カテゴリー「自殺」の一覧

2006年07月10日

「社会の問題」としての自殺(1/4)

image060710.jpg 先月15日に自殺対策基本法が成立しました。自殺の防止はもちろんのこと、自殺してしまった人の遺族へのケアやだれもが生き甲斐を持って暮らせる社会の実現を目的とし、年内に施行されることになっています。
 この法律のいちばんの特徴は、自殺を「社会の問題」と位置づけたことです。今まで自殺は「当人が弱いから」など「個人の問題」とされてきましたが、「自殺の背景には様々な社会的要因がある」(基本理念)として、社会的な取り組みを行うことを明言したのです。

 ところで先日、「過酷な業務からうつ病を発症し、働けなくけなくなったのに解雇されたのはおかしい」と会社を訴えている重光由美さん(本人の希望により本名にしています)とお会いしました。

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 某大手電機メーカーに勤務していた重光さんが「抑うつ状態」の診断を受けたのは液晶生産ラインの立ち上げにリーダーとして従事していたときでした。朝8時前から深夜1時頃まで及ぶ勤務、休日出勤、ノルマ、度重なる会議やトラブルの解決・・・。重光さんは定期的に通院する時間さえ取れなかったそうです。
 そんな過剰労働の原因は、コストダウンのための人員と開発期間の削減でした。いずれもそれまでの半分ほどに削られてしまったのです。

 この会社では、重光さんが休職した前後に同じ業務に関わっていた同僚ふたりが自殺しています。社内では、ひとりは皇居の堀に飛び込み、もうひとりは富士樹海で首を吊ったとの噂が広がっています。
 重光さんによると、そのうちのひとりは自宅で包丁を振り回すなど精神的にかなり参っていたということです。見かねた奥さんが上司に仕事を変えてくれるよう頼んでも「ワガママだ」と受け入れてもらえませんでした。後に会社は、「家族の意向で事故死として処理します」と発表したと言います。

 もうひとりについては、会社が事実を隠そうとしているため、詳しいことは分かっていません。何しろ、一般社員は社内回覧の訃報欄でその死を知ったほどです。
 重光さんは「職場の人間はだれも、ふたりがそこまで追いつめられていたとは知りませんでした。おそらく直属の上司くらいしか知らなかったと思います。みんな業務に追われ、自分のことで精一杯。他の人に気を配る余裕なんてありません。私が体調を崩したことも、上司以外は一緒に仕事をしていた人くらいしか気づいてなかったと思います」と、当時を振り返ります。

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2006年07月13日

「社会の問題」としての自殺(2/4)

(続き)
image060713.jpg 本来は労働契約によって、労働の質、条件、時間などが定められています。労働者はそれを超えて働く必要はないのです。
 ところが、リストラや左遷、出世、冷たい視線や上司の叱責と引き替えに、暗黙のうちに強制が課され、過剰労働に追いやられる現実があります。

 重光さんの場合もそうでした。
「これ以上、立ち上げ業務を早めることはできない」
 と上司に報告したところ、上司はすべての部課長宛に
「重光がリーダーを務める業務が最重要課題」
 というメールを送信。他の部課長からも「しっかりしろ」と怒られたそうです。

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 体調を崩し、休んだ重光さんが出社すると、新たに別業務も兼任になっていました。重光さんの体調がさらに悪化したのはそのころからです。睡眠薬と抗うつ剤を必要とするようになったのです。
 驚いたことに、そんな状態の重光さんに上司はさらに別の業務も任せます。倒れて寝込んでいると
「明日の会議は出席できるか?」
 などと電話をかけてきました。そのときの気持ちを重光さんはこう語ります。
「恐怖と絶望で断る気力もなくなっていました。とにかく『はい』としか返事ができなかったのです」

 会社に行くと涙が止まらなくなり、今度は抗不安剤も処方されるようになりました。
 長時間残業者に義務づけられている産業医の検診も毎月のように受けていましたが、状況は変わりませんでした。明らかに悪くなっていく体調を訴え続ける重光さんに、産業医はずっと「問題なし」というA判定をつけ続けたのです。

