カテゴリー「いじめ」の一覧

2006年11月10日

いじめ自殺 1

image061110.jpg「生まれかわったらディープインパクトの子どもで最強になりたい」

 そんな言葉を残して福岡県筑前町の中学2年生の男子生徒(13歳)が自殺したのは先月11日。
 以来、北海道滝川市や岐阜県瑞浪市などでも、いじめを物語る遺書を残して小中学生が自殺していたことが分かり、子どもたちのいじめ自殺が大きく取り上げられています。

===
 今月6日には、いじめを苦にした自殺を予告する手紙が伊吹文明文部科学大臣に届きました。伊吹文科相は、手紙の差出人に対し

「命はひとつしかないものだし、自分だけのものではない。君が生まれた時はお父さん、お母さんが君の命を腕の中に抱きとってくれたわけだから、誰かに必ず気持ちを正確に伝えてください。世の中は君を放っているわけじゃないことを理解してほしい」

 と呼びかけると同時に、

「思い当たる人たちがそれなりの対応を取れば命が救われる可能性がある」
 として教育委員会などに適切な対応を求めました。
(続く…)

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2006年11月13日

いじめ自殺2

(続き)
image061113.jpg 手紙の調査・分析が進み、豊島区(東京都)で投函された可能性が高いとされると、東京都教育委員会の中村正彦教育長も、今月8日に「いじめを許さず、尊い命を守るために」という緊急アピールを行いました。

 アピールでは、手紙の差出人である子どもに向けて
「どんなことがあっても自らの命を絶ってはいけません。相談する勇気を持ってください。必ず誰かが受け止めてくれることを信じてください」
 と呼びかけています。

===
 そのうえで保護者には
「子どもの声を聞き、子どもが相談できるようにしてください。どれほど、子どもたちがかけがえのないものかを伝えてください」
 と、教員には
「子どもたちを見つめてください。今、子どもたちが何を感じ、何を思っているのかを、しっかりとつかんでください」
 と、学校長には
「すべての教職員が、一丸となって、いじめのない学校づくりを進めてください」
 などと、説いています。
 そして、すべての子どもたちに対しては、次のように述べています。

「みなさんは、いかなる理由があったとしても、自らの命を絶ってはいけません。辛いこと、苦しいことに耐えられなくなったときは、決して一人だけで解決しようとしてはいけません。人間は決して強いものではありませんし、一人で生きられるものではありません。多くの人たちに支えられて成長し生きていくのです。互いに支え合っていくのが人間です。

 困ったときは、家族や周りの人に助けを求めてください。悩みを打ち明けることは、決して恥ずかしいことではありません。あなたが弱いということでもありません。

 みなさんの思いを受け止めることは、わたしたち大人の責任です。大人を頼りにしてください。

 力強く生きてください。素晴らしい人生を送ってください。つらいこと、悲しいこと、苦しいことを乗り越えて素晴らしい人生を送ってください。決して、自らの命を絶ってはいけません。」(東京都教育委員会ホームページより)
(続く…)

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2006年11月16日

いじめ自殺3

 こうした“励まし”のアピールを読んで、みなさんはどう思いますか。

 アピールに書かれているようなことができるならば、自殺する子どもなどいるでしょうか。もし「自分を受け止めてくれる」と信じられる人がいれば、子どもは自然に悩みを打ち明けるはずです。「自分は支えられている」と思えるならば、支えてくれている人に、当然、相談するでしょう。

===
 「助けを求めれば救ってくれる人がいる」と信じられるならば、自ら命を絶つ必要などないのです。

 子どもが自殺していくのは、自分のすべてを受け止め、支え、助けてくれるおとなが周りにいないからです。絶望した子どもは、孤独の中で自殺するしかない状況に追い込まれているのです。

 そんな子どもを取り巻く現実と、そうした現実をつくり出している社会の問題について、アピールの真意に迫りつつ、次回から書いていきたいと思います。

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2006年11月21日

道徳や説教で子どもが救えるか?(1/4)

 伊吹文部科学大臣や中村教育長の“励まし”を読んで、私が最初に感じたのは

「この人たちは、子どもが置かれている辛い現実を見ようとしたことがあるのか?」

 という疑問でした。
 1994年11月、愛知県西尾市で当時中学2年生だった大河内清輝君が自殺するという事件が起きました。遺書には、同級生から金銭を要求されたり暴力を受けていたこと、その苦しさを両親にも伝えられず死を選ぶしかなかったこと、などが書かれていました。

===
 この事件をきっかけに、いじめが社会問題になりました。当時の与謝野馨文部大臣はいじめの撲滅を訴え、文部省は「いじめ対策緊急会議」を設置しました。
 同会議は、各都道府県教育委員会あてに、緊急アピールや取り組みのチェックポイントを通知。その翌年には「いじめの問題の解決のために当面取るべき方策について」(『当面の方策』)という報告も取りまとめました。

『当面の方策』は、その名前のとおり「当面のこと」だけに注目しました。

 具体的に言うと「なぜいじめが起こるのか」という原因究明や「子どもを自殺に追い込まないために」という抜本的な解決策を考えることはせず、「いじめる側の出席停止や警察への協力要請」という、緊急対策に終始したのです。
(続く…)

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2006年11月24日

道徳や説教で子どもが救えるか?(2/4)

