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   <title>カウンセラー木附が語る『子どもと社会』</title>
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   <title>「絆」って何？（3）</title>
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   <published>2012-01-27T08:07:12Z</published>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iff.co.jp/kizuki/">
      　考えてみてください。

　もし心に染みこむコミュニケーションがある、安心と自由に満ちた家族で育ったおとなが多くいるのだとしたら、『ミタ』に象徴される“現代版の絆”などを必要とする社会になっていたでしょうか。

　「無縁社会」だの「孤独死」だのというものがめずらしくない世の中になっていたでしょうか。
　親類縁者に囲まれた故郷を「窮屈だ」と感じ、干渉されない都会を目指す人間を生んだでしょうか。
      <![CDATA[<span class="entsubtitle">「新しい公共」</span>

　結果には必ず、それをもたらした原因や要因があります。
　それを振り返り、反省することなく、ただイメージで物事を語ることはとても危険です。

　人間に幸せをもたらす「絆」や「家族」とはどのようなものであるのか。かつての日本には、本当にそんなものがあったのかを考えることなく、ただ「絆っていい」や「家族は温かい」と喧伝することは、自分の頭で考えることをせず、唯々諾々と長いものに巻かれて行く人々を育て、拡大家族とも言える全体主義の世の中を招くことにもつながっていきます。

　「新しい公共」などという、一見、とてもリベラルで反論しにくい言葉を浸透させながら・・・。

　批判的な目を持たないということは、「現実を見ない」ということです。美しいイメージや、「こうあるべき」という理想だけを大事に抱え、目の前に起きている矛盾や詭弁に鈍感になっていくということです。

　しかしそれでは、物事の本質はいつまでたっても見えてきません。良くない現状を変えていくために、どうしたらいいのかも永久に分かりません。

<span class="entsubtitle">分かりやすい例</span>

　分かりやすい例を挙げましょう。

　たとえば、美しい里山の風景やイルカが群れる海、清らかな川の流れなどの映像を見れば、だれもが「ああ、自然は素晴らしい」と思うでしょう。「こんな素晴らしい自然を壊してはいけない」と心の底から考えることでしょう。

　でも、それだけでは地球規模で進む環境破壊は止められないのです。]]>
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   <title>「絆」って何？（2）</title>
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   <published>2012-01-19T01:55:33Z</published>
   <updated>2012-01-19T01:57:28Z</updated>
   
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iff.co.jp/kizuki/">
      　一方で、「家政婦のミタ」（日本テレビ）という、ほのぼのとした家族や従来からイメージされている絆の概念とは真逆をいくようなテレビドラマが高視聴率を得ました。
　そのヒットの裏には、「かねてからある『絆』というものへのうさんくささを感じている層に訴えたのではないか？」との意見もあります。

　たとえば、2011年12月23日付けの『東京新聞』では、同番組が描いたものを「家族崩壊後の現代的絆」と紹介し、「（略）ほのぼのとしたドラマだとうそっぽい。簡単には解決しない状況の中で、それでも希望を見いだしたいという視聴者の気持ちに沿う筋立てだったのでは」と、藤川大祐・千葉大教授のコメントを紹介しています。

　また、稲増龍夫・法政大教授は同記事で「震災後、ある意味『絆』が求められたが、それは昔に戻ることなのか、と疑問に思う人もいる。昔の親子関係や絆が崩壊したといわれる今、心の中に染みこんでくる昭和のコミュニケーションとは違う、優しくないミタのオウム返しは極めて現代的」と語っています。
      <![CDATA[<span class="entsubtitle">昭和のコミュミケｰションは心に染みこむ？</span>

　コメントを読んでいて、ふと疑問が浮かびました。

「『ミタ』で表現されたものが現代的絆だと仮定して、昭和のコミュニケーションは心の中に染みこんでくるようなものだったのか？」ということです。

「絆」や「家族」が叫ばれる昨今、一部では「かつての家族の在り方」をもてはやし、そうした家族に戻ることに抵抗感を感じているとの声も聞こえてきます。

　そうした人々の多くは、今までの日本の家族が、けして「心の中に染みこむようなコミュニケーションがある」「ほのぼのとした」家族ではなかったと感じています。

　おそらく、そんなふうに感じる人にとっての家族は、「窮屈な入れ物」であり、そこで交わされるコミュニケーションは「絆」と呼ぶよりも、「支配」と呼んだ方がふさわしい関係だっのではないでしょうか。

　私も同感です。臨床の場でお会いする「生きづらさ」を抱えた方々の様子から察するに、昭和の家族の多くが、安心や自由を保障してくれる「絆」のある家族ではなく、「窮屈な入れ物」に過ぎない家族だったのではないかと思えるのです。
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   <title>「絆」って何？（1）</title>
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   <published>2012-01-13T05:32:45Z</published>
   <updated>2012-01-13T05:34:54Z</updated>
   