 重光さんは外部の医者のアドバイスで療養生活に入ることを余儀なくされました。直後は、起きあがることも食べることもできなかったそうです。(続く)

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2006年07月18日

「社会の問題」としての自殺(3/4)

(続き)
image060718.jpg 重光さんは何度か復職を試みますが、そのたびにショックを受けることが続きました。

 たとえば早い時間に出勤すると、上司が「もう治ったのか」と声をかけてきたことがありました。「早朝覚醒で眠れないんです」と答えると「オレだって忙しくて3時間しか寝ていない」と言われたそうです。
 また、半日出勤や責任の少ない仕事などで少しずつ体を慣らしていきたいと告げると、上司は「何もしないでただ席に座っている気か?!」と詰め寄りました。

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 仕方なく産業医に半日出勤の許可を依頼すると「半日出勤の許可を出すと総務が嫌がるから上司に相談して欲しい」と言われました。この産業医は「職場を変えて欲しい」と言った重光さんに「上司が替わるのを待て」とも言ったそうです。

 そんななかで一向に良くならない体調。重光さんが「これは労災ではないか?」と尋ねると上司は激怒。療養中の自宅に「君が労災申請などしたら、会社が倒産して大勢の従業員が路頭に迷うかもしれない」と脅しまがいの電話をかけてきたとか。
 その上司は、休職中の重光さんが事務手続きで会社に行くと、「あ〜、オレも休みたい」と大声を上げたりしたそうです。

 欠勤と休職を続けましたが、昨年、重光さんはとうとう解雇されてしまいました。
 組合からは「働く意欲があれば出勤できるはずだ」と言われました。労働基準監督署にも出向きましたが、相手が大企業であるためか会社側をかばうばかりで「なるべく労災申請をさせないように」と思っていることがありありの対応だったそうです。

「だれも自分の味方になってくれない」ーーそう思った重光さんは、弁護士を立て争うことを決意しました。
裁判に関する詳しい情報) 

 こうした現実が、自殺対策基本法が施行されれば本当に変わるのでしょうか?
 確かに自殺を「社会の問題」としたことは評価に価します。けれども、いったいどんな視点で問題解決をしていくつもりなのでしょう。
 たとえばかつて学校のいじめが問題になったとき、政府は専門家と呼ばれる人たちを集め、研究調査を行い、対策にあたるとしました。けれども、それに基づく抜本的な解決策は立てられないままです。今では子どもたちの世界でのいじめは日常化し、「学校でいじめにあった」と聞いても驚く人はいなくなってしまいました。(続く…)

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2006年07月21日

「社会の問題」としての自殺(4/4)

image060721.jpg どうして重光さんの会社の社員たちは、自殺寸前まで追い込まれている同僚に気づかなかったのでしょう。唯一、窮状を知っていた上司は部下を助けるどころか、部下を追い込むような言動を続けたのでしょう。そして何より、重光さん以外の方々は「自分はこれ以上やれない」とSOSを出すことができなかったのでしょうか?

 AC(アダルト・チルドレン)という言葉は、今では広く一般にも知られています。ACの特徴は、自己評価が低く、周囲からの評価が気になり、周囲の反応に一喜一憂し、頼まれたものを何でも引き受けてしまうなど。アルコール依存症の家族など、機能不全家族で育った子どもがなると言われています。
 では、そのような機能不全家族はどうして生まれるのでしょうか?

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 合理性や効率性が求められる社会では、人とのつながりよりも、その社会で“より高く売れる商品(優秀な子ども、エリート社員など)”であることが重要視されます。
 絶えず競争させられ、生き残りレースに参加させられているので、「だれかとつながる」のではなく「だれかをけ落とす」ことが大事になり、人間的な情緒の交流は失われていきます。
 そうやって個人を犠牲にし、企業を太らせる仕組みが、社会システムとしてつくられています。人々は否応なしに自分や家族の幸せを捨て、自殺した重光さんの同僚のように企業のために生きることを強制されます。

