カテゴリー「教育」の一覧

2007年06月07日

現実から解離した教育再生会議(1)

 首相の肝いりで始まった教育再生会議が第二次報告をまとめました。
 そこで重視されているのは「学力の向上」と「人格形成」。そのために「ゆとり教育」を見直し、徳育の勧め、大学・大学院の改革を提言しています。

 教育再生会議と言えば、つい先月、若い親たちに対して子育ての指針を示した「親学」に関する緊急提言を出そうとして引っ込めたという経緯があります。その提言の内容に、世間だけでなく政府内部でも疑問の声が数多く上がったからです。

 以下が「親学」として提言しようとしたポイントです(『毎日新聞』4月26日付)。

(1)子守歌を聞かせ、母乳で育児
(2)授乳中はテレビをつけない。5歳から子どもにテレビ、ビデオを長時間見せない
(3)早寝早起き朝ごはんの励行
(4)PTAに父親も参加。子どもと対話し教科書にも目を通す
(5)インターネットや携帯電話で有害サイトへの接続を制限する「フィルタリング」の実施
(6)企業は授乳休憩で母親を守る
(7)親子でテレビではなく演劇などの芸術を鑑賞
(8)乳幼児健診などに合わせて自治体が「親学」講座を実施
(9)遊び場確保に道路を一時開放
(10)幼児段階であいさつなど基本の徳目、思春期前までに社会性を持つ徳目を習得させる
(11)思春期からは自尊心が低下しないよう努める

===
「モンスターペアレント」の事情

 どれも専門家でなくとも首をかしげたくなるような内容です。
 提言を出すことになった発端は、給食費の未払いなどが増えているなどの事情からのようですが、こうした提言を出すことで問題が解決すると考えること自体に無理があります。

確かに最近、教育現場ではちょっとびっくりするような親と出会うことがあります。
 たとえばちょっと気に障る教師がいると教育委員会に電話をして辞めさせるよう要求したり、「子どもが学校で問題を起こした」と教師が相談しようとすると「学校内で起きたことは教師の責任なんだから親を巻き込まないでくれ」と答えたり・・・。
 いわゆる「モンスターペアレント」と称されるような親たちです。

 しかし、こうした親たちが生まれる背景を見ていくと、なぜそんな言動を取るのかが見えてきます。
 学校選択制で地域や保護者たちが分断されていたり、厳しい労働条件の中で大変な働き方を強いられていたりします。
 何より「子どもを育てる」という、利他的な行為になじみが少ないのです。だれかに何かを“与える人”になるには、その人自身が“与えられた人”であることが必要です。が、最近の親にはそんな経験がものすごく少なくなっています。

 こうした事情を考えれば、親たちが「理解不能なモンスター」などでないことは簡単に推測ができます。それどころか「今の社会では当たり前なのだ」とさえ思えてきます。

 この親学の緊急提言に象徴されるように、現実社会を見ることなく、自らの信念や思いこみを教育の世界に持ち込もうとしている教育再生会議委員たち。いそんな委員たちがまとめた第二次報告の疑問点を考えてみたいと思います。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ13:32

2007年06月18日

現実から解離した教育再生会議(2)

 まずは「学力向上」のための「ゆとり教育」見直しについて考えてみましょう。

 今年4月の文部科学省発表では「ゆとり教育」世代の学力と勉強への意識は向上しているといいます。
 その理由としては、「部活や行事を犠牲にした結果」や「受験を重視した授業が組まれた学校が多かった」など、さまざま言われています。

 伊吹文明文部科学大臣は昨年11月の国会で「(子どもの権利条約に基づく国連「子どもの権利委員会」からの「過度に競争主義的な教育制度を見直すこと」などの)勧告を受け、学習指導要領を見直して『ゆとり教育』を導入した結果、学力が低下してしまった」という主旨の発言をしていますが、コトはそう単純ではないようです。

===
 そもそも伊吹文科相の発言が真実だと考えるには時間的に無理があります。この発言が真実だとすれば、98年に国連「子どもの権利委員会」の勧告が出て、その同じ年のうちに「ゆとり教育」を柱とした学習指導要領へと改訂されたということになるからです。

 常識で考えても、そんなに早く対応できるはずがないことは分かります。
 何しろ、このときの改訂は学校週五日制や総合的な学習の時間(総合学習)の導入、授業内容の厳選(三割削減)など、学校の体制自体を根底から見直さなければならない内容が並んでいました。(続く…)

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ09:10

2007年06月22日

現実から解離した教育再生会議(3)

「ゆとり教育」が奪った「ゆとり」

「ゆとり教育」の中身にも、疑問があります。再三やり玉にあがっている「ゆとり教育」とは、本当に「ゆとり」のあるものだったのでしょうか?

 私が「ゆとり教育」について取材をしたのは05年のことですが、保護者や教員たちは口をそろえてこう言いました。

「『ゆとり教育』が始まった頃から、子どもも教師もまるでゆとりがなくなった」

 取材をしていくうちに、その原因と思われることがいくつか浮かび上がってきました。

 まず授業時間全体は減ったのに小学校3年生以上だと週3時間、中学生になると週2〜4時間の総合学習の時間が始まりました。
 総合学習の内容も問題です。子どもが自分のペースで何かを調べたり、課題について研究したりできるような「ゆとり」のある総合学習を行っている学校はあまりありませんでした。

===
 もちろん中には、ものすごいエネルギーを割いて総合学習を組み立てている教員もいました。でも、それはほんの一握りだったように思います。

 都内のある学校では、保護者の方々からは「自分の点数稼ぎのため、教育委員会に向けたパフォーマンスとして総合学習を利用している教員もいる」と、こんな話も聞きました。
 
 ある教員が「総合学習で自然を学ぶ」として校庭に本格的なビオトープをつくりました。その過程で、「実生活の体験を積ませる」と生徒に建設業者に電話をかけさせ、工事の相談をさせました。
 後日、業者側が工事の日取りや具体的な金額について教員と話し合おうと連絡してきたところ、教員は「あれはただの電話練習。工事の予定は無い」と言ったそうです。

 そのやりとりだけでもびっくりする話ですが、話はまだまだ続きます。
 業者を断った教員は、ショベルカーを自ら操り、校庭に池を掘りました。その周辺にはとある博物館の学芸員とかけあい、絶滅のおそれもある貴重な水草を植え、トンボの飼育を始めたのです。
 ビオトープが完成したときには、大々的な授業参観を実施し、教育委員会からも絶賛を浴びました。

 ・・・が、ビオトープがきれいだったのは束の間。その後、何の手入れもしないまま放置されたビオトープの水草は枯れ、ボウフラの巣になってしまったそうです。

 また、総合学習の時間に地域の著名人を呼んできての講演を行なっていたある学校では、元格闘家が「最近の親子は血を見る機会が足りない」と、殴り合いを勧めたとの話も聞きました。

これらのエピソードは極端な例かもしれませんが、その他の総合学習も「職業体験と称しての市民インタビュー」や地元の有力企業の見学など、「教科学習の時間や学校行事を削ってまでやるほどのことなの?」と思ってしまうものが多かったのを覚えています。

しかも、当時すでに都内の教員たちは教育「改革」の影響を受けていました。管理職への提出書類の増加や学校ごとの数値目標を達成するための努力で手一杯。とても総合学習の内容を考えたりする余裕はありませんでした。

 これは余談になりますが、こうした事情を背景に、子どもたちが大好きなファストフード店やお菓子メーカーが「食育」という名目で、自社の宣伝にもつながるような総合学習を行うようになっていったのは自然のことだったでしょう。
 企業に任せておけば教員は労力を割かずにすみます。子どもたちもビデオやゲームを使い、試食まで出来る「食育」の授業に大喜びです。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ11:54

2007年06月26日

現実から解離した教育再生会議(4)

image070626.jpg 授業内容の厳選(三割削減)も「ゆとり」には結びつきませんでした。
 たとえ教科書が薄くなっても受験体制が変わらなければ、子どもに教えなければならない内容は減りません。
 それなのに総合学習や学校5日制の導入で授業時間全体が少なくなったのですから、当然「ゆとり」ある授業などできようはずはありません。

 その影響は低学年ほど顕著でした。
 子どもは磁石で砂鉄を集めて遊んだり、ジュースの量を量ったりするなど、生活に密着した遊びを取り入れた授業の中で、理科や算数の基礎を身につけていきます。ところが、そうした「ゆとり」のある授業ができなくなってしまいました。

===
 それに学習は積み重ねです。次に進むためには押さえておかねばならないポイントがあります。「教科書に載らなくなったから」と、省略してしまうとかえって子どもが理解できないことも多く、現場は混乱しました。

