったのですが、出社の日までにこの病気を治したいと思って病院に通ったりしていましたが、どうにもなりませんでした。
 だんだん苦しくなって「就職するのがいやだ!」ということを、初めて親にも言いました。それから、カウンセリングなどに通って、しばらく治療だけに専念する日々を過ごそうかと思ったのですが、どういうわけかまたがんばってしまって、ホステスの仕事なんか始めてしまい、そうかと思うとまた、疲れ切って仕事を辞め、治療に専念し、というだらだらした暮らしをしてとうとう9年くらいたってしまいました。
 ここ数年は、治療に通いながらフルタイムではない事務職のアルバイトをしています。

===
image051205_2.jpg 毎日は淡々とすぎてゆくのですが、摂食障害の症状はいまだにあるのです。それで、こんなことしてるんだったら外へ出ようと思って、むりやり外に出たり、人にあったり、今のアルバイトを始めたのもそういうわけなのですが、どうも、何か強迫的な気持ちだけで動いていて、少しも生き生きした気持ちになれません。
 人と会っても自分だけ一歩引いてるような気がして。このままでいようと思えばいられるのかもしれませんし、どん底の苦しさというわけではないのですが、このままでは幸せではありません。最近では家に帰って寝るまで過食にはまり、休日は12時間くらいそうして過ごしています。

斎藤学からの回答

image051014_3.jpg わかりますよ。あなたのお話。あなたは一時のひどいときに比べたら、今は危険でない仕事をして、週に2日カウンセリングに通うといういいペースの暮らしにたどり着きました。ですから残ってる時間、何に使ったっていいわけで、過食と言うけど、おじさんが晩酌するようなものだと思えばいい。でも、あなたは少しも幸せじゃないという。面白くないんですね。

 あなたは確か、すごくモテモテでしたよね、ボーイフレンドとのつきあいはどうなっているんですか。
 ・・・ダメになっちゃった? 相手から電話がかかってこなくなったとか? そうじゃないでしょう。またあなたの方から「やめよう」って言いだしたんでしょう。

 あなたの一番の問題は、ぜんぜん自己評価の高まりってものが見られないことです。あなたが毎週会っているカウンセラーは、あなたのことほめてくれますか? 
 あなたに今一番必要なのは、自分がいい子だって信じること。自分が人に好かれる人だって信じることじゃないでしょうか。
 あなたは子どもの頃から、いろいろつらかったですよね。じぶんのこと、うちの番人だって、責任感負っちゃって。高校まではずっと一番できて、私にくださるお手紙の字もきれいだし、職場でもきっと重宝されているでしょう。そういう意味ではあなたはすごく、いい子です。こういういい子の部分を壊すんじゃなくて、自分のこと「いい子だ」って言ってあげられる自分になる。

 あなたは小学校時代からすごくモテモテだったのに、なぜか「自分を好きになる人はみんなバカだ」と思ってしまう。バカだから自分なんかを好きになるんだ、私のこと知らないくらいバカだからだって。これがあなたの最大の欠点です。これほどひどい自己評価の低さってありません。
 私が思うに、あなたは今もこの感覚が続いているんだと思います。自分を愛したり保護しようとする人が出てくると、「そんなヤツはバカなんだ、だまされてるんだ」って。こういう自分に対する変な厳しさみたいなものを剥いでいかないと、生き生きした心なんて出てきません。

image051205_3.jpg 私流の言葉で言えば、インナーマザーに完全に支配されて批判の声がいつもあなたを追っているような状態ですね。それで、過食しているときだけは多少、「食べるんじゃないよっ」っていうインナーマザーの命令に逆らっているわけだから自主性を取り戻している瞬間なわけです。ですがこの行為自体が自己破壊的なものですから、過食して嘔吐が済むと、「ああ、またこんなことをして一日が終わってしまった」なんて感じになって、インナーマザーが「このバカ娘がっ!」ってしかりつける。そんな繰り返しなんです。

 あなたの今までの男性関係は、「どっちが偉いか」って話になっていた。惚れた方は弱みを握られているわけですから、そういう男を見るとすぐに首に縄付けて引っ張り回そうっていう野心が出てきてしまう。奴隷になって自分に尽くす人を捜すか、自分が奴隷になるか、神様か奴隷かっていう関係しかとれなかったから、男の人との関係を維持するのが苦しくなってしまうんですよ。

 これから当面、男の人と出会ってどういうおつきあいしたか、ここでしゃべる練習してご覧なさい。私が採点してあげましょう。そのうち「これはインティメイト(親密)な関係になりそうだ」っていうのが出てくるでしょう。親密性というのは、上下関係なし、フェミニストがいう「平場の関係」ですね。でも「平場の関係」、対等な関係というのは難しいもので、たいていは「惚れた弱み」というかんじになります。でもそうした中でも「ああ、この人とは平等だな」っていう感じがしたら、それはとてもいい関係です。こういう関係を長く続けていくようにしたらいい。

 ようするにアディクションの治療とは、最終的には人間関係の治療なのです。あなたは少し、人とおつきあいなさるのがいい。人間関係そのものを使った治療に入るわけです。
 あなたは本当のことを言えば、もう治っています。あなたに過食は必要ありません。ただ「過食している悪い私」という重しを自分に乗せていないと、自分で何をしていいかわからなくなってしまうんです。でもこんなことを続けていると、インナーマザーに餌をやるようなものです。「処罰の対象」をわざわざ作って差し出して。
 地道なOLをすることが目標じゃありません。生き生きした心になることが目標です。

 今のあなたが誰かを好きになるなんて、そりゃ無理でしょう。最初は無理です。でも好きにならせることはできるから、まずそこからやりましょう。薄い関係がたくさんできるのでもいい、その中からだんだん「特定の誰か」が生まれてきて、そして「私は人を愛せるようになったなあ」という感じが出てきます。できますよ。長い間あなたにとりついていた問題から、あなたはそのとき解放されます。

※この原稿は「斎藤学オープンカウンセリング」(火曜日18時30分〜20時30分、東京麻布、予約不要)での相談者と斎藤学のやりとりをもとに作成されました。
※斎藤学へのご質問、ご感想を受け付けています。[こちら]にご記入の上、送信して下さい。質問については斎藤学が可能な範囲で記事中でご回答いたします。

斎藤学の講座・ワークショップ

講座名日程時間料金対象会場
斎藤学オープンカウンセリング18:30〜20:303,000円、5,000円一般東京麻布
親のための家族相談18:30〜20:303,000円、5,000円一般東京麻布
斎藤学による木曜ミーティング12:00〜3,000円、5,000円一般東京麻布
危機介入の技法18:00〜20:005,250円、7,350円専門東京麻布

※開催日については必ず各講座の詳細ページでご確認下さい
 

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月06日

人と接するのが苦手です(質問)

読者からの感想

◇28才女性

 いろいろ小さな問題があって整理しきれないのですが、対人関係に付いて質問させていただきます。

image051206.jpg 私は状況判断とか観察力とかが劣っているみたいで、会社の人と話している時などに、どのタイミングで笑うべきかとか、「あの人は○○な人だ」と言った会話について行くのが大変です。
 小泉八雲が書いてたのですが、日本人は悲しい話でも笑って話すので、私もつられて笑顔を作りそうになってしまいます。他人の区別が全然つかないので、うわさ話を覚えて各人のイメージを覚えるようにしています。顔も覚えにくいので席順で覚えたり、ノートに特徴を書いたり。(見た目の区別も苦手みたいです)
 人に話しかけるのが苦手で、仕事上の質問や確認をしに行くだけでも、脳内で会話をシミュレートして、あり得る返答を考えてからでないと出来ません。仕事は真面目なので良く褒められるのですが、褒められた時のスマートな対応をまず考えて悩んでしまうので苦痛です。家に帰ってからも、あの返事で良かったのかと考えて悲しくなります。
 人の目を見て話すことが出来ないので、いつもうつむいていて、おとなしそうな印象を与えてしまいます。実際もおとなしいけど、面白いことを言って笑わせるのが大好きなので「意外だねえ」と良く言われます。

 怒られたり否定的なことを言われるのがすごく恐ろしくて、ちょっとでも仕事でミスをすると血の気が引いて仕事にならなくなってしまいます。会社のトイレで手首を切って落ち着くために道具を持ち歩いています。夫に話すと、みんな同じだから気にするなと言います。
 自分は異常だからうまくいかなくても仕方がないという免罪符?が欲しいだけなのかもしれません。(退路は常に確保しないと!)