 生き残っていくため、人々は会社での評価や仕事の成果にいちばんの関心を払うようになり、最も大切に考えねばならないはずのパートナーや自分の子どものことは二の次になってしまいます。なかには、緊張を紛らわすためにアルコールに逃げたり、妻子を殴ることで自分を保とうとする人も出てきます。

 そんな機能不全家族で育った子どもは、いつでも周囲の期待通りに生きていこうとし始めます。親に頼るしかない子どもには、ほかに生きる術がないからです。
「個人の問題」を抱えているかのように見える人も、実は社会の犠牲者に他ならないのです。

 機能不全家族で育ち、生きづらさを感じている人へのケアはとても大切です。しかし、そうした個人へのアプローチだけでは「社会の問題」は温存されてしまいます。
 機能不全家族を生み出し、企業や国だけが発展する社会そのものを変えていかなければ、自殺に追い込まれる人はけして減らないでしょう。

 私たちカウンセラーは、極めてプライベートな個人の苦しみや辛さを聞かせていただくことのできる、貴重な立場にいます。そうしたところにいるからこそ見える、個人を犠牲にすることを「よし」としている「社会の問題」を指摘していきたいと思います。

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2008年06月05日

絶望と自殺(1)

ギリシャ神話に登場する人物にシーシュポスという人がいます。
 彼は、その犯した罪により神々から、「巨大な岩を山のふもとから頂上まで転がして運ぶ」という罰を与えられます。
 彼が苦労して運び上げた巨石は、あと少しで山頂に届くというところで底まで転がり落ちてしまいます。そのため、彼は再びこの巨石を一から運び上げる作業をしなければなりません。

 永遠に繰り返される作業。先の見えない、終わりのない孤独な労働。・・・それが、シーシュポスに与えられた罰でした。
 このことから「シシュポスの岩」は「(果てしない)徒労」を意味します。

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圧倒的な絶望感

 私がこの神話を知ったのはフランスの作家・カミュの『シーシュポスの神話』を読んだ学生時代でした。
 人間存在の不条理をテーマにしたノーベル文学賞作家であるカミュが描いたものですから、当然なのかもしれませんが、読んだときの圧倒的な絶望感が忘れません。今も思い出すたびに、舌がざらつくような、胸が押さえつけられるような不快感を感じます。

 ところが嫌なことに、ここ数年、この神話を思い出す機会がたくさんあります。
「非正規雇用」、「死刑・自殺願望」、「過労自殺」、「格差」・・・そんなキーワードが新聞紙面を賑わしているからでしょうか。
 それとも、こうした暗いニュースに対し、「頑張った人が報われる社会」「再チャレンジ」「自己責任」「痛みをともなう改革」などの言葉を返す人々がいるからでしょうか。

生まれたから生きていくだけ

 つい最近もありました。
 『東京新聞』の「読者交論」のコーナーで、18歳の学生が自殺について述べた意見への会社員の反論を読んだときです。

 学生は「生きていればいつか良いことがある」「死ぬ気があれば何でもできる」と精神論を唱え、自殺した人を愚かであるかのように論ずる人々を批判しています。
 そして、最近、再会した中学時代の友人(運動部で活躍していた)が、最初に言った言葉が「仕事場までの電車賃がない。頼むから百円貸してくれ」だったことや、自身がクラスメートに制裁を受けたときの体験から「死んでみたくなる」人に共感しています。

 これに対して会社員は「甘えている」「努力したのか」との意見を述べ、「生きることに意味はない。生まれたから生きていくだけ」という主旨の言葉で締めくくっていました。
 まるで「生きていることに意味を見いだせないのは本人の責任だ」と言わんばかりです。

希望がなければ生きていけない

「生まれたから生きていくだけ」
 その意見には私も大枠で賛成です。でも、だからこそ、「生きている意味」を探し出せるような環境が必要だと思います。
 
 人は希望がなければ生きてはいけません。シーシュポスのように、たったひとり、終わりのない苦しみに立ち向かう毎日に耐えられる人間などいないのです。
 人が希望を持つためには、何かを成し遂げる支えになるための人との関わりや、自分の痛みに共感してくれる他者の存在が不可欠だと思います。