 たとえば三割削減した教科書を使うようになった後、こんな話を先生たちから聞きました。

「小数点以下やゼロという数字全体のイメージがつかめないうちに計算方法を習うため、計算はできても数の概念が分からず、小数点以下が読めない子どもがいる」

「機械的に計算することは得意なのに、計算を応用して物を数えたり買い物をしたりすることができない子が増えた」

「基本的な漢字の仕組みが分からず、一昔前なら絶対にあり得ないような漢字の間違いをする」

「『漢字をいくつ覚えたか』ばかり気にするようになって、物語を楽しんだり、登場人物の心情に思いを馳せたりする時間が無くなった」

学力の二極化が進行

 「ゆとり教育」が導入されても、結局は、かつてと同じ内容を短時間で教えなければならなくなっただけです。
 しかも先生たちは忙しくなり、補習授業などもできなくなってしまいました。子どもたちの学習理解度が落ちていくのは当然の結果でした。

 一昔前まではテストの点数分布表は真ん中付近が高いベル型というのが普通でした。ところが「ゆとり教育」導入の頃から、分布表は真ん中がくぼんだM型を描くようになったと先生たちは話していました。

「授業を聞いていれば勉強は分かるもの」というのは昔の話になり、 経済力がなかったり、教育に関心がなかったりする親の子は、早いうちから学ぶことを諦めてしまう傾向が顕著になってきていました。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ16:11

2007年07月05日

現実から解離した教育再生会議(5)


「ゆとり教育」の実態を見てみると、その中身は子ども自身が持って生まれた能力を伸ばすことができる本当の「ゆとり教育」にはなっていません。

 2005年当時に取材した教育行政学の専門家は、「ゆとり教育」をこんなふうに分析していました。

「日本の『ゆとり教育』とは、公教育費削減を実現するため『少数に厚く、残りの人には最小限にする教育』のこと。でも、そんなふうに言えば国民は賛成しないから、『ゆとり教育』という名前を付けただけ。少数の人だけを優遇する教育制度にしたのだから、全体的な学力が低下するのは当然」

===
 そう、「ゆとり教育」は、けして子どもひとりひとりの能力を伸ばすために行われたものではなかったのです。

 さまざまな「改革」「改正」が進み、全国一斉学力テストも実施され、親と子どもの自己責任路線がいよいよ明確になった昨今。国の教育への介入は強まりながら、国が負担する教育費や責任は減っていく一方の教育現場を見ると、「ゆとり教育」の裏に何があったのか少しずつ見えてくる気がします。

実態をごまかす教育再生会議

 そんな「ゆとり教育」の実態をごまかしながら、「『ゆとり教育』を見直す」と声高に叫ぶ教育再生会議。
 その提言は、・授業時間数の10%増、・教科書の分量を増やし質を高める、・教師の事務仕事を簡素化し、教育現場のIT化を進めるなど、あまりにもお粗末です。
 そんなことで子どもたち全体の学力が伸びるのかどうかは、このブログで前回のテーマにしていた愛知県犬山市の教育改革を見れば一目瞭然です。

 子どもや教師の実態を見ずに、勝手に授業時間を減らし、内容を削減し、教師を管理することで教師と子どもが向き合えるような「ゆとり」を奪ってきた事実を反省するという姿勢はどこにも見あたりません。(続く…)

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ14:05

2007年07月11日

現実から解離した教育再生会議(6)

 人格形成についても同様です。
 第二次報告は、徳育や自然体験、職業体験を行うことで「命の尊さや自己・他者の理解、自己肯定感、働くことの意義、さらには社会の中で自分の役割を実感できるようになる」としていますが、本当にそうでしょうか?

 確かに、自然体験や職業体験は、机にかじりついているよりも視野を広げ、見識を深めてくれることでしょう。「良いこと」と「悪いことを」を教えれば、善悪の区別はつくようになるでしょう。

===
 しかし、それだけで自己肯定感や自己・他者の理解、命の尊さなどが芽生えるのか。はたして「良いこと」を教えれば良い行いする子どもに育つのかは、はなはだ疑問と言わざるをえません。
 自己肯定感や他者への共感が、「自分を受け入れてもらえた」経験の上に成り立っていることは、今や疑念の余地がないからです。

 また、親に対しては「親の学びと子育てを応援する」として、「子どもの成長とともに学び、育児を通じて子どもがいる喜びを感じる」ようになれと言っています。
 そして、親への提言の筆頭に「早寝早起き朝ご飯」などの生活習慣、挨拶やしつけを子どもに身につけさせることを挙げています。

 もちろん、こうした生活習慣はとても大切です。挨拶も礼儀作法も身につけているにこしたことはありません。その内容自体はまったく間違ってはいないのです。

子育て不安を抱える親の増加

 でも世の中には、たとえば深夜遅くまで働いていたり、片親家庭であったりして「もっと子どもに手をかけてあげたい」と思っていても、できない事情をかかえた親がいます。   
 一方で、食事の用意もしつけもほぼ完璧、教育熱心で子育てにも意欲的に見えながら、子どもの要求・欲求をきちんと受け止められない親がいます。一見、「子どものため」を考えているようでいながら、“愛情”で子どもを縛り、ダメにしてしまう親もいます。

 だいたい今の親たちの多くは頑張りすぎるくらい頑張って子育てしています。自己決定と自己責任の重圧が増すなか、「人様に迷惑をかけない、きちんとした子どもに育てなければ」と賢明になっています。
 そうした不安感が、どっしり構えて、子どもの育ちに合わせて見守ることを困難にしています。

 以前、ある育児雑誌で「子どもに関する心配は何か」というアンケートを取ったことがありました。そのとき、男の子を持つ母親の心配事のトップは「子どもが犯罪者にならないか」でした。
 また、ベネッセの教育開発研究センターによる子育て意識調査(『第3回 幼児の生活アンケート報告書 国内調査 乳幼児をもつ保護者を対象に』)では、「子どもが将来うまく育っていくかどうか心配になる」という否定的な感情がここ5年間で6.4ポイントも増えています。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ16:57

2007年07月20日

現実から解離した教育再生会議(7)(1/2)

 こうした親たちに「こうすべき」との提言を出し、マニュアル化した「子ども対応スキル」を説くことが有効だとはとても思えません。
 提言を出されれば反対に「あれもこれもやらなくちゃ」と、親にさらなるプレッシャーや精神的ストレスを与えてしまうことにならうのではないでしょうか。

 最近、長く子育て支援をしてきている方にこんな話を聞きました。

「今のお母さんは本当にまじめ。子どもがだれかに迷惑をかけないか、自分がきちんとした親をやれているかと心配ばかり。だからどうしても、子どもを制約することが多くなる。子どもにかけるセリフでいちばん多いのが『ダメ』という言葉」

 確かに公園や電車の中で会うお母さんたちも、よく子どもを注意しています。「裸足になっちゃダメ」「他の人に迷惑をかけちゃダメ」「大きな声を出しちゃダメ」・・・。

 でも、お母さんたちの気持ちも分かります。子育て中の友人が言っていました。

「だって日本社会って子どもや子ども連れに優しくない。子どもにもおとなと同じように振る舞うことを要求するでしょう?」
(続く…)

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ15:02

2007年07月23日

現実から解離した教育再生会議(7)(2/2)

子どもの心理的ニーズに応えることが重要

 子どもの人格形成に有用なのは、その子どもが「今、必要としていること」(心理的ニーズ)に適切に応える「関わり」です。
 身体的虐待などの目に見えやすい虐待よりも、心理的ニーズに応えない子育ての方が子どもより深刻なダメージを与えるとの研究結果もあります(1)身体的虐待、2)ネグレクト、3)心理的ニーズに応えないなど、五つの違う養育パターンの子どもを追跡調査した「Minnesota Mother Child Project」より)。

 ところが、教育再生会議の報告は「どういう関わりが子どもの成長にポジティブな影響を与えるのか」についてはまったく触れていません。
「最新の脳科学や社会科学などの知見を踏まえた人格形成を目指す」と謳っているのに、最近の虐待研究やトラウマ研究、それらが脳に与える影響については、まったくと言っていいほど注目していないのです。

===
最新の脳科学に基づく関わりは研究中

 先日、教育再生会議の担当官に直接質問する機会がありました。担当官は、

「子育て講座などを通して、子どもに愛情を持って接するよう親に教えていく」

 と繰り返していましたが、「子どもがきちんと成長できるような『愛情ある』関わり方とはどんなことを指すのですか?」という私の質問には、ついに答えてはくれませんでした。
 「具体的なことは現在、研究中」(担当官)だからというのがその理由です。

 そんないいい加減な「最新の脳科学や社会科学の知見」と偏った専門家からのヒアリングに基づいて、日常的な子どもへの関わり方にまで踏み込んだ提言が出されました。そして、その提言を“踏まえた”取り組みが始まろうとしています。

「親の期待に応えたい」と思いながら、そうできない自分を責める子どもたち。「子どもに良く育って欲しい」と願いながら、うまく関われない親たち。

 その痛々しい現実を直視することなく、高みから政府首脳にとって都合の良い提言をする教育再生会議に憤りを感じずにはいられません。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ16:17

2007年08月06日

学力テスト不正問題

 耐震構造偽造問題や食肉偽装事件など、生活の根幹に関わる不正事件が相次ぐなか、今度は東京都足立区で、区が独自に行なってきた学力テストの不正が話題になっています。

 ある小学枝で、あまり成績のよくない特定の子どもの答案を集計から外したり、過去のテスト問題を練習問題として繰り返し行なったり、テスト中に子どもが間違っているところを指差しで教えたりしてきていたことが明らかになったのです。

===
 学力テストに反対する教育関係者たちが指摘してきた通りです。
 一斉に学力テストをやり、その結果を公表するようになれば必ず、こうした不正が起こり、かえって正しい学力が測れなくなってしまう可能性が高まります。

学校の“頑張り度”をどう測る?