斎藤学からの回答

 まず、「完璧な対応」をしなければひどいことになるという妄想を捨てましょう。
 斎藤学
 

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月07日

一番の悩みは仕事(感想)

読者からの感想

◇39才男性

39才の男性です。斎藤先生のオープンカウンセリングには聴衆として仕事の都合のつくときに時々参加させていただいているのとブログは楽しみに拝見させていただいています。

 私の一番の悩みは仕事についてです。業務はそれほど難しいことをやっているわけでもなく不規則ではありますが「リラックス」ができればもう少し気楽に取り組めると思うのですが、狭い職場で私から見ると3人の上司に狭い部署で挟まれて、(私の最も苦手なタイプです。)時折大変な緊張で身体の具合も悪くしたり、抑うつ状態に悩まされたりしています。職場の他の人には普通に聞けるようなことも、上司から何か指示をだされて、「おかしいな」と感じても怖くて聞けずにいることが多々あります。

 現在の部署は移って4年になりますが、自分が全く進歩していないようにおもうことも有ります。仕事以外の生活は妻と子ども二人に恵まれて、地域での人間関係も良好なほうだとおもっているのですが、ツインカムで仕事をしており、時間的にも余裕はなく互いに仕事のことはあまり話しません。(私の仕事の悩みを聞くのは妻から「私も動揺してしまう」と言われてからやめました。)

 巷ではよく「自分の欲望の所在をしる」とか先生の著書の中でも拝見し、「まったくその通りだ」と思うのですが、私は特にそういうものが希薄なのか「平和に暮らしたい、妻と子どもと楽しく暮らしたい」ということしか浮かびません。そういう時もありますが、仕事の重圧があまりに重いと仕事以外の生活も無気力になってしまう時があります。

 何が聞いてみたいのか、よく分からなくなってしまいましたが、こうして自分が何に悩んでいて、どれが優先順位なのかまず自分が知ることが「解決」というか、次のステップに進むことにもつながるかもしれません。

 ありがとうございました。

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月08日

自分を罵倒する、もうひとりの自分(質問)

読者からの質問

◇37才女性

image051208_1.jpg こんばんわ。いつもお世話になっています。
 自分のなかに自分を罵倒する、もうひとりの自分がいます。
 思春期のころ精神科につながったときは、どう表現したらいいかわからなくて「みんなが私を悪く言う」とドクターに言っていました。しかし本当は、言っているのは他人ではないことは当時からなんとなくわかっていました。

 両親(特に母親)には、育て方が悪かったと責めるよりも、私のような欠陥人間をなぜ生んだと責めたほうが多かったです。
 過去の自分も現在の自分も非難の対象になってしまい、とても生きづらいです。先生は信じられないかもしれませんが、バイトや家事をしていたりするときでさえ「この偽善者!」というな罵りの声が聞こえてきます。
 悩みとかを治療者に打ち明けたくても、「どうせおまえの言っていることなんかくだらないことだ」と言われてしまいます。
 「お前はダメな人間だ」という声がすごくて、性的逸脱行為やアディクションなどで自分のダメさを証拠付けようとしましたが、一方で罪悪感もひどくなっていくばかりでした。

===
 以前は、
「私は顔もスタイルも性格も、そして戸籍も過去も変えるしか生き延びる方法はない。」
「両親を殺して、私も死ぬしか解決はない」
 と年がら年中いっていました。

 小さい頃から問題児扱いだったのが原因なのかな?ともちらっと思います。
 自分と自分がずっと争っているのに、もう本当に疲れました。
 こんな私でも、自分自身との和解はできるのでしょうか?

斎藤学からの回答

 何かに気づいてハッとなる(「自分と和解する」)ということはないと思いますよ。結局トレーニングということになるでしょう。小さなことを達成して、自分を褒めてあげるという練習です。
 あなた、買い物が少なくなっているじゃないですか。「我慢」についてのトレーニングが功を奏してきたからでしょう?
 今度の挑戦は「体重」というのはどうですか?月に500gくらいのペースで減量できますよ。できないことにしているのは「あなたにいじわるする方のあなた」です。その人はあなたに脂肪をくっつけて肥らせて、あなたの自己評価を下げようとしているのです。
 彼女に挑戦するために、まず全身を鏡で見ましょう。そして「今この私が美しい」と思ってみてください。ピンと来ないのであれば減量しましょう。
斎藤学

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月09日

母に暴力を振るってしまう

相談者からの質問

image051209_1.jpg 私は、過食ととじこもりと家庭内暴力がひどくて、1日中部屋に閉じこもって、1,2週間お風呂に入らず、ずっと抑鬱で何もする気になれなくて、それが爆発すると、母親に暴力、暴言を投げつけます。「バカ女っ」とか、もう自分でもおぼえていないようなむちゃくちゃなことをいって、蹴ったりぶったりするんです。この間は怪我をさせました。それで、今度やったら、母はもう別れて暮らしたいといっています。

 もう、こんな生活はいやです。早く抜け出したい。母と離れた方がいいとも言われるのですが、私は離れたくなくて。どうして母にしがみついて、暴力を振るってしまうのかは自分でもわかりません。

斎藤学からの回答

 うちでずっと寝っぱなしになってしまうことと、お母さんに甘えたい気持ちが強まって、強まると同時になじったり蹴ったりしてしまう。
 ちょっと私いま、頭があんまりよく動いてませんから、こういうときは原則に戻るのがいいね。
 原則というのは、過食症者はどうしてこう、母いびりになるかという話ですね。この話は、逆からひっくり返した方がいいです。

 過食症というのは、「ママ〜」という病気なんです。食べたり吐いたりしてるものは、母なんです。母を食べちゃ、間違ったものを食べたことが悔しくて吐き出すんです。そしてあれは、ジャンクフードじゃなくちゃいけないんです。母のあったかい愛情のこもったお袋の味は食べられないんです。ジャンクフードなら食べて捨てられます。
 食べて吐き出すものをバカにしてるんだよね。バカにするような食事しかとらないというのが過食症者の基本的なスタンスで、それが、人間関係にも現れます。自分が喜んで捨てられるようなものしか人間関係として作れない。人間関係は食物のようにトイレに捨てられませんから、代わりに引きこもっている。その証拠に、彼女たちが異性関係に入っていくと、ほとんど使い捨てになります。つまり、セックス乱用みたいな感じになったり、次から次へと相手を傷つけてそのつど自分も傷つきますからぼろぼろ状態になる。それが過食症の本質です。人間関係上の障害です。

===
image051014_3.jpg 母って何でしょうか。どうして思春期の娘がそういうことをするんでしょうか。元来思春期の娘は、家ばなれの強い衝動があるんです。あなたにもそれがあるはずです。ところが過食症の子は、家離れの衝動が起こったとき、大急ぎでこれをうち消して、「ママ〜」といってこびりつくんです。母娘密着が起こります。これを胎児化といいます。

 家というのは子宮を具現化したもの、子宮を大きくしたものといっていいでしょう。お母さんのおなかにこもるということと、家にとどまるということは同じです。胎児化を起こしてるわけね。そういう人に向かって、「がんばれよ、おまえの年齢相応にしっかりやれよ」といったって、もうやりたくないし、そういう能力を示すことに疲れちゃってるんですから無駄ですね。もっと無能になって、もっと赤ちゃん帰りして、感情も爆発させて家にいようとするわけ。

 どうしてでしょう。自分が健康になったらおうちを離れなくちゃいけないから。家を離れないでお母さんのおなかにいたいんです。でも、もう無理だと思うんです、あなたがまた、あの中にはいるのは。
 なぜそういう一種の「家離れの挫折」が起こるのか。一つ理由があって、彼らの本音は、自信がない。疑惑があるわけです、自分に対して。こんな私を誰かが受け入れてくれるのかしら。と。みんな、本当の私のことをしったらバカにするんじゃないかしら、と。それで外へ出ていくことができない。

 でもこの「自信がない」っていう気持ちの本性を知ったら驚きますよ。私は女の子たちの頭の中にある「私はだめだ」というセリフの背後の本音を、知ってるんです。ふだん皆さんから数々聞いてますからね。たとえば、「ベッドインのときにまずいからもう少しやせなきゃとか、こんな私じゃダメだ」とか。そんなバカなこといっぱい考えてるんですよ(笑)。それで、もうなんだかいやだ、セックスも含めて、人間関係はもう怖い、それで「おかあちゃま〜」ってなってしまう。

 こういうわけで、退行してる子どもに「しっかりしろ」と言うと、怒る。だから、ああそういうことなのかと思って、お母さんは適宜「だっこ」してやると。それで、暴力を振るわれそうになったら、「もう私はしらないよ」といって逃げる。ヒットエンドアウェイですね。

 子どもが一番こたえる親からの攻撃は、姿を消すことです。彼女たちは親が消えるのをものすごく怖がってます。逆に言えば、お母さんを底抜けに信じちゃいないっていうことだね。私を捨てて逃げるんじゃないかって。どうしてそう思うかと言えば、それは彼女の中に罪悪感が強いからです。
 (付き添いの母親に→)だから、この子の胎児化が始まった場合は、ある程度まで行かないと無理かな。底ついて浮上してくるのを待つしかないかも知れませんね。

 でも暴力の件はこの際何とかしなければなりませんね。
 (質問者に向かって→)そうだな・・・・・。ではこの際、スポイトでいきますか。ちゅぱちゅぱっていう、哺乳瓶をくわえてみる。それが気持ちとしてはあなたの本音に近い。それをやってると、自分の姿を鏡で見ているみたいな感じになっちゃって、ほ乳瓶をくわえるごとに「何やってるんだろう、私は」なんて思って。そうするとだんだん、二十歳のあなたに戻ってくるかもしれない。
 気持ちが子ども返りしてる時に、それを否定してると、よけい行動が混乱してしまいます。

 子ども返りしていく「赤ちゃんの自分」を「外在化」する。自分でミルク作っておいといて、それを「飲んであげるね」と自分で言いながら飲む。誰に言うかって言うと、自分の中の赤ちゃんに言う。そういう回路を造るわけですよ。自分の心の中の子どもとして外在化する。それを外在化して、ミルクはまたその人が、その子どもがほしがってるものとして飲む。

 やってご覧なさい、そうするとお母さんをひっぱたく回数も減るから。お母さんは、こういうときにまともに論理で勝負しちゃだめです。その代わりに自分のことを考えるんですよ。自分にも思春期になんだか訳の分からない悲しみってあったと。あったでしょう。よく思い出せばあるんです。そういうことを考えて共感してやるんです。それをいちいち言葉にしなくてもいいですよね。「ああ、そういう時期か」といって、娘の成長を楽しむようにして、悩みと一緒にいてあげるわけですね。

※この原稿は「斎藤学オープンカウンセリング」(火曜日18時30分〜20時30分、東京麻布、予約不要)での相談者と斎藤学のやりとりをもとに作成されました。
※斎藤学へのご質問、ご感想を受け付けています。[こちら]にご記入の上、送信して下さい。質問については斎藤学が可能な範囲で記事中でご回答いたします。