   <summary>　新年、明けましておめでとうございます。 　 　このようにブログでご挨拶していた...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iff.co.jp/kizuki/">
      　新年、明けましておめでとうございます。
　
　このようにブログでご挨拶していただくのも、「新年のご挨拶も、もう何度目になったのか・・・」と考えてしまうくらい、IFFでブログを書かせていただくようになってから長い時間が経ちました。

　ずっとおつきあいくださっているみなさん、また、最近になってご覧いただくようになったみなさん、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
      <![CDATA[<span class="entsubtitle">ついつい意識してしまう「家族」</span>

　ところで、年末年始になると、私がついつい考えてしまうものに「家族」があります。
　
　クライアントさんの多くが、家族と過ごすことに葛藤を抱えておられたり、共に過ごしたいと思う家族のいない現実と向き合う必要がある時期だからでしょう。

　何しろ、年末年始になるとメディアが一斉に「帰省」や「家族」をテーマにした情報を流します。
　それでなくとも、長年にわたって私たち日本人に染みついた「新年は家族と迎えるもの」という思い込みがあります。

　だから、なんとなく新年を家族で迎えられない（迎えたくない）ことに、ちょっとした罪悪感や寂しさを感じてしまうのだと思います。

<span class="entsubtitle">「家族」と「絆」</span>

　そして「家族」とセットになってよく語られるものに「絆」というものがあります。
　
　とくに昨年は、東日本大震災を受け、「命と関係性の大切さ」を多くの人が実感した年でした。
　それを象徴するように、昨年の「今年の漢字」に選ばれたのは「絆」。テレビ番組や新聞などでも「絆」をテーマにしたものがたくさんあました。

　実態はよくわかりませんが、「今年の年末年始は、いつもは帰省しない人も故郷に帰った」とか、「友達と過ごすより家族と共に過ごしたいと考える増えている」などの話も耳にしました。（続く…）]]>
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   <title>『希望の革命』（9）</title>
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   <published>2011-12-31T02:47:33Z</published>
   <updated>2011-12-31T02:49:14Z</updated>
   
   <summary>　想像力・創造力を失い、型にはまった考え方しかできない例は、たとえば「指示まちく...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iff.co.jp/kizuki/">
      <![CDATA[　想像力・創造力を失い、型にはまった考え方しかできない例は、たとえば「指示まちくん」などと揶揄される「ゆとり世代」に象徴されているかもしれません（「ゆとり世代」の若者を批判する論調には異論がありますが、今回は触れません）。

　一方、健康上の問題は13年間も続いている年間3万人の自殺や、うつ病などの気分障害の患者数の増加などに見て取れることでしょう。
　1996年には43.3万人だった総患者数が2008年には104.1万人となり、9年間で2.4倍にまで増加しています。さらに、2009年の20代〜30代の死因トップは自殺で5割を超えていますが（『平成23年版自殺対策白書』）、その実態は気分障害の増加がもっとも多いのは30代というデータとも重なります（『<a href="http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2150.html" target="_blank">社会実情データ図録</a>』）。]]>
      <![CDATA[<span class="entsubtitle">すでに『希望の革命』で看過</span>

　このような社会の問題をフロムはすでに『希望の革命』で看過していました。
　同書の「訳者（作田啓一氏）あとがき」（234ページ）には、その考えが以下のようにまとめられています。

「最大生産の原理が現代社会に貫徹しており、その貫徹の要件として最大能率、最大消費の原理が作用するとともに、上からの計画を施行するため、人間を<ケース>として取り扱う官僚主義的管理がゆきわたる。
　限られた時間と空間の中では能率的である行動も、もっと広い幅の時と所を念頭におけば、<人間というシステム>の機能障害に貢献するだけであり、体制が作った消費の欲望を追及することで、人々は物の主人公になるつもりでいるが、じつは物への依存を深めるにすぎない。物、地位、家族などの所有は自我（エゴ）を確認するための有力な方法である。

　だが、そのような方向に向かって人が貪欲になればなるほど、真の自己（セルフ）は空虚となる。自我防衛のための所有の方向は、外界に向かって自らを開き、自発的、能動的に自らを世界に結びつけることによって得られる存在の確認の方向と両立し得ない。
　今日の体制のものとでは、所有は存在を貧しくすることによってしか得られず、そして存在が空虚になればなるほど、その代償として所有の追及が行進する」

　最大能率、最大消費を目指す最大生産の原理は「グローバル経済」の名の下、ときに「民主化」などという仮面をかぶって、世界中でどんどん進んでいます。

　希望はないのでしょうか？　私たち人間はこのまま機能障害に陥り、人間らしい営みを奪われ、滅んでいくしかない。

<span class="entsubtitle">希望はある</span>

　いいえ、希望はあります。なぜなら人間は「可能性のある限り、生命を守るためのあらゆる努力をする」（同書、209ページ）存在であるからです。
　
　その兆しを、私は震災後に感じました。未曾有の大震災、原発事故という取り返しのつかない人災を経て、私たちは「命と人間関係ほど大切なものはない」ことを改めて確認しました。いくら所有し、溜め込んでも、それだけでは人間は幸福を感じられないことを実感しました。どれほどの物があっても関係性を失ってしまえば、そこにあるのは空虚でしかないことを思い知らされました。その象徴として、今年の漢字には「絆」が選ばれました。

