カテゴリー「法律」の一覧

2006年12月07日

教育基本法「改正」で子どもが育つか?(1/4)

image061207.jpg 今回は、子どもたちが本音を語ることができない現実について書く予定でしたが、急遽変更。緊急事態である教育基本法「改正」について取り上げさせていただきました。

 今、教育基本法「改正」案(「改正」案)が参議院で審議されています。
 最も「改正」の影響を大きく受ける子ども、そして保護者や現場の教師の多くが、いったい何が論議されているのか、「改正」されれば何がどう変わるのか想像もつかないまま、早ければ今月8日、延びても来週には可決される見通しが強まっています(教育基本法「改正」情報センター)。

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 このままでは、多くの人が今の教育基本法のことも知らないまま「教育基本法は時代に合わない」「教育基本法のせいで子どもたちの状況が悪くなった」などという宣伝文句だけが先走りし、「改正」案は成立してしまいます。先月、与党による単独・強行採決という、力づくによって衆議院で可決されたように。

 しかし、この「改正」案も、その審議のプロセスも問題をいっぱいかかえています。
 以前、このブログ(「奈良放火事件から考える」)でも書いた通り、「改正」案は、「分に応じて国や社会に役立つ人材を育成する」ことを目標としています。その目標達成のため、教育現場には企業経営の手法が持ち込まれます。教育内容と、その達成度の基準を国が決め、上意下達の命令と規律、競争原理を用いて子どもたちを叱咤激励し、指導し、さらには選別・序列化することになります。

 こうしたことを実現する法律に「改正」されれば、子どもが成長するために必要な「おとなとの受容的で安心できる継続的な関係」は、こなごなに破壊されてしまいます。

 そんな「改正」案であるのに、その審議の過程で「子どもの成長や発達に何が大切なのか」「教育とはどうあるべきなのか」など科学的、歴史的見地に立った教育論議がいっさいされていません。「本当に教育基本法のせいで子どもたちの状況が悪くなったのか」も、「何が子どもたちの成長発達に必要な土台を壊してきたのか」も、まったく検証されていないのです。(続く…)

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2006年12月08日

教育基本法「改正」で子どもが育つか?(2/4)

 子どもはおとなに気に入られる“よい子”のふりをすることなく欲求(意見)を表し、それを受け止めてもらうことーーありのままの自分を認めてもらうことーーで、
「自分は愛されている」
「世の中は自分を受け入れてくれている」
 という、自己肯定感や基本的信頼感を育みます。そのような感覚を得てはじめて、生来持っている共感能力や自律性、道徳性や好奇心が生まれ、人生を生き抜いていく力を獲得します。

 子どもが、人格的にも肉体的にもバランスの取れた人間へと成長発達するためには、子どもをそのままで抱えてくれる人間関係、自分は守られていると感じられる安全基地が不可欠です。

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もし、そうした人間関係を持て無かった場合、人格形成に何らかの歪みが生じます。安心感がないため、他人を信用できず、攻撃的であったり、引きこもったり、保身だけを考えたりする人間になるおそれもあります。

 たとえ知的能力が高く、社会的には高い地位につけたとしても、同じです。かえって権力やお金を手しまった分だけ、社会にもたらす弊害も大きくなります。
 多くの場合、身近なおとなから力で押さえつけられて育っているので、成長したときには他人が信用できず、金や権力で人を支配したり、より強い者にしがみついたり、面従腹背で私利私欲に走るような人間になってしまうおそれがあるのです。共感能力が育っていないので、他人の痛みにも無頓着です。

 談合事件で次々と逮捕されている知事たちや、子どもの心を育てる「ココロねっこ運動」に熱心な長崎県の県庁で発覚した大がかりな裏金づくり事件を考えてください。

 子ども期における身近なおとな(多くの場合は養育者)との受容的な関係性を重視する考え方は、イギリスの精神分析医であるジョン・ボウルビィが提唱したアタッチメント理論に基づくものです。

 小児科医でもあったボウルビィは、継続的で愛情に満ちた養育者を持たない子どもたちを調査するなかで、養育者との基本的な関係性である健全なアタッチメント(誕生の瞬間から築かれていく愛情にあふれた情緒的な絆)が形成できなかった場合、その影響は将来にわたって深刻な影を落とすことを明らかにしました。
 
 また、近年、虐待などの不適切な養育による慢性的なトラウマ体験を持った子どもへの理解やケアの在り方についての研究が進むなかで、トラウマとアタッチメントはコインの表裏のような関係であることも分かってきました。
 つまり、健全なアタッチメントが形成されていないとトラウマを受けやすくなり、トラウマを受けると健全なアタッチメントによって築かれた安心感を崩してしまうことが分かってきたのです。

そこには、科学の発達による大脳生理学の発展が関与しています。
 母親の胎内にいる期間も含めて、ごく小さいときから身近なおとな(養育者)から、慰めや共感、喜びの共有などが受け取れなかった場合、右脳の発達不全が起こることが明らかになりました。そして、トラウマ治療の研究から、人との関係性によって脳(心)の機能が改善することも立証されはじめたのです。(続く…)

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2006年12月11日

教育基本法「改正」で子どもが育つか?(3/4)

image061211.jpg このような科学的事実から、昨年は国連「子どもの権利委員会」もアタッチメント理論を取り入れた乳幼児の権利に関する見解を出しました。

 現代社会では、子どもの人格的・肉体的な発達に欠かせない健全なアタッチメントを育む関係性をつくれなくなっていることから、国連「子どもの権利委員会」は、条約の中核に「自ら身近なおとなとの間に『ありのままで認めてもらえる人間関係』を形成し、自らの成長発達に主体的に参加する権利」である意見表明権(12条)をすえました。そして、それによって子どもたち一人ひとりの持てる力を最大限に引き出し、子どもたちが心身ともにバランスの取れた人間へと成長発達することを保障しようと考えたのです。

 ちなみに、子どもの権利条約は子どもの成長発達を保障するための国際的なとりきめですが、日本も1994年に批准し、国内でも大きな拘束力を持っています。

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改正で国(国益)中心の教育に

 そんな子どもの権利条約の考え方は、「人格の完成」(第1条)を教育の目的とする今の教育基本法と通じます。
 教育基本法では、この目的を達成するために、自発的精神を養うことや自他の敬愛と協力——人間関係——(第2条)を重んじています。教育を受ける機会の平等(第3条)や学校における教職員の尊重(第6条)などが謳われ、教育が時の政治勢力の思惑に左右されないことを明確にしています(第10条)。

 ところが、「改正」案は違うのです。いちばん大きな違いは、教育振興計画(17・18条)によって、時の政権が望む子どもをつくるために、教育内容や実現のための法律、手段などをいかようにもつくれるようになるということ。つまり、教育が国(国益)中心のものとなり、そのための人材育成が教育となってしまうということです。
 それを実現するために現場職員への管理や統制が強まり、国が家庭の教育のあり方に口を出せるようになります。
 また、国の望む教育をきちんと実行する学校が優遇されるようになり、学校間の格差も広がります。