斎藤学の講座・ワークショップ

講座名日程時間料金対象会場
斎藤学オープンカウンセリング18:30〜20:303,000円、5,000円一般東京麻布
親のための家族相談18:30〜20:303,000円、5,000円一般東京麻布
斎藤学による木曜ミーティング12:00〜3,000円、5,000円一般東京麻布
危機介入の技法18:00〜20:005,250円、7,350円専門東京麻布

※開催日については必ず各講座の詳細ページでご確認下さい

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月12日

オープンカウンセリングについて(感想)

読者からの感想

◇41才女性

 私は、人の話を聴いていて自分が見えてくることがあるので、オープンカウンセリングの機会をとても大切に思っています。同時に、とても危険な場所であるようにも感じます。
 以前のオープンカウンセリングでは今まで他の医療機関で話せなかった家庭のことを告白しました。その後、参加していたひとりの女性に喫茶店に誘われ、いろいろお説教されて、「斉藤先生は相当重症の人にしか関心をもたないの。」というようなことをいわれてしまいました。知らない人の前で自分の弱みを見せてしまった事に関して、後悔のような気持ちがどっと押し寄せてきました。

image051212.jpg 久しぶりに参加した先日のオープンカウンセリングで、斉藤先生が「ブリミアの人は原点に戻って過食嘔吐したかしなかったか、そのことを誰かに報告すればよい」とおっしゃっていたのを聞いて「それなら私にもできそうだ」と思いました。けれどもその当日、帰り道で買い物をして、やってしまいました。
 「報告する誰か」が私にはいないのです。28歳から10年以上、一日も欠かさず続けている私にとって、過食嘔吐はもう生活の一部になってしまっているようで、止めようと思えば思うほど緊張が高まってドカンとやってしまいます。そしてますます自己嫌悪に落ち込みます。もう一生止めることはできないのではないかと思います。夕方まで必死にこらえていても、夜、儀式をすませないと眠りにつくことができません。睡眠薬も無力です。

 私は最近、斉藤先生に対して威圧感を感じています。こんなことを話したら拒絶されるのではないか、罵倒されるのではないか、とおどおどしている自分がとても惨めです。

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月13日

自分は自分のままでいい(感想)

読者からの感想

◇35才男性

先生はじめまして

 私は対人恐怖症ですとはいいません。
 でも克服したいとは思わなくてもいいというお言葉ありがたく頂戴いたしました。ありがとうございます。
 自分にやさしくなる。自分は自分のままでいい。
 今までは.いいっぱなしの掲示板に強迫的に書きこんでいたのではないかと思います。掲示板に書きこむか書きこまないかも自分にやさしくなって、マイペースで書きこんでみようと思うのです。
 完全にマイペースでもだめだと先生はおっしゃるかもしれません。
 うんこをもらさないということは、自分の発言に責任を持つということだと思うのです。
 その場の雰囲気に責任を持つ。
 一体雰囲気とはどういうものなのかを表現してもいいと思うのです。
 今は雰囲気に責任なんてもたなくてもいいと思っています。
 いつもヒントになるお言葉感謝しています。
 まためーるさせていただきます。

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月14日

先生の『普通感覚』」が大好き(感想)

読者からの感想

◇30才女性

 質問ではないのですが久しぶりに斎藤先生の名文を見て書かせていただきます。

 私はずっと「斎藤信者」でした。「隠れ」ですけど笑
 私の母親は厳しく、あまり甘えられなかったのでとっとと出て行けばよかったんですがグズグズしてて余計、社会に対していい印象が持てませんでした。
 今はやっと「救いの王子」が現れて楽になりましたけど。

 そのウツウツしてた期間に斎藤先生には本当に励まされました。本などで間接的ですが。
 まさか、自分の親との悩みを知らない人たちの前で語る日が来るなんて・・ほんと考えられなかったです。
 けれど自助グループなど出て客観的に自分を見たり、逆に自分の悩みなんてありふれたことなんだとすごくショックも受けました。いい意味で。
 それでいろんな人間関係を経て今、正社員じゃないながらも普通に働いてます。

image051214_1.jpg
 斎藤先生は本当に文章が好きで心に落ちていく文章というのでしょうか。すごくファンです。
 今回も「自分が嫌い」という人へのメッセージこれぞ斎藤節って感じですごく好きです。
 私は斎藤先生にすごく感謝してるんです。
 今、本当に「人並みの幸せ」を感じることができるから。
 先生が「まともなメッセージ」を送り続けてくれたからだと思います。
 私はやっと「大人になる」覚悟をしたんだと思います。
 前はずっと子供のままでいたかった。けれど人生の一番おいしいところは大人じゃなきゃわからない、と本当に思ってます。
 その手助けを斎藤先生がやってくれたと思います。

 先生、これからもがんばってください。
 陰ながらずっと応援してます。
 先生の、普通の人が「持ってそうでなかなか持ってない『普通感覚』」が大好きです。
 私も負けないくらい、「おっとな〜〜」な人になりたいです!
 がんばってください。
 ただのファンメールです。
 では!☆

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月15日

ブログを読むのはとても楽しいです(感想)

読者からの感想

 斎藤先生こんにちは。先生に手紙を書くのは久しぶりです。

 おひさしぶりです。斎藤先生のブログ楽しみにしています。いつも読んでいます。父親にも先生のブログ見てねって言ったら「見る」って言ってました。だから、お父さんも見ています。
 きのうのIFFのホームページへ行ったときアクセス数がいきなり千単位になっていたのでとてもおどろいてしまいました。なにがおこったのかと思いました。このアクセスカウンター(っていうのかよくわからないですが)こわれてるな、と思いました。
 先生が斎藤ミーティングで「ブログもっとみんなが見ないかな。」とお話しされてたのを聞いてはいましたが、まさかこんなに早くしかも倍ぐらいの数になる?!っていうのは信じられないと思いました。どっか、ライブドアとか、なんかメジャーなホームページにリンクすることになったのかな、と考えIFFからどこかメジャーなページ行けるのか、少し探してしまいました。

 今日の斎藤ミーティングで斎藤先生がネットの新聞と新聞のコラムに載せたからというお話しをしてくださったのを聞いてアクセスカウンターは壊れていないとわかりました。それにしてもいっきに1000っていうのはすごいですね。公開斎藤ミーティング全国版って感じがしてきます。
 いったいどのような人達が読んでいらっしゃるのでしょうか。そして読んだ人々はどういう気持ちになるのでしょうか。なんてことを想像したりするとちょっと楽しくなってきます。

 私は今週金曜日に早く起きてシェアリングしようと決めていたのにその日は母親と意味もなく会ってしまいました。母親はなんか10月末ぐらいから、身体中にふきでものっていうか、湿疹っていうのができてしまって病院に行ったりしています。少しは良くなってきているようですが、私は落ち込んでしまいます。先生のブログを読むのはとても楽しいです。

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月16日

母への怒り(感想)

読者からの感想

◇44才女性

image051216.jpg
 先日は(11月29日付Q&A母についての相談)回答いただいてありがとうございます。たくさんのご相談があると思いましたので本当に思いもかけないことで、とても嬉しかったです。

 確かに先生の仰ったように、急に母への怒りがわいてきたのは、今育てている子どもの年齢もあるかもしれません。

 それと怒りの対象者に直接向かい合ってはいけないという、先生のお答え。この質問をお送りした後、「先生のテレフォン・サービス」で「怒りについて」の項目で先生ののお話を聞き非常に後悔しました。私の場合も電話のお話しどおり、両親から同様なリアクションがあり、かえって事態を悪くしました。

 私と両親が断絶のようになってしまったので、その後夫が父にだけ会い、私が泣いてばかりいる状態ということと私の子ども時代の「こだわり」を多少話しをしたようです。
 また、しばらく距離を置きたい私の気持ちを伝えましたら、父は「自分にできることは言ってほしい」と言って終わったようです。

 それからはしばらく何も関わりがなかったのですが、最近母から夫の職場に「○○の様子はどうでしょうか?」と電話があったようです。
 それを聞いて少しだけほっとした気持ちになりました。

 あの両親との「爆発」のあと、距離を置いて1ヶ月以上たちますが、とても心が落ち着いてきました。
 とても不思議なのですが、以前のようにあまり怒りを感じなくなりました。
 一種のガス抜きをしたという事でしょうか。とても険悪な状態のはずですが、自分でも不思議です。

 いずれ先生のアドバイスのように、もう少し寛大な気持ちになれたら両親と話しをしなければいけないと思います。
 今は話をしなければ、と思うだけど気が重くなってしまいますので、専門の先生とカウンセリングをして気持ちをまとめていきたいと思います。

 お礼のお手紙がまた長くなってしまい、すみません。
 最後に、一番心が辛かった時に先生の「テレフォン・サービス(心の健康講座)」を毎日のように聞き、心にとめた事はメモをして読み返しました。
 私にとって、この先生のお話がどんなに救いになったかわかりません。

 ブログの回答もいただき、本当にどうもありがとうございました。

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月19日

心の拡大鏡を使って −教師と親へのメッセージ−(1/4)

聞き手 中田康彦(一橋大学社会学部、『人間と教育』編集委員)

学校と家族の性格のちがい

中田 子どもに寄り添いたいと思っている教師に、精神科医のお立場の意見から何か示唆を得られればというのが今日のインタビューの趣旨です。

 最初に、子どもに対して家族が持つ機能と、学校が果たす機能の違いを、父性という観点からお聞かせ願えますか。

image051219_1.jpg
斎藤 そういう比較が可能かどうか、まず問題になるかもしれませんね。家族が持っている多様性に比べ、学校は存在そのものがあまりにも一般化していて、学校に行くのがいやな子がいたりするとびっくりしてしまうみたいなことがありますけど、そんなにみんなが行きたがるところではないと思うんです。