『当面の方策』は、「だれよりもいじめる側が悪い」という認識に立って出来上がっており、「弱い者をいじめることは人間として許されない」と強調しました。

 当時の文部省職員は、緊急対策のみとなった理由を
「受験競争の弊害など、諸説がいわれているが、原因を追及していたら、中教審で3回の論議は必要。教育の基本論に立ち返るのはやめて、取り急ぎどう防ぐかをまとめた」(『教育新聞』95年3月16日付)
 と話しています。

===
 以後、確かに統計上は公立学校でのいじめは減りました。『当面の方策』が出された95年のいじめ発生件数は6万96件ですが、05年には2万143件になっています。また、95年に6件あった「いじめを主たる理由とする」自殺件数は、99〜05年までは0件とされてきました(今月になって文部科学省がこの統計を見直し、再調査を開始しています)。

 教育の基本論に立ち返ることなく、いじめの原因を探ることもなく、ただ統計上の発生件数を減らすための対策がどんなものだったのかーー。今、子どもたちは命をかけて教えてくれています。

 私の経験に過ぎないかもしれませんが、子どもの現状に心を痛めるおとなたち、何より子どもたち自身に話を聞いたとき、この10年間で「いじめが減った」と思ったことは、ただの一度もありません。それどころかいじめは、教室に当然あるべき“風景”のようになってしまい、「あってはならないこと」という危機感さえも薄れてきてしまっているというのが実感です。

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2006年11月27日

道徳や説教で子どもが救えるか?(3/4)

image061127.jpg こうした現実を放置、いえ助長してきた官庁の最高責任者でありながら、「世の中は君を放っているわけじゃない」「必ずだれかが受け止めてくれることを信じてください」「素晴らしい人生を送ってください」と、まるで他人事のような口調で言う彼らは、いったいどういう感覚を持った人たちなのでしょうか。

 そもそも、今、死のうとしている子どもに対して、「どんなことがあっても、自らの命を絶ってはいけません」と説くこと自体、理解に苦しみます。
 自らの命を絶ってはいけないことくらい、子どもは百も承知です。命を絶とうとしている子どもだって、できることなら友達と遊び、両親にかわいがられ、将来を夢見たいと望んでいます。1日1日を楽しく、生きていきたいと望んでいます。

===
 少し、視点を変えてみてください。
 カウンセリングルームには、アルコール依存症、買い物依存症、摂食障害、暴力・・・さまざまな問題を抱え、苦しむ人たちが訪れます。そうした人たちもみな、「素晴らしい人生を送りたい」と思っています。素晴らしい人生を送るために、アルコールを、ショッピングを、過食(拒食)を、暴力を「やめたい」と願っています。
 でも、その症状を手放すことはとても困難です。頭では「やってはいけない」と分かっていても、心がそうは思えないからです。だれかに「こうしなさい」と言われて、その通に振る舞えるくらいなら、悩む人などいないでしょう。 

 頭で何かを理解することと、心から何かを実感することは違うのです。「〜〜しなさい」と、道徳や説教で規範を教え込めば、正しく行動をする子どもへと「つくりあげることができる」というのは、おとなの傲慢以外の何ものでもありません。子どもは、正しいプログラムを組み込めば、正しく動くロボットのようにはいかないのです。

 たとえば「人をいじめてはいけない」などの“ルール”は教え込むことができます。しかし、それだけでは「いじめられた人が辛い思いをする。だからいじめはやめよう」と考えられる子どもにはなりません。いじめられた人の辛さを考えられるようになるためには、他人の痛みを自分の痛みとして感じられるようになることが必要です。そのためにはまず、いじめる側の子ども自身が、「自分の痛みを分かってくれる人がいた」という体験がなくてはいけません。(続く…)

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2006年12月01日

道徳や説教で子どもが救えるか?(4/4)

 心は現実世界の体験の結果として出来上がるものです。たとえどんなに「正しい」ことであっても、その体験がないことを教え込むことはできません。「命を絶ってはいけない」と倫理を説かれても、「命の素晴らしさ」が実感できなければ、自殺を思いとどまることは出来ないのです。

 同じように、子どもの声を聞く余裕などまったくない現実を顧みようともせず、「子どもの声を聞き、子どもが相談できるようにしてください」と保護者に説いたり、「子どもたちを見つめてください」と教員に諭すことが、どれほどの意味を持つでしょう。

===
 また95年当時の「いじめ撲滅」の結果を見るとき、「一丸となって、いじめのない学校づくりを進めてください」と学校長に訴えることが果たして有効と思えるでしょうか。

 大切なことは、他のあらゆる暴力を完全に無くすことが困難であるように、「いじめを撲滅することはきっとできない」という事実をきちんと見すえることです。そのうえで、「どうしたらいじめを減らすことが出来るのか」を考えていくことです。そして、何より子どもが「命の素晴らしさ」を感じ、いじめられたときはすぐに助けを求められるような環境を整えることなのです。

 次回は、子どもたちが「命の素晴らしさ」を実感できず、助けを求められない現実について、具体的に書いていきたいと思います。

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2007年01月29日

本音を言えない子どもたち(1/5)

image070129.jpg
 問題の多い「改正」教育基本法の成立や年末年始などがあり、「道徳や説教で子どもが救えるか?」で予告した「子どもたちが本音を語ることができずいる現実」について書く機会がなかなかありませんでした。予告を読まれていた方々に、お詫びいたします。