<span class="entsubtitle">道を過つことがないように</span>

　今、私たちは分かれ道に立っています。一本の道は、人間に破滅をもたらしても大量生産、大量消費を目指す経済効率を優先する社会。もう一本の道は、人間の幸福のために経済を、物質を発展させることができる社会です。

　その選ぶべき道を過つことがないよう、来年もまた足元を見つめながら一歩ずつ進んで行きたいと思います。今年もブログを読んでいただきましてありがとうございました。みなさまにとって来年が良い年となりますよう心より祈っております。]]>
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   <title>『希望の革命』（8） </title>
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   <published>2011-12-28T05:28:43Z</published>
   <updated>2011-12-28T05:29:21Z</updated>
   
   <summary>　そんな社会では、ひたすら個性を殺し、自ら進んで「長いものに巻かれる」ことで生き...</summary>
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      　そんな社会では、ひたすら個性を殺し、自ら進んで「長いものに巻かれる」ことで生き延びるしかありません。多様性のある価値観も、生き方もできようはずがないのです。
　一昔前よりも多様化が進んだものといえば、働き方くらいなものでしょう。しかしそれも、ある労働組合の方は、こんなふうに断じていました。

「よく、派遣や契約、アルバイトなど、正社員だけでなくさまざまな選択ができるよう『働き方が多様化した』と言う人がいますが、それは違う。経営者の、大企業の都合に合わせて『働かされ方が多様化した』だけです」

　今や、非正規で働く男性は539万人で労働者全体の19%、女性では1218万人で女性雇用者の54%を締めています（2011年12月9日『朝日新聞』）。日本の従業員約27%がパートタイム労働者になりました（2011年12月15日『東京新聞』）。年収200万円以下の所得者層が1000万人を超え、低所得者（07年調査では114万円）を示す相対的貧困率は16.0%にも達しています。

　不安定雇用を強いられる人たちが就いている仕事の多くは、自分らしさや創造性を必要としないマニュアル化した仕事。流れ作業のように仕事を“こなし”、不平不満があってもおとなしく飲み込んで会社の歯車のような働き方を強いられる仕事。自分らしく意見を述べれば、すぐにクビを着られるような仕事。効率性や経済性だけを追求させられる仕事。

　つまり、人として働く意欲や意義を持ちにくい非個性的で非人間的な仕事ばかりです。
      <![CDATA[<span class="entsubtitle">「マクドナルド化」した世界</span>

　このような仕事のあり方、企業のあり方、考え方が、本来は個性や人間性、批判精神を必要とするはずの教育や福祉、医療、法律、ジャーナリズムなど、あらゆる分野に浸透しています。アメリカの社会学者であるジョージ・リッツァが指摘した世界の「マクドナルド化」です（詳しく知りたい方は『マクドナルド化する社会』早稲田大学出版部を参考にしてください）。

　確かに経済的な合理性を追求しようとするのであれば、マクドナルド的な手法ほど良いものはありません。しかし、そのために払う甚大なリスクに、私たちはあまりにも無頓着です。

「マクドナルド化」した環境で生きる人間の想像力は低下し、創造性は失われ、その考えは型にはまったものになります。働き手は阻害され、新しいアイディアは浮かばなくなり、安い給料で働かざるを得ない人を大量に生み出し、貧困の連鎖を招きます。フロムが言うとおり（同書、65ページ）、ストレスや緊張は高まり、さまざまな健康上の問題も生じ、社会は健康維持のために大きなコストを払わねばならなくなります。

　不平等感や不満、偏った優越感などが犯罪の温床となり、社会は住みにくく、リスクは高まって行きます。]]>
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   <title>『希望の革命』（7）</title>
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   <published>2011-12-26T04:36:51Z</published>
   <updated>2011-12-26T04:38:34Z</updated>
   
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iff.co.jp/kizuki/">
      　このフロムの言葉は、ともすると日本の状況を現すときに昨今よく使われる「多様化した社会」とか「個性化の時代」などとは真逆の言葉のようにも聞こえます。

　多くの人が、今の日本社会は自由に人生を選び取り、さまざまな個性に応じて生きて行けると思わされ、私たちは自由で公平な社会に生きていると錯覚しているからです。

　現実を見れば、今の社会がマニュアル主義になっていること、個人よりも組織の判断が優先されていること、ひとりひとり違う人間存在（個性）よりも効率性が重視されていることは、明らかです。

　一見、自由に見えるけれども、そこにはいつも選ぶべき答えが用意されており、それ以外の選択をすれば、その組織の中枢からはじき出されます。
　「何を言ってもいいんですよ」というタテマエを信じて本音を語れば「空気の読めない人」として排除されていくのです。
　しかもそうして片隅に追いやられ、たとえば“負け組”に入ったとしても、それは「自己責任」として、その当人が引き受けることとされます。
      <![CDATA[<span class="entsubtitle">端的に現す高校生のプレゼン</span>