 教職員は職務命令と数値目標で身動きが取れなくなり、子どもと向き合うことなどとてもできなくなります。
 全国一斉学力テストがはじまり、効率よく国の求める教育内容を達成するための管理体制が強化されます。
 予算配分も人事も、何もかもが内閣府に設置される振興計画会議の計画にそって決まっていくため、教職員はその計画の実行者に過ぎなくなり、保護者は教育内容に逆らわない子どもを育成する担い手にされるばかりか、お金を出して教育サービスを買わされる“購買者”に成り下がります。

東京都が「改正」先取りの好例

 こうしたことが起こることは、現在、教育基本法「改正」を先取りしたさまざまな取り組みが行われている東京都などを見れば明らかです。

 東京都では、管理強化による教職員の精神疾患問題が深刻です。子どもの顔を見るよりも管理職の顔色をうかがうようになった教職員に対し、子どもは不信や暴力で訴えています。それは学級崩壊や学校内暴力と呼ばれることもあります。
 学力テストや学校選択性の導入によって、学校に格差が生まれ、足立区のように学力テストの結果に応じて予算配分を行うことを決めた自治体も出てきました。
 親たちは、子どもの将来に有利な学校選びに奔走しています。近年、相次いで発刊されているお受験や学校選びをテーマにした雑誌の多さを見てください。 (続く…)

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2006年12月12日

教育基本法「改正」で子どもが育つか?(4/4)

「改正」されれば子ども問題は深刻化する

image061212.jpg そんな教育現場にはびこるのは、自己決定と自己責任に基づく競争原理と上意下達の命令や道徳規範、規律です。子どもたちを“調教”しようというのです。まるで競走馬のようです。
 生まれつきハンディを負っていたり、“調教”の過程で反抗したり、故障したりすれば、容赦なくはじかれてしまいます。
 子どもが成長発達するために必要な人間関係など保障する余裕はありません。

 それでなくとも国は「構造改革」や「自由競争」という名で、保護者や教職員の労働条件を悪化し、教育や福祉分野の予算を削減させ、企業優遇の措置を取り続けることで、子どもがすくすくと育つための人間関係を破壊し続けてきました。

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 お金と地位、そして成果争いに駆り立てられているおとなには、とても子どもと受容的な人間関係を築くための経済的・時間的余裕が無くなってしまいました。
 万が一、そうした余裕があっても、そのおとな自身がそのままで認めてもらえた経験、つまり愛された記憶がないために、自分がされたのと同じような方法で「これがお前のためだ」と言って、子どものお尻を叩いてきました。

 「改正」されれば、こうした状況はますます深刻になります。今よりもずっと、教職員は管理職の顔色をうかがうようになります。親の所得や意識によって子どもが受けられる教育に差が出来ます。幼少期にどんな教育を受けたのかということが、将来、いえ、次の世代にまで影響を及ぼすようになるため、教育熱心な親は戦々恐々となって子どもを追い立てるようになります。

 エリート優遇の格差社会では、一度ついてしまった格差が一生をかけても取り返しがつかないほど大きくなってしまうからです。

安易な「改正」ではなく真摯な議論を

 子どもとおとなとの間の受容的な人間関係など皆無になり、子どもの欲求はつぶされ、居場所は無くなり、ストレスは増し、子どもたちの抱える問題は必ず増大します。

 政府与党が言うように、競争によってモラルが回復し、教職員の質が向上し、子どもたちの学力が向上し、国が豊かになるなどということは絶対にありません。それは、子どもの権利条約の理念を生かした、子ども一人ひとりを大切にした教育を行っているフィンランドやデンマークなどのスカンジナビア諸国が、文化的民度や学力の国際比較、そして国際競争力においても常に世界のトップを占めていることからも明らかです。

 教育基本法の「改正」は、日本の将来のあり方を決定する国の「百年の計」のはずです。けして一部の政治家の感情論や経済界の目先の利益に左右されるべきではありません。
 それにも関わらず、冒頭で述べたように「改正」案にも、「改正」プロセスにも、科学的・歴史的な事実に基づいた論議がまったく欠如しています。

 確かに、今までの教育施策や教育制度は、教育基本法の理念通りに行われてこなかったという反省点はあります。
 しかし、だからと言ってこのまま安易な「改正」に踏み切れば、日本国民は大きな負の財産を背負い込むことになります。

 「改正」を急ぐのではなく、今こそ「子どもの成長発達には何が必要なのか」を真摯に問う、国民的な大議論を行なうべきです。(終わり)

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2006年12月25日

「教育の原点」を取り戻すために(1/3)

image061225.jpg 2006年12月15日、私たちは「教育の原点」を失いました。「改正」教育基本法が成立したのです。

「教育の原点」は人格の完成を目指す人間教育です。そのために、子どもの成長発達を援助するための締約国の責務を定めた子どもの権利条約は「一人ひとりの子どもが、その持てる能力を最大限に発揮できるよう援助すること」(教育の目的/29条)を定めています。
 
 その子どもの権利条約の理念は、人格の完成を教育の目的とし(1条)、時の権力による介入を排除した(10条)教育基本法にも通じます。多くの命を奪った戦争の反省に立ち、当時の日本人は世界に半世紀も先んじた「教育の原点」を確立していたのです。

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 その原点が、論議もつくされぬまま崩壊しました。必ずしも理念通りの教育が行われて来なかったという現実はあるにせよ、「憲法を変えなければ『改正』はできない」とまで言われていた法律があっけないほど簡単に変えられてしまいました。

 15日に国会を傍聴していた人たちによると、形式だけの野党の反対討論と与党の賛成討論があり、あっという間に「改正」案が可決したそうです。

タウンミーティング問題と『改正』問題は別?

