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問題の多い「改正」教育基本法の成立や年末年始などがあり、「道徳や説教で子どもが救えるか?」で予告した「子どもたちが本音を語ることができずいる現実」について書く機会がなかなかありませんでした。予告を読まれていた方々に、お詫びいたします。

この間、政府の教育再生会議は、教職員、加害者や傍観者の子どもへの懲罰的な意味合いの強い「いじめ問題への緊急提言」(2006年11月29日)を出しました。文部科学省は子どもの声を重視し、「本人が『いじめられている』と感じたら、いじめである」との新しい定義を発表。いじめや自殺の調査を抜本的に見直すことを決めました(2007年1月19日)。

また、いじめを受けていることを学校に相談した後輩を集団で暴行したとして、都立定時制高の生徒4人が傷害容疑で逮捕される事件なども起こりました。


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そうした中、この24日には教育再生会議が安倍晋三首相への第1次報告を提出。そこにはいじめ対策として、加害者の出席停止措置や、学校教育法で禁止している体罰(実際には依然として存在しています。「子どもの声を国連に届ける会」2参照)の見直し、教師が「毅然たる指導」ができる体制づくりの必要などが書かれていました。
安倍首相は、この報告を受け、学校教育に関わる三つの法案の「改正」案を今国会に提出するそうです。

ところで、今回は触れませんが、第1次報告には「『ゆとり教育』を見直す」として、授業時間数の増加を促したり、高校での奉仕活動の必修化を提言したりするなど、見過ごせない問題が多々あります。
いずれ、これらの問題にも取り上げていきたいと思っています。(続く…

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教室から追放されたいじめっ子はどうなる?

教育再生会議の提言や報告はまったく了解不可能です。その内容は1995年に文部科学省「いじめ対策緊急会議」が出した「当面の方策」や2000年の教育改革国民会議の答申を厳罰化させただけ。「力で押さえつける非行対策」の枠組みを出ていません。

相変わらず「なぜいじめが起こるのか」、「どうしたらいじめられている子が周囲のおとなに真意を打ち明けることができるのか」という視点はまったく入っていないのです。

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もちろん、ひどいいじめの場合には、緊急の対応が必要です。一時的にいじめている子どもといじめられている子どもを引き離すこともあり得るでしょう。
しかし、それが根本的な解決になるでしょうか。見せしめ的な教室からの追放や懲罰的な奉仕活動によって、子どもに規範意識を植え付け、更正させることができると本当に信じているのでしょうか。

懲罰で教え込まれなくても、いじめが「いけないこと」であることくらい、いじめっ子も重々承知です。それでも今、その子どもが生き延びるためには、だれかをいじめることが必要なのです。
虐待する親が、DVの夫が、自分の抱えてきた過去や苦しさ、今、直面している辛さから、その行為を止められないのと同じです。いじめっ子は、いじめという今できる方法を使って、苦しさや辛さ、悲しさを「分かって欲しい」と懸命に訴えているのです。

教室から追放されたいじめっ子の面倒は、いったいだれが見るのでしょうか。いじめっ子の発したSOSはきちんと受け止められるのでしょうか。その子が本当に人生をやり直せるような人間関係を紡ぐためのサポートは用意されているでしょうか。

私にはそうは思えません。
「子どもの安全」を理由に子どもたちの個人情報が警察へと流れ、警察介入の拡大と幼児からの少年院送致も可能にする少年法「改正」案が継続審議され、アメリカから輸入されたゼロ・トレランス(寛容度ゼロの指導)が声高に叫ばれている現実を考えれば、教室から追放された子どもがどのような扱いを受けるのかは想像に難くないからです。(続く…

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image070205.jpg教師自身が自分の身を守ることで精一杯

一方で「子どもの声を聞こう」という、今までにない姿勢を打ちだした文部科学省には一定の評価はできます。しかし、本当にそんなことができるのかという疑問は払拭できません。
アンケートなどを回しても、子どもはそこに本心など書いてはくれません。教師や親からの聞き取りもほとんど有効性はないでしょう。子どもはおとなの真意を読み取り、その期待に応えようと演技をする存在だからです。