　かつて私がブログ（『<a href="http://www.iff.co.jp/kizuki/archives/2007/10/post_60.html">家族はこわい</a>』）でも紹介したある高校生が言った次の言葉が端的に、そんな日本社会の状況を表しているように思います。

　私たち子どもは「子どもだから」と話し合う場を用意されず、学校ではいうように教えられても言う場を与えられず、もし意見を言っても聴いてもらえません。
　また、意見を言わなくても生きていける、物質的には裕福な社会にいます。逆に意見を言ったために周りから白い目で見られ、孤立させられてしまうなど、時には思いもよらぬ不当な扱いを受けることもあります。 　そうしているうちに、多くの子どもたちは意見を言うのを恐れ、また言っても変わらない現状に疲れ、自分の意見を主張するのをやめていきます」（1997年の子どもの権利条約に基づく第一回日本政府報告書審査での高校生プレゼンテーション）]]>
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   <title>『希望の革命』（6）</title>
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   <published>2011-12-14T09:03:01Z</published>
   <updated>2011-12-14T09:03:19Z</updated>
   
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iff.co.jp/kizuki/">
      　フロムは言います。

「現在のシステムの中で働いているすべての人間の努力や思考を導く原理はふたつあり、システムはその線にそって動いてゆく。

　第一の原理は、何かをすることが技術的に可能であるから、それを行わなければならないという原理である。核兵器をつくることが可能なら、たとえ私たち皆が破滅することになっても、それは作られなければならない。月や惑星に旅行することが可能なら、たとえ地上の多くの必要を満たすことを犠牲にしてでも、それはなされなければならない。

　この原理は、人間主義（ヒューマニズム）の伝統が育ててきたすべての価値の否定を意味する。この伝統においては、何かをしなければならないのは、それが人間にとって、また人間の成長、喜び、理性にとって必要だからであり、またそれが美であり、善であり、あるいは真であるからであった。

　何かが技術的に可能だからしなければならないという原理がいったん受け入れられると、他のすべての価値は王位を奪われ、技術的発展が倫理の基礎になる」
（『希望の革命61ページ』）
      <![CDATA[<span class="entsubtitle">フロムのことばを繰り返しながら</span>

　フロムのこの言葉を繰り返しながら、ひとたび事故が起これば、その周辺で暮らすあらゆる生命を脅かすことになっても、原発の輸出にためらいを感じ無い人たち。また、つい最近の、情報収集衛星の打ち上げ成功を「成功率95%の世界最高水準の技術力を示した」と喜び、沸くニュースを読むと、その類似性よく見えます（<a href="http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111213-00000303-mailo-l46" target="_blank">情報収集衛星:H2Aロケット20号機打ち上げ　「世界に技術力示す」/鹿児島</a>）  
。

　福島第一原発の事故を意識し、さすがに原発輸出ビジネスの継続にはクビをかしげるマスコミもありますが、情報収集衛星打ち上げを疑問視する声は、とんと聞きません。宇宙開発とそのビジネス利用への参入をもてはやすムードの方がずっと高いように思えます。

<span class="entsubtitle">第二の原理は最大の効率と生産</span>

　さらにフロムは、同書（62ページ）で以下のように続けます。

「第二の原理は最大の効率と生産の原理である」と。そして、効率と生産の原理を挙げるためには、「人間は個人性を奪われ、自分自身の中よりもむしろ団体の中に自己の同一性を見いだすように、教えられなければならなくなる」と。]]>
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   <title>『希望の革命』（5）</title>
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   <published>2011-12-05T06:09:45Z</published>
   <updated>2011-12-05T06:10:12Z</updated>
   
   <summary>　まるで「死の商人」です。 　制御する術が確立していなかったことが露呈し、甚大な...</summary>
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      <![CDATA[　まるで「死の商人」です。

　制御する術が確立していなかったことが露呈し、甚大な事故が起きれば損害賠償保険さえ打ち切られてしまう可能性がある原発（<a href="http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/nucerror/list/CK2011112202000089.html" target="_blank">福島第一原発　1200億円保険打ち切り</a>）。そんな危険なものを平気で他国へと売りつけることができる神経に、戦慄さえ覚えます。]]>
      <![CDATA[<span class="entsubtitle">野田政権の姿勢</span>

　それだけではありません。

　野田政権は、アメリカ軍普天間飛行場の沖縄移設の具体化、武器輸出三原則の見直し、環太平洋連携協定（TPP）への参加推進の姿勢などを明らかにしました。
　いずれも、アメリカ追随、そして、輸出によって利益を生み出したい人々の顔色をうかがっているとしか思えないやり方です。

　さらに消費税率の引き上げについては、野田首相が先のG20首脳会議でその意志を表明するという「自国民の生活よりも経済活動優先」の意思もうかがい知れました。

　こうした現実を並べてみると、人の命の尊さ、大切な存在とのつながりを否応なく実感させられた大震災を経た分かれ道の先にあるのは、やはり「技術を人間の幸福に奉仕させる社会」ではなく、「人間を技術（経済）の発展に奉仕させる社会」のように思え、暗澹たる気分になります。