 どんな組織も、利用する人より組織にいる人に便利なようにつくられてしまうでしょう。流れゆく者より宿主として居座っている方々に都合のいいようにつくられていきます。そういうところで家族が持つ母親とか父親の役割という話をもちだすと危険なことになりかねないですね。
 だからルールとか人間関係の基礎的なことを取り扱っていくというふうに考える。それは家族にも学校にもある役割です。ただ、今の教員養成がそういうことをどれだけ重視しているかという問題もありますね。同じ年齢の子を一つにしておけばいいのかという問題もあります。それに小学校は六年間ですが、六年という数にどれだけ妥当性があるのか。私が見るところ、10歳までと11歳以後でだいぶ違います。

===
 子どもに選択肢はないので、コミュニケーションを家族だけに委ねていてはだめです。家ではみそっかすだが学校では生き生きするとか、その逆とかもあっていい。コミュニケーションの場としての学校は何らかの形で必要です。
 それに、子どもを24時間コンテイン(包摂)できる能力を今の親は持っていません。夏休みに「じゃまだから学校へ行っていてよ」みたいな悲鳴を親があげることがあります。学校はいろいろと頼りにされているわけですが、父性機能を学校に負わせすぎるのは親の怠慢ではないかと思います。

 それに父性機能を担うのは学校だと言いたくないところがあるんです。社会学的父という意味での指導する者のモデルは人間の心そのものが求めています。学童期とはエリクソン流に言えば、仲間内で競合して権威者にひれ伏す時期です。あの年代の子は放っておいても権威をつくります。父性というと最初から存在しているみたいに聞こえるけど、子どもたちがそういうものをつくり出すというところもありますね。麻原彰晃の事件でもヨガの先生みたいなのをだんだん神様にしていったように、若者は帰依対象を自分でつくってしまうところがあります。
 学童集団は、カリスマにならないし、なりようもない人たちに率いられるものとしてこれからも存在し続けるだろうとは思います。

学校がもつ二つの機能

image051219_2.jpg
斎藤 そういう意味で学校は家族と違って、学習機能とコミュニケーションの場という二つがはっきり分けられる場と考えてみてはいかがでしょう。家族が持っている父性・母性機能みたいなものは副次的なものということにします。

 まず学習機能についてですが、極端にいえば学習そのものは先生方が地域にオフィスを構え、そこに子どもが行ってサインをもらう、履修単位取得が済めば進級する、というかたちでもいいわけでしょう。そうすると先生たちの間で自由競争も始まりますね。どの先生を選ぶかは子どもに任せる。だけど一定の単位を取らなければいけないし、年一回ぐらい検定があって、「あなたはここはマスターしていないね」と言われたらもう一回履修する。また、町の先生たちを統括する専門の先生、スーパーバイザーを設けることだってやろうと思えばできるわけです。

 そうすると、子どもたちが出会う場所はどこかということになり、ここで初めて「それは学校しかないでしょう」となる。学年輪切りでなくて、上の学年の大きい子も小さい子もいるようにする。

 今、田舎ではなかなか子どもたちが集まれないそうですね。アエラか何かで読んだけど、青森の子が横浜の子より外で遊ぶ時間が少なかったそうです。確かに郡部では家同士が離れているし、子どもの数そのものも急減している。だから子ども集団ができない。
 そこにいくと学校は大きな集会所です。朝から晩までミーティングをやってコミュニケーションの発達を助ける。感情とはとにかく話さないとわからないものだとか、だれでも特徴があって尊重されなくてはいけないとか、基本的なルールは学習しなければなりません。それを徹底的にたたき込むことはやはり必要でしょう。教わる態度がなければだめだよとか、一定レベルまで達しなければその先へ行けないよとか。

中田 今言われた進級のしくみのように、システムとしての学校が持つ機能と、教師が人間として伝えるべきことは完全なイコールではないと思うのですが。

斎藤 イコールではないと思う。

中田 そうすると学校という組織のエージェントとしてではなく、教師が人間としてやらねばいけないことはどんなことでしょうか。

斎藤 子どもに選択される状況にさらされるとだいぶはっきりしてくると思います。子どもが来ない先生と来る先生がいると、同じ給料ではまずいから塾に似ていくでしょう。逆に先生に子どもが選別されるということが起こるかもしれません。それでも子どもたちに選択権があるのはすごいことだと思います。小さい子の場合は親の選択でしょうけど、利用者が選択する時代だと思うんですね。

 日本では教育はお上からくださるものという感じがいまだにあるので、これを完全に変えてしまう。すでに親が公立学校の進学先を選べるところも出ているでしょう。そうすれば教師集団そのものがばらけるということです。

 次に何が起こるか。さっきスーパーバイザーと言いましたが、教師集団を教える教師の役割が重要になってきます。「あなたの学習のさせ方はどうも悪い。学年検定で落ちる人の割合が図抜けて高い。もう一回学習方法を勉強した方がいいんじゃないですか」などと指摘する。
膨大に蓄積されてきた学校ノウハウを分解することによって、そこから別な機能をもつものとして生まれ変わるわけです。例えば老人集会所と併設になれば、個々の老人の持っている知的ないし技能的能力が子どもたちに直接伝わるかもしれないですね。私はその方がメリットは大きいと思うんだが。学制発布は明治五年でしたっけ?

中田 ええ、五年です。

斎藤 あれから中央統制がものすごい勢いで浸透し、学校とはこういうものだと内面化されたものに支配され、発想が硬直している。それらを突き崩しているのは、必要にかられて存在する塾や予備校です。入試に通らなくてはいけないという単純な合目的性によって貫かれているから。(続く…)

【出展】
『人間と教育』48号 特集「教師の子ども理解」
(精神科医・臨床心理士・家裁調査官・スクールSW・元教師らの子どもをとりまく様々な職業に携わる人々の体験から見つめ直すことを試みました)
編集:民主教育研究所 電話03-3261-1931 [HP

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月20日

心の拡大鏡を使って −教師と親へのメッセージ−(2/4)

善意の思い込みが生み出すもの

image051220_1.jpg
中田 たしかに現在の学校には、戦間期に出てきた合理化システムの延長上に、あたりまえのように存在しているという側面があります。他方で、そうした機能と、上から与えられるのではない教育をやりたいという教師の良心とのせめぎ合いも学校空間の中にはあります。
 その中で、学習・コミュニケーション・社会ルールの教え込みのすべてを抱え込むのが良い教師なのだという、ある種の献身的な教師像が、職務の範囲を無限定に自ら広げてしまう。そうすると、本当はこうありたいのにできていないともどかしさを覚える、あるいは子どもとのディスコミニケーションの現実を目の当たりにして、「できない自分」に気づかされる。そういう傾向が日本では強いといわれています。

斎藤 そうでしょうね。先ほどの「教師の街中への分解」は、現在の学校像を議論するための一つのモデルです。そこで期待される教師像は教え方がうまいということに尽きるわけです。そこでいい教師と悪い教師の座標軸が決まる。

===
 では生活教育はどうするのか。朝から晩までミーティングをやるのは、子どもたちのグループ・ミーティング、グループ・サイコセラピーですね。
 ポジティブ・サイコセラピーというものがあります。ポジティブ・メンタルヘルスとかプラスの精神保健です。こういう考え方に立てば、乳幼児期それぞれの発達レベルに沿ってもサイコセラピーは可能です。セラピューティック・エデュケーション(治療教育)という言葉もあります。ここで要るのはカウンセラーないしセラピストです。

「教師はあまりに大きな領域の中で自分の限界がわからなくなっている」問題ですが、知的技能の伝達者としての役割とセラピストの役割に分解した方がいいと思います。
 一番まずいのはパターナリズムです。お前は馬鹿だが私は知っているから保護して育ててあげよう、というアプローチが一番とりやすく、しかも自分自身が満足しやすい。教師の中には、私は善意でやっているのにどうしてわかってくれないんだ、という不満を感じる人もいるでしょう。しかしその欲求不満がいい教師への原動力になるのではないかとも思うんです。あまり自己陶酔している教師だと、善意でどんどん押しつけていって、不登校の子などは一点できてしまった染みとして、どう拭きとろうかという話になる。そうなるとその子どもの人格を否定することにさえなりかねない。

 そうではなくて自分はセラピストだと役割を割り切って、みんなおかしいのだと思えばいい。子どもはそれぞれみんなおかしいですよ。それが個性です。

 どんな家だってなにか問題があるわけで、子どもはそういうものにすごく敏感に反応し、子どもなりに悩んでいる。言葉でなく動作や遊びを通じて伝えてくるものをちゃんと聞き手として聞き取る訓練が必要なわけです。教師にカウンセラーの勉強をさせたらどうかということですね。

image051220_2.jpg
中田 いま学校では、教師にはできないことをスクールカウンセラーに引き取ってもらうというかたちで、職業分化する方向に進んでいます。カウンセリング機能は他の専門家に任せて、教師は教育に専念しようということでしょう。教育の語義はラテン語で「引き出す」という意味ですが、可能性を「引き出す」ことをめざして働きかけるのと、子どもを「あるがまま受けとめる」のとを同じ人間が同時に引き受けるのでは、アンビバレントな感じになると思うのですが…。

斎藤 今はちょっと無理なことをしていると思うんです。スクールカウンセラーにしても制度設計そのものからして、教師の領域の死守みたいなことを感じるんです。
 カウンセラーを専門家として尊重しているように見せながら、けっしてそうではない。例えば教員間の人間関係に立ち入らせない。子ども同士の関係や教師と子どもの関係も大事だけど、実は教員同士の間でどんな人間関係が持てるかが一番大事だと思うんです。家族の中で夫婦関係が不和な場合、どんなに金銭的に恵まれていても子どもは不幸なのと同じでしょう。
 校長・教頭と教員との仲が悪いというのは、夫婦げんかみたいなものです。先生たちも何派かに分かれているとかありそうですけどね。

