2017年02月の一覧

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2017年02月02日

日本礼賛と金メッキ(3)

 このような振り幅の大きさは、柔軟性を欠いた窮屈な生きづらさにつながることがあります。
「こうでなければならない」という絶対思考やグレーゾーンや中間的な価値のあり方を許さない「0か100か」の思考、または現実検討能力を著しく低下させてしまう危険を呼び寄せてしまうことにもなりえます。

 世の中には「完全な悪」もなければ、「完全な善」もありません。神様や仏様なら別でしょうが、あらゆる人間には善的な部分と悪的な部分があります。人間だけでなく、この世に存在するものすべては矛盾をはらんでいるものです。

たとえば子育て中の親は

 たとえば子育てまっただなかの親のことを考えてみてください。
 多くの親にとって、子どもは目に入れても痛くないほどかわいいものですし、「この子の幸せのためなら何でもしてあげたい」と、自分のエネルギーをせっせと子どもに差し出したいと思う気持ちに偽りはないでしょう。

 けれどもその一方で、親の都合や状況もわきまえずに泣きわめいたり、出勤直前におむつを濡らしたり、寝る時間も、食べる時間もうばって好き勝手に振る舞ったりする子どもの面倒をみていれば、「この子さえいなければ」とか「本当に憎たらしい」と思う瞬間があるのも現実です。

 だからこそ、虐待防止には親のケアが有効ですし、子育ての愚痴や悩みを吐露できる場所が必要だと言われているのです。

不都合な現実を見ない傾向

 ところが人は、道徳心や「あるべき」論から。もしくは不安や恐怖を抑えるためや都合よくものごとを解釈するために、不都合な現実を見ようとしないことがあります。

 無意識のうちに、ひとつの考えにしばられて「こうでなければならない」と柔軟性を欠いてしまったり、ある特定の人物を「絶対に間違えることはない」と信じて盲信しようとしたり、逆に「あいつは理解不能のモンスターだ」と断じて、切り捨ててしまったりするのです。

社会問題にも同じ構図が

 こうした現実逃避の影響は、日常生活だけにとどまりません。

 たびたび外交問題となる歴史認識についてや原発政策。昨年7月に起きた相模原障害者施設殺傷事件のようないわゆる“凶悪犯罪”と呼ばれる事件の被疑者・被告人へのバッシングから、はては芸能人のスキャンダルまで、同じような構図が見て取れます。

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2017年02月14日

日本礼賛と金メッキ(4)

 それにしてもなぜ、こうした「白黒思考」になってしまうのでしょうか。身も蓋もない誤解を呼びそうな表現ですが、一言にまとめれば「そのほうが楽だから」でしょう。

 私自身そうですが、人は易きに流れます。
「グレーゾーンに立つ」ということは、「宙ぶらりんのままでいる」ということです。これはなかなか居心地が悪い状態です。この世に存在するあらゆるものは安定を求めます。「どうにかして早く安定感のある場所に落ち着きたい」と思います。

そのうえ今の社会は人を急がせます。「少しでも早く」「できるだけ最短」で、「結果を出す」ことが求められます。
 迷ったり、戻ったり、「間違えたかな」と立ち止まることは、「よし」とされません。

悩む必要を感じない?
 
 幼い頃からおとなに干渉され、社会の「こうあるべき」を教え込まれ、「正しい」道筋だけを教え込まれてきた場合、葛藤したり試行錯誤したりという経験を持ちません。
 そんなふうに育てられた人が、壁にぶつかったり、過ちを犯しながらも、自分の頭で考えたり、答えを探すということに価値を見いだせなかったとしても不思議ではないでしょう。

 今どきネットで引けばたいていの答えはすぐに見つかります。悩む必要を感じない人も増えて当然でしょう。

 多くの場合、人は慣れ親しんだやり方を選ぶものです。それが「良い」か「悪い」かはべつにして、親和性のあるものは人を安心させます。「今まで通り」である方が新しい方法を試すよりも落ち着きます。
 暴力を受けて育った人が暴力をふるうパートナーを選んでしまうように。

しんどい作業

 宙ぶらりんの状態を続けながら現実を見つめ、「自分だけの答え」を探し続けることは、けっこうしんどい作業です。
「どうして愛する親が自分を殴るのか」、「『お前のため』と言いながら、なぜ自分の尊厳を踏みにじるのか」、「『命は平等』と良いながら、どうして能力で優越をつけられるのか」、「『平和を追求する』と良いながら、武器を買ったり軍隊を増強したりするのはなぜなのか」・・・。

 世の中は矛盾だらけです。そんな世の中を直視し悩みながら、自分の立ち位置を決めることは、そう簡単ではありません。

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2017年02月20日

日本礼賛と金メッキ(5)

 さてさて「日本礼賛」についてです。

 自分が生まれ育った国、属する国に愛着を持つことは人間ならば当然です。母国ならではの良さもよく分かっています。そんな母国の文化に誇りをもつことも至極最もなことです。
 でもそれはが「母国が一点の曇りもない、何一つ恥じることもない、素晴らしい国だから」なのだとしたら、これはけっこう危険な話です。

絶対視は危険

 盲目的に何かを信じたり絶対視しようとしたりすると、「完璧でなければならない」という呪縛にとらわれます。完璧なものなどあり得ないのに、「完璧であろう」とすれば、そこにはかならず無理が生じます。
 たとえば間違いを隠そうとしたり不可能を「可能」と言い切ったり、トラブルを見ないようにするなど、してしまうのです。

 東日本大震災時に起きた原発事故がいい例です。もし、原発の危険性を直視し、人々に周知した上で設置していたのであれば、あんな大惨事にはならなかったはずです。「人がつくるもの、やることに完璧などあり得ない」という、ごく常識的な考えのもとで、可能な限りの安全対策をしていたなら悲劇は最小限度で食い止められたでしょう。

だれもが不完全

 人間は不完全な存在なのです。完璧な人格、完璧な人生、完璧な能力を持っていることなどありえません。
 私たちはみな、不完全な環境、完璧でない親、機能不全な家族のもとに生まれ、育ってきたのですから。

 私をはじめ、みんな何かが足りず、どこかが欠けているのです。うまくいかないことや自分の限界にジタバタし、世を恨んでみたり、自分を情けなく思ったりしながらも、えっちらおっちら生きています。

 でも、だからこそ、自分と同じように不完全である他者を許したり、他者とつながったりしながら、慰め合ったり、足りない部分を補い合ったりしながら歩んでいきます。ダメな部分やうまくいかないことを抱えながら「さて、どうしよう」と悩みながら、失敗を繰り返しながら、傷ついたり傷つけられたりしながら。

「まぁ、こんなもんか」とやり過ごし、小さな春の日差しに幸せを見つけたりしながら、暮らしていくのです。

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