 この間、政府の教育再生会議は、教職員、加害者や傍観者の子どもへの懲罰的な意味合いの強い「いじめ問題への緊急提言」(2006年11月29日)を出しました。文部科学省は子どもの声を重視し、「本人が『いじめられている』と感じたら、いじめである」との新しい定義を発表。いじめや自殺の調査を抜本的に見直すことを決めました(2007年1月19日)。

 また、いじめを受けていることを学校に相談した後輩を集団で暴行したとして、都立定時制高の生徒4人が傷害容疑で逮捕される事件なども起こりました。

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 そうした中、この24日には教育再生会議が安倍晋三首相への第1次報告を提出。そこにはいじめ対策として、加害者の出席停止措置や、学校教育法で禁止している体罰(実際には依然として存在しています。「子どもの声を国連に届ける会」2参照)の見直し、教師が「毅然たる指導」ができる体制づくりの必要などが書かれていました。
 安倍首相は、この報告を受け、学校教育に関わる三つの法案の「改正」案を今国会に提出するそうです。

 ところで、今回は触れませんが、第1次報告には「『ゆとり教育』を見直す」として、授業時間数の増加を促したり、高校での奉仕活動の必修化を提言したりするなど、見過ごせない問題が多々あります。
 いずれ、これらの問題にも取り上げていきたいと思っています。

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2007年02月02日

本音を言えない子どもたち(2/5)

教室から追放されたいじめっ子はどうなる?

 教育再生会議の提言や報告はまったく了解不可能です。その内容は1995年に文部科学省「いじめ対策緊急会議」が出した「当面の方策」や2000年の教育改革国民会議の答申を厳罰化させただけ。「力で押さえつける非行対策」の枠組みを出ていません。

 相変わらず「なぜいじめが起こるのか」、「どうしたらいじめられている子が周囲のおとなに真意を打ち明けることができるのか」という視点はまったく入っていないのです。

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 もちろん、ひどいいじめの場合には、緊急の対応が必要です。一時的にいじめている子どもといじめられている子どもを引き離すこともあり得るでしょう。
 しかし、それが根本的な解決になるでしょうか。見せしめ的な教室からの追放や懲罰的な奉仕活動によって、子どもに規範意識を植え付け、更正させることができると本当に信じているのでしょうか。

 懲罰で教え込まれなくても、いじめが「いけないこと」であることくらい、いじめっ子も重々承知です。それでも今、その子どもが生き延びるためには、だれかをいじめることが必要なのです。
 虐待する親が、DVの夫が、自分の抱えてきた過去や苦しさ、今、直面している辛さから、その行為を止められないのと同じです。いじめっ子は、いじめという今できる方法を使って、苦しさや辛さ、悲しさを「分かって欲しい」と懸命に訴えているのです。

 教室から追放されたいじめっ子の面倒は、いったいだれが見るのでしょうか。いじめっ子の発したSOSはきちんと受け止められるのでしょうか。その子が本当に人生をやり直せるような人間関係を紡ぐためのサポートは用意されているでしょうか。

 私にはそうは思えません。
「子どもの安全」を理由に子どもたちの個人情報が警察へと流れ、警察介入の拡大と幼児からの少年院送致も可能にする少年法「改正」案が継続審議され、アメリカから輸入されたゼロ・トレランス(寛容度ゼロの指導)が声高に叫ばれている現実を考えれば、教室から追放された子どもがどのような扱いを受けるのかは想像に難くないからです。(続く…)

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2007年02月05日

本音を言えない子どもたち(3/5)

image070205.jpg教師自身が自分の身を守ることで精一杯

 一方で「子どもの声を聞こう」という、今までにない姿勢を打ちだした文部科学省には一定の評価はできます。しかし、本当にそんなことができるのかという疑問は払拭できません。
 アンケートなどを回しても、子どもはそこに本心など書いてはくれません。教師や親からの聞き取りもほとんど有効性はないでしょう。子どもはおとなの真意を読み取り、その期待に応えようと演技をする存在だからです。

 子どもに本音を語ってもらいたいなら、毎日の生活の中で「このおとなは信頼できる」、「このおとななら何を言っても自分を責めたりしない」と感じ、自由に振る舞える関係性をつくっておく必要があります。
 そのためにはまず、子どもの身近にいるおとなたち(教員や親)が、ゆったりと子どもに向き合えるような環境がなければいけません。

===
 しかし、今の家庭や学校にそのような余裕があるでしょうか。
 少なくとも東京都のように、毎年1500人もの教員が辞め、「個性ある学校」づくりという名の数値目標達成に校長が青息吐息になり、副校長が事務作業に追われている状況では難しいでしょう(『週刊金曜日』2007年1月19日号)。

 東京都では、単学級が増え、教師が評価され、教師同士が競争させられているなかで、どの教師も孤立。教師がチームワークを取って子どもの問題に向き合うことなど、とてもとてもできなくなっています。
 以前は、同じ学年担当や先輩に相談して乗り切った子どもや保護者とのトラブルも、みんなひとりで抱え込まなければいけない状況が生まれているのです。

 そのうえ、週指導計画案など書類作成などの事務仕事が増え、職員室にいても各々がパソコンに向かって黙々と仕事に追われるようになってきています。新人教師が自殺するのも当たり前でしょう。
 何しろ、仕事に失望して辞めていくベテラン教師を補填するため、大量に採用している新人教師の新任研修は年間300時間を超えています。研修をこなすだけでも大変なのに、職場で相談できる人もいないのでは、耐えられるはずがありません。