 足立区は、東京都品川区と並んで都内でも突出した教育「改革」が進む地域です。96年から実質的な学校選択性が導入され、すべての小中学校の学力テスト結果を公表しています。
 中学校の人気は、学力テスト結果が上位10校に入っている学校に集中し、「選ばれる学校」と「選ばれない学校」が固定化し、学校間や子ども間の格差も固定化しています。

 さらに本年度からは、トップダウンの強力なリーダーシップを発揮する教育長の下、学力テスト結果の伸び率に応じて各学校への特別予算に差をつけるという取り組みも始まりました。
「頑張った学校とそうでない学校に差をつけるのは当たり前」というのが教育長の考えです。

 ではいったいどうやって“頑張り度”をはかるのでしょうか? 足立区に勤務していた教諭は言います。

 「区は『頑張った学校を評価するのは当然』と言うけれど、教育の“頑張り度”がテストの得点で図れるのでしょうか。点数が低くても頑張っている子はいるし、下位校にも子どもが『この先生が一番好き』と慕う教師はいます。
 教師の“頑張り度”とは、子どもとそうした信頼関係が築けるかどうかではないでしょうか。
 家庭だって同じです。生活のために働き詰めで子どもの教育どころではない家庭の保護者を『頑張っていない』と言えますか?」

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ16:14

2007年08月13日

学力テスト不正問題(2)

 全体的に見ると、足立区の上位校と下位校の間で保護者の所得格差も顕著になってきています。
 生活保護家庭と同程度の所得水準の家庭に給食費や学用品の一部を援助する就学援助制度を受けている家庭の割合が、上位校と下位校ではぜんぜん違うのです。上位校の就学援助率は20%台ですが、下位校では75%を超えている学校もあります。

 上位校には、教育熱心で教育のためにお金や時間を多く費やすことができる保護者の子どもが集まりやすくなっています。
 一方、下位校には生活が厳しく、片親家庭で昼夜問わずパートタイムなどで働きながらようやく生計を立てている保護者の子どもも少なくありません。
 こうした家庭では、子どもの教育や進学のことにまで気を配ることが難しかったりします。
 
 こうしたなか、下位校に入っている中学校では養護学校や定時制高校を第一志望にする子どもたちも出てきました。
 私学援助も削られるなかで、公立一本で勝負しなければ進学できない子どもが増えてきたからです。

===
障害者手帳取得に奔走する親

 保護者のなかには、
「今の社会でうちの子どもが食べていくには障害者手帳を手に入れなければ難しい」
 と、障害者手帳を取るために奔走するケースもあるそうです。

 もちろん、障害者手帳を取ることは正当な権利です。いろいろな事情で社会生活を営むことが難しい人が、社会的な保障を受けられるのは当たり前の話です。

 でも、一昔前には「少し勉強が不得意な子」であったり「みんなと同じに振舞うことが苦手な子」であったりした子ども・・・つまり普通高校に進学できた子どもが、「障害者手帳がなければ生きていけない」と考えざるを得ないようになってきていることは、そのまま素通りしていい話なのでしょうか?

 障害者手帳を取ろうとやっきになっていた保護者の子どもを担任していた教諭は、その子どもについてこう話していました。

 「確かに、できる教科に偏りがあったり、こだわりが強すぎたり、生活習慣が身につかないところがある子どもでした。でも、少し前までなら十分、普通校でやっていけたと思います」

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ16:19

2007年08月20日

学力テスト不正問題(3)

あきらめる子どもたち

image070820.jpg「下位校の子どもを見ていると『どれだけ早いうちに諦めるか』という感じです。
 親は生活に手一杯。教師も、現場の状況を無視した区の教育『改革』に振り回されて子どもを見る余裕がありません。
 親身にかかわってくれるおとなに出会うことができず、『支えられて最後までやり遂げた』とか『頑張って何かに取り組んでほめられた』などの経験を持てない子どもが増えました」(足立区の中学校教諭)

 こうした子どもたちの多くは、小学校段階で「自分は駄目だ」と諦めているといいます。成功体験を持つことができなかったからです。
「小学校時代の勉強までさかのぼって教えようとしても『もういい』と、やる気になれない子も多い」(足立区の中学校教諭)そうです。

===
 それだけでなく、中学生になったころには「進学校に行く子と自分は住む世界が違う」と格差の壁をしっかりと意識してしまっていることも少なくありません。
 授業中に立ち歩いたり、騒いだりしてしまうのは、こうした子どもたちが多いそう。どうしようもないやるせなさを隠すため、つい“はしゃいで”しまうのです。

校長や教師へのプレッシャー

 学力テストをすれば、絶対に学校は序列化されます。必ず一位になる学校はあるし、逆に最下位になるところも出てきます。
 一位になれば「このまま頑張れ」、二位だと「もっと頑張って一位を目指せ」、下位なら「とにかく少しでも上に」と言われます。「これで十分」という終わりがないのです。

 しかも、その“頑張り度”が学校の予算や評価に反映されるのです。校長や教師たちが受けるプレッシャーはどれほど大きくなるでしょう。

 そのうえ、学校選択制も実施されています。「できることなら下位校ではなく上位校に通わせたい」と思う保護者が増え、学校によって生徒の数や学力に偏りが出るのは必然です。
 足立区に住む小学生の母親は言います。

「予算に差がつくのは反対だし、頭では『テストの順位なんてあてにならない』『いろんなタイプの子どもと交わった方が子どものためになる』と分かっています。でも、なんとなく下位校には問題児が多い気がして避けたくなってしまう。『どうせ選ぶのならなるべくリスクは減らしたい』と思ってしまうんです。多くの人に選ばれる中学校を選んでおいた方が安心な気がして・・・」

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ16:25

2007年08月27日

学力テスト不正問題(4)

 実は、この母親の子どもが通う小学校の学力テスト成績はあまり良いほうではありません。そのせいか他校の保護者や教師から「授業も成り立たない困難校に違いない」と誤解されることも多いそうです。
 でも、中身はまるで逆。子どもと教師の関係はわりと良く、学級崩壊などもありません。行事が多く、子どもたちも楽しそうに通っています。

「でも最近、校長先生が『学力向上』とよく言うようになって学校の雰囲気が変わって来ました。校長先生は行事を削ってプレテストの時間を確保したいんだと思います。上位校の親に聞くと、その学校は毎月のようにプレテストをして学力テストに備えていると言います。テストでいい点数を取るためには“テスト慣れ”も大事。行事や授業を削ってテスト対策をすれば点数は上がるでしょうね」(母親)

===
「選ばれる学校」であり続けるために

 蛇足かもしれませんが、いわゆる上位の中学校に子どもが通っている足立区在住の母親の話も紹介しておきましょう。

「学校の雰囲気はけして良くはありません。落ち着かない子が多く授業が成り立たない時があったり、男子の間ではイジメが日常化しています。子どもたちは仲間をつくるとか、つながりを大事にするという意識が希薄。教師のなかには、子ども同士がトラブルを起こしてもかかわろうとしない人もいます」

 こちらの母親の子どもは上位校のなかでも成績優秀。そのため、いつも教師に「この調子で頑張れ」と言われています。そのため、学力テスト前には「成績が下がったらどうしよう」とかなりのプレッシャーを感じているようだと話していました。

 統廃合されない「選ばれる学校」であり続けるためには、子どもの気持ちなど考えてはいられないのです。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ17:30

2007年09月05日

学力テスト不正問題(5)

 足立区独自の教育「改革」がもたらした学力テスト、そして学校選択性(学区制廃止)、生徒の質と数に合わせた予算配分。その結果として顕著になった学校間・子ども間の競争と序列、生徒の質や数に合わせた予算配分、あきらめる子どもの増加。