中田 あります。

斎藤 そういう違いや対立を前提に、人間関係をどうつむぐか。少なくとも利用者である学童に迷惑をかけないようにするにはどうしたらいいかという発想で、第三者に入ってもらうと相当大きな意味を持つはずです。
 ところが学校はそんなことはさせません。スクールカウンセラーには一人二人問題児を生けにえとして出してお茶を濁す。ところが教師が生徒に殴られるような場面になると一斉に先生方は退いてしまい、スクールカウンセラーは校内事情も地域の事情も知らないままにその子と対峙させられる。結局何の効果も上がらないとか、いやけがさして辞めてしまうとかになります。かなりの予算を使っていながら破綻していると思いますよ。

中田 今のあり方は、制度としては破綻しているということですね。

斎藤 ええ。今の学校制度の中で木に竹を接ぐようにセラピー的な要素を持ち込んできたからです。(続く…)

【出展】
『人間と教育』48号 特集「教師の子ども理解」
(精神科医・臨床心理士・家裁調査官・スクールSW・元教師らの子どもをとりまく様々な職業に携わる人々の体験から見つめ直すことを試みました)
編集:民主教育研究所 電話03-3261-1931 [HP

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月21日

心の拡大鏡を使って −教師と親へのメッセージ−(3/4)

教師のひたむきさが生む圧迫感

image051221_1.jpg中田 これまで、校長や教頭も含め教師集団内部でいろいろな対立があっても、「子どものために」という点では合意が可能だと考えられてきました。ただこうした教師集団が良かれと思ってすることが、実は子どもに過剰なプレッシャーをかけているとか、子どもは過剰な介入と感じているとかいったことがありうるのではないでしょうか。

斎藤 ほとんどの先生方が善意でやっていると思うんですが、子どもから見ると圧迫的になっているということはおおいにあります。

 最近も、担任の先生がいやだからフリースクールで単位を認めてもらいたいという小学生の親の話を聞きました。担任は自分のクラスから不登校など出したくないので、家を訪ねて何が問題かと必死に問いつめる。お母さんとしては、自分が学校に行けば済むのなら何度でも行きたいぐらいの申し訳なさを感じてしまっているわけです。
 お母さんの願いは、フリースクール出席を登校に数えてもらいたいということ。また地元の中学には絶対に行かせたくないので私立を受験する際の内申書で差別しないでもらいたい、それだけです。けれどもいろいろ配慮してほしいという気持ちがあるから、よけい話がわからなくなってしまうんです。

 こういう親に度量を示してこそ教育者ではないでしょうか。この家の場合はフリースクールには片道一時間半ぐらいかかってもその子は一人で行くそうです。それなら長距離通学を誉めてあげる方がかえってよいと思うんです。比較的若い男性の先生だそうで、冷却期間を置いた方がいい時に必死になってしまう。一所懸命なんでしょうね。

===
さまざまな保護者の間で

 もう一つの例は中学二年生です。非行少女というレッテルが貼られてしまった子ですが、深夜帰宅とか外泊とかは、非行少女というレッテル貼りがあった後なんです。
朝四時半に集まってディズニーランドへみんなで行った。それをお母さんが心配して「注意して見守ってくれ」みたいなことを学校の先生に言ったら、一緒に行った生徒の親が過剰に反応して、「うちの子が悪いことをした」と非難されたかのように受けとめた。そして「本当はあの子が誘ったんだよね」という話になってしまった。実際には誰が誘ったわけでもなく、四、五人でわいわい言いながら出かけようという話になったそうですけど。それ以来その生徒には、何時帰宅するかという確認電話が先生からしょっちゅう入るようになり、一年後には完全に非行少女扱い。

 何よりも痛いのは、他の父母が噂をして、何か悪いことがあるとみんなその子がそそのかしたみたいな話になってしまうこと。この事例では、気をつけて今後のことを見てくださいという親の言葉を先生が批判と受け取ってしまい、しかも一緒に行った他の子どもの親にいつの間に知れていた。それで親も教師・学校に不信感を持ってしまった。これはお互いにとって不幸なことですね。

 この母親は離婚して、タクシーの免許をとって女の子二人を育てています。学校からいろいろな行事の呼び出しがあるのはウイークデーなので、仕事を休んででかければその日の売り上げはなくなるから、生活が逼迫するわけです。確かにしつけその他で行き届かないところがあるかもしれないけど、家族はいろいろな暗闇をかかえているということを前提に 一人ひとりの子どものことを考えるのは、教師に限らず上の世代に求められていることだと思います。

 教師には割り当てられる事務量が多すぎますね。その中で40人を担当するなんて無理です。それぞれの家族背景を把握して、因果を考えていくなんて無理だって初めからわかりますよね。本当にやろうと思ったら、自分の家族がまず壊れてしまいます。

image051221_2.jpg
中田 40人学級では、家族的背景も含めて子どもを教師が抱えこむのは非常に困難です。それなのに、さらに他の保護者からその子どもや家族に向けられるまなざし、噂、レッテル貼りから守るという役割も担うことになるわけですか。

斎藤 できないと思いますよ。一定の集団力動が父母の間で動くと、その子も親も浮きあがってしまう。毎日タクシーを飛ばしている人はどうしても他の主婦と話がかみ合わなかったりするでしょう。それを教師が補えるかといっても難しいと思うんです。

 だから、どちら側にもつかないのが精一杯ではないかしら。というのは、どうしても集団的に優勢な方が、孤立して浮いている親と子どもがひどいという話で圧力をかけてくるからです。その親子も、多数派に「それは困りましたね」なんて教師が応じているうちに、そういう話に仕立てられてしまったのではないでしょうか。
 中立はやはり難しいけれど、どちらかに肩入れするぐらいなら、どちらにもつかない方がいいですね。

 40人がみなホットなクライシス状態にあったら手をつけられませんけれど、そういうのは一時期に一人かせいぜい二人です。その代わり、何がそこで起きているか徹底的に家族背景まで洗う。一家族ぐらいにはいつもそういう姿勢を持っている、これで十分だと思います。
 そうすると、たしかに親の役目をすることが必要になってくることもあります。教師に父親の役割までやるつもりはなくても、その家族は一番求めているものを教師に投影していくでしょう。女性の先生であっても教師という権威が性転換させて、「父性」を見いだそうとするわけです。
 こういう役割もあえて引き受けるという覚悟が、教師の職場には必要なのではないですか。別に家庭訪問をひんぱんにしろというわけではない。子どもと家族に強い関心を向けていることがわかればいいんです。

中田 その場合、子どもと向き合うのは担任の教師なのか、複数の教師集団なのか。それともセラピスト的なパラプロフェッショナルがチームとしてあたるのがいいのか。その点はいかがですか。

斎藤 いろいろ議論があり得ると思いますね。担任が一番向いているかどうかわからない。担任はファーストチョイスだけど、それをスーパーバイズする人がいるといい。美術専任の教師のように複数のクラスを見ている立場の人がいいんです。体育や美術の人には、実際に地域でそういう役割をとっている人が多いですし。

教師が救われる道

 ある女性美術教師の場合を紹介しましょう。その女性は、教師であることでずいぶん助かっている面もあるんです。子どもの暴力から逃げたりするスリリングな生活をしている中、他の子どもと接することが彼女を孤独から救っていました。本人はこんな生活いやだいやだと言っていますけれど、私が見るところ、熱血教師をやっているじゃないか。それに自分自身の美術作品を年に一、二回公募展に出したりしています。こういうことをバランスよくやっていられるのも教師ならではで、私は彼女がくるたびに「こんな豊かな職業ってないんじゃないですか」と言っているんです。

中田 子どもにはどう見えているのでしょうか。そういう教師は子どもと向き合うことにポジティブな感覚を持っている。その教師にとってはすごくいいことなのでしょうが。

斎藤 どう見えるんですかね。子どもたちが一番見抜くのは偽善というか先送り・棚上げじゃないですかね。
 彼女は、同僚の柔道の強い男の先生が生徒に刺された時、自分は何も手を出せなかったという話をしていました。刺された先生はそれまで前面に立つこともなく、わりと先送り型の人だったので、彼女はその先生に批判的だったそうです。でも彼女が危険にさらされたとき、その先生は刺した生徒へ身を寄せていったというのです。
 コストとして高すぎるけれども、そういう場面を経て、刺した生徒も変わっていったそうです。暴力はふるうより受ける方が勇気があるのだということを刺された先生は言いたかったのでしょうね。そこまでやれとは言いませんが。(続く…)

【出展】
『人間と教育』48号 特集「教師の子ども理解」
(精神科医・臨床心理士・家裁調査官・スクールSW・元教師らの子どもをとりまく様々な職業に携わる人々の体験から見つめ直すことを試みました)
編集:民主教育研究所 電話03-3261-1931 [HP

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月22日

心の拡大鏡を使って −教師と親へのメッセージ−(4/4)

ぐちを言える場をつくる

image051222_2.jpg中田 今の話のような高いコストを払って初めて同僚のある一面が見えるようになることも案外多いと思います。<同僚性>が大事だと頭でわかっていても、実際には同僚に開こうとせず、それゆえに一人であえいでいるという循環の中で教師が教師として長生きできるというか……。

斎藤 バーンアウトしないということ?

