このシリーズの最初の記事へ

本当にスクールカーストなるものは存在するのでしょうか。

都内に住む高校一年生の女生徒に尋ねてみました。すると、驚く答えが返ってきました。

「うちの中学には『ハデーズ』と『ジミーズ』というグループがあった。きっちりした基準みたいなものはなかったけど、みんなだれがどのグループか認識していた。グループは固定されていて、入れ替わることはなかった」

彼女によると、「ハデーズ」は、明るくていい意味でも悪い意味でもみんなを引っ張って行く子たちのグループで、強い発言権を持っていたそうです。対する「ジミーズ」は地味な子たちのグループで、たとえばアニメ好きなどのオタクと呼ばれる子たちが入っていたとのこと。

「ハデーズ」はいつも偉そうな感じで、「ジミーズ」を“いじって”いて、見下しているようだったとのことです。
たとえばプリントを取りに行くとか、ちょっと面倒なことを「ジミーズ」にさせていて、「ジミーズ」は黙って従っていたとのこと。

いわゆる「アゴで使う」ような感じだったようなのですが、言葉としては「取って来て」と言うだけ。そのニュアンスを文字で表現するのはとても難しと思います。

だれも気づかないいじめ

どちらのグループでもない中間層に属していた彼女は「なぜ同い年の子を恐れないといけないんだろう」という疑問は感じていました。でも、「ハデーズ」の行為をいじめだと思ったことはなかったそうです。

なぜなら、彼女の考えるいじめは、大勢でよってたかってひとりを攻撃するというもの。グループ間での上下関係は含まれません。
だから中学校時代たびたび行われた『いじめに関するアンケート』の「いじめられている人はいますか」という設問の回答は、いつも「いいえ」でした。

そしておそらく教師も「ハデーズ」がやってることをいじめとは思っていなかったのではないかと言います。

「『なんでも頼めるくらい仲良し』と思っていたんじゃないかな」(女子生徒)(続く…

このシリーズの最初の記事へ

前回ご紹介した『教室内(スクール)カースト』(鈴木翔著・光文社新書)という本でも、教師がこうした上下関係をどのように理解しているのか、興味深い考察が記されています(第4章後半から第5章)。

端的に言うと、教師は「自己主張ができて『カリスマ』的な『強い』生徒は『上』で、『やる気がなく』『意思表示しない』『弱い』生徒は『下』であると考え、「教師はこうした生徒間の上下関係を利用して、教室内の秩序を維持しようとしている」(302ページ)そうです。

教師は「能力」の差と理解?

こうした事実を受け、同書の解説を書いている東京大学大学院教育学研究科教授の本田由紀さんはこう指摘しています。

「生徒にとっては『スクールカースト』は逃れがたい『権力』として作用している。他方で、教師にとっては『スクールカースト』における上下関係は『コミュニケーション能力』など生徒の『能力』を基盤として成立しているものと解釈されている」(302ページ)

空疎ないじめ対策推進法

このように子どもたちのいじめ事情を見てきたとき。「いじめなのか違うのかわからない微妙な関係」がスクールカーストと呼ばれて、教室内の日常になってしまっている事実を知ってしまったとき。
政治家たちが胸を張って「今までにない画期的な法律」と語るいじめ対策推進法はとても空疎なものに見えてしまいます。

いくら道徳を強化しても、いくら方針や委員会を策定しても、いじめっ子には毅然とした対応をするよう呼びかけても、目の前で行われていることが「いじめである」と認識できなければ何の手立てを打つこともできません。

子どもの成長・発達の大問題

確かに「スクールカーストはいじめではない」という主張もあります。「『本人がいじめではない』と言っているのだから、それ以上深読みする必要はないではないか」というご指摘もあるでしょう。

しかし、お互いを値踏みしてランク付けし合い、強者が弱者を貶める・・・。そんな関係が子どもたちの間に蔓延しているのだとしたら、それは子どもの全人的な成長・発達を支えるための国際的な約束である子どもの権利条約が唱える「調和の取れた人格」(子どもの権利条約・前文)へと日本の子どもたちが成長・発達できていないという紛れもない証拠です。

