このシリーズの最初の記事へ

 私は常々、「私をはじめ、人間はみな完璧な“純金製”になれない金メッキ」と思っています。

 確かに理論上は、“純金製”の人間・・・あらゆる能力を備え持ち調和が取れたバランスのいい人格者を育てることはできるはずです。

「包まれているものを出現させる」という発達(Develop)の語源によれば、「人は“人として”豊かに生きるために必要なすべての能力を持って生まれてくる」わけですから、あとは「その包まれている能力をきちんと表出させてくれる環境(親)」があればいいだけです。

 これは子どもの成長・発達を保障するための世界的な約束ごとである「子どもの権利条約」の29条:教育の目的(子どもの人格・才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること)にも通じる考え方です。

現実は厳しい

 でも、前回も書いたように現実は厳しいものです。理論通りにはなかなかいきません。親は子どもにさまざまな期待をし、知らず知らずのうちに「何かを教え込もう」とします。教師は「子どものため」と信じて社会が求める能力ばかり高めることを要求しますし、社会は「その発展に寄与できる人材」を求めます。

 そもそも子どもを取り囲むおとなたちが“純金製”ではないのですから、仕方がありません。 

 そんな環境で育てられた私たちが、よっぽどのことがない限り“純金製”になどなれないのは当たり前です。

金メッキでいい

 だから私たちは自分に金メッキを貼ります。経験を積み重ね、他者を観察し、人とやりとりしたり、本を読んだり、先人に学んだりしながら、「何が大切なのか」を考えて。
 自分の欠けた部分を補ったり、他者とうまくつきあったり、世の中と折り合いをつける方法を模索します。
 人格崩壊を起こしたり、孤軍奮闘して疲弊してしまわないように。

「そのままでいいよ」と抱えてくれる親ではなかったとあきらめ、代わりに「私はそのままで価値があるんだ」と思わせてくれるだれかを探します。「お前のため」と押しつけることがなく、ただ「私である」ことを受け入れてくれる居場所を求めます。

 そうやって100%ではないかもしれないけれど、「まぁまぁな環境」をどうにか自分でつくっていけばいいのです。(続く…

このシリーズの最初の記事へ

傘をさしたり軒下を借りたりして雨風をよけながら。過酷な環境下ではメッキははがれやすくなってしまいます。

孤独な子育てや余裕のない生活が虐待のリスクを上げることでも明白なように、取り巻く状況が悪ければ人格を保ったり、人とつながったり、生まれ持った能力を発揮することは難しくなります。
だから金メッキの私たちは、できるだけダメージを与える人間関係を離れ、危険なものを遠ざけ、傷つく機会を減らして、メッキがはげないようにしなければなりません。

メッキを貼るお手伝い

“純金製”になれなかったことは確かに残念ですし、そうなれなかった生育歴や原家族を恨みたくなる気持ちは当然です。だからもちろん、その辛さや悔しさ、悲しみや怒りをきちんと感じ、整理していくことは大切です。

そうしてどこかの時点で「残念ながら自分は“純金製”ではないらしい」と納得することも必要です。「どうにかして“純金製”になろう!」ともがいても、足りないものばかりに目が行ってしまい、余計に自分を苦しめることになりかねません。

その作業をひとりで行うことは難しい場合もあります。だからセラピストの仕事のひとつは、そんな大変だった過去をしっかりと「過去のもの」として人生に統合し、悲しいけれど“純金製”ではない自分を受け入れ、もう取り返すことはできない過去を見つめ、上手にメッキを貼っていくお手伝いなのではないかと思っています。

「諦める」のでなく「明らめる」

誤解のないように申し上げておきますが、「諦める」ことは必ずしも悪いことではありません。その語源は「明らめる」・・・つまり「事情や理由を明らかにする」「はっきりさせる」であるとも言われます。(参照元:あきらめる – ウィクショナリー日本語版)(別ウインドー)

つまりそれは、盲目的に何かを礼賛したり、鵜呑みにしたりすることなく、傘や屋根を上手に利用しつつ何が起きているかを見極める努力をし、自らの人生、今の自分をありのままで受け止めていくということではないでしょうか。

セラピストとして傘をさしかけたり、屋根のある場所を一緒に探したりしながら、辛い過去を「明らめ」、バランスを取って生きていくことのお手伝いができたら、と考えています。

未曾有の犠牲者を出した東日本大震災から6年がたちました。

2011年3月11日2時46分。私は東京のとある福祉施設におりましたが、あのとき目にした揺れる町の光景や自分が着ていた服、寒々しかった天候まで今もありありと思い出すことができます。