 そこには、教育というものを「子どもを中心に考える」という姿勢が欠落しています。
 そしてそれはそのまま、これから日本全体が進もうとしている教育「改革」の方向性と重なります。

 だからこそ、足立区の不正問題が明るみになる前から、多くの人が今年4月に行なわれた全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)に反対の声を挙げたのです。

===
無頓着な教育行政

 ところが、日本の教育行政はまったく無頓着です。全国学力テスト直前に話を聞いた文部科学省初等中等教育局教育学力調査室の担当官は次のように話していました。

「そういった話は私どもの耳には届いていません。しかし、もしそんな事態が起きているなら区教委が速やかに対処すべきです。競争の激化は私たちの望むところではありません。今回の調査においては競争の道具とならないよう、実施要項で不開示情報にするなど配慮しています。全国学力テストの目的は、あくまでも『児童生徒の学力・学習状況を調べ、各教育委員会や学校の問題を把握し、改善すること』です」

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ15:24

2007年09月10日

学力テスト不正問題(6)

教育行政の不勉強?

image070910.jpg もし、本当にそう信じているなら、文部科学省は大変な勉強不足です。
 なぜなら、60年代の全国学力テストが二度実施されただけで中止となったのは、試験日に成績の悪い子を休ませたりするなどの不正があったためです。
「全員参加にした方が、より正しい学力や学校などが抱える問題を測ることができる」
 というのは間違いだと言わざるを得ないことは歴史が証明しています。

 そして、そのような過去の教訓を無視して全国学力テストの復活を公の立場で主張したのは、常々「国家の発展のための人材育成には競争意識を高めることが大事」と発言していた中山成彬文部科学大臣(当時)です。
 その後、この発言を「待っていました」とばかりに内閣府に置かれた経済財政諮問会議(2005年)や規制改革・民間開放推進会議(2006年)などが「公教育への競争と選択の導入とセットで全国学力テストを行う必要性」を繰り返すようになります。

===
競争激化は避けられない

 ちなみに、これらの会議の構成メンバーは、政府の機能や公共の役割を後退させ、なんでも市場経済原理にゆだねることを「よし」とする学者や大企業のトップばかり。つまり経済活動を何よりも優先と考える人たちです。

 アメリカやイギリスでの教育「改革」を見れば、そうした人たちの教育におけるねらいは明らかです。
 競争を激化させ、国際社会で勝ち残ることができる企業の人材を確保するため、エリートにだけ手厚い予算配分を可能にする教育システムをつくること。そして、その他の子どもたちや子どもをエリートにするためにお金をいとわない保護者たちには、できるだけたくさんの教育サービスを買ってもらうことです。

 たとえ文部科学省が本心から競争主義を排除したいと考えていたとしても、最も中枢の機関である内閣府が競争主義的な教育を応援しているのです。中途半端ななり方では、防ぎようはないでしょう。

結果を不開示情報にしても効果はない

 テスト結果を不開示情報にするくらいでは、競争を抑える効果はまったく期待できないのです。何しろ「住民に公開を問われた際の判断は、ぞれぞれの自治体に委ねる」(文部科学省)ことになっています。

 学力低下を気にかけ、学力向上のために運動会なども無くすべきだとまで主張する保護者が増える昨今、多くの自治体で公開を迫る住民が出てくることは必至です。
 今年二月には、大阪府枚方市で、市が実施した学力テストの学校ごとの結果を公表するよう促す大阪高等裁判所の判決も出ています。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ15:42

2007年09月14日

学力テスト不正問題(7)

こうして改めて見てみると、文部科学省は、長年、教育行政に取り組んできた自らの立場を守るため、本音と建前を使い分けながら、競争を推進する教育「改革」の要となることができる道を探っているかのように見えます。

その立場上、文部科学省はさすがに「競争によって学力の向上を図る」とは公言できません。しかし、経済界がリードし、内閣府が進める教育「改革」の流れに逆らうこともできません。
そのために考え出した策が、全国学力テストを行なって、その結果を検証し、地方行政と学校運営をコントロールするという方法だったのではないでしょうか。

===
私と話したときにも文部科学省の担当官は「学力問題解決のためにPDCAサイクルというマネジメントサイクルを確立していく」と、はっきり語っていました。
そして、実際、今回学力テスト不正問題の起きた東京都足立区で、大手企業を参入しての「マネジメントサイクルに基づく戦略的な学校経営の調査・研究」を行なっています。

個々の学校における教育活動の成果が測定できなければサイクルは動きません。だから文科省は抽出ではなく「全員参加」の学力テストにこだわるのです。

品物のように管理される子ども

ここで気をつけておきたいのは、このマネジメントサイクルが、元々は「企業が製品の品質向上や経費削減のために用いてきた経営改善手法」であることです。

そんな手法が学校教育に導入されれば、子どもは品物のように管理され、品質向上のために競わされ、トップ(内閣府と経済界)が望む品質を持った子どもを集めることができる学校に多くの予算配分がされるようになります。

そうなれば、トップにとって市場価値の低い子ども、いわゆる“できが悪い”と見なされた子どもが、どんなふうに遇されることになるかは、火を見るより明らかです。
そして、一個の人間としてきちんと向き合ってもらうことができず、自分という人間に価値を見出すことができなくなってしまった子どもがどんなふうになっていくのかも・・・。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ11:02

2007年10月04日

学力テスト不正問題(8)

 全国学力テストに反対する識者のひとりである名古屋大学の中嶋哲彦教授は、全国学力テストを容認できない理由をこんなふうに語っています。

「競争で向上させることができるのはせいぜい得点力。本当の学ぶ力、つまり自然や社会、人間を認識する世界観を獲得する力は育ちません。なぜならそれは人格形成そのものだからです。人との共生、人との関わりの中で人間性を育てながら得るもの。そうしたプロセスがあって初めて、獲得した知を他の人に還元できる人間になるのです」

 以前にブログで紹介した愛知県犬山市の子どもたちの様子を思い浮かべても、中嶋教授のセリフはもっともだと思います(「子どもの権利条約が生きた町」参照)。

===
 犬山では、少人数の「学び合い」の教育が、教師に子どもと向き合い、応答できる環境をつくり、受容的な関係性をもたらしました。徹底的に競争を廃した教育と、教師との豊かな関係性が子どもに安心感や信頼感の種をまき、好奇心や学ぶ意欲が芽吹いてきています。さらにだれひとり置いてきぼりにせず、助け合うという経験が「困っている人は助けてあげたい」と考える共感能力も育んでいます。

 東京都足立区で起きた区の学力テスト不正問題、そしてその背景に広がる子どもたちの状況を見直してみれば、学力テスト体制というものが、犬山の教育環境とどれほど離れていることか・・・。すぐに分かることです。

「改革」の中身を直視すべき

 内閣府が昨年発表した「社会意識に関する世論調査」の「国に対する意識について」を見ると、「悪い方向に向かっている」ものに教育をあげた人が36.1%で一番多いという結果があります。
 多くの人が日本の教育に危機感を抱いているのです。

 もし、そうであるなら「改革」という、一見、響きの良い言葉にごまかされず、きちんと「教育とはどうあるべきか」を考え、「改革」の中身を直視するべきです。

 もちろん、「目の前にいる子どもの顔を見て、その声を聞く」ということを忘れてはいけません。子どもたち以上に、子どものことを教えてくれる“子どもの専門家”など存在しないのですから。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ14:50

2007年12月13日

子どもの「うつ」と「あきらめ」(1)

image071213.jpg「10代の自殺者急増」
 そんな新聞記事を読んだのは今年6月のことでした。

 『東京新聞』(07年6月8日付)によると、埼玉県内全体の自殺者数は昨年よりやや減ったものの、10代と20代は増加。10代では17人増えて49人、20代は4人増えて199人になったそうです。

 しかもこれらの年代では、精神的な疾患など健康問題がその理由となっていることが多いと記されていました。

===
増える中学生のうつ

 10代、とりわけ中学生にうつが増加していることは、近年の調査でたびたび指摘されています。

 たとえば今年5月に厚生労働省の研究班が発表した調査結果では、中学生の25%がうつ状態でした。
 この調査は、静岡県内の公立中学校1〜3年生約600人を対象に、「生きていても仕方ないと思う」「独りぼっちの気がする」など18項目を質問し、その回答を「いつもそうだ」「ときどきそうだ」「そんなことはない」の三択から選んでもらうというやり方でした。

 また、この10月に北海道大学の研究チームが発表した県内の小学4年生〜中学1年生約740人を対象とした調査では学年が上がるほどに、うつと診断された子どもの割合が高くなり、中学生では約1割という結果になっています。こちらの調査は、医師の面接という手法で行われました。

 かつて北海道や九州で中学生に同様の調査をした際にも、似たような数値を示したという話もあります(『J-CASTニュース』07年5月20日付)が、一方でどの調査も対象とした人数が少ないため、「どの程度信憑性があるのか分からない」という批判もあります。

 しかし、私が出合った子どもたちの印象をもとに、私的な意見を言わせてもらえば「10代のうつは間違いなく増えている」と思います。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ10:39

2007年12月17日

子どもの「うつ」と「あきらめ」(2)

 一時的な気分の落ち込みは、だれにでもあります。
 失恋したり、がんばった仕事が評価されなかったり、信じていて友達に裏切られたり・・・などなど、ストレスを受ければ気持ちが沈むのは、当たり前。
 辛い出来事に出遭って、きちんと落ち込めるのは、心が健康に働いている証拠です。
 
 では、どういう状態になるとうつということになるのでしょう?
 一般には、落ち込んだ状態が長く続いて、いつでも空虚感があったり、何かに興味を持ったりすることが出来なくなったりして、睡眠障害や食欲の減退、集中力や記憶力の低下などが見られ、日常生活に支障をきたすようになるとうつと診断されます。

===
10代の多くがうつの入り口に?