 職員会議が無くなり、教師は管理職が決めたことをやらされるだけになってしまったことも、教師を疲弊させている一因です。校長権限が強化され、3年で異動させられるようになってしまったため、管理職にもの申すことさえできず、教師が創造的な学級運営を行ったり、授業や子どもとの関わりについて自由に考えたりすることもできなくなってしまったのです。

 なかには「不適格教員」のレッテルを貼られながらも、理想の教育を行おうと頑張っている教師もいます。しかし、そのために費やすエネルギーは計り知れないほど大きくなります。
 このような環境では、教師自身が自分の身を守ることに精一杯で子どものことなどかまってはいられないでしょう。

 「教育の『原点』を取り戻すために」で書きましたが、2005年度に病気休職をした全国の公立小中高教職員は10年間で約3倍の7000人強。そのうち、うつ病などの精神疾患で休職したのは前年度比619人増の4178人で過去最多ということも改めて強調しておきましょう。(続く…)

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2007年02月09日

本音を言えない子どもたち(4/5)

子どもの世界にも浸透する競争・格差社会

 親についても同様です。最近、都内の公立学校教師に聞いた話によると「いわゆる『底辺校』や『困難校』と呼ばれる学校の親は、食べていくことに必至で子どものことどころではない」そうです。
 1995年頃から増え続けている雇用者全体に占める非正規雇用数は、ここ20年で2倍の32.6%(『ニッセイ基礎研 REPORT』2006.5)。家計の貯蓄率も過去最悪の3.1%です(『東京新聞』2007年1月13日)。大企業が過去最高益を更新している裏側で、今日の生活にも困る層が確実に生まれています。

 他方、裕福でも子どもが親に安心して本音を語れる家庭はそんなに多くはありません。裕福な親の多くは、子どもへの期待が大きく教育熱心です。そのため、幼い頃から子どもたちを塾や習い事へと駆り立て、子どもが何を感じているかには無頓着であったりします。

===
 文部科学省によると、この10年で新設された私立小学校は全国で27校。学習塾は小学受験に照準を合わせた生徒の囲い込みに精を出しています(『朝日新聞』2006年10月15日)。
 子どもの世界にも、競争・格差社会の影響は確実に及んでいるのです。

 こうした話を聞く度、私は有名な心理学者であり、「心の教育」の提唱者である河合隼雄文化庁長官のお膝元・京都市を取材したときに出会った子どもの話を思い出します。2005年のことです。

 その子は、中学校のクラスの様子を「昔の階層社会のよう」と、こう表現したのです。

「成績を見ると、その子どもの家の経済状態が分かった。成績が一番上の特別進学校を目指す子は、年間100万円もの塾代を払える家の子。最下位の落ちこぼれで無気力な子は貧乏な家の子。そのどっちでもない家の子が真ん中の成績だった」

 その子によると、塾では「教師が喜ぶ自己評価表の書き方」や「内申書を上げるための態度」も教えてくれるとか。
「たとえば、道徳で戦争について学んだら『二度と戦争を起こしてはいけないと思いました』と書けば二重丸だとか、行事があるときには積極的に手を挙げて委員に立候補すれば教師の心証が良くなるとか」などだそうです。

 授業で自己評価表を書かされる度に、その子は「正直に書いて成績が落ちるのを選ぶのと、ウソをついて受験のための点数を取るのとどっちが正しいことなんだろう」と悩み、学校に行くとお腹が痛くなってしまったとも語っていました。

 当時すでに京都市では、教育基本法「改正」を先取りした学校選択制、教育特区、学力テストなどによる学校の序列化、道徳教育(心の教育)という規範意識の徹底などが始まっていました。東京都と並ぶ勢いの教育「改革」が進められていたのです。
 独自カリキュラムなどを持つ少数の特別進学校をつくり、子どもたちを競争させる一方で、いわゆる“落ちこぼれ”の子どもたちの受け皿としてスクールカウンセラーの増強や不登校の子どものための学校づくりなどが盛んでした。

 進学校のある学区は土地やマンションの価格も上昇。不動産広告でも「○○学校学区内」と書かれていると、値段が違っていました。富裕層のなかには、別宅を買うなどして子どもを進学校のある学区に通わせたりもしている親もいました。

 さまざまな問題を引き起こしたことから約50年間行われていなかった全国一せい学力テトが始まれば、東京都や京都市のような状況は、じわじわと全国へと広まっていくでしょう。全国規模で「昔の階層社会のよう」な学級や学校、地域が出現しても驚くことではありません。

 そのような環境で、果たして親や教師は「子どもの声を聞く」ことができるのでしょうか?