中田 ええ。そういうコツは何だとお考えですか。

斎藤 自分の個性に自信を持つことでしょうね。あとはぐちの言える場所が複数あることでしょう。僕らも難しい患者と出会った時は、患者のことを同僚に語るんです。自分で最善の策を立てているつもりでも、見落としが起きたりします。経験がかえって自分の手足を縛ることもあります。「いつもなら、こうするんじゃないですか」と若い人に言われてハッと気がつくこともあります。とにかく若い人でも誰に対してでも、困っていることは困っていると率直に言います。

 学校の先生方にもそれが役立つと思います。若い先生には絶対必要でしょう。スーパーバイザー制をもっと明確に取った方がいいと思います。相手は思春期という一番危険な時期です。行動力がついてきてある程度悪知恵も発達しているのに、衝動性の統御は未発達という、最悪な時期じゃないですか。 

 成人であれば境界性人格障害と診断されます。普通の人口のなかでは二、三%でしょうが、中学生の数割はそういうタイプの子ではないかしら。人間関係が安定せず、だれかに頼りきったと思うとその人に裏切られたといって今度は衝動的な逸脱行動に走る。一番の親友を一番の敵と考えたり、「空しい、死んでやる」と口走ったりする。こういうタイプを境界性人格というのですが、これはそのまま中学生の特徴を言っているようなものでしょ。人格的にかなり成熟した子を除けば多くの中学生はこんな状態です。

===
 こういう子たちを扱って自分だけの胸にしまっておくなどというのは無理です。先ほどの先生も地元のカウンセラーにかかっていて、それ以外に精神科医として私、さらにカイロプラクティックにも診てもらってようやく精神保健を保っているわけです。以前は目がピクピクするとか、胃潰瘍やヒステリー性の難聴がおきたとか、そういうストレスの中にいました。

 先生方が自分の金を出してそこまでする必要はないけれど、職員室を、イベントの話し合いや校長からの指示を聞くだけでなく、その何分の一かの時間でいいから、いま自分の教室で何が起こっているかを話す場にできるといいですね。あるいはスーパーバイザー制をとって若い先生の話を年配の人が聞く。年配の人も別の人に話す必要があります。外部からセラピストを導入するのは難しいようですから、自分たちでセルフヘルプ的にやるほかないですね。ミュチュアル(相互)サポートです。

中田 インフォーマルなつぶやきとかぐちを言いあう時間と場を教師集団でつくろうとすれば、セルフヘルプ的なものになるということですね。ただ、スーパーバイザーをフォーマルなシステムとして導入すると、序列的であまり機能しない気もするのですが。

斎藤 私も今しゃべっていて、現状でそんなことをやったら大変だろうなと思いました。とはいえやはり先生たちのメンタルヘルスのために予算措置をとるべきだと思う。教育者としての体験を人に聞いてもらう時間をつくり、今週こういうことがあったと話すだけでいいのです。

 それを利用できない人にはもう少し別のアプローチを考える必要がある。学校の外部にいてニュートラルな立場で、しかもある程度は事情を知っている人に、文部科学省や市町村のお金でポストと給料を与えるんです。長い目で見れば、教師の長期休業などが減ってコスト的にもペイすると思うんですがね。

語り合いの三つの原則

中田 専門家を外部から招く場合のポイントみたいなものはわかりましたが、同じ職場に勤める者同士のつぶやき合いの課題はどうでしょうか。同僚であるがゆえの難しさがあるかもしれません。

斎藤 コンフィデンシャリティ(秘密保持)、傾聴、議論しないという三つが非常に大事です。傾聴のルールとは、質問で遮ったり、自分の意見を重ねて言ったりしないことです。言いっぱなし、聞きっぱなしです。 

 秘密保持、傾聴に誠実というのをつけ加えることがあります。誠実というのは、自分で考えられる範囲で嘘をつかないことです。しゃべりたくないことまでしゃべると、自分に対して誠実でないわけです。この三つを維持した相互支援グループは教師のような職業にこそ必要でしょうね。

 私は東麻布にクリニックとは独立した心理相談室を作っています。ここのセラピスト(心理カウンセラー)は一日七人の話を聞くのですが、五日間で三五人なんて無理だと言っていますね。このカウンセラーたちをどう燃え尽きさせないかを考えるのが私の仕事です。自分たちがセラピストでさまざまな人たちの精神保健を扱っているのだけれど、自分の問題になると話上手とは言えない。自分の話をしなさいというととたんに無口になってしまうんです。スーパーバイザーである私は「自分ができないのにグループワークを他人にやるのは問題でしょう」と言って、わだかまっていた問題を集団の中で話させます。そういうところでよくしゃべる人や、すぐアポイントメントをとって話に来る人はつぶれないですね。むっつりして一所懸命やっている人などが突然「辞めさせてください」となります。辞めてハッピーになるならいいけれども、再起するまでに数年かかったりする。

 人の心に接する職業というのは、人格を相手との間で取り結ぶわけですね。相手の体験の中に入り込むわけですから、これはすごいことなのです。教師の場合、一人ひとりの子どもの心に影響を与えると同時に、自分の心の中にも複数の子どもを取り込むわけですから、ホントに疲れると思います。その場合、心の拡大鏡をフルに使って「あの子はここの部分がこれだけ変わった。良くなった」とポジティブに考えられる人の方が、教師という厳しい仕事から豊かなものを発見できるでしょう。

 もしそれができない人がいたら、「あなたの生徒はこういうところがよくなったじゃないか」と互いに指摘しあえるグループを作ることが望ましいですね。

中田 ともかく話せる場を作り、そこでは否定はしないという取り決めをもった関係を教師あるいは第三者との間で築くということでしょうか。

斎藤 聞きっぱなしというのは意外に難しいですよ。順番が回ってきたら、人の発言に対し私はこう思うと言ってもいいんです。でも隣の人は違う話題になってしまったりしますから、議論にはならない。持ち時間は決めても決めなくてもいいけど、それで一回り、時間があったら二回り、と機械的にやるんです。そうしないと一人だけしゃべって止まらなくなってしまったり、特定の人のプレゼンスが大きくなりすぎたりしますから。
 パスをしても構いません。けれど毎回「聞くだけに……」と言っていると、それ自体が圧力になってくるんです。

中田 それは自分に対してですか、それとも相手にですか。

斎藤 自分に対してです。他人から言われたわけでもないのに作ってでも話をしようとする。それでこれは明らかに考えてきたことを言っている、という話しかたになってしまう。他の人々はなんで暗記してきてまでしゃべろうとするんだろう、もっとリラックスしましょうよ、みたいに考えるかも知れない。でもそう言ったら議論になってしまうから、その場では言わない。それでいいのです。相互に語ること自体に意味があるという考え方だから、別に話題がなくても一時間はそれに当てるということでいいんです。

中田 今の教師にはそういう時間を確保するのはなかなか難しいです。

斎藤 本当に時間がなさそうですね。夏休み中もクーラーもない教室に汗だくの先生を集めるようになったそうですが、何か意味があるんですかね。

中田 今日はどうもありがとうございました。

【出展】
『人間と教育』48号 特集「教師の子ども理解」
(精神科医・臨床心理士・家裁調査官・スクールSW・元教師らの子どもをとりまく様々な職業に携わる人々の体験から見つめ直すことを試みました)
編集:民主教育研究所 電話03-3261-1931 [HP

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月26日

傷害事件を起こした息子(1/3)

相談者からの質問

image051226_1.jpg 息子の問題で参りました。息子は2ヶ月前に傷害事件を起こしまして、現在××警察に拘留中です。来週第一回の公判があります。もう成人しておりますが、中学校を卒業する時分から生活が乱れまして、ケンカが絶えないんです。外にケンカ、内にケンカ。少年院に出たり入ったり、刑務所に出たり入ったりのくりかえしでした。

 今回の事件は、電車の中で前に座ってたアベックがいちゃいちゃしてたと、それをみてカッときて殴っちゃったということです。
 これが始めてではないので警務収容も覚悟しています。いずれにしても、出所したときにどうしたらいいかと。

斎藤学からの回答

斎藤:ご夫妻とも大変ですね。ご苦労なさったでしょう。弁護士さんは何人ぐらい関わりました?

  ── 一人です。

斎藤:国選の方ですか?

  ──いちばん最初は国選で出会ったんです。その弁護士さんは。それでそのときその弁護士さんがよく相談に乗ってくださったので。

斎藤:こういうところで、こういう問題をお話しすること自体が、あなた方には大変きついことだと思いますが、それをきついことだといっていると、よけいきつい。こういう問題は、同じような問題を共有している親たちと連携した方がずっと楽です。

===
image051226_2.jpg で、あなた方が悪いんじゃなくて、たまたま息子のできが悪い。(会場笑)物事はとらえ直しをしないと、自分が不幸に感じてしまう。その不幸を感じている親をみて子どもは、寄りつきがたくなるか、あるいは罪悪感を持つ。罪悪感を持つと、いずれ持たせたものに対する怒りに変わります。悪くすると親を攻撃することになります。親に寄りつかなくなった場合は、その攻撃性が他に向きますから、新たな事件が起こる。

 しかし、この手の息子のすることに対して、ハッピーを感じろといっても、こりゃ難しいですよ。難しいですが、しかし、この難しいことをやらざるを得ないという非常に困難なことをお二人は強いられているわけ。
 まあ例えば、よく私はここでこの話をするんで、またかという人もあると思うけど、安部穣二さんていう人がいますでしょ。あの人は府中刑務所に入れられたんだが、最初に収容されたときに、お母さんが面会に行ってね、「母ちゃん申し訳ねえな」って彼がいったら、お母さんが言ったせりふが、「こういうめったにこられないところ見せてもらって、ありがとう」といったと。このお母さんにしてみれば、「この事件は大人になったお前の問題で、ここに来てるわたしは、たまたま来たくて来た」といことだったのでしょう。
 このように思うことは大変難しいことなので、このような場が必要になるわけです。お一人でご家族の中でこの問題にあたろうとすれば、自分の無力さと、親としての面子がまるつぶれなことに打ちのめされてしまう。誰だってブランド品のような輝いた息子を持ちたいですから、それができなかったことへの不幸ということで、ないものねだりをずっと続けることになります。