 もし、シーシュポスに、共に巨石を運んでくれるパートナーがいたとしたら、無意味な労働の中にも、わずかな喜びを見いだす可能性があったかもしれません。一見、徒労にしか見えない作業でも、パートナーと過ごす時間そのものが楽しみになることもありえたでしょう。

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2008年06月13日

絶望と自殺(2)

  • 表面だけの薄っぺらなつきあい (06/03 10:45)
  • いつまでたっても一人 (06/03 13:29)
  • ただいま、と、誰もいない部屋に向かって言ってみる (06/03 17:53)
  • 待ってる人なんか居ない 俺が死ぬのを待ってる人はたくさんいるけど (06/04 08:34)
  • 俺にとってたった一人の大事な友達でも、相手なとっては100番目のどうでもいい友達なんだろうね その意識のズレは不幸な結末になるだけ (06/04 10:46)
  • 味方は一人もいない (06/04 15:52)
  • どうせ何をしても「努力不足」って言われる (6/05 04:37)
  • 別に俺が必要なんじゃなくて、新しい人がいないからとりあえず(クビは)延期なんだって (06/05 04:53) ※( )内は筆者が加筆
  • 結果がでないのに続ける奴はバカ (06/05 05:38)
  • どうせすぐに裏切られる 嫌われるよりなら他人のままがいい (06/05 18:57)
  • 俺には支えてくれる人なんか居ないんだから (06/05 18:57)
  • 「死ぬ気になればなんでもできるだろ」 死ぬ気にならなくてもなんでもできちゃう人のセリフですね (06/07 19:36)

===
 6月8日に東京秋葉原で起きた通り魔殺人事件の容疑者が、犯行前にサイトに書き込んでいた文章です。書き込みサイト自体は閉鎖されてしまっていましたので、「閾ペディア」より抜粋しました。

「絶望と自殺」の一回目を書いた直後、まるでタイミングを計ったかのように、この事件が起きました。

深い孤独と絶望

 書き込みを見ていくと、容疑者の深い孤独と絶望が感じられます。
 派遣労働でいつクビを切られるか分からない不安。恋人もなく、経済的にも行き詰まる中での将来への悲観。その悲しみや辛さを分かち合い、支えてくれる人がだれひとりいない孤独。

 そうした中で、容疑者はだんだんとそんなところに自分を追い込んだ社会への恨みを募らせ、自己破壊的になっていきます。 

悪いのは全部おれ

  • 孤独に楽しく生きれるなんてあり得ない (06/06 03:03)
  • 彼女がいれば、仕事を辞めることも、車を無くすことも、夜逃げすることも、携帯依存になることもなかった 希望がある奴にはわかるまい (06/06 03:09)
  • で、また俺は人のせいにしてると言われるのか (06/06 03:10)
  • 悪いのは全部俺 (06/06 03:10)

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2008年06月18日

絶望と自殺(3)

080618.jpg 秋葉原の事件が起きた6月8日は、7年前に大阪教育大学附属池田小事件に乱入した男に、小学生8人が無差別に殺されるという事件が起きた日でした。
 それが単なる偶然だったのかどうか。今の時点では分かりませんが、秋葉原事件の容疑者の書き込みには、

「犯罪者予備軍って、日本にはたくさん居る気がする」(06/05 11:51)
「ちょっとしたきっかけで犯罪者になったり、犯罪を思いとどまったりやっぱり人って大事だと思う」(06/05 12:02)
「人と関わりすぎると怨恨で殺すし、孤独だと無差別に殺すし難しいね」 (06/05 12:04)
「誰でもよかった」 なんかわかる気がする (06/05 12:05 )

 などと書かれています。
 少なくとも容疑者が、無差別殺人を行う人間に共感を寄せていたことは事実でしょう。自分が殺人者になってしまうのではないかという恐れを抱きながら、ぎりぎりのところで踏みとどまっていたことも分かります。

 気になるのは「やっぱり人って大事だと思う」という一文です。
 言葉が足りないので、真意のほどが定かではありませんが、自分が殺人者になってしまうことを止めてくれるような人、自分のことを「特別」だと思い、気にかけてくれるような人を求めていたように思います。