<span class="entsubtitle">「人間が幸福になれる社会」など念頭にない</span>

　もし野田政権が、ほんのわずかなりとも「人間が幸福になれる社会」を念頭に置いているのであれば、このタイミングで原発輸出やあからさまなTPP参加意欲を示せるでしょうか。

　被災された方の中には、農業や酪農、漁業などの第一次産業に従事者がたくさんいます。
　そうした方々の生活が、地域が、仕事が、再建の目処も立たない今、その神経を逆なでし、打ちのめすようなことをできようはずがありません。

　いくら「農業などは対象外にするよう交渉する」と日本政府が力説しても、アメリカ側の強い姿勢、アメリカ追従の野田政権に、それができるかはかなり疑問です。
　
　つい最近も日本政府は狂牛病問題がつきまとうアメリカからの牛肉の輸入を緩和する準備に入りました。
　アメリカの食肉処理工場はブラックボックスで、どんなことが行われているのかの実態も分からず、安全性の確保が厳しいにも関わらず、アメリカの意向に沿った判断を下したのです。]]>
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   <title>『希望の革命』（4）</title>
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   <published>2011-11-28T05:17:38Z</published>
   <updated>2011-11-28T05:18:00Z</updated>
   
   <summary>　もはや、「原発は安全で低コスト、そして環境に優しい」とは、とうてい思えません。...</summary>
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         <category term="エッセイ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iff.co.jp/kizuki/">
      <![CDATA[　もはや、「原発は安全で低コスト、そして環境に優しい」とは、とうてい思えません。

　震災から9ヶ月がたとうというのに、福島第一原発では「安全」からはほど遠い状況が続いています。

　復旧や廃炉に向けては、少なくとも30年以上はかかるという見通しです（『朝日新聞』11月12日）。
　また、フランスの政府関連機関である放射線防護原子力安全研究所（IRSN）は、流出した放射性物質の量は東京電力が試算し公表している量の20倍相当になるとの報告を発表しています（<a href="http://water-news.info/2093.html" target="_blank">福島第一原発事故－海洋放射能汚染は東京電力試算の20倍相当</a>）。]]>
      <![CDATA[<span class="entsubtitle">見せかけの安全と低コスト</span>

　原発が「安全で低コストに見えた」のは、事故や放射線の危険性をまったく度外視していたからです。
　事故が起きたり、廃炉にしたりする場合の費用や何かあったときの補償などを、まったく組み込まずに、つくり続けてが起きたからです。

「環境に優しい」というのは、たんに「発電の際、二酸化炭素を出さない」というだけの話にすぎません。

　今まで私たちの社会は、そんな原発を受け入れ、特別な予算までつけて増設することを許してきました。そうして、事故の後でさえも、「原発は効率がよく、クリーンなエネルギー」と言ってはばからない経済界や大企業の利益に与してきました。

　フロムの言葉を借りるなら、まさに原子力（水爆戦争）による破滅への道を選び、「技術を人間の幸福に奉仕させる社会」ではなく、「人間を技術（経済）の発展に奉仕させる」社会をつくってきたのです。

<span class="entsubtitle">暗雲垂れ込める分かれ道</span>

　さて、分かれ道です。
　これから先、はたして日本は人間を幸せにする社会を選び取ることができるのでしょうか。

　残念ながら、昨今の野田首相の言動を見ていると、暗雲が垂れ込めていることは間違いなさそうです。
　野田首相率いる政府は、この期に及んで、なおも「原子力ビジネスを継続する」と断言し、新興国を中心に原発を輸出するという姿勢を崩しません。

　そんな日本政府の態度を「アメリカへの忠誠の証し」（『東京新聞』2011年9月27日ほか）と批判する声もあります。
　アメリカの原子力関連企業は、日本の原発メーカーから莫大なライセンス料を得ており、さらにはアメリカ企業は日本のメーカーを通して技術を維持していると言うのです。

　以下のブログに、関連記事が載っているので、ご興味のある方はご覧ください。

・<a href="http://blog.livedoor.jp/yuukurihara/archives/3586850.html" target="_blank">原発-アメリカ内「政府(推進)ＶＳ電力会社(脱原発)」それぞれの記事からみえるもの</a>]]>
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   <title>『希望の革命』（3）</title>
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   <published>2011-11-24T02:10:22Z</published>
   <updated>2011-11-24T02:11:45Z</updated>
   
   <summary>　フロムがかつて『希望の革命』で書いたのと同様、まさに今、日本は分かれ道に立って...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iff.co.jp/kizuki/">
      <![CDATA[　フロムがかつて『希望の革命』で書いたのと同様、まさに今、日本は分かれ道に立っています。

　東日本大震災という大きな悲劇に見舞われ、多くの命が奪われ、建物や地域が崩壊しました。そしてつい最近、政府が「約7万人」としてきたこの震災の避難者が、実は33万にんだったという報告も出されました（<a href="http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20111119k0000m040031000c.html" target="_blank">東日本大震災：避難者３３万人に…仮設入居者など合算</a>）。