子どもに本音を語ってもらいたいなら、毎日の生活の中で「このおとなは信頼できる」、「このおとななら何を言っても自分を責めたりしない」と感じ、自由に振る舞える関係性をつくっておく必要があります。
そのためにはまず、子どもの身近にいるおとなたち(教員や親)が、ゆったりと子どもに向き合えるような環境がなければいけません。


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しかし、今の家庭や学校にそのような余裕があるでしょうか。
少なくとも東京都のように、毎年1500人もの教員が辞め、「個性ある学校」づくりという名の数値目標達成に校長が青息吐息になり、副校長が事務作業に追われている状況では難しいでしょう(『週刊金曜日』2007年1月19日号)。

東京都では、単学級が増え、教師が評価され、教師同士が競争させられているなかで、どの教師も孤立。教師がチームワークを取って子どもの問題に向き合うことなど、とてもとてもできなくなっています。
以前は、同じ学年担当や先輩に相談して乗り切った子どもや保護者とのトラブルも、みんなひとりで抱え込まなければいけない状況が生まれているのです。

そのうえ、週指導計画案など書類作成などの事務仕事が増え、職員室にいても各々がパソコンに向かって黙々と仕事に追われるようになってきています。新人教師が自殺するのも当たり前でしょう。
何しろ、仕事に失望して辞めていくベテラン教師を補填するため、大量に採用している新人教師の新任研修は年間300時間を超えています。研修をこなすだけでも大変なのに、職場で相談できる人もいないのでは、耐えられるはずがありません。

職員会議が無くなり、教師は管理職が決めたことをやらされるだけになってしまったことも、教師を疲弊させている一因です。校長権限が強化され、3年で異動させられるようになってしまったため、管理職にもの申すことさえできず、教師が創造的な学級運営を行ったり、授業や子どもとの関わりについて自由に考えたりすることもできなくなってしまったのです。

なかには「不適格教員」のレッテルを貼られながらも、理想の教育を行おうと頑張っている教師もいます。しかし、そのために費やすエネルギーは計り知れないほど大きくなります。
このような環境では、教師自身が自分の身を守ることに精一杯で子どものことなどかまってはいられないでしょう。

「教育の『原点』を取り戻すために」で書きましたが、2005年度に病気休職をした全国の公立小中高教職員は10年間で約3倍の7000人強。そのうち、うつ病などの精神疾患で休職したのは前年度比619人増の4178人で過去最多ということも改めて強調しておきましょう。(続く…

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子どもの世界にも浸透する競争・格差社会

親についても同様です。最近、都内の公立学校教師に聞いた話によると「いわゆる『底辺校』や『困難校』と呼ばれる学校の親は、食べていくことに必至で子どものことどころではない」そうです。
1995年頃から増え続けている雇用者全体に占める非正規雇用数は、ここ20年で2倍の32.6%(『ニッセイ基礎研 REPORT』2006.5)。家計の貯蓄率も過去最悪の3.1%です(『東京新聞』2007年1月13日)。大企業が過去最高益を更新している裏側で、今日の生活にも困る層が確実に生まれています。

他方、裕福でも子どもが親に安心して本音を語れる家庭はそんなに多くはありません。裕福な親の多くは、子どもへの期待が大きく教育熱心です。そのため、幼い頃から子どもたちを塾や習い事へと駆り立て、子どもが何を感じているかには無頓着であったりします。

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文部科学省によると、この10年で新設された私立小学校は全国で27校。学習塾は小学受験に照準を合わせた生徒の囲い込みに精を出しています(『朝日新聞』2006年10月15日)。
子どもの世界にも、競争・格差社会の影響は確実に及んでいるのです。

こうした話を聞く度、私は有名な心理学者であり、「心の教育」の提唱者である河合隼雄文化庁長官のお膝元・京都市を取材したときに出会った子どもの話を思い出します。2005年のことです。

その子は、中学校のクラスの様子を「昔の階層社会のよう」と、こう表現したのです。

「成績を見ると、その子どもの家の経済状態が分かった。成績が一番上の特別進学校を目指す子は、年間100万円もの塾代を払える家の子。最下位の落ちこぼれで無気力な子は貧乏な家の子。そのどっちでもない家の子が真ん中の成績だった」

