2016年04月の一覧

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2016年04月04日

猫を見ていて考えたこと(3)

 弱くて、甘えていて、勇気がない・・・その原因をひとことで言ってしまえば「安全基地となる居場所がないから」に尽きると思います。

 私たちほ乳類は、たいへんなことがあったとき、傷ついたとき、怖い思いをしたとき、病気になったとき・・・つまり何かしら危機的な状況に陥ったとき、「ここに戻れば守ってもらえる」とか「そこに帰れば慰めてもらいえる」とか「エネルギーを充填できる」などと思える、安心できる関係性を必要とします。

 そうした関係性(安全基地)は精神(こころ)だけでなく、体の健康を維持するためにも不可欠なものです。

スピッツの報告

 その事実を端的にまとめたのが児童精神科医のスピッツです。

 スピッツは、母親から引き離された乳児は、最初はさかんに泣きますが、そのうち泣かなくなり、無表情・無反応になっていくと報告しました(1945)。
 そして、その後も母親によるケアがなかった場合、乳児はホスピタリズムと呼ばれる情緒的発達および身体的発達に障害を来し、死に至ることもあると述べました。

 念のため補足させていただくと、ここで言う母親とは生物学上の母親というよりも、いつでも子どもに関心を持ち、包容し、恐怖や不安を取り除いて安全感をもたらしてくれる“母的ケア”を与えてくれる養育者のことであるとご理解いただいた方がよいかと思います。

アカゲザルの実験

 だから私たちほ乳類は、安心を与えてくれる“母的ケア”を求めて、自ら安全基地(養育者)に近づいていこうとする能力を持って生まれてきます。

 ハーローによる有名なアカゲザルの実験(1958年)を思い出してください。

 ハーローは、生まれたばかりのアカゲザルを母親から引き離し、母親代わりとして2種類の人形を用意しました。ひとつは針金でできた人形、もうひとつは温かい布にくるまれた人形です。針金の人形にはミルクを入れた哺乳瓶が取り付けられていました。

 それまでの心理学では、フロイトが言うように「子どもの母親への愛着は食欲の二次的な産物」という考え方が主流でした。簡単に言ってしまえば、「物質的な栄養を与えてくれる存在こそが大切」だという考えです。

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2016年04月18日

猫を見ていて考えたこと(4)

 でも、このアカゲザルの実験は、明らかに違う結論を示しました。

 子ザルはおなかが空いたときにのみ、針金のお母さんのところに行ってミルクを飲みますが、空腹を満たすとすぐに布でできたお母さんのところへ戻ってしまいます。
 音の出る、子ザルが驚くようなおもちゃを投げ入れたときも、子ザルは怖がって布のお母さんにしがみついたそうです。

 この実験からハーローは、「愛着は生理的欲求(空腹や睡眠や苦痛など)を取り除いてくれるから母親を愛着対象とするのではない」とし、「接触(スキンシップ)による快適さこそが大切である」という考えを示しました。

スキンシップだけではダメ

 でも、この実験には後日談があります。接触(スキンシップ)さえあれば子ザルはちゃんと育ったのかと言えば、実はそうではなかったのです。

 布のお母さんにしがみついて育った子ザルは、成長とともに自分を傷つけたり、仲間とつきあえなかったり、無関心無気力だったり、攻撃だったりなど、その人格(猿格)形成にまざまな問題が生じました。

 このことから、ただ「温かいぬくもりがあるものとの接触(スキンシップ)」があればよいというわけではないことは明白です。

大切なのは「受容的な応答関係」

 いったい何が足りなかったのでしょうか?
 子ザルが心身共に健康に育ち、他者と友好な関係を築き、情緒的に安定するためにはいったい何が必要なのでしょうか?

 私は「受容的な応答関係」だと思っています。

 怖い思いをしたり、お腹が空いたり、慰めて欲しかったりするときに、その思いや願い、ニーズをくみ取り、受け止め、応え、恐怖を取り除いてくれるような継続的な関係性がなければ、絶対にほ乳類は幸せには生きられないのです。

 そしてそんな関係性を提供してくれる存在こそが、私たちほ乳類が「愛されている」「自分はここにいていいんだ」という確信を与えてくれるものなのです。

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2016年04月25日

猫を見ていて考えたこと(5)

 このような感覚が得られるような関係性が母親(養育者)との間に形成されることで、
私たちは見知らぬ他者と出会ったり、外界へと出て行く不安を和らげます。

 さらにはそんな関係性を保障してくれる母親が安全基地(情緒的エネルギーの補給場所)として機能しはじめ、「戻ればいつでも自分を守り、慰めてくれる存在がある」という確信を得て、何かにチャレンジしたり、外界を探索したり、自分の足で立つ自身や勇気を持つことができるのです。

猫の変化

 その事実を、猫が教えてくれました。

 くだんの猫は、現れた当初、ただじーっと家のデッキにたたずみ、一定の距離で私の方を見ていました。まるで声が出せないのではないかと疑うほど、一言も発っさずに。ゴハンを置いても、私が部屋に入るまではただじーっとこちらを見ていました。

 そんな関係がしばらく続いたあるとき、私が家の中にいると「ナーン」とか細い声が聞こえ、ゴハンをねだってきました。しかし、私がデッキに出るとやはり後ずさり・・・。でも、甘えたいのでしょう。「ナーン」「ナーン」と、盛んに声をかけてきます。

 さらに月日を重ねたある日、事態は大きく動きました。私がデッキにいると後ろから猫が近づいてきて、大きな声で甘えながら、私の足にスリスリと体を押しつけてきたのです。

猫も猿も人間も

 それからと言うもの、猫はゴハンを食べた直後でも「ナーン」「ナーン」と呼ぶようになり、出て行くと「なぜて!」と言わんばかりに、体を委ねてくるようになりました。

 おどおどと逃げていたのが嘘のように、家の中に入ってきては家の中を探索し、夜は先住犬の布団を奪って眠るようになりました。さらに最近では威嚇する先住猫に、毅然としてやり返し、自分のテリトリーを主張しはじめています。まるで別猫のような強さです。

 自分を受け入れ、応答し、守ってくれる、安全基地ができたという確信が、その堂々たる振る舞いを可能にしたのでしょう。

 猫も猿も人間も、みな同じ哺乳動物です。
 もし、自立できない、弱い、チャレンジできない人が増えているのだとしたら、エネルギーを補給してくれるような安全基地となる関係性が無くなってしまっているからなのだたとは言えないでしょうか。

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