　こうした現実を前にして、いったいこれから「何を大切にし、何を目指して、どんな社会をつくっていくのか」が問われています。

　それは、被災地やその復旧に関してだけの話ではありません。日本全体として、「いったいどんな国をつくっていくのか」を考え直さなければなりません。]]>
      <![CDATA[<span class="entsubtitle">震災後の“ほころび”</span>

　何しろ私たちは、震災後、国の施策や姿勢、今まで日本という国が選び取ってきた道筋などについて、いくつもの“ほころび”を目にしました。

　その象徴と言えるのが原発です。

　事故後、東京電力や原発メーカー、そして国が企業利益を重視するあまり、いかに安全対策を怠ってきたか、嘘をつき続けてきたがが、明らかになりました。
　嘘を嘘で塗り固めるために、タウンミーティングでは“やらせ”を行い、「原発は安全でクリーン」というパンフレットや教材をおとなから子どもにまでばらまき、反対意見を封じ込めるために国からの交付金だけでは飽きたらず、原発設置県や自治体に対して、電力会社が多額の寄付をしてきていたことも分かってきました。

　全国で最も原発の多い福井県には、匿名の大口寄付が2010年度までに少なくとも計502億円寄せられおり、そのうち約3割の150億円は、同県内に原発をもつ関西電力など電力事業者からということです。さらに、自治体関係者は「電力事業者以外に大口寄付はほぼない」と話しているので、その他の寄付も電力業界からの可能性が高いそうです
（<a href="http://www.asahi.com/national/update/1103/OSK201111030126.html" target="_blank">原発地元に匿名寄付５００億円　福井、大半は電力業界か</a>）。]]>
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   <title>『希望の革命』（2）</title>
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   <published>2011-11-15T05:21:41Z</published>
   <updated>2011-11-24T02:12:43Z</updated>
   
   <summary>『愛するということ』（紀伊國屋書店）に出会って以来、邦訳されているフロムの本は、...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iff.co.jp/kizuki/">
      『愛するということ』（紀伊國屋書店）に出会って以来、邦訳されているフロムの本は、すべて読みました。

　その後も、人生の節目、迷ったり、困難にぶつかったりしたとき、考えに自信が持てなくなったときなど、さまざまなときにフロムの本を手に取っては、指針にしたり、自分の気持ちを確かめたり、気持ちを慰めたりしてきました。
　
　いずれの著書もとても興味深くて大好きです。
が、おもしろいことに、そのときの自分の状況や気分、社会情勢などによって、“しっくりくる”本は変わります。

　最近、「しっくりくるなぁ」と思っているのは『希望の革命』（紀伊国屋書店）です。
      <![CDATA[<span class="entsubtitle">『希望の革命』の出版当時は</span>

　そのアメリカ版の初版は、1968年に書かれました。

　当時のアメリカでは、泥沼化するベトナム戦争に反対する声が高まっていました。そしてちょうど、反戦を唱え、アメリカの政策の変換を求める人々の支持を集めて、ベトナム介入政策を批判した教授で、反戦活動の指導者でもあるユージーン・マッカーシー（<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BC" target="_blank">Wiki pedia</a>）が大統領指名選挙に名乗りをあげたときでもありました。

<span class="entsubtitle">フロムが望んだ「人間主義と希望が復活する社会」</span>

　フロムは、同書の「はしがき」で「私たちは今、分かれ道に立っている」として、その先に延びるふたつの道について次のように述べています。

「1本の道はーー水爆戦争による破滅とまではゆかないとしてもーー完全に機械化され、人間が機械の中の無力な歯車になってしまう社会に通じている。もう一本の道は人間主義と希望の復活にーー技術を人間の幸福に奉仕せしめる社会にーー通じている」

　言うまでも無く、フロムが望んだのはマッカーシーが大統領となり、「人間主義と希望が復活する社会」でした。

　しかし、現実はそうはなりませんでした。その後、アメリカ国民が選んだのは前者でした。
　あれから40年以上が経過した今となっては、マッカーシーは敗れ、原子力を推進し、人間の幸福を技術（経済利益）に差し出すようせまる世界になってしまったことは、すでに歴史が証明するところです。]]>
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   <title>『希望の革命』（1）</title>
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   <published>2011-11-07T04:22:22Z</published>
   <updated>2011-11-07T04:23:34Z</updated>
   
   <summary>　私が敬愛する研究者の1人にエーリッヒ・フロムがいます。 　ドイツの社会心理学者...</summary>
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      <![CDATA[　私が敬愛する研究者の1人にエーリッヒ・フロムがいます。

　ドイツの社会心理学者であり、哲学者であり、精神分析を修め、マルクス主義とジークムント・フロイトの精神分析を社会的性格論で結び付けたことで知られ、心理学の教科書では「新フロイト派」とか、「フロイト左派」と紹介されている人物です（<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%A0" target="_blank">ウィキペディア</a> ）。]]>
      <![CDATA[<span class="entsubtitle">理解できなかったその思想</span>