その後、テレビを通して目にした川津波の映像、そして福島第一原発事故の様子。福祉施設の子どもたちが泣き叫ぶ姿などは、今、思い出しても胸がしめつけられるようです。

直接的な被害をこうむっていない私でさえこんな状態なのですから、ご自身や家族が被害に遭い、愛する命や土地を奪われた方たちの思いはどれほどのものかとお察しします。その爪痕は、まだまだ生々しく残っていることでしょう。

いまだに12万人以上が避難生活

警察庁のまとめによると、2017年3月現在で死者は1万5893名、行方不明者は2553名だそうです。いまだに避難生活を余儀なくされている方は12万3000人。内訳を見るといちばん多い都道府県は福島県で3万7396名、次いで宮城県の2万2605名となっています。
(参照元:復興庁 | 全国の避難者等の数(所在都道府県別・所在施設別の数)

「12万」と言えば中規模な都市の人口に値します。
(参照元:日本の市の人口順位 – Wikipedia

それだけの数の方が、6年の年月が経っても安住の地を見つけて根を下ろして暮らすことができずにいることに衝撃を覚えずにはいられません。

かき消された小さな声

ところがそんな数字とは裏腹に、今年の3月11日前後、盛んに報じられていた「被災地や被災者の今」は非常に前向きなものでした。少し乱暴にまとめさせていただくとしたら「辛いこと、悲しいことはあったけれども人々に支えられて乗り越えてこんなに前進できています」といった内容がほとんどをしめていたように感じました。

いまだに中規模な都市人口に匹敵する方々がさまよっているのに。たとえ新しい家や土地を手に入れたとしてもきちんとしたケアも受けられず、悲しみのなかで暮らしている方々もたくさんいるのに。
現状を放置し、「前へ」「前へ」と尻を叩くだけの国や行政への批判的な声はほとんど聞かれませんでした。

よしんば、そうした声を上げる方がいたとしても、その声はあまりにも小さく、大きな声にかき消されてしまっていたように感じました。(続く…

このシリーズの最初の記事へ

東京でのオリンピック開催が決定したとき、世の大半は東日本大震災と原発事故の払拭を願い、「あれはすでに過去のこと」と忘れ去ろうとするお祭り騒ぎにわきました。すくなくとも、メディアはそうした状況をたくさん報道していました。

でも私には、オリンピック決定を受けた後、福島の浜通りに住む知人が送ってきた一通のメールが忘れられません。そこには「オリンピックに向けた復興にわく日本のなかで、このまま福島は取り残され、忘れられていくのだろう」という痛切な言葉が書かれておりました。

自主避難者の苦渋

また、福島県は「地域の除染やインフラの復興が進んでいること」などを理由に、避難指示区域以外からの自主避難者に対する仮設住宅や無償での公営住宅の提供をこの3月末で終了することとしています。でも、少なくとも私が知っている自主避難者の方々は「安心して故郷に帰る」などという状況とは、ほど遠いところで苦渋の選択を迫られているように見えます。

先日お目にかかった都内で自主避難している方は、「経済的な事情や行政からの圧迫などで福島に帰ることを余儀なくされている人も多い」と話していましたし、すでに自主避難先で進学した高校生は「父や祖父母を置いて母と子どもたちだけの自主避難だった。原発事故さえなければ、ずっと家族みんなで福島で楽しく暮らしていたと思うし、今もそうしたい。でも学校のこともあるし、今さら戻ることもできない」と語っていました。

前を向くことさえ困難

170322.jpg

つい最近、東日本大震災による津波で全校生徒108人中70名が死亡、4名が行方不明となり、11名の教師が命を落とした宮城県石巻市立大川小学校の遺構を訪れた際も、「復興」とはほど遠い現実を目の当たりにしました(写真)。

このブログでも何度か紹介しましたが、大川小学校の悲劇は学校という空間の中で、教師も一緒にいるという完全なる学校管理下で起きた出来事です。津波襲来まで51分もの時間があり、体育館のすぐ裏には、日頃から子どもたちが遊び場にしていた山があり、すぐ動けるようスクールバスも待機していました。

それにも関わらず、なぜ教師たちは「子どもの命を守るために逃げる」という選択ができなかったのか。

市の教育委員会調査や第三者機関による検証委員会も開かれましたが、いずれも「形だけのもの」に終わり(詳しくは『遺族を訴訟に追い込んだ大川小学校事故検証委員会』参照)、今もご遺族の方々の胸からは「どうして愛するわが子が命を落とさなければならなかったのか」という無念と疑問がぬぐい去れません。

残された家族や生き残った子どもの中には罪悪感や後悔のなかで、前を向くことさえ困難な状況が今も続いています。(続く…

カウンセリングルーム カウンセリングルーム カウンセリングルーム