===
「だれかとつながりたい」

 人との接触を求める言葉は、書き込みのあちこちに顔を出します。
「彼女が欲しい」というたぐいの文だけでなく、たとえば犯行に使う凶器を買った後、

「店員さん、いい人だった」(06/06 14:39)
人間と話すのって、いいね (06/06 14:42)
タクシーのおっちゃんともお話した(06/06 14:43)

 などと書き、事件当日には、「ほんの数人、こんな俺に長いことつきあってくれた奴らがいる」とも書いています。

「自分はダメなやつだ」「こんな自分を受け入れてくれる人間などいやしない」と否定しながらも、「だれかとつながりたい」という欲求が伝わってきます。

宅間死刑囚との類似点

 ところで、大阪教育大学附属池田小事件で死刑になった宅間守死刑囚も、孤独の果てに絶望し、社会への恨みに押しつぶされ、犯行に及んだ人間でした。

 そんな宅間死刑囚は、小学生を襲った犯行動機について次のように供述しています。

「恵まれた子どもも、自分みたいな将来の展望のないアホに、たった数秒でいつ殺されるか分からないという『不条理さ』を世の中に分からせたかった」(「誰も書けない宅間守の秘密」『新潮45』2003年9月号)

彼もまた、競争社会の中で自分が“負け組”だと思わされ、それまでの人生・・・おそらく親子関係の中で、自分に価値があるという確信を持たせてもらえなかった人間だったのでしょう。

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2008年07月01日

絶望と自殺(4)

「自分に価値がある」と思うことができなかった宅間死刑囚の子ども時代は、かなり過酷なものだったようです。

 宅間死刑囚とその兄は、父親から棒でたたきのめされる毎日の中で育ちました。母親には父親の暴力を止める力はなく、血まみれの母親の姿を見ながら大きくなったようです(「加害者に潜む家族内部の暴力」 『世界』2003年3月号)。

 兄は、事件の2年前に自殺しています。宅間死刑囚も、犯行の直前にネクタイで首をつったそうです。父親に「しんどい、メシが食えない」と言ったら「首でもくくれ」と言われたためでした。
 しかし、結局、宅間死刑囚は自らネクタイをほどき、自殺を断念します。

===
「被害者たちという道連れ」

 斎藤学は、このエピソードを『アディクションと家族』(第21巻4号 2005年1月)の巻頭言「『医療観察病棟』は宅間守を治療できるか」で紹介しつつ、事件からわずか3年という異例のスピードで執行された宅間死刑囚の(2004年9月)死刑についてこう書いています。

「一人では死にきれない男が、『被害者たちという道連れ』を手に入れてようやく果たした自殺だったような気がする」(338ページ)

愛されなかった子ども時代

 まだ事件の全体像が見えていないため確定的なことは言えませんが、秋葉原通り魔殺人事件の容疑者もまた、きちんと愛された子ども時代を送った人間ではなかったようです。

 4月3日の書き込みで容疑者は両親について次のような書き込みをしています(『東京新聞』6月17号)こう書いています。

「親の話が出ましたのでついでに書いておきますと、もし一人だけ殺していいなら母親を もう一人追加していいなら父親を」

 そんな容疑者と両親の関係がどんなものだったのかを推測できる書き込みもあります(「閾ペディア」。

・考えてみりゃ納得だよな 親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り、親に無理やり勉強させられてたから勉強は完璧。
 小学生なら顔以外の要素でモテたんだよね 俺の力じゃないけど(06/04 05:51)
・親が周りに自分の息子を自慢したいから、完璧に仕上げたわけだ 俺が書いた作文とかは全部親の検閲が入ってたっけ (06/04 05:52)
・中学生になった頃には親の力が足りなくなって、捨てられた より優秀な弟に全力を注いでた (06/04 05:53)

「殺した者自身」が負う責任

 確かに、人間を殺めた責任は「殺した者自身」が負わなければなりません。
 けれども、「人間を殺めるようなおとなに成長してしまったこと」の責任までをその人に負わせることができるのでしょうか。

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2008年07月14日

絶望と自殺(5)