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2007年02月15日

本音を言えない子どもたち(5/5)

子どもが安心して本音を語ることができる環境を

image070215.jpg それでなくても子どもが本音を語ることは容易ではありません。そのことを教えてくれたのは、以前、このブログでご紹介した「子どもの声を国連に届ける会」のHさんです。
 いじめによって4年間を不登校で過ごしたHさんは、2004年に行われた国連・子どもの権利委員会の日本政府報告書審査で、自身の体験を次のように語っていました。

「私自身、小学校の時にいじめをうけ、そのことを誰にも相談出来ませんでした。学校のなかでは他人に自分の弱みを見せては生きていけないからです。弱さを隠し、先生にも親にも相談できないまま、とうとう学校に行くことが出来なくなりました。12歳から16歳までの4年間、不登校でした」

===
 でも、Hさんは、けしておとなを信頼していないわけではありませんでした。
 プレゼンテーションの後、子どもの権利委員会委員長が「日本の子どもは親に安心して話ができるような関係にないのか」と質問すると、「私は親との関係は良かった」と前置きしたうえで、こんなふうに発言しました。

「たとえ親との関係は良くても、私は学校でいじめられていることを親には言えなかった。・・・それは親に心配をかけたくなかったからです。そういう子どもはいっぱいいます」

 マイクを握りしめ、肩をふるわせながら、とぎれとぎれに語られたHさんの言葉は、子どもの権利委員会委員をはじめ、その場に居合わせたおとなの胸を大きく揺さぶりました。
 いつもは「しっかり者」のHさんであっただけに、こらえようとしてもあふれてしまう涙にむせびながら嗚咽する姿は印象的で、今も私の目に焼き付いています。

 そんなHさんの姿が、「生まれかわったらディープインパクトの子どもで最強になりたい」、「お母さんお父さんこんなだめ息子でごめん 今までありがとう」と書き残して自殺した筑前町の男子生徒と重なります。

 Hさんや男子生徒の後ろには、「大好きな親に心配をかけるような子どもであってはいけない」、「いじめられているなんて、なんて情けないんだろう」と自らを責めながらも、「だれかにこの辛さを気づいて欲しい」「弱い自分を受け止めて欲しい」と、願って一日一日をどうにか生き延びている大勢の子どもたちの姿が見えます。

 12年前にやはりいじめの存在を訴える遺書を残して自殺した愛知県西尾市の大河内清輝君の父親の元には「いじめがテレビで取り上げられると、親がいじめは恥だと言う。今いじめられているととても言えない」との手紙が寄せられているそうです(『東京新聞』2006年10月15日)。
「強くなければ生きていけない」という暗黙のメッセージを送り続ける社会で生きているのですから、当たり前でしょう。

 今、私たちおとながすべきことは、いじめっ子に懲罰を与え、いじめられている子どもがいないかを監視することでしょうか? 教育に関連する法律を変え、教師を締め上げることでしょうか?

 いいえ、どうではないでしょう。
いじめっ子も、いじめられっ子も、安心して自分の辛さや苦しさ、そして弱さを語ることができるよう、身近なおとなが子どもとゆったりと向き合える環境を整えることこそ、急がれるべきです。
(おわり)

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2013年07月09日

いじめ防止対策推進法は子どもを救う?(1)

 6月21日に、いじめ防止対策推進法が成立しました。

 昨年の大津いじめ自殺事件以来、再び「いじめ」の問題が大きく取り上げられるようになり、ネットや携帯電話の普及などによって子どもたちの間でいじめ問題が深刻化するなかでの成立です。

「再び」と書いたのは、注目を浴びるいじめ事件が起こるたびに、「いじめはいけない」という何の効果もないキャンペーンが毎回、毎回、繰り広げられてきたからです。そのことに関して、詳しくは「歴史は心的外傷を繰り返し忘れてきた」の回を参照してください。

いじめ防止推進法の中身

 今回成立したいじめ防止対策推進法(推進法)とはどんな法律なのでしょうか。今までのいじめ防止キャンペーンとは違い、本当に実体的な効果を上げられるものなのでしょうか。まずはその中身を確認してみたいと思います。

 ちょっと堅い話で退屈かも知れませんが、少しおつきあいください。

 まずこの法律は
①「児童等は、いじめを行ってはならない」
 といじめの禁止を宣言しています。

 そして、
②国・自治体・学校等は、「いじめ防止基本方針」を定め、いじめの防止等のための施策を策定・実施し、
③保護者は、子どもへの規範意識の指導や学校などの行う措置への協力に努めるものとして、
④学校は複数の教員や心理・福祉の専門家らによるいじめ防止等のための組織を常設し、
⑤道徳教育や体験学習を充実し、早期発見のための措置などを講じなければならないこと。
 さらに
⑥いじめがあった場合には、事実の確認、被害者側への支援、加害者側への指導・助言、警察との連携や通報などを行う
 とされています。

 また
⑦加害児童に対する懲戒や出席停止を適切に行い、
⑧命に関わるような重大事態については、教育委員会などが調査を実施し、結果を被害者側に開示し、調査が不十分な場合には、自治体の長が第三者機関などを設けて再調査できるとする
 などの特徴が見て取れます。

自民党の意見をほぼ踏襲

 推進法には、与党以外の政党の提案も組み込まれたとのことですが、こうして内容を見てみると、昨年末に自民党が出した「重点政策2012」や今年1月に安倍内閣が設置した教育再生実行会議の意見がほぼ踏襲されているようです。

 たとえば、
①道徳教育の強化、
②いじめっ子への懲戒や出席停止、
③警察との連携や通報を「ためらいなくせよ」
 と言っていることなど、もともと自民党が主張してきた内容がそのまま反映されているように感じます。

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2013年07月16日

いじめ防止対策推進法は子どもを救う?(2)

 道徳の強化や、いじめっ子への「毅然とした対応」を前面に出したいじめ対策は、今までのいじめ対策となんら変わりません。

 いじめ自殺事件が起きるたびに、時の政権や教育行政機関、識者などの多くは「『いじめはいけない』と徹底して教えるべきだ」と声高に叫び、「いじめっ子たちには罰を与えよ」と繰り返してきました。