 タウンミーティングでのやらせや過剰な経費の使い方などが次々と発覚。「『改正』ムードを高めるための世論誘導」「自民党案をそのまま『改正』案にスライドさせた」などの批判もありながら、安倍晋三首相や伊吹文明文科相の責任が追求されることもありませんでした。
 同じ15日に、衆議院に提出されていた安倍内閣の不信任決議案も伊吹文部科学相の問責決議案も、簡単に退けられました。

 1回あたり平均2千万円を超えた高額の経費が使われて開催された教育改革についてのタウンミーティングでは、会場での送迎に4万円、エレベーターからの誘導に2万9千円などが支払われ、官僚の送迎などに使われたハイヤーが水増しされるなど、不適切なコストがかさんでいました。 
 こうして開かれた全174回のうち、6割にあたる105回で、やらせ発言や発言依頼者への謝礼などが行われていました。

 常識的に考えれば、その責任の所在や不正の原因を明らかにし、当時官房長官だった安倍首相がどのように関わっていたのかにもきちんと追求されるべきではないでしょうか。少なくとも安倍首相が給与を返納して事足りるという種類の問題ではありません。
 ところが、安倍首相らは「タウンミーティング問題と『改正』問題は別」と言い切り、きちんと取り合おうともせず、今回の可決に踏み切りました。(続く)

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2006年12月28日

「教育の原点」を取り戻すために(2/3)

image061228.jpg「改正」の明確な理由もなく

 しかし、そこまで急いで「改正」しなければならない明確な理由は何も示されていません。参議院・教育基本法改正特別委員会で参考人に立った知人に聞いても、「公の理由は『国際社会の変化に合わせるため』だけ」とのことでした。
 
「国際社会の変化に合わせるため」に何を行うつもりでいるのかについては前回までの「教育基本法『改正』で子どもは育つか?」で述べました。端的に言えば、「分に応じて国や社会に役立つ人間の人材育成」です。
 このような意図は「改正」法の中に明記はされていません。でも、それは教育改革国民会議(2000年)から続く、「21世紀教育新生プラン」(2001年)、「人間力戦略ビジョン」(2002年)、「中央教育審議会答申」(2003年)など、「大競争時代を打ち勝つ」として次々と出された提言などを見れば一目瞭然です。

 そして、その先に競争の激化と規律・統制によるストレスの増大、子どもの序列化、そして人間関係の崩壊が待っていることも、「改正」先取りの教育改革を行っている自治体の現状から疑念の余地がありません。

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「改正」法成立と同じ日、文部科学省は絶妙のタイミングで「改正」を先取りした教育「改革」の影響の一端を発表しました。文部科学省の調査によると、2005年度に病気休職をした公立小中高の教職員は7000人を超えました(前年比709人増)。そのうち、うつ病などの精神疾患で休職したのは、前年度比619人増の4178人で過去最多です。10年間で約3倍に急増したそうです。

責任重大なマスコミ

 多くの問題をはらんだ「改正」法とその審議でしたが、子ども問題に関心がある人にでさえ、その問題点を理解してもらうことほとんどできませんでした。多くの国民は「自分とは関係のないこと」と感じ、多くの保護者は「問題を起こさない子どもを育てるには規律ある教育の方が望ましいのでは?」と考え、多くの子どもは蚊帳の外に置かれたままでした。

 そこには分かりやすく問題点を伝えることができず、保護者や子どもたちの視点を忘れていた反対する側の責任もあります。しかし、何よりも責任重大なのはマスコミでしょう。
「改正」に関する一連の問題を早くから、鋭い視点で掘り下げた記事を掲載した大手新聞は『東京新聞』くらいです。日本のジャーナリズムを代表すると言われる大手新聞などは、自らのグループ会社がタウンミーティングを取り仕切ったためなのか、当たり障りのない記事ばかりという印象を否めませんでした。

 多くの人に影響力を持つテレビは、「改正」間際になってもアジア大会の報道に忙しくて教育の根幹に関わる法律をじっくり検証する暇はありませんでした。
 参議院の特別委員会で強行採決された日の夜も、トップニュースは松坂大輔投手が61億円でレッドソックスと正式契約をしたことでした。
 
 大手マスコミは、「『改正』の焦点はイデオロギー(愛国心)問題である」かのような報道をギリギリまで行ない、本当の問題点を曇らせてしまいました。
 実は、愛国心を盛り込むかどうかなど、どうでもいいことなのです。「改正」案の教育行政(16条)と教育振興計画(17条・18条)があれば、国はやりたいように教育を操作することができます。つまり政府が「戦争をはじめよう」と思えば兵士づくりのための教育が、「国際競争で負けない優秀な人材を育てよう」と思えば子どもを選別する教育ができてしまうのです。

 メジャーなテレビ局が「改正」問題を大きく取り上げたのは参議院本会議で可決された後です。15日の夜、NHKは伊吹文科相をスタジオに招き、「改正」を宣伝する番組を放送しました。また、反対のスタンスを取ったある民法のキャスターは「圧倒的な数の論理を使って“われわれの知らない間”にこんな重要な法案が通ってしまった」と、吠えていました。(続く…)

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2007年01月09日

「教育の原点」を取り戻すために(3/3)

政治と一体化したマスコミによる世論誘導

image070109.jpg 昨年の秋と同じです。マスコミ各社は自民党圧勝が決まった後になって、まるで用意していたかのように小泉政権が行なった構造改革の問題点、いわゆる格差社会の問題についての報道を一斉に始めました。
 選挙前、多くのマスコミはまるで郵政民営化だけが焦点であるかのような報道を続け、構造改革が国民にどのような生活をもたらしているのかということをきちんと伝えようとしませんでした。

 政治と一体化したマスコミによる世論誘導。ちょっと横道にそれますが、その怖さは拉致問題についても感じます。
 安倍内閣になって担当の首相補佐官が起用され、10月には政府が重点的に報道するようNHKに命令まで出した拉致問題。それは安倍首相が副官房長官を務めた2000年以来、極めて大きく報道されるようになりました。

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 1960年代から断続的に起きていながら、ほったらかしにされてきていた拉致事件が、急に脚光を浴びたのです。
 拉致問題に熱心に取り組み、北朝鮮脅威論をあおり立てる人たちが、憲法「改正」、軍事増強を唱える人たちと重なることもあいまって、何とも言えない不安を覚えます。

 偶然の一致なのか15日には、防衛庁の省昇格関連法や「改正」テロ対策特別措置法も成立しています。
 これらの法案を可決させ、自民党政治家から「保守本流に戻った」と喝采を浴びる安倍政権。「戦後体制からの脱却」を掲げる安倍首相。彼が次に照準を定めているのは憲法「改正」です。

改めて子どもの権利条約を広める重要性
 
 取材やNGOの活動のなかで出会う親の愛を渇望する子どもたち。臨床の現場で出会う親(世間)の期待でがんじがらめになったおとなたち。そうした方々の現実を見たとき、私には安倍政権が指し示す先に人々が幸せなる社会を想像することはできません。

自分の親からされたことを振り返ったとき、規律と統制、すなわち「上から押しつけられた価値」を子どもに植え付けることで子どもが“よく育つ”と思えるでしょうか? 一部のエリートのための社会で子どもはすくすくと育つでしょうか? そんな子どもたちの犠牲の上に築かれた日本は、本当に「美しい国」でしょうか? 