　エーリッヒ・フロムの代表作と言えば『自由からの逃走』（創元社）ですが、私がはじめて出会った作品は『<a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%84%9B%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8-Erich-Fromm/dp/4314005580/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1320639608&sr=8-1" target="_blank">愛するということ</a>』（紀伊国屋書店）です。

　当時の私は大学生。友人に勧められて手に取った一冊でした。

　その頃、「多くの人から愛され、与えられる女性こそが魅力的なのだ」とか、「社会で認められるひとかどの人物たることこそ大事なのだ」という社会の常識にはまり込み、いかに生きるべきかと悩んでいた私にとって、同書の「与えること自体がこのうえのない喜びなのだ」「愛とはだれもが浸れる感情ではなく、技術なのだ」というメッセージには、驚愕という言葉以外は思い当たりませんでした。

　そして同時に、「いったいそれはどういうことなの？」と思い、何度となく本を読み返しても、実感として分からなかったことも覚えています。

<span class="entsubtitle">もしフロムと出会わなかったら</span>

　それがフロム（の思想）との初対面だったわけですが、振り返ってみれば「あの出会いがなかったら、今、私はこの場所に立っていないだろうなぁ」と、しみじみと思います。

　もちろん、フロムとの出会いだけがすべてではありません。
　でも、「もしもフロムに出会わなかったら、臨床心理の世界に引かれ、ここでブログを書かせていただくという機会を持つことはなかったのではないか」と思うのです。
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   <title>戦争がなくても平和じゃない（11）</title>
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   <published>2011-10-26T05:13:41Z</published>
   <updated>2011-10-26T06:20:32Z</updated>
   
   <summary>　だからと言って子どもに「本当のことを話してごらん」とか「抱えているものを全部は...</summary>
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      　だからと言って子どもに「本当のことを話してごらん」とか「抱えているものを全部はき出さしなさい」と促すことがいいわけではありません。

「『がんばらなくてもいい！』・・・そんな新しい社会へ（4）」でも書いた通り、日々の生活さえままならない避難所や、その延長線上にあるような生活の中で、物理的な支援が圧倒的に足りない中で、心にある感情を出していくことはとても危険です。

　虐待などの治療においても、そのまっただ中にあるときには、心の中を探るような踏み込んだセラピーなどはできません。すべてはある程度安全な環境が確保でき、継続的なケアが可能になってから始まることです。
      <![CDATA[<span class="entsubtitle">「もう終わったこと」などと言わないで</span>

　前回にご紹介した少女も、同じ文章の中で次のように述べています。

　しかし、だからと言って子ども達今の声を疑うような真似や、心の不安を無理にこじ開けるような真似は絶対にしないでほしい。難しい事かもしれないがそれだけ複雑でデリケートな問題なのだ。子ども自身さえ今の感情が偽りのつくったものだなんてこれっぽちも思っていない。

　しかし、本当の気持ち、心の奥深くに眠っている不安や悲しみは時間を経てやってくる。忘れた頃にその子を襲う。今大丈夫だからといって決して油断はしないで欲しい。おとな達が忘れかけ、立ち直った頃でも子どもの心の中では根強くその気持ちがこびりついているかもしれないのだから。

　そしてこれから歳月が経ってもし、身近な、あるいは関わった子ども達が不安や恐怖を口にしたら、その時初めて同調してほしい。「辛かったね」と言って欲しい。「怖かったね」と言って欲しい。

　そしてこれからどうすれば安心を得られるのかを一緒に考えて欲しい。それこそが関係性であり、真に子どもがおとなに求めているものなのだ。決して「頑張れ」とか「大丈夫」とか「もう終わったこと」などと言って欲しくない。
（DCI日本『子どもの権利モニター』108号より）

<span class="entsubtitle">「お疲れさま」と言ってあげたい</span>

　今、被災者の立場ではないおとなが被災した子どもたちに向けてすべきことは、子どものいちばん身近にいるおとなの方たちが、安心して日々を送り、幸せを感じ、少しでも早く余裕を持って生きられる環境を整えることです。
　
　将来を見通せるよう、その意思を聴き取り、補償をし、生活の再建ができるよう援助し、子どもに目を向けられるようにすることです。
　こうした援助や補償に向けて動くことができるのは、被災者ではないおとなだけなのです。

　それができない限り、被災した子どもたちの“戦争状態”はけっして収束には向かわないでしょう。

　震災から7ヶ月が過ぎました。もうそろそろ、非常事態の中でがんばり続けてきた子どもたちに「お疲れさま」と言ってあげたいと思います。]]>
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   <title>戦争がなくても平和じゃない（10）</title>
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   <published>2011-10-20T02:07:52Z</published>
   <updated>2011-10-20T02:08:44Z</updated>
   
   <summary>　もちろん、津波や地震の被害は虐待（不適切な養育）とは違います。 　しかし、それ...</summary>
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         <category term="エッセイ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iff.co.jp/kizuki/">
      　もちろん、津波や地震の被害は虐待（不適切な養育）とは違います。
　しかし、それによって子どもが「安全な場を失ってしまう」ということは同じと言えるのではないでしょうか。