 今回の推進法が、こうした過去のいじめ対策と違う点を挙げるとすれば、自治体や学校などに「いじめ防止基本方針」を定めるよう求め、いじめ防止のための組織を常設するなどいじめ防止のための仕組みをつくることが決められたことでしょうか。

「いじめはいけない」と知っている

 しかし、道徳教育の強化が、いじめ防止につながるわけではないことは2011年の大津いじめ事件が起きた中学校が、2009・2010年度に文部科学省指定の道徳教育実践研究事業推進校だったことからも明らかです。

 あえて警察を導入したり、道徳教育を通して「いじめはいけないこと」と口を酸っぱくして言わなくても、子どもたちは「いじめはいけない」と十分に分かっています。
 
 だからこそ、一時、話題になった学校裏サイトのような匿名性の高い、だれがだれをいじめているのかどうかもよく分からないようないじめが、ネットの普及を背景に広がったのではないでしょうか。

 何より「いじめーいじめられ」関係の中に日常的に身を置いている子どもたちに一言尋ねてみれば、彼/彼女らがちゃんと「いじめはいけないことである」と理解していることはすぐに分かります。

方針や委員会で防止できる?

 また、方針や対策委員会をつくれば問題は解決・防止できるのでしょうか。こちらも非常に疑問です。

 いじめの話ではないですが、理念は立派な子ども・被災者支援法が内容は空っぽのまま1年も放置されていることは前回のブログでも書きました。

 2006年に学校教育法等の一部を「改正」してはじまった特別支援教育は、「どんな障害があっても、どんな場所でも、それぞれのニーズに応じた適切な教育を」と謳っていますが、予算さえ満足に付いていません。そのため、「教員の負担が重くなっただけ」「対象が広がったためひとりひとりのニーズに合わせた教育ができなくなった」などの指摘もあります。

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2013年07月23日

いじめ防止対策推進法は子どもを救う?(3)

 本当に何らかの法律をつくることによって、いじめが日常化した子どもたちの状況を救うことができるのでしょうか?

 そもそも、昨今のいじめとはどのようないじめなのでしょう。

 ある教師に尋ねたところ、かつては「おとなに見えにくいいじめ」として話題になったインターネットを使ったいじめは、すでに当たり前だそうです。

 たとえば学校で「キモい」と言われている子に無理やり告白させたり、待ち合わせをすっぽかしておいて当惑する姿を隠し撮りして動画で流したり、マスターベーションを強要して撮影し、仲間内で共有したりするなどは、めずらしくないのです。

 でも、こうしたいじめは、新たに法律などつくらなくても、すでに教育委員会やNPOなどがサイト上を巡回していじめや犯罪につながる情報を見つけ出す「ネットパトロール」などで取り締まることはできます。

 ところが、今、教師の人たちが対応に困っているのは「遊びと区別しにくいいじめ」です。

遊びと区別しにくいいじめ

 たとえば掃除のとき。大勢でひとりの生徒をロッカーに閉じ込め、笑ってはやし立てる遊びをする子たちがいます。
 最後は、閉じ込められた生徒が「ジャ、ジャ、ジャ、ジャーン」などとおどけてロッカーから飛び出して来て終わるのだそうですが、見ていてけして愉快なものではありません。

 見かねた教師が注意すると、閉じ込めた側ではなく、閉じ込められた生徒自身が「おきまりのコース。みんなここまでしないと収まらないから」と、その行為を肯定する発言をしたそうです。

 また、だれもが嫌がる便器掃除を率先してやり、自分のことを「便器マン」と呼んで、周囲にもそう呼ばせて笑いを取る子などもいるそうです。

「笑いを取れる」は最重要課題

 今の子どもたちにとって、「笑いを取れる人」であることは学校生活を送る上での最重要課題です。「笑いを取れない=暗い=友達がいない」と思われることを極端に恐れます。

 だから、即興で笑いが取れる下ネタや自分を下に見せるような言動で“いじられる”よう持っていくのです。

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2013年07月29日

いじめ防止対策推進法は子どもを救う?(4)

 前出の教師が、「それはいじめじゃないの?」とやられている側の子に尋ねたときも、「いじめなんて言われたらプライドが許さない」との答えが返ってきたとのこと。

 やられている側の子も笑ってはしゃいでいるため、教員の方も「遊んでいるんだ」と思ってしまいがちです。“いじられキャラ”が、たとえいじめの延長線上にあるものであったとしても、周囲はおろか、本人でさえ気付かないのです。

実はよくある話

 こうした昨今のいじめ事情は、ある雑誌の取材を通じて知ったことでした。でも、実は同じような話ーー「いじめなのか違うのか判断が付かない関係の対応に困っている」ーーそんな話は、日常的な相談や講座の講師を務める中で何度も聞いたことがありました。

 たとえば、東京都の児童館職員は「みんなで遊んだ遊び道具の片付けをいつも1人の子に押しつけるが、押しつけられた子も嫌がる素振りも見せず、黙々と片付けている」と語っていました。

 また、福島県の学童保育では「グループ内で一目置かれた存在の子がいて、その子の気分次第でだれかを無視したり、小間使いのように使ったりしている。けしていい関係には見えないのに、されている子もグループから離れようとしない」との話を聞きました。
 