 私たちは早急に「教育の原点」を取り戻さなければなりません。子どもをめぐる現状が厳しさを増す中で、今度こそ現実をともなった「教育の原点」を確立していかねばなりません。そのために役立つのは、やはり「教育の原点」を示した国際条約であり、国内でも強い拘束力を持つ子どもの権利条約です。
 改めて子どもの権利条約の持つ理念、そして重要性を改めて広めていきたいと思います。(終わり)

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2009年03月04日

子どもの権利条約と家族(1)

 今回は、子どもの権利条約から見た家族の問題を書きたいと思います。

 1994年に日本が批准した子どもの権利条約は、虐待や親の病気など、特別な事情があって親が面倒を見られないということがない限り、子どもと親の分離を禁じています(第9条)。

 たとえ両親のどちらかが日本人でなかいとしてもまったく変わりません。どんな子どもも、すくすくと成長できるように、身の回りを整えてもらったり、愛情を注いでもらったりする権利を持っています。

 もし、経済的な理由や国籍などの問題で、親がこうした愛情を注ぐことが難しい場合には、国が親を援助する義務もあります。

 家族というハコモノよりも、そこに暮らす子ども一人ひとりの思いや願いを大切にする子どもの権利条約らしい条文です。

 ところが、日本はこの9条を認めることを留保しています。
 これもまた、子どもよりも家族を重んじ、前回のブログで書いたような“偽りの家族”が増殖する土壌を築いてきた日本らしい話です。

 国連「子どもの権利委員会」は、2度に渡る子どもの権利条約に基づく政府審査で、こうした日本政府の態度に懸念を表明しています。

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子どもよりも規律が大事

 日本政府が9条を留保する理由は、「もし、9条を認めてしまうと入国管理権限に影響を与えてしまう」と分かっているためです。

 たとえば不法就労で日本に入ってきた外国人に、子どもが産まれ、生活しているという実態が出来てしまった場合などにも、その子どもを含む家族を受け入れる義務が生じます。
 それは、日本政府からすれば「規律を乱す」許せない行為なのです。

 実は、まさに今、こうした日本政府の態度によって、家族分離の瀬戸際に立たされている子どもがいます。
 最近ニュースでも話題になっているカルデロンのり子さん(13歳)です。
 のり子さん一家については、BBCが「日本政府、家族の分割を迫る」(Japanese ruling may split family)と報じるなど、世界的にも注目を集めています。[こちら参照
 
親子分離か強制退去か

 のり子さんは日本で産まれ、日本で育ち、日本の学校で教育を受けました。現在は埼玉県蕨市の中学校に通っています。日本語しか話せません。

 ところが、のり子さんの両親がフィリピンからの不法入国者であったために、東京入管は(1)3人そろって帰国するか、(2)のり子さんだけを残して両親だけでフィリピンに帰るか、の選択を迫っています。期限は今月9日です。

 その期限が告げられた2月13日より数日前、一家は記者会見しました。その席でのり子さんは、「私にとって日本は母国。日本で勉強したい。そのためには両親が必要です」と語り、父親は「帰国を前提とした対応は考えられない。子ども一人を残していくこともできない」と話しました。
 その模様は[こちら]で見ることができます。

 のり子さんの友人や一家が住む蕨市の住民を中心に約2万筆もの署名が集まり、つい昨日、蕨市議会は全会一致でのり子さんの在学・学習期間中、一家全員の在留許可を求める意見書を採決しました。

 でも、日本政府の姿勢は頑なです(経緯を詳しく知りたい方は[こちら]参照)。
 
 正規の在留資格が無い場合は、法務大臣の裁量で特別在留許可を認めることもできますが、森英介法相は「のり子さんだけなら在留許可を認めるが、一家全員での在留は認めない方針は変わらない」(2月27日)とコメントしています。

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2009年04月24日

生育歴が無視される裁判員制度(1)

 この5月から、殺人や傷害致死などの重大な事件を争う刑事裁判に裁判員制度が導入されます。導入を進めてきた人たちは、「裁判の迅速化を図る」「国民の意見を裁判に反映させる」「刑事司法を開かれたものにする」など、と言って宣伝していますが、本当にそうなのでしょうか? 

 導入が決まった後になって、各マスコミはようやく裁判員制度の問題点を指摘するようになりました。それによってようやく国民も、法律の専門家ではない一般人が司法判断を下すことの難しさや、裁判員となった場合の義務、義務に反したときの罰則等について現実的な問題としてとらえられるようになってきました。
 
 昨年3月に日本世論調査会が実施した調査によれば、「裁判員を務めてもよい」と答えた人は26%。対して「裁判員を務めたくない」と答えた人は72%にもおよび、「務めてもよい」の3倍にも達しています。
 また、最高裁判所の調査でも、「参加したくない」とする意見(38%)は、「参加してもよい」(11%)の3倍以上になっています。

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なぜ今、裁判員制度導入なのか 

 多くの国民が「裁判員にはなりたくない」と言っている制度をどうして導入しなければならないのでしょうか。そもそもなぜ、裁判員制度導入の話が持ち上がったのでしょうか。

 国民の参加を提言したのは2001年の「司法制度改革審議会意見書ーー21世紀の日本を支える司法制度」でした。

 背景には同じ年に成立した小泉内閣が推し進めた、経済活性化、国際競争力強化のための構造改革、規制緩和がありました。

 構造改革、規制緩和を軸とする小泉改革は、「それまで政府が国民生活を守るために行ってきたさまざまな規制や縛りをとっぱらい、あらゆるものを市場経済に委ねる社会をつくる」ことを目指しました。
 そして国民に対しては、「政府に頼ることなく、自らの意思決定において市場経済に参加し、選んだ結果には自分で責任を取ること」を求めました。
 
 司法においても同様に、「国民が裁判官とともに広くその責任を分担するための仕組みが必要」と考えました。たとえ法律に関する知識がない国民であっても、「国民の健全な社会常識を反映させることができる」として。

 それが、「国民の意見を裁判に反映させる」「刑事司法を開かれたものにする」ということだというわけです。

起訴されると有罪率ほぼ100% 

 では、「司法の迅速化」はどこに行ったのでしょう。
 
 その話をする前に、日本の刑事裁判はなぜ時間がかかるのかという話をしたいと思います。

 日本の刑事裁判は、まず警察官と検察官が被疑者を綿密に取り調べるところから始まります。この段階で有罪の証拠を固めてしまうのです。
 取り調べの間、被疑者は警察署の中に設置された代用監獄という場所に、ずっと入れられます。「やったかどうか分からない、犯人の疑いがある人」であるだけなのに、最大で23日間日間もここに押し込まれます。

 この間、外部との接触はほとんどできません。孤立無援の状態におかれ、「お前がやったんだろう」と責め続けられます。疲れ切った被疑者は「どうにかしてここから逃れたい」と思い、検察側に有利な供述をし始めます。

 こうした異常な取り調べが、世界に類を見ない「いったん起訴された場合の有罪率はほぼ100%」という数字を可能にしています。

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2009年05月14日

生育歴が無視される裁判員制度(2)