 ところで、ここのところ「死刑になりたい」ーーそんな動機で、見知らぬ他人を殺める事件が相次いでいます。いわば「他者の力を借りた自殺」です。

 自殺願望を持つ人の増加は統計からも明らかに読み取れます。
 内閣府が5月に発表した「自殺対策に関する意識調査」では、20歳以上の男女の約20%が「本気で自殺を考えたことがある」と答えています。最も多かったのは30代(27.8%)と20代(24.6%)でした。
 また、警察庁の統計(06年)では自殺者は3万2155人。9年連続で3万人を超えています。 

===
本人の責任を強調

 しかし、自殺(願望)者に対しての視線は相変わらず厳しいものがあります。
 今回のブログの冒頭で紹介した会社員のように「甘えている」「努力したのか」などと言う人の声がまだまだ大きいのです。

「他者の力を借りての自殺」ともなるとなおさらです。しかもいわゆる“立場”のある人ほど、辛辣です。ワイドショー等では「自己中心的な犯罪」、「罪のない人を殺した理解不能の残虐非道な人物」などのコメントが繰り返されます。
 
 今の日本社会の、様々なひずみを映し出した秋葉原事件の後でさえ、「注目を浴びたかった」「万事、責任転嫁」など、容疑者の責任を強調した心理の専門家の意見も少なくはありませんでした。
 度重なるネットへの書き込みについても「現実から逃げようとしている」などの言葉が目立ちました。

環境にこそ問題がある

 繰り返しになりますが、確かに人を殺した責任は容疑者が負うべきものです。
 けれども、容疑者がそのような人間にしか成長できなかったこと。さらには、だれにも助けを求められず孤独の中でネットの世界に没頭し、世に恨みを持つようになったことも、本当に容疑者の責任なのでしょうか。

 私には、そうは思えません。
 あの生命力あふれた赤ん坊の姿。生き延びるために、どうにか他者を振り向かせようとする赤ん坊のどこに、他者を破壊し、自らをも破滅させる未来を感じられるでしょうか。
 もし、自分を含むだれかを殺すに至ったのだとしたら、その環境の方にこそ問題があったと言うべきでしょう。

「人とつながりたい」という欲求

080714.jpg 人はみな「人とつながりたい」という欲求を持って産まれてきます。ほ乳類の中でも、とくに未熟な状態で産まれてくる人は、たえず自分を気にかけ、寄り添い守ってくれる養育者(母的存在)がいなければ生き延びることはできないからです。
 
 昼寝から覚めたとき、おしめが濡れたとき、おなかが空いたとき・・・赤ん坊は、今できる唯一の能力を駆使して泣き叫び、自らを守ってくれる相手、必要とするものを提供してくれる相手を求めます。
 
 こうした赤ん坊の「他者との関係性を求める叫び」をきちんと受け止め、そのニーズをくみ取り、応じてくれる養育者に出会うことが出来れば、乳幼児の“泣き叫び”は、少しずつ洗練されていきます。
 その子の発達度合いに応じて、“泣き叫び”よりも有用な方法で自らの欲求を表すようになっていきます。
 自己主張や意見表明などと呼ばれるものへと変化するのです。

欲求を無視されると・・・

 不運にも求めに応じてくれる養育者に恵まれ、安心できる環境を持てなかった場合、子どもは自らの欲求を表すことを止めていきます。「求めても他者は応じてくれない」と学習し、自らのニーズを他者に伝え、助けを求めることをあきらめ、人との関係性を築こうとはしなくなるのです。

 乳幼児の研究では、母親から離された当初さかんに泣いていた赤ん坊が、そのうち泣かなくなり、無表情・無反応になっていくという有名な報告(『Hospitalism』Spitz:1945)もあります。
 さらに、その後の報告では、そのまま養育者のケアが得られなかった場合、情緒的発達および身体的発達の生涯を来たし、死に至ることもされるとされています。

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2008年07月24日

絶望と自殺(6)

 秋葉原事件の容疑者の養育環境はどうだったでしょう。
 報道から推測する限り、彼の家庭は今の社会に適応し、そこで成功できるような「良い子」を求めるものだったように見えます。