 しかし、恥ずかしながら私も、そのいじめ取材をするまでは、「こうした人間関係がいじめの延長線上にあるものでは?」とは思い至りませんでした。

スクールカースト

 そんな子ども間に見られる上下関係。たとえば上司と部下のように決定づけられてはいないけれども、クラスメイトの間に存在する序列・ランク付け。そのことを教育研究者らの間で「スクールカースト」と呼びます。

『教室内(スクール)カースト』(鈴木翔著・光文社新書)や、ドラマ『35歳の女子高生』(日本テレビ)で話題になりました。

 同書によると、小学校時には「個人間」の地位の差だったものが、中学・高校時になると「グループ間」による地位の差に変化するとのこと。その関わりは空気を読んで行われ、クラスに笑いが起きるもので、上位のグループにはさまざまな特権が与えられるだけでなく、それを行使する義務があるなどの特徴があり、そして、子どもたちはそれをいじめとは認識していないのだそうです(141~142ページ)。

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2013年08月02日

いじめ防止対策推進法は子どもを救う?(5)

 本当にスクールカーストなるものは存在するのでしょうか。

 都内に住む高校一年生の女生徒に尋ねてみました。すると、驚く答えが返ってきました。

「うちの中学には『ハデーズ』と『ジミーズ』というグループがあった。きっちりした基準みたいなものはなかったけど、みんなだれがどのグループか認識していた。グループは固定されていて、入れ替わることはなかった」

 彼女によると、「ハデーズ」は、明るくていい意味でも悪い意味でもみんなを引っ張って行く子たちのグループで、強い発言権を持っていたそうです。対する「ジミーズ」は地味な子たちのグループで、たとえばアニメ好きなどのオタクと呼ばれる子たちが入っていたとのこと。

「ハデーズ」はいつも偉そうな感じで、「ジミーズ」を“いじって”いて、見下しているようだったとのことです。
 たとえばプリントを取りに行くとか、ちょっと面倒なことを「ジミーズ」にさせていて、「ジミーズ」は黙って従っていたとのこと。

 いわゆる「アゴで使う」ような感じだったようなのですが、言葉としては「取って来て」と言うだけ。そのニュアンスを文字で表現するのはとても難しと思います。

だれも気づかないいじめ

 どちらのグループでもない中間層に属していた彼女は「なぜ同い年の子を恐れないといけないんだろう」という疑問は感じていました。でも、「ハデーズ」の行為をいじめだと思ったことはなかったそうです。

 なぜなら、彼女の考えるいじめは、大勢でよってたかってひとりを攻撃するというもの。グループ間での上下関係は含まれません。
 だから中学校時代たびたび行われた『いじめに関するアンケート』の「いじめられている人はいますか」という設問の回答は、いつも「いいえ」でした。

 そしておそらく教師も「ハデーズ」がやってることをいじめとは思っていなかったのではないかと言います。

「『なんでも頼めるくらい仲良し』と思っていたんじゃないかな」(女子生徒)

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2013年08月06日

いじめ防止対策推進法は子どもを救う?(6)

 前回ご紹介した『教室内(スクール)カースト』(鈴木翔著・光文社新書)という本でも、教師がこうした上下関係をどのように理解しているのか、興味深い考察が記されています(第4章後半から第5章)。

 端的に言うと、教師は「自己主張ができて『カリスマ』的な『強い』生徒は『上』で、『やる気がなく』『意思表示しない』『弱い』生徒は『下』であると考え、「教師はこうした生徒間の上下関係を利用して、教室内の秩序を維持しようとしている」(302ページ)そうです。

教師は「能力」の差と理解?

 こうした事実を受け、同書の解説を書いている東京大学大学院教育学研究科教授の本田由紀さんはこう指摘しています。

「生徒にとっては『スクールカースト』は逃れがたい『権力』として作用している。他方で、教師にとっては『スクールカースト』における上下関係は『コミュニケーション能力』など生徒の『能力』を基盤として成立しているものと解釈されている」(302ページ)
 
空疎ないじめ対策推進法

 このように子どもたちのいじめ事情を見てきたとき。「いじめなのか違うのかわからない微妙な関係」がスクールカーストと呼ばれて、教室内の日常になってしまっている事実を知ってしまったとき。
 政治家たちが胸を張って「今までにない画期的な法律」と語るいじめ対策推進法はとても空疎なものに見えてしまいます。

 いくら道徳を強化しても、いくら方針や委員会を策定しても、いじめっ子には毅然とした対応をするよう呼びかけても、目の前で行われていることが「いじめである」と認識できなければ何の手立てを打つこともできません。

子どもの成長・発達の大問題

 確かに「スクールカーストはいじめではない」という主張もあります。「『本人がいじめではない』と言っているのだから、それ以上深読みする必要はないではないか」というご指摘もあるでしょう。

 しかし、お互いを値踏みしてランク付けし合い、強者が弱者を貶める・・・。そんな関係が子どもたちの間に蔓延しているのだとしたら、それは子どもの全人的な成長・発達を支えるための国際的な約束である子どもの権利条約が唱える「調和の取れた人格」(子どもの権利条約・前文)へと日本の子どもたちが成長・発達できていないという紛れもない証拠です。

 それはもう「子どもが人間としての成長が歪んでしまっている」ということなのですから、大きな問題と言っていいのではないでしょうか。

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2013年08月21日

いじめ防止対策推進法は子どもを救う?(7)