 世界でもまれな、被疑者の人間性を無視した代用監獄の存在は、国連からも批判されています。
 代用監獄で被疑者がどのように扱われるか、興味のある方は東京弁護士会のサイトをご覧ください。

 ご一読いただければ、なぜ代用監獄が国連から批判されるのか、なぜ被疑者が嘘の自白までしてそこから出たいとまで思うのか、おわかりになるかと思います。

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次回の開廷まで時間がかかる理由

 こうした代用監獄に被疑者を押し込め、警察・検察側に有利な証言を引き出すまで超時間にわたる取り調べができるうえ、捜査権限も持つ警察・検察側に対して、弁護側は圧倒的に不利です。
 
 一般市民は、警察に協力するようには弁護側には協力してくれませんし、被疑者との面会さえも制約されます。当然、弁護側が手にする情報は検察側に比べて、かなり少ないものになります。

 弁護側は、そうした状況下で検察側の作成した膨大な調書(事件によっては、段ボール箱何箱にも及ぶ調書になることもあります!)を読み、反証する材料を見つけていかなければなりません。どうしてもある程度の時間が必要になります。

 次の開廷まで間隔が空いてしまい、事件によっては判決まで長い年月がかかってしまうのも、無理はありません。

日本の刑事裁判が抱える根本的問題

 膨大な調書が引き起こす問題は、開廷の間隔が空いてしまうというだけではありません。
 
 裁判官が次の開廷までの期間に「法廷外で、検察側が作成した調書を読まざるを得ない」ことも、見逃せない問題です。
 
 これによって、裁判官が公開の場である法廷内での直接的なやりとりよりも、法廷外(密室)で読んだ調書によって心証を形成し、その影響を受けた裁判・判決につながることが少なくないからです。

 だから、検察側の膨大な調書作成が引き起こす
1)被疑者の長期勾留による「自白の強要」、「虚偽の自白」
2)開廷間隔の長期化
3)裁判官が法廷外で心証を形成してしまうこと
 は、長年、日本の刑事裁判が抱える問題点とされてきました。

不思議な司法制度改革

 それならば、諸悪の根源である代用監獄を無くし、警察・検察側が「いったん起訴されると有罪率がほぼ100%」にもなるような取り調べをできないようにすればいいと思いますが、不思議なことに司法制度改革審議会の専門家の方々は、そうは考えなかったようです。

 そして、いつの間にか根本的な議論は置き去りにされ、問題がすり替えられました。そう、前回、このブログで書いたように、「国民が裁判官とともに広くその責任を分担するための仕組みが必要」という話になってしまったのです。

 こうして、相変わらず代用監獄は残されたまま、「司法の迅速化」を図り、「裁判を民主化する」(「国民の意見を裁判に反映させる」「刑事司法を開かれたものにする」)として、裁判員制度の導入が決定されました。

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2009年05月21日

生育歴が無視される裁判員制度(3)

 裁判員制度になれば、確かに審理期間は短くなります。集中審理が行われるため、3〜5日程度で結審することになるのです。

 こうしたスピーディな裁判を実現するために行われるのが、公判前整理手続です。
 
 公判前整理手続とは、初公判に先立って、裁判官、検察官、弁護人、必要な場合は被疑者が話し合い、あらかじめ証拠や争点を絞り込んで審理計画を立てる場です。ここで、法律の専門家ではない裁判員にもわかりやすいよう、証拠が厳選されます。
 
 2005年から一部の刑事裁判で行われていて、その場は“慣例として”非公開です。
 たとえ公判が始まった後に重要な証拠などが見つかっても、公判前整理手続で認められていなければ、原則として新たに証拠請求をすることはできません。

 代用監獄は残したまま、こうした公判前整理手続を導入することは、弁護人を今まで以上に不利な立場に追い込みます。
 前回も書いたように、弁護人には捜査権限が無く、被疑者との面会さえもままならないのです。

 公判前整理手続が行われれば、その手続までに弁護人が情報を集められず、十分な準備ができないままに臨む可能性が高くなることは否定できません。しかも「証拠が厳選される」ため、検察官が握っている証拠をすべて見ることもできなくなります。

 へたをすれば裁判方針も立てられないまま、公判前整理手続を終えることにもなりかねません。

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本心を語れるようになるには

 安易に早さだけを求めることは、他にも大きな問題を残します。そのひとつは「被疑者が犯行に及んだ真の理由が見えなくなる」ということです。

 被疑者が真実を話せるようになるまでには、かなり長い時間を要することもあります。
 
 その良い例が、1999年4月に山口県光市で起きた母子殺害事件です。
 当初、この事件の被疑者は「強姦目的で部屋に侵入し、抵抗されたため殺害した」と、検察に有利な供述をしていました。

 ところが、7年以上たった公判で、乱暴を目的としていたこと、そして殺意を持っていたことを否定する供述を始めたのです。

 この被疑者に対し、「嘘つき」と言葉を投げつける人々は多くいます。「弁護士にそそのかされて供述を覆した」と、弁護人ともども非難の対象ともなりました。実際、最高裁判所も「新たな供述は信用できない」との判断を下しました。

カウンセリングの現実に照らして

 でも、果たしてそう言い切っていいのでしょうか?
 人が真実を話せるようになるには、思いの外、長い時間がかかります。それは、日々のカウンセリングの場でも感じることです。

 たとえ被害者の立場の方であっても、被害に遭った自分の情けなさや至らなさ、それを認めたくないプライド・・・ときには、加害者への愛情などが、本心を語ることを妨げます。
 意識的に本心でないことを語られる方もいらっしゃいますが、中には無意識のうちに自らの思いを封じ込め、表面的な言葉で語るケースも少なくありません。

 重篤なケースであればあるほど、人が本当の自分の気持ちに気づき、語れるようになるまでには、長い時間がかかります。そして、その期間、ずっと自分を否定せずに寄り添ってくれる他者がいなければなりません。

 こうしたカウンセリングの現実に照らし、母子殺害事件の被疑者のことを考えると、新たな供述を「まったくの嘘」と即座に断じてしまうのはとても危険なことのように思われます。

「信頼できる弁護人との関係性によって、ようやく口を開きかけた」ととらえることもできるのですから。

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2009年05月28日

生育歴が無視される裁判員制度(4)

 そもそも公判前整理手続では、「なぜ犯行に至ったか」という量刑手続に関する資料は簡略化される傾向にあります。
 考えてみれば、当たり前です。「なるべく早く」判決を出そうとすれば、当然、注目されるのは「やったこと」(事実認定手続)ばかり。その理由までは、なかなか目がいかなくなります。

 こうした裁判が行われるようになればどうなるか・・・。
 事件の背景や全体像がなおざりにされ、犯行に至った被疑者(被告人)の生い立ちや犯行動機なども解明されなくなってしまいます。