その子によると、塾では「教師が喜ぶ自己評価表の書き方」や「内申書を上げるための態度」も教えてくれるとか。
「たとえば、道徳で戦争について学んだら『二度と戦争を起こしてはいけないと思いました』と書けば二重丸だとか、行事があるときには積極的に手を挙げて委員に立候補すれば教師の心証が良くなるとか」などだそうです。

授業で自己評価表を書かされる度に、その子は「正直に書いて成績が落ちるのを選ぶのと、ウソをついて受験のための点数を取るのとどっちが正しいことなんだろう」と悩み、学校に行くとお腹が痛くなってしまったとも語っていました。

当時すでに京都市では、教育基本法「改正」を先取りした学校選択制、教育特区、学力テストなどによる学校の序列化、道徳教育(心の教育)という規範意識の徹底などが始まっていました。東京都と並ぶ勢いの教育「改革」が進められていたのです。
独自カリキュラムなどを持つ少数の特別進学校をつくり、子どもたちを競争させる一方で、いわゆる“落ちこぼれ”の子どもたちの受け皿としてスクールカウンセラーの増強や不登校の子どものための学校づくりなどが盛んでした。

進学校のある学区は土地やマンションの価格も上昇。不動産広告でも「○○学校学区内」と書かれていると、値段が違っていました。富裕層のなかには、別宅を買うなどして子どもを進学校のある学区に通わせたりもしている親もいました。

さまざまな問題を引き起こしたことから約50年間行われていなかった全国一せい学力テトが始まれば、東京都や京都市のような状況は、じわじわと全国へと広まっていくでしょう。全国規模で「昔の階層社会のよう」な学級や学校、地域が出現しても驚くことではありません。

そのような環境で、果たして親や教師は「子どもの声を聞く」ことができるのでしょうか?(続く…

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子どもが安心して本音を語ることができる環境を

image070215.jpg それでなくても子どもが本音を語ることは容易ではありません。そのことを教えてくれたのは、以前、このブログでご紹介した「子どもの声を国連に届ける会」のHさんです。
いじめによって4年間を不登校で過ごしたHさんは、2004年に行われた国連・子どもの権利委員会の日本政府報告書審査で、自身の体験を次のように語っていました。

「私自身、小学校の時にいじめをうけ、そのことを誰にも相談出来ませんでした。学校のなかでは他人に自分の弱みを見せては生きていけないからです。弱さを隠し、先生にも親にも相談できないまま、とうとう学校に行くことが出来なくなりました。12歳から16歳までの4年間、不登校でした」


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でも、Hさんは、けしておとなを信頼していないわけではありませんでした。
プレゼンテーションの後、子どもの権利委員会委員長が「日本の子どもは親に安心して話ができるような関係にないのか」と質問すると、「私は親との関係は良かった」と前置きしたうえで、こんなふうに発言しました。

「たとえ親との関係は良くても、私は学校でいじめられていることを親には言えなかった。・・・それは親に心配をかけたくなかったからです。そういう子どもはいっぱいいます」

マイクを握りしめ、肩をふるわせながら、とぎれとぎれに語られたHさんの言葉は、子どもの権利委員会委員をはじめ、その場に居合わせたおとなの胸を大きく揺さぶりました。
いつもは「しっかり者」のHさんであっただけに、こらえようとしてもあふれてしまう涙にむせびながら嗚咽する姿は印象的で、今も私の目に焼き付いています。

そんなHさんの姿が、「生まれかわったらディープインパクトの子どもで最強になりたい」、「お母さんお父さんこんなだめ息子でごめん 今までありがとう」と書き残して自殺した筑前町の男子生徒と重なります。

Hさんや男子生徒の後ろには、「大好きな親に心配をかけるような子どもであってはいけない」、「いじめられているなんて、なんて情けないんだろう」と自らを責めながらも、「だれかにこの辛さを気づいて欲しい」「弱い自分を受け止めて欲しい」と、願って一日一日をどうにか生き延びている大勢の子どもたちの姿が見えます。

12年前にやはりいじめの存在を訴える遺書を残して自殺した愛知県西尾市の大河内清輝君の父親の元には「いじめがテレビで取り上げられると、親がいじめは恥だと言う。今いじめられているととても言えない」との手紙が寄せられているそうです(『東京新聞』2006年10月15日)。
「強くなければ生きていけない」という暗黙のメッセージを送り続ける社会で生きているのですから、当たり前でしょう。

今、私たちおとながすべきことは、いじめっ子に懲罰を与え、いじめられている子どもがいないかを監視することでしょうか? 教育に関連する法律を変え、教師を締め上げることでしょうか?