 ではなぜ、こんなにも子どもたちがうまく成長発達できなくなってしまったのでしょうか。
 相手を値踏みし合ったり、ランク付けし合ったり、貶め合ったり・・・そんな、人間として恥ずかしいことを日常的に平気で行うことがめずらしくなくなってしまったのでしょうか。

 理由は簡単です。
 競争によって成果を奪い合うことを是とする私たちの社会が、常に相手を値踏みし、人を序列・ランク付けし、さまざまな意味で、少しでも自分より下の人間を見つけては安心感を得る社会になってしまっているからです。

競争を激化させた結果

 そんな社会に子どもたちを適応させるため、グローバル経済の中で勝ち残れる多国籍企業のリーダーを育成するため、社会にならって教育システムもどんどん競争的にしてきました。

 第一次安倍晋三政権下では、一人ひとりの子どもが生来持っている能力を最大限に伸ばす「人間教育」を目的としていた教育基本法が「改正」され、あらゆるおとなが競争による「人材育成教育」に荷担せざるを得ないよう追い込む新しい教育基本法がつくられました(2006年)。
 さらに翌2007年には、新教育基本法を具体化するために教育関連の法律が「改正」され、46年ぶりに、全員参加を原則とする全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が復活し、否が応でも、競争の土俵に乗らざるを得ない仕組みが出来上がりました。

 この全国学力テストがなぜ、どのように問題なのかということを知りたい方は、「学力テスト不正問題」の回を参考にしていただくとして、ここは先に進みます。

国連を無視した果てに

 こうして、国連「子どもの権利委員会」(国連)が「競争(管理)と暴力、プライバシーの侵害にさらされ、意見表明を奪われ、その結果、発達が歪められている(Developmental Disorder)」という衝撃的な勧告を日本に突きつけた第一回目の日本政府報告書審査(1998年)以来、三回にわたって「競争主義的な教育制度を見直せ」と勧告されているのに、日本政府は無視し続けてきました。

 それどころか、競争的な教育制度をさらに押し進め、国(経済界)が「よし」とする目標を教え込み、その期待に応えられる程度で序列化し、「下位に位置付くことも自己責任」の格差社会に子どもを適応させ続けてきました。

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2013年08月28日

いじめ防止対策推進法は子どもを救う?(8)

 これでは、子どもたちがお互いをランク付けし合うようになるのも当たり前です。

「だれかとつながる」のではなく、「だれかを蹴落とす」競争は、人と人とを分断します。子どもが生まれながらに持っているはずの、他者とつながるために必要な「他者の痛みを自分のものと感じる能力」(共感能力)を蝕みます。

 だからたとえば、強い立場にいる子は「相手は傷つくかもしれない」と想像をめぐらせたり、自分の利益につながらないことは「なるべく止めよう」と思うようになってしまったりします。

 一方、弱い立場にいる子は、下に見られ、理不尽な扱いをされても「それは自分が悪いんだ」と、自己責任の論理を受け入れ、不当なことでも甘んじて受けるようになります。
 強者に刃向って序列から外されることは、その世界から抹殺されるよりは、よっぽどいいからです。

「自分は価値ある存在」と思えない

 そもそも、いつでも市場価値ではかられ、だれかと比べられ、社会で「価値がある」とされる何かで秀でていないと認めてもらえない昨今。“ありのままの自分”を認められた経験がない子どもが増えています。

 勉強ができなくても、立派な意見が言えなくても、おとなが望むようなことができなくても、「それでもあなたが一番大切だよ」「あなたはかけがえのない存在だよ」と言われたことのない子がたくさんいます。

 そんな経験や実感がない子どもは、「自分は価値のある存在」などとは思えようはずがありません。だから、どんなに理不尽なことをされても、ひどい扱いを受けても、「仕方が無い」と受け入れるしか無くなってしまいます。

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2013年09月04日

いじめ防止対策推進法は子どもを救う?(9)

 子どもが、真に自分を大切にし、自分らしく生きながら、他人のためにもエネルギーを注ぐことができるような人間へと成長・発達するためには、身近なおとなに無条件で愛される必要があります。

 たとえ市場価値に合わない“ダメな子”でも、「そのままでいいんだ」と抱えられ、受け入れてもらう必要があります。

 なぜなら、そうしたおとなとの関わりを持てなければ、「自分はそのままで価値がある」という自己肯定感や「世の中は自分を受け入れてくれている」という基本的信頼感、「自分の痛みに共感してもらった」という共感能力は決して発達しないからです。

 これらの感覚や能力は、道徳教育や法律をつくることで、外から埋め込めるものでは決してありません。

本当にいじめを無くしたいなら
 
 本当にいじめを無くしたいなら、「驚くべき数の子どもが、情緒的・心理的充足感(well-being)を持てずにおり、その決定的要因が子どもと親および教師(おとな)との関係の貧困さにある」と述べ、さらには「知的な人材教育偏重を改め、人間として成長発達出来るような教育制度とのバランスを取れ」と言う国連の勧告(2010年)を重く受け止めるべきです。

 そして、身近なおとなが、目の前にいる子ども一人ひとりと真摯に向きあうことができるようによう、あらゆる仕組みを変えていくべきです。

 こうした視点を持たない、いじめ防止対策推進法。そんな法律が、いじめの延長線上にあるスクールカーストが状態化した子どもたちの現状を救うことなどできないことは明らかです。

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