それはもう「子どもが人間としての成長が歪んでしまっている」ということなのですから、大きな問題と言っていいのではないでしょうか。(続く…

このシリーズの最初の記事へ

ではなぜ、こんなにも子どもたちがうまく成長発達できなくなってしまったのでしょうか。
相手を値踏みし合ったり、ランク付けし合ったり、貶め合ったり・・・そんな、人間として恥ずかしいことを日常的に平気で行うことがめずらしくなくなってしまったのでしょうか。

理由は簡単です。
競争によって成果を奪い合うことを是とする私たちの社会が、常に相手を値踏みし、人を序列・ランク付けし、さまざまな意味で、少しでも自分より下の人間を見つけては安心感を得る社会になってしまっているからです。

競争を激化させた結果

そんな社会に子どもたちを適応させるため、グローバル経済の中で勝ち残れる多国籍企業のリーダーを育成するため、社会にならって教育システムもどんどん競争的にしてきました。

第一次安倍晋三政権下では、一人ひとりの子どもが生来持っている能力を最大限に伸ばす「人間教育」を目的としていた教育基本法が「改正」され、あらゆるおとなが競争による「人材育成教育」に荷担せざるを得ないよう追い込む新しい教育基本法がつくられました(2006年)。
さらに翌2007年には、新教育基本法を具体化するために教育関連の法律が「改正」され、46年ぶりに、全員参加を原則とする全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が復活し、否が応でも、競争の土俵に乗らざるを得ない仕組みが出来上がりました。

この全国学力テストがなぜ、どのように問題なのかということを知りたい方は、「学力テスト不正問題」の回を参考にしていただくとして、ここは先に進みます。

国連を無視した果てに

こうして、国連「子どもの権利委員会」(国連)が「競争(管理)と暴力、プライバシーの侵害にさらされ、意見表明を奪われ、その結果、発達が歪められている(Developmental Disorder)」という衝撃的な勧告を日本に突きつけた第一回目の日本政府報告書審査(1998年)以来、三回にわたって「競争主義的な教育制度を見直せ」と勧告されているのに、日本政府は無視し続けてきました。

それどころか、競争的な教育制度をさらに押し進め、国(経済界)が「よし」とする目標を教え込み、その期待に応えられる程度で序列化し、「下位に位置付くことも自己責任」の格差社会に子どもを適応させ続けてきました。(続く…

このシリーズの最初の記事へ

これでは、子どもたちがお互いをランク付けし合うようになるのも当たり前です。

「だれかとつながる」のではなく、「だれかを蹴落とす」競争は、人と人とを分断します。子どもが生まれながらに持っているはずの、他者とつながるために必要な「他者の痛みを自分のものと感じる能力」(共感能力)を蝕みます。

だからたとえば、強い立場にいる子は「相手は傷つくかもしれない」と想像をめぐらせたり、自分の利益につながらないことは「なるべく止めよう」と思うようになってしまったりします。

一方、弱い立場にいる子は、下に見られ、理不尽な扱いをされても「それは自分が悪いんだ」と、自己責任の論理を受け入れ、不当なことでも甘んじて受けるようになります。
強者に刃向って序列から外されることは、その世界から抹殺されるよりは、よっぽどいいからです。

「自分は価値ある存在」と思えない

そもそも、いつでも市場価値ではかられ、だれかと比べられ、社会で「価値がある」とされる何かで秀でていないと認めてもらえない昨今。“ありのままの自分”を認められた経験がない子どもが増えています。

勉強ができなくても、立派な意見が言えなくても、おとなが望むようなことができなくても、「それでもあなたが一番大切だよ」「あなたはかけがえのない存在だよ」と言われたことのない子がたくさんいます。

そんな経験や実感がない子どもは、「自分は価値のある存在」などとは思えようはずがありません。だから、どんなに理不尽なことをされても、ひどい扱いを受けても、「仕方が無い」と受け入れるしか無くなってしまいます。(続く…

カウンセリングルーム カウンセリングルーム カウンセリングルーム