 ごく大まかな表現ですが、最近、10代の子どもたちと話していると、こうした
「生きていることに意味(価値)を見出せず、希望をもてない雰囲気」
 を感じることがよくあります。

 今現在、うつにはなっていないかもしれませんが、その入り口にいるような、何か大きなイベントに遭遇すれば、すぐにもうつ状態になってしまうような、危うさを秘めているような怖さを感じるのです。

「世の中、しょせんこんなものーー」

 最近の10代から感じるのは、無気力、絶望、刹那的、諦め、自分に価値を見い出せない(自己肯定感の低さ)、自分を大切にできない(自己破壊的)・・・そんなムードです。

 親や教師、学校、おとな社会にいろいろ不満も、言いたいこともあるはずなのに、すべて飲み込んで何も言わない。その代わり、何も期待しない。当然、怒るべき場面でも起こりません。

 だからこそ「怒り」を溜め込みがちになり、ふとした拍子に「キレ」やすくもなるのでしょうが、とにかく「自分の感情に向き合って、それをきちんと相手にぶつけ、葛藤を解決しよう」という子どもが少なくなったように思うのです。

「世の中、しょせんこんなものーー」。
 何があってもそんな様子で、ある意味、達観しているようにも見えます。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ17:08

2007年12月25日

子どもの「うつ」と「あきらめ」(3)

 つい最近も「世の中、しょせんこんなものーー」と、あきらめてしまっている子どもたちの存在を痛感することがありました。
 
 この4月に43年ぶりに行われた全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)の成績が、各学校へ返された後のことです。

 今回のテスト結果の感想を当事者である中学3年生と小学6年生に尋ねると、ほとんどの子どもが「べつに」と答えます。

 テスト結果が平均点以上だったのは、もともと成績が良く進学志向が強い子どもたちです。そうした子どもたちは結果を楽しみにしていたものの、「この時期に返されても、今さら志望校を決める材料にはならないから、意味が無い」と言います。

 対して、平均点以下の子どもたちは「最初から真剣に受けてない」と話します。
 でもその真意は?

===
ごめんね! しか言える立場じゃない

 大阪府の小学校教師は「テスト開始から十分もしないうちに『もう絶対わからへんから、自由帳やってていい?』と言い出す子もいました。その子がどんな思いで残りのテスト時間を過ごすのかと考えるととても切なかった。本当に子どもを振り分けるテストなんだと思いました」と言います。

 また、兵庫県の小学校教師は「『どうせ頭悪いって分かってたから』『いい学校に行こうとも思ってないから』・・・。まだわずか12歳なのにそんなふうに言うのです。子どもたちが無理やり序列化され、劣等感をたたき込まれている痛みを感じました」と語ります。

 テスト後、平均点以下だった関西に住む学3年生が信頼する教師へ送った次のメールは、面と向かって尋ねれば「べつに何とも思ってない」とおどける子どもたちの心情を代弁しているように思えます。

 なんか、皆様に申し訳ございませんって感じ・・・。
 オマエが足をひっぱってるんだ。だから、授業時間も延ばすよ、出来損ないって言われてる感じ。
 平均点より上の子は、セーフって感じただろうけど下の子は、うちらのせいで、イロイロみんなに迷惑かけちゃって・・・。みたいな。
 うちらのせいで、先生とかみんな考えさせられるのかなぁ〜って。お願いですから、ほっといてください。
 うちらがアホなんは、学校のせいじゃないし、親のせいでもないし、自分が頑張らへんせいやねんから。
 お願いやから、周りを責めないでって感じかなあ。
 まあ、それほどマジに受けとめてるわけでもいないけど。
 どうって言われると一応、ごめんね! しか言える立場じゃないって言うか。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ11:24

2007年12月27日

子どもの「うつ」と「あきらめ」(4)

このメールからは、罪悪感や劣等感、自己肯定感の低さ、そしてあきらめなどが見て取れます。
「ほうっておいてくれ」と、助けを求めることもできないくらい絶望し、すべてを「自分のせい」と引き受けてしまっています。

棚上げにされた現実

 でも、本当にそうでしょうか?
 
都市部の教師たちに聞くと「成績がよかったのは塾に通い、テスト慣れした富裕層の子ども」だと言います。

 今回の全国学力テスト順位を見ても、生活が厳しく就学援助を受けている世帯が多い沖縄県や北海道、大阪府が下位に来ています。

===
 教師からは、こんな声も聞きました。

「親世帯が階層化し、考え方や生活条件が違いすぎて連携を取りづらくなっている」(大阪府の中学校教師)

「生活が厳しい家庭の子どもは公立一本でしか受験できない。そういう子どもをどうにかして高校に行かせることで頭がいっぱい。学力テストどころではない」(東京都の中学校教師)

「早寝早起きや朝食などの良い生活習慣と成績の関連性も指摘されたが、いくつもの仕事をかけもちしてどうにか生計を立てている家庭では、気持ちがあっても、とても子どもに手をかけられない」(東京都の小学校教師)

感情を抑圧し、孤独の中で絶望

 このような現実を棚上げにされ、「どうせバカだ」「悪いのは私」思わされている子どもたち。そんなところに追いやられている子どもたちが、いきいきとした感情や、人とつながることのあたたかさや生きる希望を感じられるはずがありません。
 
 くやしさ、情けなさ、悲しさ、怒りなどは抑圧され、孤独の中で絶望し、うつ状態に陥っていくのは、当然の帰結ではないでしょうか。

 国家予算を77億円も使って、多くの子どもたちを絶望に追い込むテストをするような国に暮らす子どもたちが、夢を持って生きられるはずはないのです。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ13:48

2008年03月07日

「人と生きる」ことを学ぶ学校(1)

 一月末、愛知県犬山市に行ってきました。犬山市立楽田小学校の公開授業を参観させていただいたのです。

 犬山市は以前にもこのブログで紹介した「子どもの権利条約が生きた町」です。

 この2月には、今年度に引き続き来年度の「全国学力テスト」(全国学力・学習状況調査)への不参加も決めました。同市の市長をはじめ、市民の間には「犬山だけが参加しないのはいかがなものか」との声もありますが、このテストの問題性を重視し、不参加としたのです。

===
「子どもらしい」子どもたち

 それはさておき、楽田小の話です。
 実は、実際に学校の授業風景を見せていただいたのは今回が初めて。たびたび話に聞いていた「学び合い」の学習とはどんなものなのか、ワクワクしながら訪れました。

 まず感じたことは、子どもたちが良い意味でとても「子どもらしい」ということ。
 見知らぬ来訪者に興味津々。自由時間になると挨拶をしてくれるだけでなく、屈託なく「どこから来たの?」「何してるの?」などなどと話しかけてきます。
 形式通りの挨拶というのではなく、本当にお客さんが来たことを喜んでいるという雰囲気です。

 低学年になると、さらにパワーアップです。私と一緒にいたカメラマンさんの大きな機材入れを担ごうとしてくれる子、カメラに写りたくて身を乗り出して来る子、勉強を教えようとしてくれる子・・・いろんな子がいました。

 私たち見学者が別室で給食をごちそうになっていると、入れ替わり立ち替わり、その様子をのぞきにきては、目が合うと恥ずかしそうに逃げていきます。

「子どもは風の子」

 授業が始まると、ものすごい集中力で先生の話を聞き、意見も出し合います。そして長い休み時間になると、みんな一斉に教室を飛び出して行きます。
 校庭を駆け回る姿を見て、思わず「子どもは風の子なんだなぁ」と、つぶやいてしまいました。

 ゲームや携帯電話で遊んでいる子はひとりも見かけませんでした。学校に持ち込んではいけないルールがあるのかと思って校長先生に尋ねると、

「べつに禁止はしていませんが、持ってくるあまり子はいませんね。必要を感じないのではないでしょうか」

 という回答。「禁止にすることなんて考えたこともなかった」というような表情です。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ15:44