いいえ、どうではないでしょう。
いじめっ子も、いじめられっ子も、安心して自分の辛さや苦しさ、そして弱さを語ることができるよう、身近なおとなが子どもとゆったりと向き合える環境を整えることこそ、急がれるべきです。
(おわり)

image071213.jpg「10代の自殺者急増」
そんな新聞記事を読んだのは今年6月のことでした。

『東京新聞』(07年6月8日付)によると、埼玉県内全体の自殺者数は昨年よりやや減ったものの、10代と20代は増加。10代では17人増えて49人、20代は4人増えて199人になったそうです。

しかもこれらの年代では、精神的な疾患など健康問題がその理由となっていることが多いと記されていました。


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増える中学生のうつ

10代、とりわけ中学生にうつが増加していることは、近年の調査でたびたび指摘されています。

たとえば今年5月に厚生労働省の研究班が発表した調査結果では、中学生の25%がうつ状態でした。
この調査は、静岡県内の公立中学校1〜3年生約600人を対象に、「生きていても仕方ないと思う」「独りぼっちの気がする」など18項目を質問し、その回答を「いつもそうだ」「ときどきそうだ」「そんなことはない」の三択から選んでもらうというやり方でした。

また、この10月に北海道大学の研究チームが発表した県内の小学4年生〜中学1年生約740人を対象とした調査では学年が上がるほどに、うつと診断された子どもの割合が高くなり、中学生では約1割という結果になっています。こちらの調査は、医師の面接という手法で行われました。

かつて北海道や九州で中学生に同様の調査をした際にも、似たような数値を示したという話もあります(『J-CASTニュース』07年5月20日付)が、一方でどの調査も対象とした人数が少ないため、「どの程度信憑性があるのか分からない」という批判もあります。

しかし、私が出合った子どもたちの印象をもとに、私的な意見を言わせてもらえば「10代のうつは間違いなく増えている」と思います。(続く…

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一時的な気分の落ち込みは、だれにでもあります。
失恋したり、がんばった仕事が評価されなかったり、信じていて友達に裏切られたり・・・などなど、ストレスを受ければ気持ちが沈むのは、当たり前。
辛い出来事に出遭って、きちんと落ち込めるのは、心が健康に働いている証拠です。

では、どういう状態になるとうつということになるのでしょう?
一般には、落ち込んだ状態が長く続いて、いつでも空虚感があったり、何かに興味を持ったりすることが出来なくなったりして、睡眠障害や食欲の減退、集中力や記憶力の低下などが見られ、日常生活に支障をきたすようになるとうつと診断されます。

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10代の多くがうつの入り口に?

ごく大まかな表現ですが、最近、10代の子どもたちと話していると、こうした
「生きていることに意味(価値)を見出せず、希望をもてない雰囲気」
を感じることがよくあります。

今現在、うつにはなっていないかもしれませんが、その入り口にいるような、何か大きなイベントに遭遇すれば、すぐにもうつ状態になってしまうような、危うさを秘めているような怖さを感じるのです。

「世の中、しょせんこんなものーー」

最近の10代から感じるのは、無気力、絶望、刹那的、諦め、自分に価値を見い出せない(自己肯定感の低さ)、自分を大切にできない(自己破壊的)・・・そんなムードです。

親や教師、学校、おとな社会にいろいろ不満も、言いたいこともあるはずなのに、すべて飲み込んで何も言わない。その代わり、何も期待しない。当然、怒るべき場面でも起こりません。

だからこそ「怒り」を溜め込みがちになり、ふとした拍子に「キレ」やすくもなるのでしょうが、とにかく「自分の感情に向き合って、それをきちんと相手にぶつけ、葛藤を解決しよう」という子どもが少なくなったように思うのです。

