2014年08月の一覧

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2014年08月04日

平和の国はどこにある?(3)

 そもそも平和とはどんな状態を指すのでしょう。
 戦争がなくて、テロがなくて、食べ物が十分にあれば平和と言えるのでしょうか。

 もしそうだとしたら、世界の国々と比較すれば戦後の日本はほかに類のない平和な国ということになります。
 間接的にアメリカ軍を応援したり、自衛隊の増強を図ってきたり、集団的自衛権を行使できるよう憲法解釈を変更するなど、「本当に戦争を放棄した国なの?」と思う動きは多々あしますが、少なくとも具体的な戦闘状態というのはありませんでした。

日本は「平和の文化があふれた国」?

 では、日本はどうでしょう。

 このブログの『福祉から遠い国』でもご紹介したように、日本でも生活保護が受けられず餓死する人がいます。
 今月、厚生労働省の『国民生活基礎調査』から、平均的な所得の半分を下回る世帯で暮らす18歳未満の子どもの割合を示す「子どもの貧困率」が16.3%と過去最悪を更新したこともわかりました。

 しかしそれでも、日本の飢餓のレベルは、難民キャンプで暮らしている人々や、慢性的な食糧不足にあえぐ国とは違います。
 では、はたして、今の日本は「平和の文化があふれた国」と言えるのでしょうか?

平和の文化など存在しなかった

 国際連合教育科学文化機関憲章(ユネスコ憲章)の前文
http://www.mext.go.jp/unesco/009/001.htm)には、「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と書かれています。

 でも、人類の歴史を振り返ってみたところで、そうしたとりでを築くことに成功した国や文化が存在したでしょうか。

 自由、正義、民主主義を掲げるアメリカという国が、けして「平和の国」でないということは、周知の事実です。

 「縄文時代は争いが極端に少ない文化だった」とか「江戸の世は天下太平だった」という話も聞きますが、そうした時代においても、争いはありましたし、何より力を持った者が持たないものを力で支配するという事実は存在していました。

 私たち人類は、今まで一度も、本当の意味で平和の文化を享受したことはなかったし、心の中に平和のとりでをつくることもできなかったのではないでしょうか。

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2014年08月14日

平和の国はどこにある?(4)

 では、人類史上、一度も存在したことのない平和の文化を築くには、どうしたらいいのでしょうか。それよりなにより、暴力というものはいったいどこから生まれてくるのでしょうか。

 それは、わたしたちひとりひとりの心の中です。私たちはだれもが心に「内なる暴力」ーー子どもの頃から身に受けてきた自覚できていない暴力ーーを抱えているのです。

不幸な子ども時代が悲劇を生む

 たとえば世話をしてくれるはずの親が理不尽な理由で暴力をふるったり、「子どもだから」と屈辱的に扱われた子どもが力を得たときに、自分より弱い者に対して横暴な振る舞いをするという話はめずらしくありません。

 そうした不幸な子ども時代が多くの人の命を巻き込む悲劇を生んだ例として以前、ヒトラーを紹介しました(「生い立ちと人格」)。
 もっと身近な話なら、2001年に大阪教育大付属池田小学校に包丁を持って押し入り、子ども8人を死亡させ教師と子ども15人に重軽傷を負わせた宅間守死刑囚や、東京秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込んだ後、ナイフを振り回して7人を死亡させ、10人に重軽傷を負わせた加藤智宏被告などがいます。

 また、ここまで大がかりな事件ではなくても、虐待を受けた子どもはそうでない子どもよりも長じて虐待者になりやすいという「虐待の連鎖」は、よく知られていますね。

真実から目をそらして

 私たちはみな、「親に愛されたい」と願いつつ成長します。無力な子どもは、自分を愛し、世話してくれるおとななしには生きていけないからです。
 だから親がたとえ理不尽なことを言ったりやったりしたとしても、それを「ありがたい」と受け止めたり、「自分が悪い子だからこんな目に遭うんだ」と、自分を納得させます。

 また、「親は子どもを愛するもの」という社会通念もあります。だから、もし、暴力で支配されながら育ったとしても、それが「暴力である」と気づくことはとても難しくなります。いえ、それどころか「親が厳しくしつけてくれたおかげでこんな立派なおとなにれた」などと思っていたりします。
 真実に気がつくことは、自分の身を危うくしますから、必死に真実から目をそらそうとするのです。

「内なる暴力」の正体

 こうした方法は、確かに日々を生き延びるためには便利ですが、高い代償も伴います。
 暴力に怯え、力に支配され、だれにも慰めてもらうこともないまま泣き続けている子ども時代の自分から目をそらしつづけることになるからです。

 自分自身からも存在を消されたこの子どもは、自分自身にさえ理解してもらえない憤りと孤独の中で、ひっそり生き続けます。自分をそんなところに押し込めた恨みをどうにかしてはらそうと機会がうかがいながら・・・。

 それが「内なる暴力」の正体です。

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2014年08月21日

平和の国はどこにある?(6)

 こうした「内なる暴力」に抗うには、どうしたらいいのでしょうか。「平和の国はどこにある?」(2)でも示したとおり、規範や価値観を教え込んで超自我を強めても、効果がないことは、過去の歴史が証明しています。

 いや、現在進行形の各国の紛争・戦争をはじめ、ヘイトスピーチや、原発の再稼動や武器輸出の問題。パワハラ、体罰、いじめ、虐待・・・現代社会に噴出する、命や尊厳を脅かすさまざまな問題が、それを証明しています。

 なんだか絶望的な気分になってきますが、打つ手はあります。

「内なる暴力」が私たちの心の中から生まれてくるのであれば、それが生まれないようにすればよいのです。不幸な子ども時代が、「内なる暴力」を生み、増幅させるのですから、多くの子どもが幸せな子ども時代を送れるような社会を築けばよいのです。

白バラ抵抗運動

 ヒトラーが君臨した時代のドイツ国民は、ヒトラーを盲信しました。ヒトラーが言うとおりに戦争へと突き進み、ユダヤ人を収容所に送り、幼い子どもまでも平気で殺しました。
 心の底から、ユダヤ人を軽蔑し、「どんな仕打ちをしてもよい」と思っていた人もいるでしょうし、自らの身を守るためにそうせざるを得ない人もいたでしょう。
 
 しかし、そうした世の中にあっても、ユダヤ人の強制収容に反対した人たちがいました。よく知られているのが「白ばら抵抗運動」と呼ばれる反政府運動がありました。
 この白ばら運動に参加し、処刑されたゾフィー・ショルという女性を主人公にした映画(『白バラの祈り ゾフィー・ショル最期の日々』TCエンタテインメント)のおかげで、日本でもよく知られていますね。

 ゾフィーは1943年にドイツのミュンヘン大学構内で違法なビラをまいた容疑で兄と共に逮捕され、わずか四日後に死刑判決を受け、即日処刑されました。この白ばら運動ではショル兄妹を含む6人が処刑されていますが、最も年若で女性だったためにゾフィーがその象徴のように扱われるのかもしれません。

アリス・ミラー氏の指摘

 私が敬愛する心理臨床家のひとりであるアリス・ミラー氏(ポーランド生まれ、スイス在住)は『子ども時代の扉を開く 七つの物語』(新曜社)に興味深いことを著しています。

「ナチ時代に、ユダヤ人を救おうと自分の命を危険にさらした人たち」について、400人以上の証言に基づく実証的な研究から、「多くの人々が残酷な行為へと流されていくなかで踏みとどまることができた人々の家庭の雰囲気」、「教育スタイル」について述べているのです。

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