2008年03月17日

「人と生きる」ことを学ぶ学校(2)

「学び合い」の授業

 どの授業風景もとても印象に残るものでしたが、とくに印象深かったのは小学二年生でやっていた算数のグループ学習(三〜四人)です。

 学習障害と思われる友達に一生懸命教えている仲間の姿があったのです。最初から答えを言うのではなく、相手に考える時間を与えながら、根気よく友達が答えにたどり着くのを待っていました。
 休み時間になっても、学習障害の子が理解して、答えを出すまで付き合っていたのです。

 そして、その学習障害の子が、机から物を落としそうになったとき、ひとりの見学者が落ちないよう手を添えると、同じグループの子どもが「ありがとうございます」と、代わってお礼を言ったのです。

 その様子を見ていて「ああ、これが犬山の『学び合い』の授業なんだ」と、つくづく思いました。

===
「学び合い」の仕掛け人は教師

 教師は子どもからお呼びがかからなければ、原則として手は出しません。グループの周囲をぐるぐる周りながら、子どもたちの「学び合い」の様子を見守ります。

 でも、そうした「学び合い」が成り立つような仕掛けづくりや工夫にはかなりの時間を費やします。
 たとえば、暴れん坊の男子の周囲はおとなしい女子で固めます。最初から答えを教えがちな子には、日頃から「何が相手のためになるか」を言い含めておきます。
 
 学習状況だけでなく、一人ひとりの子どもの特徴や家庭の様子、友だち同士の人間関係までをなるべく多くの教師が共有できるよう、職員室での情報交換やざっくばらんな話し合いも欠かしません。

すべての子どもがクラスに溶け込む

 見学終了後に聞いたのですが、楽田小には各クラス2〜3人程度、学習障害の子どもがいて、日本語が苦手な外国籍の子も多いそうです。でも、私がそれと気づいたのは、たったひとりだけでした。

「もちろん、テストをすればハンディのある子どもの点数は低くなります。でも、クラスではまったく目立たず、溶け込んでいます。教師との信頼関係の中で、友だちとかかわりながらいろいろな子が一緒に学ぶことで人を大事にすることを学びます。
 望ましい人間関係があると子どもは自ら学ぶようになるし、人の話もしっかり聞けるようになります。それが学力にも反映されていくのです。
 いじめはほとんどないし、家庭の事情以外での不登校もありません」(校長先生)

 競争を無くし、人と共に生きる喜びを実感できるような教育を目指してきた愛知県犬山市。その全体で学力が上がり、子どもたちの共感能力が伸び、ひとりひとりの持つ能力が開花し始めていることはこのブログで以前書いた「子どもの権利条約が生きた町」を参考にしてください。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ11:03

2008年04月07日

「人と生きる」ことを学ぶ学校(4)

 実はつい先日、「他者は自己の成功への妨害物として、他者への敵意を植え付けられた子ども」の影響を垣間見ることがありました。
 東京都杉並区でのことです。

今、杉並区では小学校の“荒れ”が問題になっています。
 授業妨害をするくらいは当たり前。下級生に鉄棒を突きつけて脅したり、街頭で消化器をばらまいたり、休日に校舎に入ってスプレーで落書きしたり、ドアを蹴り倒してガラスを粉々にしたりという事件も起きているそうです。

 ところが、こうした事件はなかなか表面化しません。
 日ごろは問題を起こしていても、保護者や見学者の前では“いい子”を演じられる子が多いためです。
 日常の音楽の授業は成り立たないのに、合唱コンクールなどでは見事にピアノやウ゛ァイオリン弾きこなしたりするのだそうです。

===
心が磨耗した子ども

 事件の中心にいるのは、成績がトップクラスの、わりと裕福な家庭の子であることが多いといいます。 
 長く小学校で教えてきた教師は、その原因をこんなふうに話していました。

「席やクラス編成まで成績ごとに分けられる塾で、毎日遅くまで勉強していたらストレスもたまる。競争によって子どもたちの心が摩耗してしまっている」

競争を助長する多くの「改革」

 杉並区では、現在三期目となる区長の旗振りの下、大手企業やメディアも巻き込み、競争を助長する多くの「改革」が断行されてきました。

 いくつか例を挙げると、学校選択制、学校運営協議会に人事権や運営権限まで持たせる地域運営学校、三菱総合研究所に1200万円でカリキュラム作成を委託した小中一貫校、行政の負担を保護者に担わせ、寄付金を呼び込む受け皿にもなるボランティア団体・学校支援本部の設置などです。

 競争が激化する中で、各学校は子どもがたくさん集まるような「良い学校」であることをアピールしようと、しのぎを削っています。
 競争的な「改革」が進む他の地域と同じように、子どもひとりひとりの思いや願いよりも、学校の体面や見かけの良さを宣伝することに必死になるようになったのです。

競争で勝ち上がった民間人校長

 こうした競争で勝ち上がったのが区立和田中学校(和田中)です。
 和田中は、リクルート出身の校長を登用し、「日本初の民間人校長のいる学校」として注目されました。

 民間人校長は、その職歴と人脈を活かし、著名人や芸能人による講演会や、外部の人や情報を取り入れて社会問題などを扱う「よのなか科」、英検講師が土曜日に授業する「英語アドベンチャーコース」など、今までの公教育ではとても出来ない特別授業で、保護者の気持ちをとらえ、多くの子どもを呼び込んできました。

 中でも話題になったのは今年1月に同区立和田中学校(和田中)ではじまった大手進学塾・SAPIXと提携した有料の夜間授業「夜スペシャル」です。

注:文中の民間人校長は2008年3月末日で退任し、2008年4月からは別の民間人校長になっています

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ14:25

2008年04月15日

「人と生きる」ことを学ぶ学校(5)

 今年1月26日にスタートした「夜スペシャル」は、「公立の学校が塾の力を借りて受験対策をする」というものです。

 授業は国語と数学が週に3日。放課後、夜6時半から塾講師と一緒に夕食を食べた後に始まり、10時には教室を出られるようにします。希望すれば土曜日の午前中には「オプション英語」も付けられます。
月謝は週3日で1万8000円、週4日で2万4000円と、「授業を担う塾での同じ内容の授業の半額」を売りにしています。

 対象は受験を控えた中学2年生で、受講生は20名弱。杉並区立和田中学校(和田中)校長の「学校の授業についていけない生徒にはむしろ負担になる。無理に参加しないで」(『朝日新聞』12月9日)、「意欲や力のある『ふきこぼれ』の生徒に対応する」(『東京新聞』12月11日)などという発言から、成績の良い子ども向けと分かります。

===
憲法にも触れる行為

 企業が公立学校に入り込んで保護者から直接料金を徴収して利益を上げ、宣伝効果も上げる。望む授業を受けるために保護者が特別料金を支払う。
ーーこうしたことは、憲法にも保障された「教育の無償制」や「教育の機会均等」を揺るがす行為です。
 
 実際に、多くの批判も上がっています。
 しかし、校長と杉並区は「『夜スペシャル』は、地域のボランティアが行う『学校の教育活動ではない活動』であり、料金も安く設定されており、企業の利益にはならない」としてすり抜けてしまいました。

本当に学校の教育活動ではないのか

 しかし、実際はかなり疑問です。
 まず何よりも子どもや保護者にとって「夜スペシャル」が「学校の教育活動外」に見えるでしょうか?

 「夜スペシャル」開始前後には、連日のように校長がマスコミに登場しては「和田中の新しい取り組み」として宣伝していました。校長と和田中PTA広報がつくるホームページでは、校長名で「夜スペシャル」への参加生徒も募っています。

 さらに校長は、「公立校が特定の塾の講師を招いて、一部の子ども向けに有料の授業をするわけにはいかない。だから、和田中を支援するボランティア組織『地域本部』が主催する」(『朝日新聞』2008年2月3日)とも言っています。

本当に「夜スペシャル」の料金は実費程度?

 「実費程度の授業料」について。ある地域住民が、SAPIXの通常授業と「夜スペシャル」の授業の分単位の料金を試算したところ、「夜スペシャル」の授業料はSAPIXの通常の授業料から消費税5%分を引いた金額に過ぎないということが分かりました。

 「月謝が半額なのは、施設費などは杉並区が持ち、雑事をボランティア組織である地域本部が引き受けているからです。通常のSAPIX料金と比べて値引きが大きい教材費は、『学校と塾が協同開発』するそうですが、その著作権は塾側にあるという話も聞きました。そうやって著作権を渡すことで教材費の穴埋めしているのでは?」(地域住民)

 地域本部(区では学校支援本部と呼ぶ)の予算も、もちろん税金です。

 一度は疑義を唱えた東京都教育委員会もこの説明に納得し、「学校の教育活動外であり、生徒の学力向上という公共の利益のためのものであることは明確」と、スタート直前の1月24日に「夜スペシャル」容認しました。

注:文中の民間人校長は2008年3月末日で退任し、2008年4月からは別の民間人校長になっています

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ14:44

2008年04月24日

「人と生きる」ことを学ぶ学校(6)

「東京での公立校との連携を地方進出の足がかりにしたい」(SAPIX中学部・高等部の高橋光代表・『AERA』2008年1月28日号)
 塾にとって、設備投資が抑えられる公立校との提携は願ってもいない話です。

 しかも、今回の和田中のように、話題性のある学校と組めばほうっておいてもマスコミが取り上げてくれます。連日の報道を見て、「初めてSAPIXの名を知った」人も少なくないはずです。

夜間塾は「公平」な教育機会の提供?