「世の中、しょせんこんなものーー」。
何があってもそんな様子で、ある意味、達観しているようにも見えます。(続く…

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つい最近も「世の中、しょせんこんなものーー」と、あきらめてしまっている子どもたちの存在を痛感することがありました。

この4月に43年ぶりに行われた全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)の成績が、各学校へ返された後のことです。

今回のテスト結果の感想を当事者である中学3年生と小学6年生に尋ねると、ほとんどの子どもが「べつに」と答えます。

テスト結果が平均点以上だったのは、もともと成績が良く進学志向が強い子どもたちです。そうした子どもたちは結果を楽しみにしていたものの、「この時期に返されても、今さら志望校を決める材料にはならないから、意味が無い」と言います。

対して、平均点以下の子どもたちは「最初から真剣に受けてない」と話します。
でもその真意は?

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ごめんね! しか言える立場じゃない

大阪府の小学校教師は「テスト開始から十分もしないうちに『もう絶対わからへんから、自由帳やってていい?』と言い出す子もいました。その子がどんな思いで残りのテスト時間を過ごすのかと考えるととても切なかった。本当に子どもを振り分けるテストなんだと思いました」と言います。

また、兵庫県の小学校教師は「『どうせ頭悪いって分かってたから』『いい学校に行こうとも思ってないから』・・・。まだわずか12歳なのにそんなふうに言うのです。子どもたちが無理やり序列化され、劣等感をたたき込まれている痛みを感じました」と語ります。

テスト後、平均点以下だった関西に住む学3年生が信頼する教師へ送った次のメールは、面と向かって尋ねれば「べつに何とも思ってない」とおどける子どもたちの心情を代弁しているように思えます。

なんか、皆様に申し訳ございませんって感じ・・・。
オマエが足をひっぱってるんだ。だから、授業時間も延ばすよ、出来損ないって言われてる感じ。
平均点より上の子は、セーフって感じただろうけど下の子は、うちらのせいで、イロイロみんなに迷惑かけちゃって・・・。みたいな。
うちらのせいで、先生とかみんな考えさせられるのかなぁ〜って。お願いですから、ほっといてください。
うちらがアホなんは、学校のせいじゃないし、親のせいでもないし、自分が頑張らへんせいやねんから。
お願いやから、周りを責めないでって感じかなあ。
まあ、それほどマジに受けとめてるわけでもいないけど。
どうって言われると一応、ごめんね! しか言える立場じゃないって言うか。(続く…

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このメールからは、罪悪感や劣等感、自己肯定感の低さ、そしてあきらめなどが見て取れます。
「ほうっておいてくれ」と、助けを求めることもできないくらい絶望し、すべてを「自分のせい」と引き受けてしまっています。

棚上げにされた現実

でも、本当にそうでしょうか?

都市部の教師たちに聞くと「成績がよかったのは塾に通い、テスト慣れした富裕層の子ども」だと言います。

今回の全国学力テスト順位を見ても、生活が厳しく就学援助を受けている世帯が多い沖縄県や北海道、大阪府が下位に来ています。

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教師からは、こんな声も聞きました。

「親世帯が階層化し、考え方や生活条件が違いすぎて連携を取りづらくなっている」(大阪府の中学校教師)

「生活が厳しい家庭の子どもは公立一本でしか受験できない。そういう子どもをどうにかして高校に行かせることで頭がいっぱい。学力テストどころではない」(東京都の中学校教師)

「早寝早起きや朝食などの良い生活習慣と成績の関連性も指摘されたが、いくつもの仕事をかけもちしてどうにか生計を立てている家庭では、気持ちがあっても、とても子どもに手をかけられない」(東京都の小学校教師)

感情を抑圧し、孤独の中で絶望

このような現実を棚上げにされ、「どうせバカだ」「悪いのは私」思わされている子どもたち。そんなところに追いやられている子どもたちが、いきいきとした感情や、人とつながることのあたたかさや生きる希望を感じられるはずがありません。