 わたしとしては、子どもの問題行動の多くは、家族の方の対応の問題もであると思うんです。もっとも「実は問題は親にあります」といっているわけではありません。本当は親はその方が受け入れやすいのですよ。「あ、そうなのか、私たちの養育の仕方が間違ってたんでこうなったのか。じゃあ私たちが変わればすべて消えるんだな」と、こうなってしまう。問題の本質はそこにはないと思う。20すぎの男のやったことは20歳の男の選択だし、この人の個性だし、これからもそれは続くと思った方がいい。じゃあ、親の方としては比較的影響を軽く受けるにはどうしたらいいか。これを考えましょう。柔道でいえば、まず受け身の練習ということになりましょうか。

 だって、息子さんが拘置されただけで、今まで繰り返してきたようなですね乱暴な暮らしからまるっきり違う人間になるということはあり得ないですものね。次の事件があるのが当たり前だと。あったときにどう考えるか、と。こういう考え方にした方がいいですね。(続く…)

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月27日

傷害事件を起こした息子(2/3)

(昨日からの続き)
image051227_1.jpg 息子さんは職場でも暴力起こしてますか。

 ──職場といってもあんまり働いてないんです。職場のようなところでは暴力は出ないようですね。

斎藤:お父様やお母様の期待としては、息子さんにどこか職を身につけて落ち着いて欲しいという希望がおありですか?

  ──最初はそういう希望をしてたんですが、今のところ、それは本人にとってはあまりに背伸びじゃないかなという感じもしてるんですけど。

斎藤:嫁がれたお姉さんがいるそうですが、お姉さんにも迷惑をかけることがあったんですか。

 ──いえ、とくに迷惑は、かけてないです。まあ「あんな弟がいて困った」ということについては迷惑かもしれませんが、姉とは仲がいい方です。

斎藤:上出来ですよ。たしかに、刑務収容2回、少年院収容2回ということですから大変ですけれど、今ここにいらっしゃるかたのなかには、そういう子供さんをもってらっしゃるかた、結構いるんです。もっと大変な人もいます。で、その人、ここへ何しに来ているかっていうと、こないと逆に不安で仕方ない。今、その人は拘置じゃなくて、裁判終了して刑務所の方へいってるんです。そのお母さんと私が接触し始めて、そろそろ7,8年たちます。息子さんが少年院2度目くらいから相談受けてますけど、少しもよくなっていないじゃないかって、お感じになるのも無理もないんですがね。

===

 7、8年といいましたが、私は息子さんとは一回しか会ってないんです。彼はわたしを誤解していて、何かわたしを説教する人、それから場合によっては自分の欠点を見つけて警察に通報したり、あるいは精神病院に入院させたりする人と思ってらっしゃる。だから怖がって来ません。ガールフレンドを一度殴って、大けがさせて、そのときに一度だけ、別れさせられたら大変だと思ったらしくて釈明のために来ただけです。私自身もそのような粗暴な人と、あんまりおつきあいしたくないので、こなくていいと(笑)。

 わたしの役割は、そのお母様の不安を沈める。その子の場合は弟さんが2人いまして、弟さんが彼の暴力の犠牲になってましたから、一時は家族を分離して、弟たちを保護する必要も出たし、夫婦間の関係も険悪になってたりしたので、家族の調整が必要でした。
 必要なことは、この息子さんは息子さんの問題として、他の家族3人が、それぞれがそれぞれのやりたいことをできるように環境をととのえて、目前の興味に関心を移せるようになることですね。
 それはできてるんですか。

  ──ええ、主人は主人なりに、定年後もそれなりに仕事をやっておりますし、わたくしもちょっと趣味とか適当にやっておりますし。娘は子育てに専念中ですし。

斎藤:上出来です。今わたしが例に挙げたご家族に比べると、随分楽ですね。今、例に挙げたお母さんは、「一人で生きようか」ということを考えておられます。つまり夫婦関係に結構揺れが生じています。そういうのに比べると、あなた方ご家族は健全に過ごしてらっしゃる。

 今までの経歴からいって、息子さんについてはずっとハラハラドキドキが続いていらっしゃった。1歳7カ月でてんかん発作がおこったそうですが、これは大発作ですか、それとも焦点発作といったものですか。要するに知的障害はなかったんですね。
 「てんかん気質」や「てんかん病質」とか「精神運動発作」ないし「てんかん性もうろう状態」という、心理的行動外な特徴を示す場合もありますが、この点はどうだったのでしょう?一種固有の不機嫌状態がある場合があるんです。とくに発作を抑えるお薬を使っていると、そういうことが起こることがあります。で、抗てんかん薬は、つかいましたか。

  ──使いました。

斎藤:ふむ。今も使ってらっしゃる? だとすると、脳波の強制正常化に伴うもうろう状態や不機嫌があるのかも知れませんね。もしそうだとすると、もやもやした感じが持続しているわけですから、目の前でいちゃいちゃなんかされたらカーッとなっちゃいますね、「電車でいちゃいちゃするな」ということを覚えるべきですね。そのアベックは。ただ、殴った場合には逮捕・拘留されると。これは社会のルールがそうなっていますからね。
 ま、そういうふうに気軽に考えましょう。

 ──本人も、私が「反省しろ」といいますと、「あいつらも人の面前でいちゃいちゃするのをやめろ」と、わたしにもいうんですけど(会場笑)。

斎藤:私も車中でいちゃいちゃしてるやつ、ひっぱたこうかと思いますが、後のことを考えてやめています。もし、もうろう状態的な不機嫌がご家族からも観察されるとしたら、これは本人の暴力行為を誘発するのを防ごうなんて思わないで、ご家族はお逃げなさい。あなた方が被害者にならないようにすることです。それで、暴力の爆発が起こった後は非常にスッキリしますので、その後の機嫌のいいときだけつきあいなさい。

 ──ほんとにスッキリするんです。殴った後は。

斎藤:なにか、じゃあ、壊すものとかですね、まあ生あるものの命を奪うことはお勧めできないんですが、んー。ちょっと、ご迷惑かもしれないが、大型犬とかですね、大型犬と格闘すると結構息を切らすとか、あるいはアニマルセラピー的な自分の鬱積したものをかい出すのにいいと。

image051227_2.jpg こんなこと言い出すのはですね。昨日、ある弁護士さんと、女性問題の評論家で樋口恵子さんていう人と私とで、雑誌のための対談があったんですよ。テーマは成年後見人制度についてでした。で、その弁護士さんがですね、なぜ、認知症老人の財産問題に関心を持ったかをはなしてくれました。自分の2番目のお嬢さんが知的発達障害で、その子を、福永騎手っていう落馬して半身不随になって復帰した人がいますが、その人を復帰させたトレーナーの所へ預けているんですね。24時間の内20時間くらいは訓練というすごいハードスケジュールの訓練だそうです。そうやって娘を必死で普通の子みたいにしようとした。しかし、「みたいに」しかならないし、思春期に入った娘から嫌われるようになるんです。それから彼は考えて、福永騎手のトレーナーを介して、馬と接するようになったことから日本乗馬治療協会っていうのを作っちゃいました。大型動物です。

 私は、馬の訓練やってた女性を知っています。その人は大学馬術の選手権をとった人で、ノイローゼもやってるという多才な人です。で、この人はなんとか数度の自殺未遂くぐり抜けて今は生きてますが、わたしが彼女を救ったんじゃなくて馬が救ったわけです。馬っていうのは、その女性に聞くと怖いものだそうです。機嫌が悪いと顔半分もってかれちゃうそうですね。あの大きな口でがぶっとかまれて。それとなじんで呼吸を整えて、友情を交わすという行為、これが非常な効果を持つそうです。うちに来てるみなさんにも、どうも、馬とつきあう方がわたしとつきあうよりいいんじゃないかという人が多そうな気がする。

 器物への愛着とか、一定の人物や動物への愛着っていうのは、てんかん気質の人に起こりやすいんですよ。彼らには根が几帳面なところがあるんです。一定の常道的な行為を繰り返すところがありまして、どうなんでしょう。お部屋の片づけとかそういうのは。

  ──まあ、几帳面は几帳面です。

斎藤:几帳面でしょう。それから、ルールの設定を壊されれうといやがりますよね。例えば、慶応病院は1月11日だったかな、世間と関係ない日が休みなんですね。それは福沢諭吉の命日だか誕生日だかの日で、休みなんです。で、ですから前の年の暮れから広告を出して、その日は休みますっていってるのですが、必ずお休みなのにいらっしゃるのが各種てんかんの患者さんです。てんかんの患者さんは、その日が火曜なら火曜で通院日なら、かならずやってきます。そのくらい几帳面です。

 この辺の所をうまく利用すれば、暴力事件にならないのではないかと思う。一つは、ペットといってもかなり大型のものとのつきあいはどうだろうかと。あるいは自分の衝動性・暴力性をスポーツに転換するような、武道とか。武道はどうでしょうか。礼から始まって礼に終わるような。型を主にしたような武道ですね。これでいいお師匠さんにでも出会えると、随分違った人になるでしょう。それから、もう一つが、几帳面さを生かした一定のお仕事はできないだろうか。これを賃金をもらうお仕事とはお考えにならないで、例えば家のメンテナンスとか、配送、発送などですね、これは几帳面が生かされる仕事です。