 和田中の前校長は「教師の負担が多きすぎるから外部の力を呼び込む」と、新聞等で発言しています。
 また、公立校が塾と提携することへの批判に対しては、和田中PTA広報と一緒につくっているホームページ上で以下のように述べています。

「子どもに100万円単位のお金をかけられない家庭では上位の高校にチャレンジすらできなかったが、和田中では月に一万円出せば上位校を受験するチカラがつく。これこそ、完全ではないが『公平』な教育機会の提供だ」

===
前校長の考えを支持する行政とメディア

 驚いたことに、文部科学省もメディアも、こうした前校長を支持しています。

 昨年度の和田中学校運営協議会には、文科省初等中等教育局の人間が入っているし、今年度、文科省は50億円をかけて前校長が広める「学校支援地域本部事業」を全国に展開します。
 『朝日新聞』は「公教育の建前を並べるだけでは学力をめぐる保護者の焦りは消えない。お金のかかる私立学校や塾が現にあるのだから、ここは塾に行けない子への福音と考えたい」(「天声人語」2008年1月9日)とまで書いています。

 前校長の考えを支持する人々は、その発言の裏にある「競争教育によって生じた格差は正当である」という考えをも追認していることを忘れてはなりません。さらには「競争に勝つのは、いつも強者なのだ」ということを覆い隠そうとしていることも、きちんと認識しておく必要があります。

公教育が破壊される

 「教師が多忙」なのは本当ですが、その原因がどこにあるのかは、きちんと考えておかなければなりません。教師が人事考課と数値目標で徹底的に管理され、子どもと向き合うことをできなくさせられてきた現実を変えていくべきです。
 「学力低下」のいちばんの原因は、手足を縛られた教師が、目の前にいる子どもひとりひとりの状況に合わせた授業ができなくなってしまったことなのですから。

 さらには授業態度などを点数化した内申点を重視する受験体制や、大多数には最小限度の学びだけしか保障しないという偽りの「ゆとり教育」、個人を分断して差別・劣等感を植え付けるための習熟度別授業なども見直すべきです。

 事実をオブラートに包み、「少数の『役に立つ』エリートに手厚く、大多数にはそれなりに」という教育システムを着々とつくりあげてきた結果が、昨今の学力低下を招いたことは今や明白です。

 この根本的な部分にふたをして「教師は忙しいから、塾の手を借りる」というのは、公教育の破壊に他なりません。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ13:35

2008年05月07日

「人と生きる」ことを学ぶ学校(7)

 杉並区の住民や教師たちに話を聞くと、「立場を悪くするので表だった発言は控えたい」と言う人々から驚くような“オフレコ”の話が飛び出します。
 マスコミや教育行政も絶賛する「夜スペシャル」についても、何人もの人から次のような話を聞きました。

「最初の募集では『夜スペ』希望者はゼロ。何度か募集をかけ、部活の顧問の口利きである特定の部活の子どもに声をかけ、どうにか人数を確保したが、そのうち成績の振るわない三名に申し込み取り下げさせた」

「和田中の多くの教師は『夜スペ』に反対している。藤原氏は職員会議で一方的に意見を述べ、何でも独断。反論しても言い負かされるから教師は疲弊し、『早く異動したい』と言う教師が多い」

 また、不登校の子どもへの対応については、

「和田中は他の学校よりも不登校の子を適応教室に送る時期が早い。中には入学後すぐのケースもある」

 など、学力向上に貢献できないこどもを切り捨てているのではないかと思わせる話も耳にしました。

===
悲痛な内部告発の手紙

 つい先月には、和田中の保護者が区内すべての中学校PTA会長にあてた告発文ともいえる手紙の存在も明らかになりました。
助けてほしいです!! 和田中はおかしくなっています!!」と書かれたその手紙は、感情的な個人攻撃の部分もありますが、思い詰めた保護者の気持ちが伝わってきます。

 この手紙が見つかった直後、和田中の前校長は副校長会を通じて手紙を回収しました。手紙を書いた保護者がだれなのかわかっていたはずなのに、警察に名誉毀損の届けを出し、犯人捜しを依頼したということです。

 そんな和田中に対する杉並区民の疑問を詳しくお知りになりたい方は、「市民の市民のための市民によるメディアJANJAN」をご一読ください。

「人と生きる」環境を

「『人と生きる』ことを学ぶ学校」の冒頭で紹介した愛知県犬山市の学校と、杉並区和田中はあまりにも違います。

 杉並区全体の荒れる子どもたちの様子、そして独裁的な前校長のやり方を聞くにつけ、前校長があちこちのメディアで発言していた「上位の子が伸びると、仲間に教えるようになり、互いに学び会う雰囲気になる」との言葉も疑いたくなります。

「出来る子はその子だけが伸びていって、そうでない子は距離を取って見ているだけという感じ。出来る子に触発されて全体が伸びるというのは難しいのでは?」

 そう話す杉並区内の保護者の方が真実に近いのではないでしょうか。

 和田中が行っているような“ふきこぼれ(できる子)”と“おちこぼれ(できない子)”を分け、競争教育に荷担するようなやり方では、絶対に子どもが生まれながらに持っている助け合う力を育てることはできません。
 他者を「敵」と思わせるような教育では、真に人間の能力を発達させることはできないのです(「人と生きる」ことを学ぶ学校(3)参照)。

 子どもたちの今、そして日本社会の未来を本当に憂えるなら、受験競争に備える学力向上ではなく「人と生きる」ことを日々体験し、考える力を育むような環境をこそ、早急に整えるべきです。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ10:22

2011年02月22日

静かなる反乱(1)

 チュニジアで始まった反政府デモが、アフリカや中東諸国に広がっています。さらにアジア圏である中国でも、インターネット上で国民が抗議行動を呼びかけ、人権活動家たちが警察の拘束下に置かれる騒ぎになっています(参照)。

 エジプトのムバラク大統領が退陣を余儀無くされた後、世界各地のいくつもの報道番組が「なぜエジプトで大規模デモが成功したのか」を取り上げていました。

 そんな多くの番組の中で、とく印象に残った発言がありました。
 正確な番組名(おそらくアメリカの報道関係者が製作したもの)を残していなかったので不確かな情報になってしまいますが、2月11日夜20時前後にNHKのBSで放送していた討論会でのある識者の発言です。

 その識者は、「エジプトで、若者による大規模なデモが起きたのは教育に問題があったからだ」と言ったのです。

なぜ日本の若者はおとなしい?

 日本の状況を見ると、その言葉は的を射ているように思います。

 中国までやってきた反政府デモの波。果たして、その波が東シナ海を越えて、日本にまで到達すると考えている日本人はどのくらいいるでしょうか。中国同様、だれかがネット上で呼びかけたら、日本でも「現政府を倒そう」という動きが始まるのではないかと思っている人はどうでしょう。
 
 私も、答えは「NO」だと思います。

 ではなぜ、日本の若者や労働者層はおとなしいのでしょうか。
 反政府デモが広がる国々に比べれば、まだまだ豊かで平和な、住みやすい国だからなのでしょうか。北アフリカや中東のように貧富の差が無いからなのでしょうか。独裁者がおらず、民主主義社会を実現できているからでしょうか。言論統制がないからなのでしょうか。

 毎度のことですが、ここでもやっぱり私は「でも、だけど・・・」と、言ってしまいたくなります。

戦争がなくても平和じゃない

 確かに戦争や内紛など、武器を使った暴力は日本にはありません。

 しかし、「虐待」と呼ばれるものが「身体的虐待だけ」ではないように、戦争も、そうした目に見えやすいものばかりではありません。

 ここ13年間、日本では毎年3万人もが自殺しています。つまり10年あまりで40万人に届く人が自ら命を絶っているわけです。

  内閣府の 『一人ひとりを包括する社会特命チーム』資料(PDF)によると、日本の自殺率は、世界第6位で、アメリカの2倍、英国やイタリアの3倍と先進国の中でも、最も深刻です。さらに、驚いたことに20代30代の死因の第一位が自殺となっています。

 背景には「社会に求められる能力が高く、生産性のある人物しか生き残れない」ラットレースのような「マネー経済戦争」があります。

 まるで「自分で金を稼げないヤツは生きている資格が無い」とでも言いたげな自己責任論や能力主義を掲げる社会のストレスは、虐待、DV、老人虐待、子どもの暴力、象徴的な無差別殺傷事件などとして、市民生活を脅かし、私たちの心をむしばんでいます。

 戦争がなくても、日本には多くの暴力がはびこっています。たとえ戦争がなくても、日本はけっして平和で豊かな国ではありません。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ17:55

2015年08月10日

四角いスイカ(1)

 スイカと言えば、夏の風物詩のひとつです。スイカのずっしりした重み、叩くと鳴る鈍い音、独特の甘い香り・・・どれもこれも夏の思い出につながっています。

 ところでみなさんは「四角いスイカ」をご覧になったことはありますか?