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大きくなる社会のリスク

 それはとても危険なことです。
 私たち人間のすること、なす事。対人関係のパターン。ものごとの考え方や価値観・・・すべては生育歴(法律用語では成育歴)無しには語れないからです。

 IFF相談室の斎藤学顧問は、そんな裁判が行われることの危険性を『週刊金曜日』2009年5月15日号25ページで次のように話しています。

「人間の言動にはすべて生育歴が関係している。兄弟でも個性が違うし、そんな子どもを親が平等に愛せるものでもない。
『おとなしい兄はかわいいが、乱暴な弟は疎ましい』などと感じ、対応は異なる。

その時々の家庭の事情も影響する。個々の背景を見ることで、何が犯罪の引き金になったのか、逆に何が抑止力になるのかなどが分かり、社会が保障すべきものも見えてくる。犯罪原因を分析できなくなれば、社会は大きなリスクを抱えることになる」

道連れを得てようやく果たした自殺

 そして2001年に大阪教育大学付属池田小学校で起きた小学生連続殺傷事件の宅間守元死刑囚の生い立ちを例に挙げて説明を続けています。

 以前、このブログでも紹介したように、宅間元死刑囚の子ども時代はかなり過酷なものでした。
 父親からの激しい暴力と血まみれの母親を見る毎日(詳しくは「絶望と自殺(4)」参照)を生き延びることに必死だった彼には、「だれかに大切にされた」と思えるような経験など、まったくなかったことでしょう。

 後に「自殺すらできない自分が嫌になった」と語り、逮捕後は「早く死刑にしてくれ」と繰り返した宅間元死刑囚。そんな彼が起こした事件を斎藤顧問は次のようにとらえています。
 
「あの事件は、一人では死に切れなかった男が『被害者たちという道連れを手入れてようやく果たした自殺』だったように思う。
彼のように無条件に愛され、尊重された経験のない子ども時代を過ごし、今も歯止めになるような他者がいない環境は人を犯罪に向かわせやすい。昨年3月に土浦で起きた8人殺傷事件(注1)や6月の秋葉原事件(注2)などの被疑者・被告人にも共通している」(同誌)

注1)茨城県土浦市のJR常磐線荒川沖駅前で八人が殺傷された事件
注2)歩行者天国の秋葉原(東京都)にトラックで突っ込み、七人が死亡、十人が重軽傷を負った事件

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2009年06月04日

生育歴が無視される裁判員制度(5)

こうした裁判員制度によって、少年法も骨抜きになってしまう可能性があります。
 少年法は、もともと教育基本法や児童福祉法と同じように、子どもの成長発達のためにつくられた法律です。

 だから、いろいろな事情でうまく成長発達することができず、その結果として罪を犯した少年のやり直しを目的としてつくられています。
 刑罰を課すことよりも、少年を教育・保護し、行き直すために援助すること・・・つまり、「要保護性」に力点が置かれています。
 
 そのため、成人の場合よりも生育歴や生育環境がていねいに検討されるケースが多くありました。

 ところが、今まで述べてきたように、裁判員制度にともなって始まった公判前整理手続では、「何をやったのか」が中心になります。たとえ少年であっても、生い立ちや犯行動機が十分に検討されなくなるのです。

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削られる生育歴の調査

 裁判員制度と関係する少年事件は、家庭裁判所(家裁)から検察官に送致され、刑事裁判に付される事案です。こうしたケースを「逆送」と呼びます。
 2000年の少年法「改正」で、殺人など重大事件を起こした少年は原則として逆送されることになりました。
 現在、およそ年間に30件ほどあります。

 こうした逆送される少年事件の事案で、たとえば家裁では「どうせ逆送されるのだから、刑事裁判の方で生い立ち等は調べればよい」と思われ、逆送された後の公判前整理手続では「家裁で調査されているはずなんだから」と、それまでの生活環境などの証拠調べに時間をかけようとしなくなることが起こり得ます。

調査官の存在意義もなくなる

 裁判官や検察官、弁護士など、少年事件に携わる法律家の研修を行う最高裁判所所司法研修所でも、裁判員制度導入に向けて「これまで重視されてきた成育歴や素質などの調査記録を証拠とせず、法廷での少年の供述内容で判断した方が望ましい」という研究報告をまとめています(2008年11月)。

 また、今まで「要保護性」を守る立場から、犯行に至る経緯や生い立ちなどを社会的・心理学的に調査して社会記録としてまとめてきていた家庭裁判所調査官(調査官)の役割も大きく変わります。
 
 調査官の研修でも、非行につながる環境要因などは簡略化して、社会記録の中の調査票に「刑事処分相当」との意見を「簡潔に」記すようもとめられているというのです。

 私の知り合いのある調査官は、その事態をこう危惧しています。

「そんな調査票しか書けなくなれば、要保護性を守るはずの調査官の専門性も、存在意義も失われてしまう。調査官の仕事の基本は、どんな罪に問われた子にも、『いいところ』を見つけて受け入れ、その子の思いに寄り添った調査票を書くこと。子どもは『理解された』という体験があってはじめて、罪を反省し、刑も受け入れることもできる。そこが省略されてしまえば『どうせ俺はワルだ』と開き直り、再び罪を犯す子どもが増えるだけだ」

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2009年06月12日

生育歴が無視される裁判員制度(6)

 確かに2000年の少年法「改正」以降、「刑罰を課すのではなく、少年を教育・保護し、生き直しを援助する」という少年法の理念はすでに形骸化しつつあります。

 しかしそれでも今までは、弁護人が頑張ればどうにかできるという可能性も残されていました。ところが裁判員制度が導入されることで、そうした可能性さえも無くなってしまいます。

 私がよく知っている法学者は言います。

「要保護性を守る立場の調査官が『刑事処分相当』と言っているのだから、生育歴が争点になって『少年の生き直しを援助しよう』なんて結果が出ることはあり得ない。逆送された少年が刑事裁判で『保護処分相当』となれば家裁へと差し戻すことを定めた少年法55条も空文化してしまう」

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刑罰のパターン化

 百歩譲って、それでも私たちの社会にもたらすメリットの方が大きければいいかもしれません。
 こうした裁判員制度の導入によって、裁判に民意が反映され、犯罪が減り、被害者やその遺族にあたる方々が救われるのであれば、多少のことは目をつぶる必要があるかもしれません。

 でも、残念ながら、そうはならないでしょう。

 たとえば「民意を裁判に反映する」と言われても、法律の専門家ではない私たちには、人を裁く基準など分かりようもありません。意見など述べようもないでしょう。

 しかも評決の際には、法律の専門家である裁判官が「過去の似たような事件でどんな判決が下されたか」という量刑相場を示すとも言われています。
 つまり専門家が「この程度の犯罪であれば、こうした判決が妥当ですよ」と、提示するわけです。専門家でない私たちが、これに異を唱えたり、疑問を呈したりするには、かなりの知識と勇気が必要でしょう。