くやしさ、情けなさ、悲しさ、怒りなどは抑圧され、孤独の中で絶望し、うつ状態に陥っていくのは、当然の帰結ではないでしょうか。

国家予算を77億円も使って、多くの子どもたちを絶望に追い込むテストをするような国に暮らす子どもたちが、夢を持って生きられるはずはないのです。

まったく私的な話からはじめて恐縮ですが、私が『いいかげんに生きよう新聞』なるものの存在を知ったのは、もう○十年も前のことです。
本屋でたまたま目に入った『生きるのが怖い少女たち 過食・拒食の病理をさぐる』(光文社刊/斎藤学著)という一冊の本を手に取ったときでした。

この本に出会うまで、「過食・拒食」という概念があるということなど、まったく知りませんでしたし、ましてや新聞の発行元であるNABA(日本アノレキシア・ブリミア・アソシエーション)や、著者である斎藤顧問のことも、何一つ知りませんでした。

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そんな無知な私でしたが、同書に転載されていた『いいかげんに生きよう新聞』への投稿ーー斎藤顧問は「時代の閉塞感、息苦しさへの悲鳴を奏でる『カナリアの歌』と呼んでいましたーーには心から共感できました。そして、「いいかげんに生きよう」という言葉に大きな衝撃を受けました。

そう、それまでの私は、「頑張ろう」「前へ進もう」「一番を目指そう」など、東日本大震災後、とみに巷にあふれるようになった“呪文”でもある「頑張る人間は素晴らしい!」という考えにガッチリとらわれた人間だったのです。

違和感のある「がんばれ」と「復興」

そんな○十年前の私なら別だったかもしれませんが、昨今の「がんばれの大合唱」。そして、「元通りの社会への一日も早い復興を!」のかけ声は、かなり耳障りに聞こえます。

未だに多数の行方不明者がおり、長引く避難生活をされている方や先の見えない毎日におびえる方々に向かって、「復興に向けてがんばれ!」と言える神経というのはいったいどういうものなのでしょうか。

かえがえのない大切な方を亡くしたり、愛する土地や仕事を手放さざるを得なかったり、先の見えない生活を突きつけられた方たちに向かって、どうして「いつまでも嘆いていないで前に進もう!」なんて軽々しく言えるのでしょうか。

福島第一原発から発せられる放射能の恐怖も収まらない中で、原発震災をもたらした社会の在り方が真摯に問われることもないまま、軽々しく「元通りの社会に“復興”しよう」と言われることにも大きな違和感を禁じ得ません。

「がんばっていないお前はダメ」のメッセージ

精神病理学者で関西学院大学教授の野田正彰さんは言います。

「(略)被災した人は歯を食いしばって頑張っている。必死になって耐えている。だれががんばっていないというのか。『がんばろう』は、苦しい人に対して『頑張れないお前はダメだ』というメッセージになる(略)」『サンデー毎日』(2011年4月17日号223ページ)

私もまったく同感です。

人は「大切なものを失った」という事実を受け入れるまで、長い時間がかかります。戸惑ったり、困惑したりしながら「辛い現実」を受け入れていきます。 そして、それができるようになるためには、とうてい前向きになどなれない絶望観までもを安心して表現できる環境が不可欠です。

傷ついた心が癒され、「前に進もう」「がんばって生きていこう」と思えるようになるためには、それなりの時間が必要で、落ち込んだりネガティブになったりする時間を共有してくれる“だれか”がいなければなりません。「『がんばれ』と言わたら『がんばれる』」というものではないのです。

本当の支援とは

政府が提案する高台への移住、エコタウン構想、被災地域からの避難なども、そのままでは受け入れがたい内容です。

もちろん、こうした案を積極的に受け入れ、まったく新しい第二の人生を歩み始めたいと考える人もいるでしょう。「二度と海は見たくない」という人もいるでしょう。

しかし中には、行方の分からない肉親の「せめて亡骸だけでも見つけてあげたい」と願っている人、「慣れ親しんだ土地を離れてどうやって暮らして行けばいいかも分からない」と思う人、「出来る限り今までと同じ生活をしたい」と考える人、「やっぱり海の側で暮らしたい」と望む人だっています。

そういう人たちに対しては、現時点では身の安全をはかりながら、将来に向けては極力、その意に添えるような、具体的な提案していくべきです。
被災された方々は、想像を絶する体験をされているのです。それならばなおのこと、ひとりひとりのニーズを汲み取り、できるかぎり、それに応えながら行うことこそが本当の支援ではないでしょうか。(続く…

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