 おそらく、彼は小さな頃から自らの欲求(「他者との関係を求める叫び」)を無視されたまま、社会の価値観を体現した親の要求に応じるようしつけられ、その期待に応えるべく努力してきた人間だったのでしょう。

 傷ついたときにほっとできたり、つらい目にあったときに逃げ込んだりできるような安全な居場所。「自分は自分のままで価値がある」と思え、助けを求めることができるような他者との関係を彼は持っていたのでしょうか。

 たぶん彼にとって他者とは、絶えず要求を突きつけてくるもの。その要求に応えられなくなれば簡単に切りすてるもの。自らを搾取し、孤独へと追い込むもの・・・そんな対象でしかなかったのではないでしょうか。

===
親(おとな)の期待をくみ取る子ども

 格差をつくり、子どもに「社会で役に立つ人間であれ」と要求し、親が子どもに顔を向ける機会を奪う競争社会では、人々は市場原理で振り分けられます。
 市場原理にどっぷり使った親(おとな)は、子どもに市場で価値の高い“商品”になることを自らも気づかないうちに要求します。市場価値の高い“商品”に育てあげることこそ子どものためだと考え、「子どものニーズ(思いや願い)などそっちのけ」のことも少なくありません。

子どもは無意識のうちにそうした親の期待をくみ取り、ときには必要以上に過大に推測し、期待通りの“優良品”であり続けようと頑張ります。

 でも、期待に応え続けられる子どもはそう多くはありません。大多数は、競争に敗れて落伍者になっていきます。万が一、勝ち続けることができたとしても、人とつながることができない寂しい人間になっていきます。

社会への復讐

 いったん市場での競争レースから降りた者に対して今の日本社会は過酷です。
 引きこもりや不登校、非正規雇用など、市場で認められない“不良品”は、地域からも仲間からも分断され、根無し草となって生きのびる人生を強要されます。
 一度“不良品”の烙印を押された人は、人とつながる可能性も奪われ、ネットなど人ではない“何か”に居場所を求めるようになります。

 多くは場合は、「こうなったのは自分のせいだ」「能力のない自分が悪いんだ」と自らのを責め、分に応じたあきらめの生涯を送ります。

 しかし、中には社会の不条理に気づき、自分をそんな人生へと追い込んだ社会への復讐を企てる者も出てきます。

第二、第三の秋葉原事件も

 政府の諮問機関である教育再生懇談会は、「携帯電話依存の小中学生が増加」との報告を受け、「小中学生から携帯電話を取り上げよ」との提言を出しました。それによって犯罪を未然に防げると考えているようです。

 でも、ことはそう簡単にはいかないでしょう。
 携帯依存の増加に加え、小中学生の自殺者数が急増との報告もあります。2004年の警察庁統計によると、2003年に自殺した小中学生は93人(前年は34人)で57.6%も増加。それ以降、小中学生の自殺者数は、毎年73〜95人で推移しているのです。

 胸にぽっかりと空いた空洞を抱え、孤独と絶望の中でなんとか生き延びている子どもたちは確実に増えています。
 その痛みをきちんと受け止め、子どもが発する「他者との関係性を求めるを叫び」にきちんと顔を向け、子どもの願いや思いにきちんと応えられる社会へと転換しない限り、必ず第二、第三の秋葉原事件は起こります。

 つい先日(7月22日)にも、京王線八王子駅(東京都)で無差別事件が起こりました。
 報道によると容疑者は「家族が相談に乗ってくれなかった」「とっさに無差別に人を殺そうと思った」などと供述しているそうです。

責められるべきは社会

 生まれ落ちた瞬間に「いつかは人を殺してやろう」と誓う赤ん坊など絶対にいません。そのままで愛され、思いや願いを受け止められ、きちんと社会に受け入れられた経験を持っていれば、世の中への復讐を思い立つ人間になど成長するはずがないのです。
 
 19世紀の経済学者であるJ・S・ミルは言っています。

「社会が子育てに失敗し、非行者を生み出してしまうとするなら、そのことについて責められるべきは社会自身である」(『自由論』)

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