 かく言う私もネット等でしか見たことが無いのですが、ちょっと調べたところ香川県善通寺市でつくっている特産品のようです。もともと観賞用につくられたということで「味は期待しないで」と書いてあったりします。

小さなときに鋳型にはめる

 栽培方法はいたって単純で、スイカがまだ小さいときに鋳型(立方体のアクリル板)にはめてしまうのです。

 このとき、スイカが「成長しよう」とする力に負けない厚みと強度のある鋳型でないとちゃんと四角にはならないそう。その栽培の様子を見ることができるサイトもあります。

 食いしん坊の私からすれば、なんで食べてもおいしくないスイカをつくるのに、こんなに努力するのかわかりませんが(栽培している方には申し訳ありません)、世の中には食べられないスイカにお金を出す人もいっぱいいるようです。

 そのサイトによると、できあがった四角いスイカのお値段は、なんと一玉1万円以上! らしいです。その理由は、「つくったもののうち出荷できるのは2~3割程度だから」とのこと。

まるで日本の教育制度

 この「四角いスイカ」の話をはじめて聞いたとき、「まるで日本の教育制度みたい」と思ってしまいました。

 その生命が持っている本来の力を伸ばし、最も適した形に成長させてあげるのではなく、社会が「価値がある」とする形にするため、小さな頃から、その生命が「成長しよう」とする力をそぎ落とし、鋳型にはめ、希少価値の高いものをつくろうというのです。

 そこまで努力しても世に出て行けるのはせいぜい3割弱。その3割に入れなかった「不良品」はいったいどこに行くのでしょうか?

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ09:25

2015年08月17日

四角いスイカ(2)

 市場に出せない7割の「不良品」を出してまで、市場価値の高いものを育てるのは、果たして生産的なことなのでしょうか。
 わずか3割の、市場で高く売れる「良品」の方だって、味はいまいちなのですから、本当の意味で生産的な行為とは言えないような気がします。

 スイカならまだしも(それでももったいないと思ってしまいますが)、人間だったらどうでしょうか。
 市場価値に合わせた少数の「良品」の子どもを育てるために、たくさんの子が「不良品」としてはじき出されるなんてことが、あったら大問題ではないでしょうか。

 でも実際、そのようなことが起きているようなのです。

公教育ビジネスを持ち込んだ杉並区

『東京新聞』(2015年2月28日付)では、公教育に利益追求と市場価値を是とするビジネスが持ち込まれることの問題点が論じられているのですが、そこに気になるコメントを見つけました。

 コメントの主は、東京都杉並区で06年度から5年間、不登校の子どもたちを対象とする区の適応指導教室に勤めていた元教員の長谷川和男さんです。

競争や序列化が始まっていた

 そのコメントをご紹介する前に、東京都杉並区に代表される公教育とビジネス、そして競争教育について記しておきましょう。
 杉並区といえば、義務教育初の民間人校長で話題になったリクルート社出身の藤原和博さんが校長を務めていた杉並区立和田中学校がある地域です。

 藤原さんが和田中の校長になった2003年頃は、今や当たり前になってしまった全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)はまだ再開されておらず、教育基本法も「改正」されていませんでした。
 しかしすでに、学校選択制や自治体による学力テストなどが始まり、子どもと子ども、学校と学校の競争や序列化などが言われはじめていました。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ10:33

2015年08月25日

四角いスイカ(3)

 そんな空気のなかで藤原さんが、和田中学校の校長に就任すると、外部の人間や情報を取り込んで社会問題をあつかって世の中について学ぶ「よのなか科」をつくったり、大学生ボランティアと子どもが宿題などをする「土曜寺子屋」、英語講師を雇って土日に行う「英語アドベンチャーコース」など、表向き公教育の世界ではタブー視されていたビジネス的な視点、企業、価値観を堂々と和田中に持ち込みました。
 
 次々と花火のように打ち上げられる新しい取り組みや、リクルート出身らしい話題づくり、キーワードづくりも上手でした。

 なかでも、学習塾のサピックスと組んだ有料の課外授業「夜スペシャル」はかなりの注目度合いでした。

塾と教育では目指すものが違う

 しかしそもそも、学習塾と公教育は目指すものが違います。
 
 多くの場合、学習塾の目的は「成績を上げ、受験競争に勝つこと」です(そうでない一部の学習塾もありますが・・・)。対して公教育が目指すのは「共に学び合うことで知識だけに偏らない人格形成をはかる」ことです。

 その目的上、学習塾では「他者を蹴落とし、勝ち上がる」ことが“よし”とされますが、公教育では「他者とつながり、みんなで伸びる」ことが大切にされてきました。
 もちろん、昨今の社会全体が競争主義的になっているなかで、教育基本法も「改正」され、こうした目的や理想は「建前」になりつつある部分もありましたが。

「建前」を一蹴

 ところが藤原さんは、そうした「建前」を一蹴したのです。

 たとえば、当時の「和田中と地域を結ぶページ」で藤原さんは次のように公言してはばかりませんでした。

「子どもに100万円単位のお金をかけられない家庭では、上位の高校にチャレンジすらできなかった。(略)和田中では月1万円出せば、3年生までに上位校を受験するチカラがつく。これこそ、完全ではないが『公平』な教育機会の提供だ」

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ09:35

2017年06月02日

カーリングペアレント(1)

 遅ればせながら、「カーリングペアレント」という言葉を知りました。つい最近読んだ精神科医の片田珠実さんの著書『一億総ガキ社会 「成熟拒否」という病』(光文社新書)に出てきたのです。

 かんたんに言うと「子どもの障害物をすべて取り除く親」のことを指すそうで、その語源? は、ストーンを目標のところへと滑らせるため、氷の表面をブラシで掃くカーリング競技だそうです。
 ネットで調べると2005年頃から教育評論家などの間で使われはじめ、もともとはスウェーデンが発祥とのこと。

子どもの“意見”は“聴く”べき

 とあるブログでは「習いごとには送り迎えしたり、持ち物のチェックも全部親がやって、子供には命令形でではなく、常に子供の”意見”を聞いて、話し合ったりする、怒るのではなく、優しく注意する、子供がやりたい事だけをやらせる、楽しい事だけをやらせるなどなど」(在日スウェーデン女性の目から見た日本)がカーリングペアレントであると載っていました。

 ここでは「常に子どもの“意見”を聴いたり、話合ったりすること」「優しく注意すること」なども「いけないこと」というように書いてありますが、そこは意見が分かれるところでしょう。 

 個人的には子どもの“意見”は“聴く”(“聞く”ではない)べきだと思いますし、怒るよりも優しく注意できたほうがずっと有効だと思います。「命令」や「脅し」は子どもに手っ取り早く言うことを聞かせるには便利ですが、「どうしてそれをやった方がいいのか」や「なぜそれがいけないのか」を伝えることはできないからです。

子どもの権利条約では
 
 私が子どもの権利条約関係の講座や講演をさせていただく際、よく受ける質問というかお叱りのひとつに「子どもの意見など聞いたら子どもがわがままになる」「そんなことを気にしていたら、しつけができない」というものがあります(ちなみに“しつけ”についてもいろいろ思うところがありますが、本題からどんどんそれてしまいそうなので次の機会に譲ります)。

 こんなふうにおっしゃる方は、たいがい「子どもの意見を“聴く”」という行為を「子どもの言うことを聞く」ことだと誤解されています。
 これは大きな間違いです。「子どもの意見を聴く」ということは「子どもの意見を受容する」ということであって、「子どもの意見を許容(実現)する」ことではないのです。

 さらに子どもの権利条約が言う、「子どもの意見」とは、学級会で子どもが何か意見を述べたり、自分の意思決定を伝えたりという類のものではありません。もし、そうであったら「乳幼児には意見を表明する権利など無い」ことになってしまいます。

[←ブログメインに戻る][←IFFトップページへ]↑ページ上端へ21:19