2015年10月の一覧

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2015年10月01日

四角いスイカ(7)

 もともときっちりとした仕組みが行き届き、多様性よりも「他者と同質であること」が重んじられてきた日本社会。そこにアメリカを中心とする競争主義がなだれ込み、子どもを取り囲む環境はいよいよ息苦しくなっています。

 本来であれば評価の対象になり得ない「心の在り方」や「ふるまい」までが評価対象となり、序列化されます。ごく小さい頃からみなと同じ振る舞いができるかどうかが問われ、ちょっとはみ出しているだけで簡単に「発達障害」と言われてしまったりします。

「ひとりぼっち」と感じる子も多い

 競争が激しくなる中で、ごくごく小さいうちにおとな(社会)が提示する枠組みに順応できて結果を出せる「優秀な子」と「そうでない子」が選別され、「そうでない子」に入ってしまったときに、その集団から脱するのはとっても大変です。子ども一人だけの力ではとうていできません。

 周囲にその子ならではの“よさ”や本来持っている能力などを信じ、ほめたり、認めたりして、そのままで抱えてくれるおとながいない限り、子ども自身がどんどん自分に「ダメなやつ」のレッテルを貼っていってしまうからです。

 しかし残念なことに、そうしたおとなと巡り会える子どもはごく少数です。以前にも紹介したユニセフ・イノチェンティ研究所の調査(「レポートカード7―先進国における子どもの幸せ」(PDFファイル)2007 年2月14日発行)によれば、日本の子どものおよそ三分の一が「自分はひとりぽっちである」と感じていました。

 この数字もまた、他の先進諸国と比べ突出した数字でした。

おとなの務めとは

 そろそろ子どもを枠にはめるのを止めにしませんか。その方がずっと子どももおとなも気楽だし、子どもは未知数の能力や可能性を示してくれるはずです。

 観賞用の四角いスイカより、あるべき形に思いっきり成長できたスイカの方が、どれだけ濃厚で実が詰まったものに仕上がるかは想像に難くないでしょう。

 おとな(社会)の都合に合わせた枠を付けるのではなく、一人ひとり違う子どもに合わせ、その子どもが必要とする生育環境を整えてあげることこそ、おとなの務めのはずです。

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2015年10月16日

少年法の精神はどこに?ー『絶歌』をめぐる騒動から考えるー(1)

 2015年2月、神奈川県川崎市の多摩川河川敷で中学1年の男子生徒が殺害され、遺棄されるという痛ましい事件がありました。

 その1週間後に加害者とされる18~17歳の少年3名が殺人容疑で逮捕されると、成立が目前だった18歳選挙権と呼応して「成人年齢を下げるのなら、少年法の対象年齢も下げるべき」と少年法の厳罰化議論が再燃しました。

 それについては、以前、このブログ(「機能不全社会(6)」)で書いたので、そちらをご覧ください。

元少年Aの有料ブログが凍結

 このようなことがあるたびに「少年法の精神はどこにいってしまったのだろう」と暗澹たる気持ちになるのですが、つい先日もそのことを強く感じることがありました。

 きっかけは、「元少年Aとされる人物が始めたインターネットでの有料配信サービスがブログ運営もとに凍結され、閲覧できなくなった」というネット上のニュースをたまたま見たことです(「元少年A」の有料ブロマガが凍結 アクセス不能に)。

 元少年Aとは、言わずと知れた酒鬼薔薇(聖斗)事件の加害者男性のことです。当時14歳だった加害者男性は報道上、「少年A」の名で呼ばれました。

酒鬼薔薇(聖斗)事件とは

 では、その酒鬼薔薇(聖斗)事件とはどんな事件だったのか。ざっとおさらいしておくと1997年に兵庫県神戸市で小学生を襲い、2名を死亡させ、3名に重軽傷を負わせた事件です。
 
 正式には神戸連続児童殺傷事件と言いますが、当時、14歳だった加害者男性が「酒鬼薔薇聖斗」の名で犯行声明文を書いたことから、酒鬼薔薇(聖斗)事件と呼ばれてきました。

 今年8月にはその加害者男性(以下、男性)が8月には公式ホームページを立ち上げ、そのことを女性週刊誌に知らせたことが話題になっていました。

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2015年10月19日

少年法の精神はどこに? ー『絶歌』をめぐる騒動から考えるー(2)

 こうした騒ぎの発端は、男性が今年6月に手記『絶歌』(太田出版)を発表したことです。
 同書は、初版10万部を売り切って増刷となりましたが、被害者遺族は出版の中止・回収を求め、独自の判断で取り扱わないとする書店や図書館も相次ぎました。

 識者らは「表現の自由」や「知る権利」などを理由に「出版はやむを得ない」とする立場と「被害者感情」を理由に「出版すべきでない」との意見を戦わせました。しかし、出版社側は「少年犯罪の理解に役立つ」と出版を継続し、バッシングの嵐が起きました

 バッシングのきっかけとなったことのひとつが、世間はかつて未成年で殺人事件を起こした永山則夫死刑囚などが実名で執筆活動を行ったのに対し、男性が「元少年A」との匿名で執筆したことでした。

サムの息子法の必要性も

「人を殺しながら少年法に守られて罰を受けず、名前も明かさないまま出版によって大金を手にするのは許せない」ということなのでしょう。

 犯罪者が手記を書いたり、映画化の権利を売ったりしてその犯罪行為をもとに収入を得た場合、「遺族など被害者側の申し立てにより、その収益を犯罪者から取り上げることができる」とするアメリカ・ニューヨーク州の法律である「サムの息子法」などの必要性も論じられました。

社会のバッシングはいかがなものか

 もちろん、こうしたことを言いたくなる気持ちは分かります。「被害者の立場に立ったとき、こうした本を出版するのはどうなのか?」との疑問も沸きます。
 手記の中身はともかく、その後、立ち上げた公式ホームページなどを見ると、まるで男性は自分の思考や特異な人生に酔っているかのような印象も受けます。

 なぜ彼が、こうしたホームページを立ち上げたり、独特の表現をし続けようとするのか。それも本当はもっと知りたいところですがここではあえて取り上げず、話を少年法に戻したいと思います。

 私たちの国は、未成年者に対して刑罰とは違う少年法というものを用意している国です。
 被害者側のご遺族らが、出版に否定的な反応をするのは仕方がないとして、社会がこぞってバッシングするのはいかがなものなのでしょうか。

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