 しかも、裁判で争われたのは「やったこと」だけ。被疑者が「なぜ犯行に及んだのか」という背景や、被疑者が抱える個別の事情が分からないのですから、疑問を持つ材料すらありません。

 たとえ量刑相場が示されなかったとしても、「○人を殺しているから死刑」「致死だったら無期懲役」など、刑罰をパターン化して当てはめる以外ないでしょう。

厳罰化も進む

 そして裁判員が下す判決は、量刑相場より重いものになるはずです。

 裁判員制度では、「専門家ではない裁判員にもわかりやすい裁判」を合い言葉に、検察側はビデオを使ってことさらに裁判をショーアップしたり、裁判員にも届きやすいプレゼンテーションの手法などを駆使して、「被疑者がいかにひどい人間か」と強調したり、裁判員の情に訴える証拠を出してくることは必至だからです。

 今年2月18日に東京地裁で行われた女性のバラバラ殺人事件(注)の公判で、検察側が被害者の肉片の映像まで見せたことを思い出してください。

 昨年十二月にスタートした被害者参加制度も、検察側を助けることにつながります。
 この制度によって、裁判員は被害者やその家族が語る辛さや苦しさみを直接、聞かされることになります。被告人の生い立ちが見えなくなるのとは逆に、大切に育てた我が子の半生を涙ながらに語る遺族の姿などをリアルに見せられることになるのです。

 裁判員の心に、被疑者を「許せない」と思う気持ちがわき、「厳罰に処すべきだ」という思いが喚起されても、なんら不思議はありません。

 こうした中で裁判員が下す判決を、はたして「民意を反映した国民の常識」と呼んでいいのでしょうか?

注)昨年4月に起きた東京都江東区のマンション自室で同じマンションの住人である女性を殺害し、遺体を切断して捨てたとされる事件

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2009年06月18日

生育歴が無視される裁判員制度(7)

 裁判員制度は、被害者の方々も救いません。

 ある調査官は、大勢の被害者やその家族と接してきた経験から、その理由をこんなふうに話してくれました。

「被害者やその遺族が知りたいのは、『自分の大切な人が、なぜそんな目に遭わなければいけなかったのか』ということ。その疑問に応えるためには、被告人がどんなふうに育ったどんな人間なのか、なぜ犯行に及んだのか、などが明らかにされる必要があります」

 ところが、裁判員制度にともなう公判前整理手続では、まさにそこの部分が削られることになるのです。

「そんなことになれば、被害者側の傷はもっと深くなってしまう」と、この調査官は心配します。

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被害者参加制度も役に立たない

 被害者参加制度などあっても何の役にも立ちません。

 裁判員制度導入に先立ち、被害者参加制度を検証した新聞記事(『朝日新聞』3月3日)「何のための制度なのか」などという、被害者側の憤りが綴られていました。また、被害者側の精神的負担が大きすぎるという意見も述べられていました。

 こうした疑問の声が上がるのも当然のことです。そもそも被害者参加制度に基づき、被害者が公判で述べる意見は「聞き置かれる」だけ。証拠として採用されるわけでもありません。

 それにもかかわらず、なぜ被害者参加制度が必要なのでしょう。
 知人の法学者は、こう分析します。

「今まで放置されてきた被害者の恨みを被疑者にぶつけるかたちでガス抜きさせ、それに共鳴する裁判員という装置を用意しただけ。被害者感情さえ厳罰化に利用されている」

被害者参加制度は「ガス抜き」

 言葉は良くないかもしれませんが、「ガス抜き」という表現はまさにぴったりだと思います。

 国民の社会の不満や不安が高まったときに、国の外に敵をつくったり、国内に異端者としてのスケープゴートを用意するのと同じことです。
 人々の鬱積した感情は、スケープゴートにぶつけることで緩和されます。本当の意味での解決にはつながらななくても、いっとき「救われた気持ち」にはなるのです。

 おかげで「社会をつくっている側」(権力を持っている側)は、本来の問題に手をつけなくてすみます。
 
 不満や不安の原因は、たとえば社会保障が減らされることであったり、仕事が無くなることであったり、経済格差が開いていることであったりするはずなのに、その原因に触れることなく、自分たちにとっては都合のいい今の社会を温存していくことができます。

 これを裁判に置き換えれば、被害者参加制度の役割が見えてきます。
「ガス抜き」が出来れば、本当に被害者側が救われるために必要な社会整備はしなくてすみます。

「なぜ犯罪者が生まれるのか」という部分にも目隠しです。
 そうして犯罪者が生まれないようにするための社会保障もしないまま、「こうやって権力は悪い奴をちゃんと厳罰に処していますよ。市民を守っていますよ」という“ふり”ができます。

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2009年06月26日

生育歴が無視される裁判員制度(8)

 しかも裁判員制度の導入によって犯罪が減ることはけしてないのです。
 前々回に書いた調査官の方の言葉をもう一度紹介したいと思います。

「子どもは『理解された』という体験があってはじめて、罪を反省し、刑も受け入れることもできる。そこが省略されてしまえば『どうせ俺はワルだ』と開き直り、再び罪を犯す子どもが増えるだけだ」

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“問題児”と重なる姿

 この調査官の言葉は、私が出会ってきたいわゆる“問題児”と言われる子どもの姿とも重なります。

 バイクの無免許運転などで何度も補導されていたある少女。街行く人がみんな振り返るほどに派手な化粧や服装で夜の街を徘徊していた少女。万引きが止められず、教護院(現在の児童自立支援施設)に入った少年・・・。

 求め、信じたあげくに裏切られるかもしれないという恐怖。たとえ“まっとうな”人間になっても自分を認めてくれる人と出会えないかもしれないという絶望観。
「もしかしたらどこかに、そんな自分を理解し、手を差し伸べてくれる人がいるかもしれない」
 という、淡い期待を断ち切ろうと、どんどん自分を周縁へと追い込んで行きます。

無意識のうちに

 それはたとえば、子ども時代に性的虐待を受けた人が、わざと危険な場所に身を置いて再び性被害に遭ったり、水商売の世界に飛び込んだりするのと似ています。

 救いを求めながらも、「自分には救われる資格などない」と思い知らせるため、そして「それは自分のせいなんだ」と納得させるため、わざと奔放な行動に出ては危ない目に遭い、傷の上塗りをしていきます。

 いくら本人が「止めよう」「どうしてこんなことになってしまうんだ」と思っても、自分に寄り添ってくれる人を得て、その問題と向き合うようにならない限り、行動をコントロールすることはできません。