　おとなを頼らなければ生きていけない子どもには、安心して自分の思いや願いを表現し、そのすべてを抱えてもらえる安全基地（受容的・応答的な関係）が必要です。
　しかし、虐待も震災も、その土台を根幹から揺るがします。

　生々しい恐怖体験にさいなまれながら、生活の再建に汲々とするおとなを前にした子どもは、すべての欲求を引っ込めるしかなくなってしまいます。
      <![CDATA[<span class="entsubtitle">自らの体験と重ねて語る少女</span>

　ちょっと立場は違いますが、過労死で父親を亡くしたある少女は、震災によって親を失った子どもたちとかつての自分を重ね、こんなふうに述べています。

　今のこの状態が、私が10年前に父を亡くした時と重なってしょうがない。
　私の父は突然死だった。ある日突然私の日常からいなくなった。そして私が周囲から、かけられた言葉も「頑張って」「しっかりして」「大丈夫だよ」これが大多数だった。

　この言葉達に悪気がないと知ったのは随分と歳を重ねた後だった。
　当時私は「頑張れるはずがない」「しっかりなんてできない」「大丈夫なわけない」と思った。
　そしてこの様な言葉をかけてくるおとなたちをずいぶんと恨んだ。

　感じざるを得ないのだ。あの被災地の子ども達の、おとなに向けた「心配しないで」と言っているかのようなあの笑顔、苦しみや悲しみを感じることすら困難な、何かに憑かれた様なあの目。
　それは10年前、私がおとな達に向けた顔と大して変わりはないのだろう。そして私は怒りを感じずにいられない。今、目の前にいる子ども達の姿が真実だと思って疑わないおとなたちを。　

　決して子ども達は嘘をついているのではない。が、だれが目の前で悲嘆にくれているおとな達を前に悲しんでいられようか。
　誰が目の前で絶望に打ちひしがれているおとな達を前に自分自身の不安を口に出せようか。だから子ども達は笑う。しゃべる。そして一人になった時そのショックに襲われる。
（子どもの権利のための国際NGO・DCI日本機関誌『子どもの権利モニター』108号より）]]>
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   <title>戦争がなくても平和じゃない（9）</title>
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   <published>2011-10-11T06:36:06Z</published>
   <updated>2011-10-12T06:59:39Z</updated>
   
   <summary>　子どもはそうやって徐々に、恐怖や不安、寂しさなどのリアルな感情を封印する術を上...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.iff.co.jp/kizuki/">
      　子どもはそうやって徐々に、恐怖や不安、寂しさなどのリアルな感情を封印する術を上手に身につけていきます。そして、だれかを頼ることをあきらめ「自分の面倒は自分で見よう」という決心を固めていきます。

「だれかを頼る」ということは、その相手に自分を預けるということです。それは、不測の事態がいつでも隣にあり、余裕のないおとなしかいない家庭で暮らす子どもにとっては、自分の身を危険にさらす行為とイコールです。
      <![CDATA[<span class="entsubtitle">感情に無頓着で人に頼れない子ども</span>

　子どもが、安心して生きていくためには、ある程度の一貫性と秩序が必要です。だから、おとながそれを子どもに与えることができない場合、子どもはどうにかしてそれを手に入れようと、自らさまざまな工夫を始めます。

　たとえば、おとなの代わりに日常生活をオーガナイズする「責任を負う役割」を担ったり、どんな状況でもすべてを受け入れることができる「順応者」になったり、自分はさておき、傷ついた妹弟などを慰める「なだめ役」になったりします。

　中には、おとなにも分かりやすい問題行動を取ることで「自分は安心してくらせていない」と警鐘を鳴らすことができる子もいますが、そうはできない子どもも多いのです。
　
　見かけ上の役割はいろいろですが、そこに共通してみられる特徴があります。
「自分の感情に無頓着である」ということ。そして「人に頼ることがとても下手である」ということです。

<span class="entsubtitle">子ども本来の姿は見えなくなる</span>

　ところが皮肉なことに、「責任を負う役割」だったり、「順応者」だったり、「なだめ役」だったりする子どもの姿は、おとなからは「しっかり者で、聞き分けのいい、おとなを助けてくれる子ども」に見えます。

　おとな側の「子どもは元気で、苦労なく育って欲しい」という願いや、「もうこれ以上の難問を抱え込みたくない」という無意識もはたらくのでしょう。過酷な日々の生活を考えれば、無理からぬことです。
　
　しかし、一見、問題のない子どもの姿は、実は子ども奥底に隠れている“おとなに甘え、守ってもらう存在”である本来の姿を見えなくしてしまいます。

　アルコール依存の家庭で育った子どもたちの抱える問題に注目し、アメリカでその治療・研究・予防に当たってきた社会心理学博士クラウディア・ブラック氏は、その著書『私は親のようにならない』（誠信書房）の「まえがき」で、次のように述べています。

「多くの子供たちが、予測不能で混乱した生活の中で虐待されて暮らしながら、『元気なよい子のように見える』ことも、世界中に共通したことだと思います」]]>
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