 こういうポジティブポイントの発見、というのが、今後親の対応としては一番大事だと思います。御本人は自己評価が傷ついてるはずですので。自己尊厳というか、“自分は大事な人でいいことをやっているんだ”っていう、そういう感じがないと、私たちは幸せになれませんでしょう。自己評価をあげていく。自尊の感情をあげていく、その工夫をなさる。
 それは何なんだというと、それは親御さんが一番よく知っている。彼の自尊心を高めるにはどう褒めればいいか。アベック殴っちゃったことについては、もう起こっちゃった事件だから、あんまり殴ったことをいってもしょうがない。そうすると、褒めるわけでもないが、「車中でいちゃついてるやつはほんとに目にあまるよね」という言葉は、少なくとも彼の自己評価を傷つけることにはならない。だいたい警察拘留なんてのは、人権違反なんですよ。警察は拘置所じゃないんですから。警察に留置2カ月というのは長すぎます。本来からいえば。それだけの処罰を彼は受けてるんだから、親としては「たいへんだねえ」というのが正しい。世間が彼に付けている罰則に重しを付けて、当人に処罰的に接するなんてことを親がしてはいけません。

 まあ見ないでいうのもなんだが、基底に「てんかん気質」、てんかん発作じゃなくてもてんかん気質がおありになることだけは確かなようだから、そのような人物が今後、もし問題を起こすにしても、それが我々からみても了解可能なもの、起こって当然みたいな時に起こった、というようになるきっかけにするこつは褒めることだと思います。(続く…)

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月28日

傷害事件を起こした息子(3/3)

(続き)
image051228_1.jpg 今言った3つをですね、ちょっとお試しいただきたい。ペット、武道、そして褒めることですね。何かご質問ございますか。

  ──今度の22日に裁判があるんですけれど、そのときに私が証人に立つと、本人がいって来たんですけどね。本人は就職をしたい、就職はどこかないか、あうたびにそういう言葉が出るんですが、

斎藤:お母さんたちを安心させたい、喜ばせたい、それによって自分の自尊心を高めたいからですね。

  ──ああ、見つけてあげないなと思うんですが、本人がいなければどうしようもないですよね。ただその方法として、よく職業訓練所みたいところがありますでしょう。とりあえず、そういうところがどうかと思っておりますが。

斎藤:職業訓練校というのがありますね。希望する科目はすぐ定員オーバーになるようですが。

  ──障害職業センターっていう所があるそうで、そこでやっぱし、この子が何ができるか、何がしたいかっていうことを、カウンセリングを受けてはと思うんですが。でも本人は障害っていう言葉を聞いてどう思うか。非常に自尊心もあるので。

===
斎藤:え、ご本人がそこへいきたいといったのではないんですか。

  ──いやいや、わたくしが

image051014_3.jpg斎藤:それは、情報としてお話しするのはかまいませんが、そこへいきなさいといって、彼がそれを受け入れるかどうかはわかりません。自尊心のきずついた人の方が、障害とかいう言葉をいやがるんです。ですからちょっと難しいのではないかと思う。で、彼に向いたお仕事を設定できないかなと思うんですけれど、その遅れたりすることが非常にイヤな仕事というと、一つに「配達」がそうなんですよ。時間厳守が大切ですから。新聞配達ダメですかね。今はバイクの人ばかりかもしれないけど、それを自転車で頑張るということはできないのかな。

 ──たしかに几帳面なところもあるんですが、いい加減なところもあるんです。

斎藤:うん。でも「あんたは几帳面だ」ってきめちゃって、それを褒めるんですよ。几帳面なときに。ずぼらがあったりしたら「失望した」といわないで、それは見ない。親の方も「この子はこういう几帳面なところがある」と、そう思いこんじゃうんですね。そういうプラスポイントを見つけていく技術は、親の方も気持ちを入れ替えてやっていかないと難しいんですよ。

  ──でも、あんまり褒めてもやっぱり裏をみますからね。

斎藤:いや、褒めすぎるということはありません。親の仕事は「親ばか」です。「この子にかぎって」というその信念を通さないと、親をやってる甲斐がない。犯罪を犯そうと刑務所にいようと手首を切ろうと、お前が生きてるかぎりそれで私はうれしいという、この親の気分がどんなに子どもを癒すかということを、私は繰り返しみてきました。
 この場合にも例外ではありません。親としては大変な例ではありますが、しかし、決して絶望することはありません。

 もし万一ですね、本人が、私にあっててんかん気質の人の生活について何か意見を聞きたいというのでしたら、お会いしますよ。本当言うとあんまりつきあいたくないですけど。だからいらっしゃいとは言わないですが。
 私はてんかん性のもうろう状態の方の不機嫌状態に一度つきあって命を落としかけたことありますので、実は怖いのです。
 久里浜病院というところに勤めていたのですが、そこは、男性の看護士のポストがなくて、看護職は付属の高等看護学校の卒業生ばっかりなんです。男性は医師、検査技師だけなんです。検査技師も夕方以後帰っちゃいます。私の外来にいつもは穏和な好青年が通っていて、てんかん薬の処方を受けていました。この方がときどき凶暴になる。たまたまわたしの当直の時にいらっしゃって、もう待ってられないくらいに暴れてらっしゃる。鎮静の処置をしませんと病院中壊されてしまう。ほかに男性がいませんから、わたしがとにかく取り押さえの役。これでもわたし柔道の有段者なんですけどね、だから大概のものは何とかなってたんですけど、この人は強かった。で、なんとかかんとかですね、説得を重ねたり、ときどき関節を固めたりしながら、保護室というところへつれて行きましたが、看護婦さん、保護室に入ったところで安心したのかガタッと扉を閉めちゃったんです。わたしも保護室に入れたところまで来たので、今夜は眠れそうだと思って気がゆるんだときに、関節技がはずれまして、当人とわたしが四つにくむ形になりまして、わたしは組み敷かれまして、首を絞められて落とされそうになったんですよ。で、看護婦さんはのぞき穴からみていて「先生頑張って、頑張って」(会場笑)というだけなんです。誰かを連れてきてくれる方がわたしとしてはありがたいんですが、わたしは虫の息で「誰か呼べ」って。本人が、わたしが落ちる寸前にすっと手を離した。で、わたしは失神しないですんだし、脳の乏血でもって植物人間になったりしないですみました。そういう体験があります。

 というわけでこのタイプの方にはときどきそういうことがありますので、「本人は不機嫌だな」というときは、親御さんはお逃げになった方がいいです。それはそういうときには、つねづね過剰な税金を払っているものたち、世の治安秩序のために献身する義務を負っているものたちがいるから、その人を呼んで、鎮静を図っていただきたい。ときには入院が必要でしょうし、時には警察拘留になるかもしれません。こういうときに、無理をなさらないことをぜひ、心がけていただきたい。

 いやあ、たいへんですね。大変さを共感します。そしてわらをもすがる気持ちでここまでいらっしゃったことに、心から敬意を表します。大変だと思うし、しかし、先ほどもいいましたけど、よくこの困難な状況で4人のうち3人がそれぞれの生活をきちっとやってることを、わたしとしては、大変、参考にさせていただける。いいご家族の例をみせてもらったと、思いますよ。どうもありがとうございました。

※この原稿は「斎藤学オープンカウンセリング」(火曜日18時30分〜20時30分、東京麻布、予約不要)での相談者と斎藤学のやりとりをもとに作成されました。
※斎藤学へのご質問、ご感想を受け付けています。[こちら]にご記入の上、送信して下さい。質問については斎藤学が可能な範囲で記事中でご回答いたします。

斎藤学の講座・ワークショップ

講座名日程時間料金対象会場
斎藤学ワークショップ2/18、1914:00〜20:00
10:00〜18:00
31,500円一般東京港区
斎藤学オープンカウンセリング18:30〜20:303,000円、5,000円一般東京麻布
親のための家族相談18:30〜20:303,000円、5,000円一般東京麻布
斎藤学による木曜ミーティング12:00〜3,000円、5,000円一般東京麻布
危機介入の技法18:00〜20:005,250円、7,350円専門東京麻布

※開催日については必ず各講座の詳細ページでご確認下さい

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月29日

《大丈夫》必ず良くなる!

読者からの感想

◇46才女性

image051229.jpg 感想です。
 いつもありがとうございます。
 皆さんの悩みを読ませていただいてます。
 なんだか少しうらやましい、と感じるのが贅沢なのは承知の上なのですが。当事者の方は必死ですからね。
 私もこの8年本当に苦しかったです。アルコール依存症・息子への虐待・摂食問題・買い物依存…さらには東電OL(渋谷で売春行為の末、殺されました。)と同じ道を歩いて。

 罪悪感・悲しみ・苦しみ・やめられない酒。母親に対する怒り・憎しみ。そして何より自分自身への嫌悪感。

 斎藤先生に出会い少しずつ変化したといっても、その道もまた楽ではなっかたけど、今の私は大声で皆さんに伝えたいんですよ。
 《大丈夫》必ず良くなる!!って。だってこの私が今こうして良くなったのだから。

 だから少しうらやましいの。何故ならあの頃を振りかえると、あの苦しみの時こそ、大事な大切な自分自身が生きていた!と思えるから。
 薄皮がはがれるように少しずつ変化していくんです。必ず。必ずですよ。

 今の私は少し贅沢です。どうか今ある薄皮はなるべくゆっくり剥がれてほしい。もったいないんです。皆さん信じてくださいね。このブログを見ていることの中に、もう変化が始まっていることを。

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

2005年12月30日

母親の立場からの感想です

読者からの感想

◇37才女性

こんばんは。いつもブログ拝読させていただいています。
 12月21日の心の拡大鏡を使って〜教師と親へのメッセージ(3/4)の感想をブログに書いてみました。
 母親の立場からの感想です。
 [こちら
 お時間がありましたら、ご覧いただけると幸いです。

個別ページ][←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ][↑ページ上端へ

« 2005年11月 | ブログメイン | 2006年01月 »