 知らず知らずのうちに、手を差し伸べようとした相手があきれ果て、見捨てるように仕向けてしまいます。相手の期待を裏切っては疲れさせ、差し伸べられた手を振り払って相手が去って行くように振る舞ってしまうのです。(続く…)

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2015年10月16日

少年法の精神はどこに?ー『絶歌』をめぐる騒動から考えるー(1)

 2015年2月、神奈川県川崎市の多摩川河川敷で中学1年の男子生徒が殺害され、遺棄されるという痛ましい事件がありました。

 その1週間後に加害者とされる18~17歳の少年3名が殺人容疑で逮捕されると、成立が目前だった18歳選挙権と呼応して「成人年齢を下げるのなら、少年法の対象年齢も下げるべき」と少年法の厳罰化議論が再燃しました。

 それについては、以前、このブログ(「機能不全社会(6)」)で書いたので、そちらをご覧ください。

元少年Aの有料ブログが凍結

 このようなことがあるたびに「少年法の精神はどこにいってしまったのだろう」と暗澹たる気持ちになるのですが、つい先日もそのことを強く感じることがありました。

 きっかけは、「元少年Aとされる人物が始めたインターネットでの有料配信サービスがブログ運営もとに凍結され、閲覧できなくなった」というネット上のニュースをたまたま見たことです(「元少年A」の有料ブロマガが凍結 アクセス不能に)。

 元少年Aとは、言わずと知れた酒鬼薔薇(聖斗)事件の加害者男性のことです。当時14歳だった加害者男性は報道上、「少年A」の名で呼ばれました。

酒鬼薔薇(聖斗)事件とは

 では、その酒鬼薔薇(聖斗)事件とはどんな事件だったのか。ざっとおさらいしておくと1997年に兵庫県神戸市で小学生を襲い、2名を死亡させ、3名に重軽傷を負わせた事件です。
 
 正式には神戸連続児童殺傷事件と言いますが、当時、14歳だった加害者男性が「酒鬼薔薇聖斗」の名で犯行声明文を書いたことから、酒鬼薔薇(聖斗)事件と呼ばれてきました。

 今年8月にはその加害者男性(以下、男性)が8月には公式ホームページを立ち上げ、そのことを女性週刊誌に知らせたことが話題になっていました。

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2015年10月19日

少年法の精神はどこに? ー『絶歌』をめぐる騒動から考えるー(2)

 こうした騒ぎの発端は、男性が今年6月に手記『絶歌』(太田出版)を発表したことです。
 同書は、初版10万部を売り切って増刷となりましたが、被害者遺族は出版の中止・回収を求め、独自の判断で取り扱わないとする書店や図書館も相次ぎました。

 識者らは「表現の自由」や「知る権利」などを理由に「出版はやむを得ない」とする立場と「被害者感情」を理由に「出版すべきでない」との意見を戦わせました。しかし、出版社側は「少年犯罪の理解に役立つ」と出版を継続し、バッシングの嵐が起きました

 バッシングのきっかけとなったことのひとつが、世間はかつて未成年で殺人事件を起こした永山則夫死刑囚などが実名で執筆活動を行ったのに対し、男性が「元少年A」との匿名で執筆したことでした。

サムの息子法の必要性も

「人を殺しながら少年法に守られて罰を受けず、名前も明かさないまま出版によって大金を手にするのは許せない」ということなのでしょう。

 犯罪者が手記を書いたり、映画化の権利を売ったりしてその犯罪行為をもとに収入を得た場合、「遺族など被害者側の申し立てにより、その収益を犯罪者から取り上げることができる」とするアメリカ・ニューヨーク州の法律である「サムの息子法」などの必要性も論じられました。

社会のバッシングはいかがなものか

 もちろん、こうしたことを言いたくなる気持ちは分かります。「被害者の立場に立ったとき、こうした本を出版するのはどうなのか?」との疑問も沸きます。
 手記の中身はともかく、その後、立ち上げた公式ホームページなどを見ると、まるで男性は自分の思考や特異な人生に酔っているかのような印象も受けます。

 なぜ彼が、こうしたホームページを立ち上げたり、独特の表現をし続けようとするのか。それも本当はもっと知りたいところですがここではあえて取り上げず、話を少年法に戻したいと思います。

 私たちの国は、未成年者に対して刑罰とは違う少年法というものを用意している国です。
 被害者側のご遺族らが、出版に否定的な反応をするのは仕方がないとして、社会がこぞってバッシングするのはいかがなものなのでしょうか。

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2015年11月02日

少年法の精神はどこに?(3)

 なぜならそもそも少年法は、生育環境などの問題でうまく成長・発達することができなかったため、反社会的な行為をしてしまった未成年者が生き直せるよう、健全育成と環境調整を行うための法律です。
 だから、少年法では教育・保護し更正することに力点が置かれています。

 男性は、こうした少年法に基づいて医療少年院で約7年の治療を受け、社会へと復帰しました。

 被害者や被害者遺族を誹謗中傷するような、もしくは犯した罪を肯定したりするような本なら批判されてもしかるべきでしょう。しかし、ただ「自分の気持ちを語りたい」と手記を著すことがなぜいけないのでしょうか。

 少年法の考えに則れば、匿名での執筆も当たり前の話です。死刑が確定していた永山死刑囚とは違い、男性はこれからもこの社会の中で生きていかなければならないのです。本を出版しただけで、これだけの騒ぎが起きる日本社会ですから、顔と名前が周知されればどんなことになってしまうか・・・。火を見るよりも明らかです。

日本は閉塞的で不自由な社会

平気で男性をバッシングし、書店や図書館が「本を扱わない」という自主規制に走る日本社会は、少年法の精神をまったく理解していないだけでなく「罪を犯した者は一生口をつぐみ、『ごめんなさい』と小さくなって生きるべきだ」という閉塞的で自由がない社会でもあります。

 こうした社会では、人々は逸脱行為をした者に「自分とは違う理解不能のモンスター」という烙印を押し、切り捨て、つぶしていきます。
 
 それによって被害者らが何よりも知りたい「なぜ、自分の大切な人がこんな理不尽な被害に遭わなければならなかったのか」という問いの答えは永遠に闇に葬られます。だって犯行に至る経緯や生い立ちも見えなくなってしまうのですから。

真に安全な社会を築くには

 犯罪に至る原因やきっかけが分析できなければ、何が犯罪の引き金になるのかも、逆に何が抑止力になるのかもわかりません。結果として社会は大きなリスクを負い、「犯罪の凶悪化」という負のスパイラルに陥っていきます。

 だれもが安心して暮らせる安全な社会を築く最も確かな方法は犯罪者を厳罰に処することではありません。

 犯罪者の人生を紐解き、何が犯罪に向かわせたのかを明らかにし、社会の中から同様の犯罪要因を取り除き、環境に恵まれなかった子どもをなるべく早い時期から支援していくことです。

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